第55話 英傑の誕生
トールは走りながら、魔物の脳天を上からたたき割ることを考えた。
正面だと、口を開けているから、突きは危険である。
そこで、目標から数メートル離れたところで、地面を強く蹴った。
ふわっと宙に浮いた彼は、放物線を描いて上昇する。
高さ5メートルは跳んだだろう。
そうして、跳躍の頂点に達したとき、顔を真下に向けた。
ちょうど、真下に大蛇の頭がある。
ここから落下して、鉄拳をお見舞いしようという魂胆だ。
引力による体の落下が始まった。
落下しながら、右の拳をさらに振りかぶる。
「……っ!」
頭めがけて落ちるはずが、体は少しずつ先の方へ、頭は後ろの方へずれていく。
(しまった!)
放物線を描いて跳んでいることをすっかり忘れていたのだ。
空中で軌道修正はできない。
そのまま降りるしかない。
ところが、もがき苦しむ魔物の頭が左に大きくずれた。
つまり、彼の着地点に飛び込む頭がある。
(いける!)
彼は、渾身の突きを繰り出した。
めちゃめちゃに潰れる悪魔の脳天。
……のはずだった。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
大地が割れるような大音響と、立っていられないほどの縦揺れ。
もうもうと吹き上げる土砂。
宙に浮く大蛇の全身。
誰もがこの天変地異に目をつむり、耳を塞ぐ。
馬車の馬は、恐怖のあまり、御者も客人も置き去りにして逃走する。
何が起きた?
実は、彼の突きは目標を少しずれて地面を叩いてしまったのだ。
そこにできたのは、直径30メートル、深さ5メートルの陥没。
トールは、土砂が降り注ぐ中、自分で作った陥没に転げ落ちる。
遅れて、悪魔の全身も頭から陥没の底へ落下する。
シャルロッテも土砂をかぶりながら、穴の縁に落とした両足をばたつかせて、今這い上がったところだ。
トールは、穴の底でワンバウンドして仰向けになったとき、土砂に混じって迫ってくる悪魔の頭に気づいた。
避けられない!
そこで彼は両腕を使って、目の前の巨大な頭をがっしりと支えた。
ぬるっとする冷たい肌。
生臭い獣臭。
間近に伝わる邪気。
強化魔法のおかげで、落下物の重みで潰れることはなかった。
しかし、これではあまりに塩梅が悪い。
そこで、頭を放り投げ、体を起こして、穴の壁に背中を預けた。
再度ごろりと転がる頭。
見ると、まだあえいでいる。
トールも口を開け、大きく肩で息を吸う。
口の中に入った土砂が、ざらっとして気持ち悪い。
(そうだ! 蛇の口の中でレイピアが刺さったままのはず!)
間近で見る悪魔の大きな口の中が生々しくて一瞬たじろくも、彼は口の中で銀色に輝くレイピアを力強く引き抜いた。
と同時に、バクンと大きな音を立てて悪魔の口が閉じる。
さすがは、ジクムント自慢の使い魔。
しかし、その最後の攻撃も失敗に終わった。
ハッとした彼は、再び恐怖心に襲われそうになる。
しかし、ありったけの力を込めて闘争心を奮い立たせ、躊躇することなく大蛇の眉間にレイピアを突き刺した。
彼の強化された力の前に、頭蓋骨は防御の役目をなさない。
レイピアも彼の力に耐え、グサリと深く突き刺さり、鍔の部分で止まった。
全身が大きく痙攣する大蛇。
しかし、残った力で、いつ襲ってくるやもしれない。
彼は身構えた。
しかし、大蛇の痙攣が弱くなる。
しばらくして、全く動かなくなった。
「トール! トール!」
彼の頭の上からシャルロッテの声が降り注いだ。
「ああ、心配してくれてありがとう。もう、終わったよ」
そう言って見上げる彼の目に映ったのは、金髪のツインテールを揺らしながら、真っ赤に膨れ上がったシャルロッテの顔だ。
「勘違いしないでよね! あんた、あたしを殺す気!? もー! 何やってんのよ、これ!」
トールは彼女の叱責に、呆けた顔を向けるだけだった。
「あっ、それから、そのレイピア、返してよね! キレイに拭いて!」
トールは、頭を小さく左右に振ると、失笑しながら言葉を返した。
「うん、ゴメンね。怪我はなかった?」
「うー、……穴に落ちかけたけど、大丈夫よ。それより、早く上がってきなさいよ!」
「はいはい」
トールが、自分の服でキレイに拭いたレイピアを持って穴から這い出る頃、クラウス、メビウス、黒猫マックスが駆けつけた。
「凄い凄い! これどうやって陥没させたの!?」
クラウスが興奮気味に、勝者へ質問を浴びせる。
「ああ、拳です」
トールの、さりげないが真実の一言に、大人二人は眼球が飛び出んばかりに目を見開く。
「あり得ん……」
メビウスは、右手で目を覆ってよろめいた。
「メビウスさん。これが真実ですよ」
クラウスは、メビウスの肩に手を置いた。
「トール!」
シャルロッテは、トールからレイピアを奪うように受け取ると、それを魔方陣の中に納めながら呼びかけた。
「なあに、シャル?」
トールは、また怒られるのかと声の方を向くが、その主が少し涙目になっていることに気づいた。
「どうしたの?」
その問いの答えはすぐにわかった。
トールに体当たりするように抱きつくシャルロッテ。
捕まえて離さないと言わんばかりに強く強く抱きしめる彼女。
そして、周囲をはばかって彼の胸に顔を埋め、服を舐めるようにして声を出す。
「……ありがと」
彼女の感謝の言葉は、彼の泥だらけの民族衣装に吸い込まれた。
彼は服を通して彼女の暖かい吐息を感じながら、胸に直接その気持ちを受け取る。
「うん。……こちらこそ」
彼の返答は、頭半分低い彼女に優しく降り注いだ。
とその時、坂の方から、多数の自動車が下ってくる物々しい音が聞こえてきた。




