牧師の朝は早く、学校訪問でモフモフ嫁のロリ時代の写真を見る
-1-
「ゲェッホッ!オェッ!」
息苦しさに飛び起きた。
何もないのに咳き込む。渇いた口の独特の金臭さ。
新鮮な朝の空気が肺を満たす。
喉をさする。
何もない。
…いや、苦しいのになんで喉を触るんだ。
涙でぼやけた視界。カーテンの隙間から白い朝日が部屋に差し込んでいるのが見えた。
部屋?
横でモゾモゾと何かが動いた。毛布をめくると、毛布より遥かに上等なモフモフがぴょこんと現れる。
「んー…なんなんです…?」
ナディアだ。
眠たそうな声で答えるその目はまだ全然開いてない。
時計は起床時刻の1時間前をさしていた。
「ハーッ」
呼吸がだんだんと落ち着いていく。
俺は何を焦っていたんだろう。
ここは俺んちで、夫婦の寝室で、隣にはナディアがいる。
「ごめんね、起こしちゃって。まだ起きる時間じゃないよ」
「そうですか…」
毛布を掛け直してあげるとナディアはムニャムニャと唇を動かした。
その肉球が俺の方に伸びる。
「おわっ!」
俺もベッドへと引きずり戻された。
…ん?ちょっと待てよ。
さっき感じた息苦しさの正体って……もしかして、ナディアと抱きしめあって寝ていたからだったりしないか?
おい、馬鹿!ペーター!いや、俺!どっちでもいいが、なんて勿体ないことを!
モフモフに埋もれて窒息なんてうちらの業界じゃご褒美だろ!
えっ、今からやり直してもいいのかな?
「悪い夢でも見たんですか?」
ナディアは寝ぼけているのか俺の頭に肉球を置いてよしよししてくれた。
はあはあ、理解したぞ。これが天国って奴だな。
「どんな夢だったんです?」
「えーっと、えーっと」
今まさに夢見心地って感じだけど!だってほら、この角度だと微妙に緩いネグリジェの襟からナディアの胸毛が見えるから!お腹側はちょっと色が薄くて綿毛みたいにフワッとしていてかなり、いいんだよな。
…でも、夢か。言われてみれば、なんか見たような気もする。
「なんかナディアとハグしてた気がする。真っ暗な森の中で。あと…」
脳内で泥が池の中から這い出す映像が再生される。その泥の中から人間が…。
「イッ…」
片頭痛。頭がずきずきと痛む。
『助けてくれ』と俺に伸ばされた手。見知らぬ若い人間の男の顔。
アレは夢か?それとも…?
「…あとは覚えてないや。ナディアが出て来たからきっといい夢だったんだと思う」
ナディアは目をうっすらと開けて俺を見つめていた。
「なにか思い出しました?」
その澄んだ瞳孔に俺の不安げな顔が映りこむ。
「いや…」
ナディアは嘆息してもう一度俺の頭を撫でると起き上がった。
「もう目が覚めちゃいました」
大きく伸びをして床に降り立つ。
つられて俺も立ちあがる。
ベッドサイドの靴を引き寄せる。
「ん?なんだこの汚れ」
革靴のつま先辺りに液体をぶちまけたような黒っぽいシミが広がっている。
「ペンキか?まさか…血、とか?」
ナディアの左耳がピクッとして耳飾りが揺れた。
「なーんてね。この量の出血があったら死んでるわ」
というか、靴は玄関に置いてなかったっけ?
「ナディア、俺のスリッパ知らな…」
俺は息を飲んだ。さっきまでクローゼットに向かっていたナディアが超至近距離まで戻っていたから。その視線は俺…ではなく靴に注がれている。
「その汚れ…」
「えー、わからん。アンドレイと書斎の掃除してるときにインクでもぶちまけたのかも?」
「…そう」
ナディアはため息をつき、俺の手からひょいっと靴を取り上げた。
「時間があるし、磨いておいてあげますよ」
「えっ、マジ!?ありがとう!」
そしてクローゼットからピカピカの革靴を取り出した。
いやー、うちの奥さんってば本当に気が利くなぁ!
-2-
昨日と同じように学校までナディアを送り届ける。
「じゃあね、ナディア!」
「あ、牧師さん!」
校門前で子供たちに挨拶していたウサギ獣人の女性教諭がパタパタと俺たちの方に駆け寄ってきた。
「こちらアリス先生。私の先輩なの」
ナディアがこそっと俺に耳打ちする。
「やぁ、どうも!妻がお世話になっております!」
俺はできる限り感じよく挨拶した。
「祭りの準備の件なんだけど、今日の午後に学校に来てくださる?打合せしましょう!」
おっと、寝耳に水な奴だ。アンドレイからのレクチャーにそんな話はなかったぞ。
「アリス先生、主人はその…また記憶がポーンしてて…」
「あら、そうなの?じゃあ…」
「いやいや!やらせていただきますよぉ!」
チラッとナディアの様子をうかがう。
「そんな、無理しなくていいんですよ…?」
「なんのなんの!記憶を取り戻すためにも前の俺と同じことした方がいいでしょ!」
それに、ナディアの職場に合法的に入れるってことは、先生をやってるナディアを合法的に見られるってこと。つまり一石二鳥。
「じゃあ14時にお待ちしてますね!」
「はいはーい!」
俺はスキップしながら次の目的地へと向かった。
今日は牧師として直近3回の定期礼拝を欠席した信徒を始めとして様子が気になる信徒の家を巡回する予定だ。
意外にも(と言ったら失礼だけど俺にとっては結構意外だった)ペーターは律儀な男で、信徒一覧表には細かくメモが残されていた。
特に役に立ちそうなのがケモ度の5段階評価。ここは獣人の村とはいえ混血も進んでいるのでモフモフ具合には個人差があるようだな。
これを書き残している辺り、ペーターが同好の士であることが確定したのも大きな収穫。
午後に学校に戻ることも考えて、訪問は学校から一番遠い家から始めることにした。
「えーっと、トップバッターはカンガルー獣人のクリス老人か」
今年の定期礼拝は皆勤賞なのに巡回リストに載っているのは、信徒の中で最高齢だからだろう。
クリスの家は例の森の中で、池に通じる道から少し脇に逸れた細い道を進んだ先にあった。
村にある民家より少し大きめで、森の中であることも相まって妙に小洒落た雰囲気だ。
玄関にぶら下がったベルの紐を引く。
チリリーン。
「ごめんくださーい!牧師でーす」
そう言ってから、『牧師です』って変な名乗り方な気がしてきた。
村での俺はみんなから『牧師さん』として認識されているっぽいからさすがに通じるよな。
やがて軽妙な足音が玄関に近づいてきた。
ガチャッ。
玄関のかんぬきが外される音。
ドアが開く。
「こんにちは~」
「こ、こんにちは…」
ドアを開けたのは人間の青年だった。
困ったように俺を見上げている。
「んー?」
俺も彼の顔から目が離せなかった。
デジャヴだ。記憶喪失になってから初めてのデジャヴ。
「君、どっかで会ったことある?」
我ながらアホなこと聞いたな。村の人とペーターは大体知り合いで、俺が一方的に忘れてるだけなんだから。
青年の目が見開かれる。
「お、俺を知ってるんですか?」
「やー、ちょっと最近記憶喪失になっちゃったんだよね、俺。たぶん知り合いだとは思うんだけど…!」
「記憶、喪失…?」
なんか珍しい反応だ。村の人々は俺の記憶喪失のことを聞いても結構あっさり流してくれるのに。
彼はビックリしてる。純粋に。
その驚きに開いた瞳孔を見て、俺の脳内でカチっと記憶とこの顔が結びついた。
「あ!夢に出てきた人だ!」
池から這い出してきた泥まみれの全裸の人間の青年。それが目の前の彼とよく似ている気がした。
「ゆ、夢、ですか?」
「そうそう。なんか池の中から泥だらけになって人間が出てきた怖い夢だったんだよ。その人間が君だった気がする」
「池…?」
「マイケル~?」
青年の背後から声がした。
矍鑠とした老人が立っていた。
最高齢のはずなのに背筋はピンと伸びていて、胸板も妙に厚い。きっと若い頃は何かしらのスポーツをやっていたのだろう。もしかしたら今も現役なのかもと思うくらいエネルギーが溢れている矍鑠ぶり。
「こんにちは、あなたがクリスさんだね?」
「やぁ、牧師さん!」
「様子を見に来ましたけど、めっちゃ元気そうですね!」
「ええ、おかげさまでね!」
クリス老人が一歩前に出ると、青年は引っ込んでいった。
俺は記憶喪失について軽く話しつつ、クリスの近況伺いついでの雑談に応じた。
さっきの青年は看護師兼家政夫として1週間前に雇ったらしい。
「看護師?とてもあなたに必要そうには見えませんけどね!」
「ははは。年を取ると見えないところにガタが来るのさ!」
クリスは気持ちのいい老人で、帰り際には親戚からもらった果物をもらえることになった。
「ナディアは甘いものが好きだからきっと喜ぶぞ!おーい、マイケル~!牧師さんに籠を持ってきておくれ」
クリスが大声で呼びかけると、藤籠を持ってあの青年が玄関にやってきた。
「いやぁ、ありがとうございます!」
差し出された籠のハンドルを掴む。
ナディアに『いい夫ポイント』を積めるチャンス。これが田舎暮らしの良い所なんだろうな。
「んっ?」
マイケルは籠を掴んだままだ。
「え~っと…?」
何かもの言いたげに俺をじっと見つめてくる。
が、ハッとして手を離した。
「すいません…」
「ああ、いや、いいんですけど…」
なんだ、今の切羽詰った感じ。
…まあ、いいか。今日は打ち合わせまでにあと4軒回らなくちゃいけない。
ここに長居した分、残りはテンポよくいかなくちゃ。
「じゃ、また週末の定期礼拝で待ってますから~。マイケルさんもよければ!」
-3-
午後にアリス先生との約束通り、学校に行った。
夏の例大祭では教会前の開けたところで子供たちが出し物をするらしく、その件
の学校側の責任者がアリス先生で、牧師も手伝うのが通例なのだそうだ。
祭りも間近ということで打ち合わせと言っても、ペーターとアリス先生が決めたことの最終確認と設営をいつからやるか決めただけで、ものの30分で終わった。
この手の話は無駄に長々やれると相場が決まってるのでアリス先生のシゴデキぶりには感激するばかりだ。
おかげでまだ授業時間。つまり、ナディアの勤務時間中だ。
「あの~、アリス先生!できたら授業の見学とかしたいんですけどもぉ~!」
「ふふ。牧師さんならそういうと思って14時にセッティングしたんですよ!」
ぐう有能すぎる。
アリス先生に教室まで案内してもらった。
木造の学校は外観よりもかなり年季が入っていた。
「私が子供の頃から同じ建物なんですよ~。この村の子はみんなここで育つんです!」
職員室の前を通ったところでアリス先生は壁に貼られたたくさんの集合写真を指さした。
「歴代の在校生たちです!」
写真の枚数はざっと4,50枚はあった。
電化製品はないのに写真はあるのか、という点に驚いたのはさておき。
「はぁ~、可愛いもんですなぁ~」
右を向いても左を向いてもケモ度の高いキッズたち。
どの年度も増減はあるが、全校生徒をかき集めても普通の学校の1クラス分くらいという小規模ぶりだ。
「ん!?まさか!?」
その中に銀色の毛並みの狼獣人の姿もあった。
…が、よく見たらロリではなくショタだ。
「ナディアかと思った…」
「ああ、そちらはナディア先生のお兄さんですよ。ナディア先生はこの年度からですね」
「なにっ!?」
アリス先生が指さした先にいたのは6歳くらいのロリナディア。
「お兄さんもナディア先生は私の教え子だったんですけど二人とも出来のいい子でしてね~…」
「スーーーッ…」
そこから先10枚くらいがナディアの在学期間であり、1年ごとに成長していくのがはっきりわかる一連の写真が、自分でもよくわからない心の柔らかい所に刺さって涙が出そうだった。
「…あの、牧師さん?」
「ハッ…!」
俺は慌てて目尻をぬぐった。
「ああ、すいません、感極まっちゃって」
「牧師さんってば毎回同じこと言いますね」
ちょっと気恥ずかしい。
というか、ペーター。お前も似たようなこと考えてたのか。
照れ隠しにナディアの卒業した年度の集合写真に目をやった。
高校生くらいか。俺好みのメスケモになりそうなポテンシャルを感じる。
ああ、そうじゃない、そうじゃない。
「んー?あれ、この子、ジョニーですか?」
若いナディアの横に立っている犬系獣人に見覚えがあった。
「そうですよ!」
写真をざっと見返してみれば、どの写真にもジョニーは写っていた。
当たり前か。彼は代々この村の農園の家系みたいなこと言ってたし、地元民なんだろう。
むしろナディアがこの村の出身であることにビックリした。そんな話聞いてなかったから。
牧師は中央にある教会から派遣されるシステムだと昨晩アンドレイは言っていた。
ナディアの出身地に俺が赴任してるのは、結婚後の人事異動の際にこの村に転勤希望を出したからなのか、俺がこの村に赴任したことでナディアと出会ったのか。
俺たちはどうやって知り合ったんだろうな。
後者ならまあいいとして、前者だったら…。
「結婚して田舎に戻ってきた人妻と幼馴染の地主。再会で再燃した恋の炎…獣人ピーーでピーーだから夫のピーーではもう満足できなくて…な~んて、ハハッ、勘ぐりすぎか」
ナディアに限ってそんなことがあるわけない。エロ同人じゃあるまいし。
そもそもこんな田舎じゃ同年代みんな幼馴染みたいなもんでジョニーだけが特別ってこともなかろう。
「あれ、このキジトラ猫の子も見たことあるな…?」
「ああ!研究所のメラニーですよ」
メラニー?ああ、昨日の昼間に池で気絶してた俺を介抱してくれた白衣の人か。
「あの人もこの村出身か~」
「出身ではないですよ!お父さんが研究者で中学の途中から引っ越してきたんです」
「ふーん。じゃあその研究を継いでる感じですか~」
ナディアがメラニーに対して『研究一筋のちょっと変な人』という温厚なナディアにしてはかなり辛辣めな人物評だったのも、子供の頃から知ってるからだったのかな。
写真鑑賞はここで切り上げて(帰るときにもう一回見ればいい。今は女教師・ナディアの仕事ぶりをチェックしに行かねば)アリス先生について行こうとして転びそうになった。
「あ、ちょっと待ってください」
靴ひもがほどけている。
結び直そうと床に膝をついた時、妙な息苦しさを感じた。
俺の血で濡れた靴と地面。血にまみれたキジトラの肉球。
『あなた!しっかりして!』と切羽詰ったナディアの高い声。
ひどく暗くて、生暖かい…
「牧師さん?どうしました?」
アリス先生が俺の肩を揺さぶる。
床板が軋む。粘っこい汗が額から滴り落ち、古い木板に一滴のシミを作る。
なんだ今の?血なんてどこにもないじゃないか。
「なんか、顔色悪いですよ?」
俺は笑顔を作り、慌てて靴ひもを直した。
「ちょっと気分が優れないのでやっぱり今日のところは帰りますね!ナディアにはヨロシク伝えて置いてください!」
「あ、牧師さん!?」
腹から務めて明るい声を出しながら大股で玄関に向かった。
振り返る余裕はなかった。
-4-
なんとなくこのまま教会に戻りたくなくて、気づけば俺は森を歩いていた。
池へと続く一本道。
考え事をするならやはり体を動かしながらがベターだ。
今日は朝から頭が忙しい。
泥の中から人が出てくる夢。そして夢に出てきた男が現実でも出てきて。今度はこの謎のフラッシュバック。
ここから導き出せる結論は一つ。
「ペーターの記憶が戻りそうなのかも?」
きっと因果関係が逆なのだ『夢に出てきた男が現実にいた』のではなく、『マイケルという男とペーターが元々知り合いだから夢にも出てきた』。
夢は潜在意識の表れともいうからね。
だからさっきの妙なフラッシュバックも…。
「ま、まあ、断片的だったから見た目ほど変な記憶じゃないのかも!」
しがない田舎の牧師に大量出血するような物騒な記憶があるとは思えない。
「何はともあれ、記憶が戻るのはいい兆候じゃないか!」
記憶が戻ればナディアとのセックスレスの原因を突き止められる。
「それさえわかれば、ナディアと…」
ガサガサ。
「んっ?」
俺は振り返った。
なんか今、何かが藪のなかを動いたような音がしたと思ったんだけど。
「気のせいか?」
まあ野生動物だろう。人里が近いとはいえ、森の中だもん。
人気のない獣道に一人だと不必要に怖い気分になっちゃうよね。
ため息をついて正面に向き直ろうとした次の瞬間。
俺の視界は真っ白になった。
頭に袋を被せられたと理解した時には袋の上から顔を抑えられていた。
「なにをする!やめ…」
薬のような匂いがフワッと鼻を掠めた。
「なんだこれ」と考えることさえできなかった。
その一瞬で俺の意識は落ちてしまったから。




