第12話 半額待ちの行列[後編]
閉店後、バックヤードの空気は重かった。
内藤くんは無言で洗い物をしている。
村田さんはすでに帰っていた。
店長の森下は、レジ締めを終えたあと、惣菜バックヤードに顔を出した。
「さっき、少し揉めてましたね」
「少しじゃないですよ」
ハツエが即座に言った。
森下店長は困ったように眉を下げる。
「申し訳ないです。レジ側も混んでいて、すぐ行けなくて」
「店長が謝ることじゃないです。でも、そろそろ半額時のルールをちゃんと決めた方がいい」
「ルールですか」
「値引き前の商品を抱え込まない。半額時は売場の商品から順番に選ぶ。残数が少ない商品は一人一点まで。これくらいは掲示してもいいと思います」
京子はハツエの言葉を聞きながら、少しだけ胸がざわついた。
それは必要なことだ。
今日のようなことを防ぐためには、明文化した方がいい。
けれど、ルールを貼ることで、半額を待つ人たちが責められているように感じないだろうか。
半額待ちは悪いことではない。
必要な人がいる。
でも、一部の行動で売場が荒れる。
どうすれば、必要な人を傷つけずに、困った行動だけを止められるのか。
「篠宮さんは、どう思います?」
森下店長に聞かれ、京子は顔を上げた。
「ルールは必要だと思います。ただ、書き方は気をつけたいです」
「書き方?」
「『禁止』や『迷惑行為』という言葉を強く出すと、普通に値引きを待っているお客様まで責められているように感じるかもしれません」
ハツエがうなずいた。
「たしかにね」
「なので、『多くのお客様にお買い物を楽しんでいただくため』という形で、お願いとして掲示するのがいいと思います」
京子は作業台の上にあったメモ用紙を借りた。
少し考えてから、書き始める。
――値引き商品についてのお願い
――値引き前の商品を長時間お持ちになってお待ちいただくことはご遠慮ください。
――値引き後の商品は、売場に並んでいるものからお選びください。
――残り少ない商品につきましては、多くのお客様にお選びいただけるよう、お一人様一点でお願いする場合がございます。
京子はペンを止めた。
「少し硬いですね」
ハツエが紙を覗き込む。
「硬いけど、悪くない」
森下店長も読む。
「これなら、角は立ちにくいかもしれません」
「ただ、掲示するだけでは足りないと思います」
京子は続けた。
「半額の時間に人が集まりやすいなら、貼る順番や売場の導線も決めた方がいいです。たとえば、弁当からではなく、端の商品から順に貼る。お客様が一か所に集中しないようにする」
「導線まで考えるんだ」
ハツエが感心したように言った。
「本部っぽい?」
「いや、今のは現場っぽい本部」
「何ですか、それ」
「いいとこ取りってこと」
京子は少しだけ笑った。
森下店長はメモを見ながら考え込んでいた。
「これ、本部に確認した方がいいですかね」
ハツエがため息をつく。
「店内掲示くらい、店で決めましょうよ」
「いや、クレームになったときに」
「クレームにならないように決めるんです」
二人のやり取りを見ながら、京子は前職のことを思い出した。
本部確認。
承認。
リスク回避。
店舗裁量。
マニュアル。
どれも必要だ。
でも、現場で起きる小さな問題は、その場で決めなければ間に合わないこともある。
京子は静かに言った。
「店長、まずは手書きのお願いとして、惣菜売場の端に小さく出すのはどうでしょうか。正式なルールというより、店舗からのお願いとして」
森下店長は少し安心したようにうなずいた。
「それなら、できそうですね」
「あと、明日以降、どのくらいトラブルが減るか記録します。必要なら本部説明用にまとめます」
「助かります」
森下店長は、心底ほっとしたような顔をした。
京子はその表情を見て、店長もまた、板挟みなのだと思った。
現場を守りたい。
本部にも説明しなければならない。
客にも怒られたくない。
従業員にも無理をさせたくない。
頼りなく見えるのは、何も考えていないからではない。
いろいろ考えすぎて、強く言えなくなっているのかもしれない。
人は、見た目だけではわからない。
客も、店員も、店長も。
*
閉店後、京子はイートインのテーブルを拭きに行った。
乃々花はもう帰っていた。
窓際の席はきれいに片づけられている。
ゴミも残っていない。
テーブルの端に、消しゴムのかすがほんの少しだけ残っていた。
京子はそれを布巾で拭き取りながら、ふと気づいた。
レジ横の小さなメモ用紙に、何か書かれている。
従業員用の連絡メモではない。
レシートの裏だった。
表には、ローストビーフ小皿と紙パックのお茶の印字。
裏には、小さな文字でこう書かれていた。
――八十一点でした。
――ごほうび、おいしかったです。
――明日もここで勉強していいですか。
名前は書かれていない。
でも、乃々花だとすぐにわかった。
京子はしばらく、そのレシートを見つめていた。
明日もここで勉強していいですか。
その一文は、今日の半額待ちの騒ぎとは別の場所から、京子の胸を打った。
売場には、ルールが必要だ。
公平さが必要だ。
誰かが商品を独り占めしないように。
誰かが嫌な思いをしないように。
でも一方で、店には余白も必要だ。
乃々花が少しだけ勉強できる席。
石動が金曜に塩サバを買う習慣。
真帆が「ちょっとだけごほうび」と言える売場。
ルールと余白。
その両方がなければ、店は人に優しくなれないのかもしれない。
「篠宮さん?」
ハツエの声がした。
京子はレシートを手に戻った。
「これ、イートインに」
ハツエは読んで、少しだけ口元をゆるめた。
「あの子、律儀だねえ」
「返事、どうしましょう」
「どうって?」
「明日も来たときに、普通に声をかければいいですか」
「それでいいんじゃない」
ハツエはレシートを京子に返した。
「特別扱いじゃなくて、普通に『どうぞ』って」
「はい」
「でも、これは捨てなくていいよ」
「いいんですか?」
「篠宮さんのノートにでも挟んでおきな。今日の売上より大事な記録かもしれない」
京子はレシートをそっと折りたたんだ。
*
アパートに帰るころには、京子の足はかなり重くなっていた。
半額待ちのトラブル。
キャップの男性の不満そうな顔。
作業服の男性が遠慮して手を引いた瞬間。
値引きシールを貼る自分の手の震え。
どれも、頭の中に残っていた。
部屋の明かりをつけ、バッグを置く。
手を洗い、髪をほどく。
今日は揚げ物の匂いに加えて、少しだけ緊張の匂いまで残っている気がした。
京子は麦茶を飲み、ノートを開いた。
月曜。
半額時トラブルあり。
値引き前の商品確保。
他客との取り合い未遂。
残数少ない商品への集中。
対応:商品確保は遠慮いただく。一人一点のお願い。
課題:掲示、導線、貼る順番。
そこまで書いて、京子はペンを止めた。
今日のことを、ただ「トラブル」と書くだけでは足りない気がした。
キャップの男性は、たしかに困った行動をした。
でも、彼にも理由があるのかもしれない。
家族の分を買いたかったのかもしれない。
ただ安く多く買いたかっただけかもしれない。
それはわからない。
わからないからこそ、ルールがいる。
人の事情にすべて寄り添うことはできない。
けれど、誰かの事情が別の誰かを押しのけないようにすることはできる。
京子はノートに書き足した。
半額シールは、助けになる。
でも、助けを奪い合う形にしてはいけない。
必要なのは、責めるルールではなく、分け合うためのルール。
書いてから、京子は深く息を吐いた。
今日、自分はうまく対応できただろうか。
キャップの男性を怒らせた。
作業服の男性には、二割引きで買わせてしまった。
もっと早く声をかければよかったのかもしれない。
事前にルールを作っておけばよかったのかもしれない。
考え出すと、反省はいくらでも出てくる。
できていないところばかり気になる。
乃々花の言葉を思い出した。
私もです。
できてないところばっかり気になります。
京子は苦笑した。
人に言った言葉ほど、自分には難しい。
できたところも、見ていいと思います。
自分で言ったのだ。
なら、自分にも適用しなければならない。
京子はノートの下に、もう一つ欄を作った。
できたこと。
少し考えてから、書く。
売場で声をかけた。
商品確保をそのままにしなかった。
一人一点のお願いをした。
ハツエさん、店長と掲示案を作った。
乃々花ちゃんのレシートを見つけた。
最後の一行だけ少し違う気もしたが、京子は消さなかった。
乃々花のレシートを、ノートの間に挟む。
八十一点でした。
ごほうび、おいしかったです。
明日もここで勉強していいですか。
その文字を見ていると、今日の嫌な緊張が少しだけ薄れていった。
店には、面倒なこともある。
揉めごともある。
正解のない判断もある。
でも、誰かが「明日も来ていいですか」と思う場所でもある。
それなら、守る価値はある。
京子はスマホを見た。
前職の同僚から、いつものようにメッセージが届いていた。
『今日は何の日でした?』
京子は少し考えて、返した。
『今日は半額シールが少し怖い日でした』
すぐに返信が来る。
『大丈夫ですか?』
京子は画面を見ながら、少しだけ笑った。
――大丈夫。
そう簡単には言えない。
でも、前ほど悪くない。
『大丈夫とは言い切れません。でも、分け合うためのルールを考えています』
送信すると、しばらくして返事が来た。
『篠宮さんらしいですね。でも、前よりやさしいルールな気がします』
やさしいルール。
その言葉が、京子の胸に残った。
ルールは冷たいものだと思っていた。
人を縛り、制限し、責任を逃れるためのものだと感じることもあった。
でも本当は、誰かが安心していられるように作るルールもある。
半額を待つ人が責められないように。
商品を奪い合わなくて済むように。
乃々花が閉店まで勉強していても大丈夫なように。
やさしいルール。
明日、惣菜売場に小さな掲示を出す。
それで全部がうまくいくわけではない。
また怒る人もいるかもしれない。
それでも、何もないよりはいい。
京子はノートを閉じた。
明日も手を動かす。
値札を貼る。
商品を並べる。
必要なら、声をかける。
売場は、ただ商品を売る場所ではない。
人と人の距離が近づきすぎたり、ぶつかったりする場所でもある。
だからこそ、そこには誰かが立っていなければならない。
京子は部屋の明かりを消した。
布団に入ると、体は疲れているのに、頭はまだ少し冴えていた。
半額シールの赤い色が、まぶたの裏に浮かぶ。
かつて嫌いだったその色は、今も少し痛い。
けれど、ただ恥ずかしいだけの色ではなくなっていた。
誰かの夜を助ける色。
誰かと誰かがぶつかる火種にもなる色。
だからこそ、丁寧に扱わなければならない色。
京子は小さく息を吐いた。
半額になる前に届く形を探す。
半額になったあとも、奪い合わずに届く形を探す。
どちらも、きっとこの店に必要なことだ。
明日の惣菜売場には、小さなお願いの紙が貼られる。
それがどれだけの意味を持つかはわからない。
でも京子は、少なくとも今日より少しだけ、明日の売場をよくしたいと思っていた。




