第十話 優しき風と光の先へ
翡翠迷宮の最奥、その主たる存在である巨狼人は目を見開いた。
そして嗤った。
『ほう……やるではないか、これは侮っていた。我も貴様に倣い全力を出すとしようか』
対する深緑の髪を靡かせる少女──ジャスミンは短剣を振り抜いた形の構えを解き、未だ血飛沫を撒き散らす狼へ振り向く。
「今から全力なんて、もう遅いわよ」
『それはどうかな?』
今更ながらモンスターとして異質な感情豊かな狼に首を傾げる。
そして目の前の怪物の変化に直ぐ様構え直す。
彼女は今もなお肉体の組成を変える狼の姿を見て、頬をひきつらせる他なかった。
ブクブクと泡立ちながら再生されていく腕。
メリメリと皮を破り露見する筋肉。
ズルズルという音を響かせて肩甲骨辺りから伸びてくる巨腕。
全体的に体躯を大きくさせ、筋骨隆々の武人の雰囲気を纏っていた狼とは打って変わって、異形と称されるに等しい醜悪さを持った化物となっていた。
生物的な本能からか恐怖と嫌悪を抱く。
しかしジャスミンは剣士の矜持を以て顎を引いて睨み上げた。
「図体がデカくなったからって的になるだけよ」
『そうだな、だが──』
そして狼は言葉を切って巨剣を持つ前の右手以外の腕を伸ばし───
『───こういうことはできる』
───天井から落下してきた五振りの巨剣をそれぞれに掴み取った。
そこから流れるように回転。
本能の警鐘が訴えるままに全力で飛び退いた。
次の瞬間。
凄まじい風切りが喧しく、凪ぎ払われる六振りの巨剣が空間を蹂躙する。
地面を砕きながら破壊をもたらす光景はまるで大魔導師が放った【竜巻】のようで、安全圏でそれを見ていたジャスミンは余りにも現実離れした光景に気圧されて開いた口が塞がらない。
そして動きを止めた狼を見てさらに彼女は目を見開いた。
何と、狼の胴体部分、その中心が捻切れるほどまで絞られていたのだ。まさかの上半身のみの回転だった。
次いで作用したならば反作用もあるわけで、狼は先程と逆に回転を始める。この動作中に魔法を撃っても巨剣に掻き消され、接近しようものなら挽き肉にされることだろう。
弾けた地面から生まれた破片がそのとてつもない膂力によって巻き起こる風により巻き上げられていく。
静止、静寂、静観。
パラパラと落ちる欠片。
豪腕が握る巨剣の先は私に向いている。
こちらを見据える瞳がいつでも殺せると語っているようだ。
得も言われぬ───いや悔しさが込み上がって来る。
自分がどこまでも矮小で貧弱なのだと言うことが自覚出来てしまう。
知れず顔を歪めてしまう私に構わず狼はその巨腕をゆっくりと上げ、蓄積を始めた。
何を放たんとしているのか、すぐにわかった。腕を斬ったときに見せていた笑みは既に無く、不甲斐ない私を見限り止めを差すと言うのだろう。
事実、今動けていないことがそれをありありと表している。それでも、あの暴威を見せられてしまえば、心が折れると言うのは仕方ないことだった。
今も震えが止まらない。
灯火も消えた。
そして宙を舞う感覚。
地面を何度も跳ね、ゴロゴロと転がった。
閉じていた瞼を開けると、丁度右手が顔の前にある。その手には短剣が未だに握られていて、自分がまだ諦めてないかのように思えて余計に苛立つ。
狼の方を一瞥すると振り抜かれていたのは一振りのみで、残りの腕は発光を収め下ろされていた。
『そこで飢え死んでいろ、我は貴様の相手をする気が失せた』
そう言って、玉座に向かう狼。
その歪な背中を呆然と見つめる。
これは、恐怖に打ち負けた弱者の末路。
既に悔しさも消えている。
胸中に渦巻いていた熱い感情もない。
手の中にある短剣が馬鹿らしい。
立つ気力ももう失せた。
私にどうしろと言うのだ。
何を求めるのだ。
森で孤独だった野生児に期待など何故したのか。
ああ、同じだ。
あのときと同じだ。
お父さんとお母さん、お兄までをも一夜にして失ったあの日と。
あのうちひしがれた暗い森と同じだ。
一人で。
独りで。
たった独りで。
どうしてこんなことをしているのだろうか。
どうして私はここにいるのだろうか。
どうして、
どうして、
どうして───
──────ジャスミン!──────
「───っ…?」
幻聴まで聴こえているようだ。
いや、玉座に向かう狼もその足を止めている。
そんな。
まさか。
あり得ない。
でも───
「助けに来たぞ、お姫様」
───私の視線の先に、優しく微笑むアディンがいた。
■■■■■
「ジャスミン、立てよ。お前らしくないぞ」
私にもう一度戦えと促してくる。
「ここで見といてやる。お前は独りじゃない、カイトも待ってる、さっさと終わらせて帰ろうぜ」
どうして私に期待するのか、どうして私に頼るのか。
「ほら、手伸ばせ」
何で、なんで──っ!
「いつもの喧しいジャスミンの方が、俺は好きだぞ」
なんで………
「ほら、お前ならやれる。何たって俺の仲間、ジャスミン・ユグドだからな」
もう、そんなこと言われたら……
「さあ立て、俺に見してくれ」
……立つしか、ないじゃないの。
短剣を握ったままの手を頭上へ伸ばし、勢いよく立ち上がる。
アディンの顔が目の前に来る。
「待ってるからな」
(──ええ、絶対勝ってくるから)
「待たせたわね、クソ狼」
『一度は諦めた矮小な小娘よ、失望させてくれるな』
もう負けない、もう倒れない。
後ろにはアディンがいる。
カイトも、みんなも待っている。
これは私の戦い。
私達の、戦い。
誰が合図するわけでもなく、私達は同時に地を蹴った。
いつかを思い出す光景だった。
迫り来る狼を前に、私は心で言った。
(──ありがと、アディン)
一瞬だけ瞑目した私は直ぐ様開眼、六つの内の一つの巨剣をレオとの鍛練で磨き抜いた『受け流し』で回避。
掬い上げは左前方に転がることで回避。
振り下ろしは勢いを利用して身体を回転、地に叩きつけられ威力が落ちた瞬間を狙って剣を土台に蹴り、一本の腕を落としに掛かる。 狙いは十分だったがこれは浅く傷つけるに終わった。
だが、連撃は終わらせない。
膝を酷使し反転、今度は右脚を斬りつける。腕よりも太いそれは両断を許されなかった。しかし負傷させることには成功する。
そこであることに気づいた私は咄嗟に退避。
『【ガアァァァァァァァァァァァァァァ】!!』
今まで見せたことのなかった炎を伴った咆哮だ。
息を深く吸い込むのと口内から漏れだす魔力光を見逃さなかった。
「【刺薔薇】!」
大魔法であるこれを無詠唱、何度も何度も練習していたためか土壇場で成功する。
複数の魔法円から伸びる薔薇の蔦が炎を吐き出し終えた狼に纏わりつき、その肉体を傷つけていく。
「【森の矛】──」
そこで私が行ったのは、平行詠唱だった。
どうせすぐに【刺薔薇】は破られる、故に行動を直ぐ様開始する必要があった。
詠唱失敗による魔力暴走を懸念する余裕など既にない。ならば先と同じ様に土壇場でも、この窮地だからこそ成功させてみるのだ。
「──【蔓延る悪の殲滅者】」
大魔法を習いたてとは言え、詠唱の技術は高くなっている。いつもならスラスラと紡ぐことができる呪文も戦闘行為と同時にしているためか魔力の練りが遅い。
一つでも間違えは死を招くこの高速戦闘の中、魔力の手綱を手放すわけにはいかない。
「【怒りをもって罰せよ】」
だから、詠唱が完成しようとも気を抜くことなどできようもない。
然るべき時に、然るべき場所に放たなければ意味がない。
故に、私は全力で肉薄した。
今までで一番の疾走を以て接近した私の対処を狼は遅れた。遅れてしまった。
捉えられない速度をもって懐に侵入、脇腹を深く斬る。
そして狼は背後に消えた私を追って振り返る。
「【大枝槍群】」
恐らくまだ私を視認できていなかったのだろう。
咄嗟に六振りの巨剣で狼は防いだ。そもそもの剣身が広い巨剣で防護したとなれば隙間は殆どない。
防がれる他なかった。
それが正面なら。
『──グォ、フ……____』
無詠唱でも放てる魔法をわざとらしく詠唱。
わさわざ隙を狙って放つ。
その狙いがわからない時点で偉そうに言語を介する狼の頭が知れたものだ。
深く、無数に突き刺さった魔法を受けてなお、狼は倒れない。その呆れるほどの耐久には脱帽しかないほどだ。
『_____見事だ、だが、まだまだだな』
「──えっ?」
埒外としかもう言い様がない。
明らかに致命傷だったはずの一撃の筈なのに、狼は巨剣を振り抜いていた。
剣にはあの破壊の、絶望の光が灯っている。
避けようがない。
私の油断が招いた事態だ。
【神樹園】も纏っていない。
絶体絶命。
それでも、私は諦めない。
アディンがいるから。
カイトが待ってるから。
みんなが信じてくれているから。
だから──
「絶対っ、負けないっ!!」
決して折れない意思を以て吠えた直後、私を中心に風がふわりと靡いた。
巨剣と私の間に割り込ませた短剣は手から自ずと離れ、衝撃をもろに食らった私は今までとは明らかに違う速度をもって壁に衝突する。
「───が──」
その破壊力は凄まじく、私が吹き飛んだ壁面は盛大な亀裂が入り、着撃地点の地面は激しく捲れ上がっている。
そして不可解なことが浮かぶ。
何故、私は生きているのだろう。
勿論全身は打撲と所々の骨折、裂傷に犯されている。
しかし、命だけは無事だ。
アディンが助けてくれたのだろうか。
そんな魔法を使ったところなど一度も見たことはないけれど。
と、ここで意識を切り替える。
諦めていたわけではないのに何を弱気になっているのだ。
今するべきは目の前の狼を倒すことだけだ。
短剣は既に手の中に無い。
強化も全て切れている。
でも、私は諦めない。
絶対に、勝つ。
─────────
そのとき、誰かの声が聞こえた気がした。
次の瞬間、暖かい風が私を包み込んだ。
私自身驚愕に狼狽えていると、何故か狼でさえ限界まで目を大きく見開いているではないか。
────唱えて────
誰の声だろうか。
────唱えて────
一度も聞いたことがない、でも、それでいて綺麗な澄んだ声。
────唱えて────
何を唱えるのか。誰なのか。私はわからない。わからないままながら自分の口はいつの間にかこう動いていた。
【ゼフィル】
そして、私を包み込んでいた風が突如としてその威力を暴発させた。
いや、増幅したの方が正しいだろうか。
────行って────
指図されるのは嫌いだ、でも、何故かその声には従ってしまう。
────勝って────
言われるまでもない。でも、何故かその声に勇気付けられてしまう。
────大丈夫、私が助けてあげるから────
本当に誰かわからない。でも、何故か懐かしい気がしてしまう。
────私の世界樹様────
流れるように発送─疾走─疾駆─肉薄。
超加速を以て狼の前に躍り出る。
徐に腕を持ち上げ、声の従うままに振るった。
何故か手の中に現れていた長剣は狼の胸元に吸い込まれる。
音は聞こえなかった。
でも確かな手応えがあった。
狼の巨体を蹴って戦域から離脱、軽く着地する。
ゆっくりと倒れながら肉体をマナへと化していく狼を横目に、失い掛ける意識を根性で耐え抜き、膝をつくに留まった。
既に狼も、あの長剣も姿を消している。
いつの間にか門も蘇っていた。
「ア──」
いなかった。
アディンの姿がどこにもない。
流石の私も彼が迷子になったなどという世迷い事を口にするつもりはない。
一気に押し寄せてくる肉体の疲労と苦痛、そして不安を捩じ伏せ、倒れそうになりながら歩き始める。
度重なる精神と身体の不調に既にアディンがいないことへの追求は消えていた。
歩く。
歩く。
歩く。
高まる感情に気づいていなかったのか右脚は折れてしまっていて、脚を引き摺りながら目指す。
仲間の元へ。
待ってくれているみんなの元へ。
あの先の光を。
行かなくては。
動かなくては。
ここで倒れるわけにはいかない。
痛いけれど。
辛いけれど。
倒れ伏す悪魔の甘言に従いそうになるけれど。
私は目指す。
この先を。
みんなと再会するために。
そうして気の遠くなる道を行き、とうとう光が目の前に。
力の入らない腕を上げ、その光に手を伸ばす。
「──あ─」
すると、視界は光に埋め尽くされ、私の意識は潰えた。
消え行く意識の中、光に反して徐々に暗くなっていく視界、その最後、一瞬だけ晴れた闇の先に二人の姿があった。
万感の想いが込み上がり、これだけは伝えようと思っていた言葉を紡いだ。
「───ただいま───」
これで十万文字ぐらいです。




