第13話 本部の人間と閉店勧告[前編]
火曜日の午後、マルヨシ成田台店の惣菜売場には、小さな紙が一枚貼られていた。
――値引き商品についてのお願い
――多くのお客様にお買い物を楽しんでいただくため、値引き前の商品を長時間お持ちになってのお待ちはご遠慮ください。
――値引き後の商品は、売場に並んでいるものからお選びください。
――残り少ない商品につきましては、お一人様一点でお願いする場合がございます。
ハツエの手書きではなく、店長の森下が事務所のプリンターで印刷したものだった。
けれど、その下にはハツエが赤いペンで小さく「いつもありがとうございます」と書き足していた。
その一言があるだけで、紙の印象は少しやわらかくなった。
「これ、ハツエさんが書いたんですか」
京子が尋ねると、ハツエは何でもないように答えた。
「印刷だけだと冷たいでしょ」
「たしかに」
「お願いっていうのはね、最後にお礼をつけると少し丸くなるの」
「勉強になります」
「本部の人にも教えてやりたいね」
ハツエはそう言って、唐揚げ用の鶏肉に粉をまぶした。
今日は火曜日。
唐揚げ増量の日だった。
先週と同じように、売場には唐揚げ弁当とちょこっと唐揚げが並ぶ。
ただ、先週と少し違うのは、京子が作業の流れに少し慣れてきたことだった。
ごはんを詰める。
唐揚げを置く。
副菜を添える。
値札を貼る。
売場に出す。
残数を見る。
売れ方を見る。
補充する。
手はまだ早くない。
でも、最初のように一つひとつ確認しながら止まることは減った。
ハツエもそれをわかっているのか、以前より少しだけ任せる量を増やしてくる。
「篠宮さん、ちょこっと唐揚げ、今日は最初から八出して」
「はい」
「でも、七時前に全部出し切らない。半分は様子見」
「火曜日は美羽ちゃんが来る可能性があるからですか」
つい口にしてしまってから、京子は少し身構えた。
特定の客のために商品を残すわけではない。
ハツエはその線引きに厳しい。
けれどハツエは、叱らなかった。
「可能性として見るのはいいよ」
「はい」
「ただし、美羽ちゃんの分って決めちゃだめ。あくまで、夕方遅めに来る子連れ客の需要があるって考える」
「夕方遅めの子連れ客」
「そう。それなら商売の言葉になる」
京子はうなずいた。
誰か一人の事情を、その人だけの特別扱いにしない。
でも、そこに似たような事情を持つ人がいると考え、売場の形にする。
それがたぶん、情を数字にするということなのだ。
午後五時半、ちょこっと唐揚げは順調に売れていた。
学校帰りの中学生、仕事帰りの女性、年配の男性。
一人分のおかず、家族の食卓に少し足すもの、ビールのつまみ。
同じ商品でも、手に取る人によって意味が違う。
午後六時過ぎ、乃々花が来店した。
今日は制服ではなく、ジャージ姿だった。
部活帰りなのだろう。額にうっすら汗をかき、リュックがいつもより重そうだった。
乃々花は惣菜売場の前で、まずローストビーフ小皿を見た。
今日は平日のため、二つだけ並んでいる。
少し迷ってから、首を横に振る。
その代わり、ちょこっと唐揚げを一つ取った。
京子と目が合うと、乃々花は小さく会釈した。
「今日は唐揚げですか」
京子が声をかけると、乃々花は少し笑った。
「今日は六十四点だったので」
「数学ですか?」
「英単語テストです」
「六十四点分のごほうびは、ちょこっと唐揚げ?」
「はい。ローストビーフは八十点以上です」
「基準ができてますね」
「基準がないと、全部買いたくなるので」
乃々花は真面目な顔で言った。
京子は少し笑いそうになったが、こらえた。
「それは大事ですね」
「はい。ごほうびにもルールが必要です」
その言葉に、京子は昨日の半額ルールを思い出した。
ごほうびにもルール。
半額にもルール。
店にも、生活にも、人が続けていくためには、やさしい決まりごとが必要なのかもしれない。
乃々花はイートインへ向かった。
今日は問題集ではなく、英単語帳を広げている。
京子はその姿を見ながら、少しほっとした。
昨日のレシートには、まだ返事をしていない。
でも、こうして普通に来てくれた。
普通に買い物をして、普通に席に座った。
それでいいのだと思った。
*
午後六時半を過ぎたころ、店内に少しだけ緊張が走った。
理由は、スーツ姿の男が入ってきたからだった。
神崎修。
先週、閉店後の駐車場でハツエに「成田台店は店舗再編の見直し対象に入っている」と告げた本部のエリアマネージャーだ。
京子は、売場の奥からその姿を見た瞬間、手が止まりそうになった。
黒いスーツ。
細身の体。
無駄のない歩き方。
片手にはタブレット端末、もう片方にはビジネスバッグ。
売場の商品を見る目は、客のものではない。
陳列。
欠品。
価格。
客数。
動線。
スタッフの動き。
そういうものを、順番に確認している目だった。
かつての京子も、似た目をしていたのかもしれない。
「来たね」
ハツエが低く言った。
「神崎さん」
「そう。本部の人間」
その言い方には、少しだけ棘があった。
京子は何も言えなかった。
本部の人間。
自分も、ついこの間までそう呼ばれる側だった。
神崎は青果、精肉、鮮魚を見てから、惣菜売場へ来た。
売場の前で足を止め、まず値引き商品のお願いの紙に目を留めた。
それから、唐揚げ弁当、ちょこっと唐揚げ、ローストビーフ小皿を順に見る。
「大森さん」
神崎はバックヤードに顔を向けた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。今日は何ですか」
ハツエの声は丁寧だったが、歓迎している感じではなかった。
「店長との打ち合わせです。その前に売場を見ています」
「そうですか」
「この唐揚げの小パックは、新商品ですか」
神崎がちょこっと唐揚げを指さす。
ハツエは京子をちらりと見た。
「篠宮さんの案です」
神崎の視線が京子に向いた。
「篠宮さん?」
その一瞬、神崎の表情がわずかに変わった。
「篠宮京子さん、ですよね」
「はい」
京子は帽子とマスク越しに、軽く頭を下げた。
「以前、本部のシステム運用にいらした」
「……はい」
「そうでしたか。こちらに」
神崎はそれ以上踏み込まなかった。
だが、その言葉の間に、京子は自分の退職の気配を読み取ってしまった。
なぜ本部を辞めた人間が、グループ店舗の惣菜売場にいるのか。
神崎はそう思っただろうか。
京子は胸の奥が少し硬くなるのを感じた。
ハツエが、わざと明るい声で言った。
「これ、売れてますよ。ちょこっと唐揚げ」
「そうですか」
神崎は売場の残数を見た。
「価格は税込二百三十八円。既存の唐揚げ弁当とは別需要ですか」
「ごはんは家にあるけど、おかずを少し足したい人向けです」
京子は自然に答えていた。
神崎は京子を見る。
「篠宮さんの分析ですか」
「売場での観察です」
「観察」
「はい。唐揚げ弁当を一つ買うには重いけれど、唐揚げだけなら買いたいお客様がいると感じました。子連れの方、単身の方、学生、高齢の方にも手に取りやすい価格帯です」
言いながら、京子は少しだけ不思議な感覚を覚えた。
本部にいたころなら、こういう説明は会議室でした。
資料を作り、数字を添え、上司に確認し、店舗へ展開する。
今は違う。
自分が詰めた唐揚げの前で、実際に買っていく客の顔を思い出しながら説明している。
神崎はタブレットに何かを入力した。
「売上実績は?」
「正式な集計はまだです。ただ、試験販売開始から欠品時間帯が出ています。夕方から夜にかけて動きが強いです」
「廃棄は?」
「今のところ、ほぼありません」
「原価率は?」
その質問に、京子は少し詰まった。
正確な原価はまだ確認できていない。
現場の感覚だけで話すのは危険だ。
するとハツエが横から言った。
「弁当にするより手間は減るけど、容器代はかかる。利益がすごくいい商品じゃない。でも廃棄になりにくい」
神崎はうなずいた。
「なるほど」
そして次に、ローストビーフ小皿を見る。
「こちらは?」
「週末ごほうびローストビーフ小皿です」
今度は京子が答えた。
「既存の大容量パックが定価で動きにくかったため、小容量化して価格を下げました。週末は値引き前に完売しています」
「平日は?」
「今日は二個出しで、一つ売れました」
「小容量化で客単価は下がるのでは?」
「一点単価は下がります。ただ、定価販売率は上がります。半額処分前提の商品より、粗利改善の可能性はあります」
京子はそこまで言って、少し息を吸った。
「それに、ローストビーフは『日常のおかず』ではなく『ごほうび』としてなら買われる商品です。価格を下げるだけでなく、買う理由を作ることが必要だと思います」
神崎は、しばらく黙っていた。
京子は、言いすぎただろうかと思った。
だが神崎は、怒るでもなく、感心するでもなく、淡々と聞いた。
「篠宮さんは、やはり本部にいた方ですね」
その言葉は、褒め言葉にも、距離を置く言葉にも聞こえた。
京子は答えに迷った。
ハツエが先に口を開いた。
「今は、うちの惣菜の人です」
短い言葉だった。
けれど、京子の胸にまっすぐ届いた。
うちの惣菜の人。
本部の人間ではなく。
辞めた人でもなく。
逃げてきた人でもなく。
今、この売場に立つ人として。
京子は思わずハツエを見た。
ハツエは何もなかったように、唐揚げのパックを整えている。
神崎も、その言葉を受け止めたようだった。
「失礼しました」
そう言って、軽く頭を下げた。
*
午後七時過ぎ、神崎は店長の森下とともに事務所へ入った。
惣菜売場には、いつもの空気が戻ったように見えた。
だが、京子の胸の中は落ち着かなかった。
本部の人間。
うちの惣菜の人。
その二つの言葉が、頭の中で行ったり来たりしている。
自分はどちらなのだろう。
前職を辞めた。
でも、本部で身についた考え方は残っている。
原価率、廃棄率、客単価、定価販売率。
そういう言葉は今でも自然に出てくる。
一方で、京子はもう、売上データだけを見て判断することには戻れない気がしていた。
唐揚げを待つ美羽。
塩サバを助手席に置く石動。
イートインで英単語帳を開く乃々花。
半額弁当を受け取って「助かります」と言う作業服の男性。
彼らの顔を知ってしまった。
知ってしまった以上、知らなかったころと同じようには見られない。
「篠宮さん」
ハツエが声をかけた。
「はい」
「考え込むなら、手を動かしながら」
「すみません」
「今日、唐揚げの日。神崎さんが来ても、唐揚げは待ってくれない」
「はい」
京子は慌てて作業に戻った。
午後七時半、真帆と美羽が来店した。
美羽は売場の前で、ちょこっと唐揚げを見つけるといつものように声を上げた。
「ちょこっと!」
「今日はちゃんとあったね」
真帆が笑う。
京子は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
神崎がいても、本部の打ち合わせがあっても、閉店候補の話が進んでいても、火曜日の夜に美羽は唐揚げを探す。
店の一日は、会議だけでできているわけではない。
「こんばんは」
真帆が京子に会釈した。
「こんばんは」
「今日、少し多めに買ってもいいですか。母の分もあって」
「もちろんです」
真帆は、ちょこっと唐揚げを二つかごに入れた。
それから少し迷って、ローストビーフ小皿の最後の一つも手に取った。
「お母様の分ですか?」
京子が自然に聞くと、真帆は少し笑った。
「いえ、これは私の分です」
その声には、ほんの少し照れと、ほんの少し誇らしさが混じっていた。
「今日は仕事で、ちょっと嫌なことがあったので」
「ごほうびですね」
「はい。ごほうびです」
美羽が横から言った。
「ママ、あかいおにくすき?」
「好きだよ」
「じゃあ、みうもすき」
「美羽は唐揚げでしょ」
「どっちもすき!」
親子の会話を聞いて、京子は少し笑った。
ローストビーフ小皿、平日も完売。
あとでメモに書こうと思った。
でもその前に、今はこの瞬間を覚えておきたかった。
真帆が、自分のためにローストビーフを買った。
それは小さなことだ。
でも京子には、大きな変化に見えた。
*
午後八時半、一回目の値引きが始まった。
昨日貼ったお願いの紙の効果か、値引き前の商品を抱え込む客は少なかった。
完全になくなったわけではないが、紙を見て戻す人もいた。
キャップの男性も来ていた。
売場の前に立ち、掲示をちらりと見て、少し不満そうな顔をした。
しかし今日は、商品を手に持ったまま待つことはしなかった。
京子は胸の中で小さく息を吐いた。
ルールは、万能ではない。
けれど、何もないよりはいい。
半額の時間も、大きな混乱は起きなかった。
残数の少ないチキン南蛮弁当には、京子が「お一人様一点でお願いいたします」と声を添えた。
キャップの男性は一瞬何か言いたそうにしたが、結局一つだけ取った。
後ろにいた年配の男性も一つ取った。
作業服の男性は、今日は焼きそばを買っていった。
京子が半額シールを貼って渡すと、いつものように小さく頭を下げた。
「助かります」
その一言に、京子は少しだけ救われた。
昨日の対応で、彼に嫌な思いをさせてしまったのではないかと気になっていた。
でも彼は今日も来て、今日も買っていった。
店は、失敗を完全には消せない。
でも翌日また開くことで、少しずつ取り戻せるのかもしれない。
*




