第27話 欲は尽きない
拓也は一度、大きく息を吸い込んだ。胸の奥で荒ぶる鼓動を押さえつけるように、ゆっくりと息を吐き出す。熱を帯びた感情が少しずつ静まり、代わりに、確かな決意が心の底に沈んでいった。
やがて彼は、静かに動き出す。
これまで冬香を包み込んでいた腕をそっと解き、左手で彼女の二の腕を、右手で肘のあたりをやわらかく支える。壊れ物に触れるかのような慎重さで、彼女の上半身をわずかに時計回りへと導き、そのまま左へと傾けた。
それはまるで、上半身だけを抱き上げるような、不思議な体勢だった。
背後から抱きしめていた間は見ることのできなかった顔が、今は腕の中にある。ようやく視界に収まったその表情に、拓也は息をひそめる。
黒く澄んだ瞳――その奥に、ほんのわずかな感情の揺らぎでも見つけ出そうと、じっと見つめる。
だが――
冬香の表情は、変わらなかった。
驚きも、戸惑いもない。ただ静かにそこに在るだけの、掴みどころのない無表情。夕暮れの光に溶け込む影のように、その内側はどこまでも読み取れない。
「なあ、冬香?」
静かに名を呼ぶ。
返事はない。ただ、真っ直ぐな視線だけが返ってくる。その目は揺らぐことなく、逃げ場を許さないほどにまっすぐだった。
「……言ったよな。夏香と同じことをしてほしいって」
言葉を選びながら問いかけると、冬香はわずかに首を縦に振る。その小さな動きには、確かな肯定が宿っていた。
「だから――その通りにしようと思う。夏香にしたみたいに、冬香にも……いや」
言いかけて、言葉が途切れる。胸の奥に渦巻く想いは、思っていた以上に強く、うまく形にならない。
「俺が……冬香に、そうしたいと思ってるんだ」
ようやく紡ぎ出した言葉は、不器用で、それでも飾りのない本音だった。
冬香は目を逸らさない。ただ静かに、その言葉を受け止めている。無表情の奥に何があるのかは、やはり分からない。
「……俺がこれから何をするつもりか、もう分かってるよな?」
かすかに掠れた声で問う。
冬香は、再び小さく頷いた。
それだけだった。
拒む気配はない。戸惑いも見えない。ただ受け入れているようにも見えるその様子に、拓也の胸はわずかにざわつく。
分かってるのに……嫌がらないってことは……。
一瞬、淡い期待が胸をよぎる。
いや……そんな都合のいい話……。でも、もしかして……。
思考が揺れる。
踏み出すべきか、確かめるべきか。その一瞬の逡巡が、彼の動きを縛る。
だが――
何を迷ってるんだ、俺は!
心の中で、自分自身を叱りつける。
冬香の本心を、今この瞬間に完全に理解することはできない。
それでも――
自分が何をしたいのかだけは、はっきりしている。
拓也は、静かに覚悟を決めた。




