九 あなたと
九
必要なものになろうって思ったの。
だから、森を駆け抜ける。 来た時と同じように。 けれど、正反対の方向へ。
「俺だっていらねぇ!」
橙と唐紅花の色違いの双眸が私の心まで見透かすような強い光りで私を射竦める。 竦めてしまうのは、私が自分で思っているから。 知っているから。
この人の優しさに甘えている自分を、知っている。 この人にそれを見透かされてしまったら、恥ずかしくていられない。
でも、何より恥ずかしかったのは、そんな自分を知っているのに、このままずっと傍にいられるんじゃないかってどこかで思っていたこと。
それと何よりも。 私は、樹宝さんを傷つけた。
初めて会った時から「帰れ」とか「投げ落とすぞ」とか「不味い」とか色々言われたけど、決して私を見捨てたりしなかった。 こんな面倒な小娘なのに、口では何を言ってもいつも樹宝さんはいつも必ず。
寝込めば傍で看ていてくれた。 不味いって言うのに、何度も食べてくれた。
じわって熱いものが目に溢れて視界を邪魔する。 恥ずかしい。 本当に傷ついているのは、目の前の誰よりも優しいこの精霊なのに。 散々甘えて私はまだ甘えようとしてる。
私を射竦めた色違いの双眸。 その奥で、“私を傷つけた”って思っているのがありありとわかるこの人に、まだ甘えようって言うの? そんなの、許せない。 誰が許したって、私が私を許せない。
でも、本当に情けないけど、そこに立ったまま樹宝さんを直視する強さも今の私にはなくて。
背を向けて駆け出す。 一度走り出したら、止まらなくなった。
どうすれば、私はあなたの傍に居られるの? 居ても、恥ずかしくないって思えるようになるにはどうしたらいい? 何でここに来たのか聞かれて、胸を張って答えられない。 答えられるはずない。
私は、逃げただけ。 夢のように優しい場所へ、そこにいる優しい人の傍でただ大切にされて喜んでいただけだから、言えない。
一番最初に森に足を踏み入れた時は、悔しくて。 哀しくて。 死んでもいいから少しでも前に進むだけだった。
苦しい。 息が詰まって、足元はもつれて。 後一歩踏み出したら死ぬかもしれないって思いながら私はただひたすら妄執のように前を目指してた。 でも結局、死ななかった。 森なんて抜けられるはずも無かった私は、森どころか峰も越えて、あの人の元へ辿り着いて。
沢山の奇跡。 でも一番の奇跡は、あの人に、樹宝さんに会えた事。
樹宝さん。 樹宝さん樹宝さん。
「わたし、は」
もう知ってる。 どんなに苦しくても、私の鼓動は走ったくらいじゃ止まらない。 そんなくらいで止まるほど私は潔くない。
熱く滲んで歪んだ視界が白く染まる。 私は、森を抜けていた。
「マーシュ、悪いんだけどさぁ」
「あら。 メイサさん。 お子さんあれからどうですか?」
洗濯籠を抱えて振り返ると、恰幅と笑顔の良い先輩メイドのメイサさんがすまなそうな顔をしつつ私に昼食の入った包みを掲げて見せた。
「良くなったよ! 本当に助かった。 それでね、薬がそろそろ切れそうなんだけど」
「ああ。 ええっと、ちょっと待ってくださいね」
森を抜けた先にあったのは、あの生まれ育った村ではなく、その隣に位置する別の村だった。
抜けた方向がそうだったのか、それとも私があの村に行くことを無意識に拒んだのかはわからない。
金色の黄昏に染まった道を歩いて村で一番大きなお屋敷の扉を叩いて、下働きとして雇ってくださいと頼み込んでからそろそろ一月が経つ。
私の仕事は洗濯係りのランドリーメイド。 最初は雑役メイドとして入ったけれど、洗濯係の手が足りなくなった時に手伝ったのがきっかけでそちらに移っている。
「お待たせ。 お薬のことだけど、息子さんの様子を聞かせてくれる? あと、できれば直接様子を見たいわ」
洗濯籠を置いて昼食を受け取ってからそう言うと、メイサさんはちょっとだけ眉を下げて上目遣いに私を見る。 こういう時の彼女は年上だってことを忘れるくらい可愛いと思う。
「薬がもらえれば大丈夫だと思うんだけど」
「だーめ。 症状を知らずにお薬は出せません。 お薬で何でも治していると、身体が怠けるようになっちゃうから、もっと病気になりやすくなっちゃうし」
「そうなのかい?」
「ええ。 だから、治り掛けで問題ないならそのまま自然治癒に任せたほうがいいの。 もちろん、まだそこまで回復してないならお薬を作るけど、この間の様子なら今渡してあるお薬を最後まで飲みきれば大丈夫なはずですよ」
「マーシュがそう言うならそうなのかもね。 わかった。 じゃあ、明日息子を連れてくるから」
「はい。 でも、良かった。 お薬が効いてくれて」
「本当に感謝してるよ。 でも、いいのかい? 本当にお礼がこんなので」
干し終えた洗濯済みのシーツが風に気持ちよくそよぐ庭の木陰で腰を下ろして、メイサさんから受け取った包みを開く。 中に入っていたのは木苺と馬鈴薯、キノコの半月パイ。 一口食べれば素朴で甘酸っぱい味がいっぱいに広がる。
「十分です。 だってメイサさんの作るパイは絶品だもの」
「ありがとう。 本当に助かったよ。 マーシュがいなかったら息子はきっと今頃土の中だったからね。 それでも、あたしにゃ医者の先生に診せるあても無かったし」
私が入って間もなく洗濯係が足りなくいなった理由の一端はメイサさんだった。 村ではメイサさんの息子さんと同じ病が流行り始めていて、それぞれの事情もありお医者さんに十分診せる事が出来ていなかったから。
「まだ初期症状だったし、たまたま私のお薬でどうにかできるものだったからですよ。 そうじゃなきゃ、私にもきっとどうにも出来ませんでした」
「いいや。 それだけじゃないよ。 マーシュがほとんどただみたいなもんで薬を処方してくれたからだ。 あたしたちみたいなもんには、村の外までお医者を呼びにいけない」
呼べない理由は、時間とお金。 お医者さんのいる一番近い街までは人の足で片道三日。 足で往復しようとしたら、六日は最低でもかかってしまう。 馬を使えば約半分の時間で済むし、農業を主にしているここで馬に困ることはないからその心配は薄いけれど、折角お医者さんが呼べても今度は診察料と薬代が払えない。 時間というのは、呼びに行くことに対してじゃなく、“薬代を稼ぐ”事に対するもの。
薬はどんなものでも高価だから。
でもどんなに高価でも、使い方を誤れば意味は無いのだと、私にお薬についての師事をしてくれたビオルさんは教えてくれた。 「過ぎれば毒だしぃ、足りなくても効果はでない。 何事も適量適度だねん」そう言って、私自身のお薬の処方の仕方や色々なお薬の作り方を教えてもらったから、助けることができて。
「私がお薬を作れたのは作り方を教えてくれた先生がいたからです。 私はまだ一人前ではありませんし、だから」
「わかってる。 マーシュは息子の恩人だ。 約束は守るよ。 でも変な事言うもんだね。 なるべく秘密だなんて。 そんだけの腕があればお医者としてこんな仕事することもないだろうに」
「私は半人前で、花嫁修業中ですから」
「いらないなんて……。 あんたを振るなんざ、どんな男だか。 もったいないことするよ」
「ふふ。 そうなりたいなって思います。 もったいないって思ってもらえるくらい」
必要なものになろうって思った。 今度は逃げ込むんじゃなく、ちゃんと「お嫁に来ました」って言えるように。 胸を張って樹宝さんの前に立てるように。
「あれ? え! 君!」
メイサさんとの昼食に響いた声にそちらを見て、裏庭の入り口から近づいてくる人が誰かわかった頃には遅かった。
「これはっ、坊ちゃま、お帰りになったんで?」
「メイサ、この人は何故こんな格好でここにいる!」
「え?」
「ミルリトン・マーシュ・マロウ。 この人は、隣村の先代領主様の娘だぞ」
「失敗しちゃった……。 ジョシュにも合意とはいえ申し訳ないわ」
春も終わって夏の足音と気配がすぐそこまで迫っている今日、私の結婚式が開かれている。
花婿が迎えにくるまで待っているようにと通された部屋の中、私は自分の花嫁衣裳を見下ろしてため息をつく。 メイサは絶句して、その後は屋敷中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 奥様にお会いした時はごまかせたけど、息子のジョシュにはそう上手くいかなかったのは、当然といえば当然なのかもしれない。
ジョシュは、子供の頃はすぐに消えてしまったけれど婚約の話も出たことがある相手。 理由はもちろん私の病で伏せることの多い健康状態。 随分会っていなかったからまさかわかるとは思ってなかったのに。
思えば、それでも大人は大人同士、子供は子供同士での交流が多いのだから、交流時間の少なかった奥様は誤魔化せても、同じ目線の相手は誤魔化せない可能性が高いと思っていなければいけなかった。
「唯一の救いは、ジョシュに好きな人がいてくれたことね」
私の正体がばれてから、メイドの仕事はできなくなった。 客人として留まり、私だと確認する為に叔父様が呼ばれて神隠しにあった娘がここで見つかったのは運命だと、奥様と叔父様は意気投合。 口を挟む間もなく、とっくの昔に消えたはずの婚約話がいつの間にか決まっていた。
けれど、私たちはどちらも正反対の答えを出していて。
「ごめんなさい。 私、お嫁さんになれません」
「やっぱり。 いや、謝る事はないよ。 僕も同じだから。 あ、もちろん君が嫌いとかいうわけじゃないよ?」
「はい。 私も同じですから。 ……そのお言葉からすると、あなたも他にいらっしゃるのね」
「うん。 母さんに言う前にこうなったのは……僕の責任だね。 ごめん」
互いに心の向く相手が違う私たちが出した答えは、夜になったら私がこっそり逃げ出すこと。
「でも、それじゃ君の名前に傷がつく」
「私はあなたの顔に「初夜で花嫁に逃げられた」って泥を塗るのだから、おあいこです。 それに、正攻法の正面説得が無理そうですから、仕方ありません」
きちんと話て解決するのが一番良いのはわかっているけれど、当人たちを差し置いて意気投合している状態の叔父様たちに何を言っても止められない。 話したら抜け出すこともできなくなってしまう事すら有り得て。 それだけは困る、というのが私とジョシュの共通した意見だった。
私は客人として迎えられてから書き続けていた冊子をそっと机に置いた。
「お父様やお母様のように人の役に立てるようになるのはまだ先だけど」
お父様やお母様が亡くなった時、思った「私じゃなくなんで二人が」という思いはまだ胸にある。 私よりも、あの二人が生きていた方がきっと成し遂げられることも多かったと、思うことも消えない。
だから、あの二人が成し遂げたかも知れないことと同じくらい、私もできる事をしようと今は思っている。
「とりあえず、私が知っている限りは書けたし、次の場所についたら同じ失敗しないように髪とか染めておかないと」
今できることは、私の知っている事を書いたノートと処方箋を残す事だけ。
「お前は誰の花嫁だ」
私は――。
じんわり滲む熱いものに揺れる視界。 言っていいのか、一瞬だけ考えたけど。
「あなたの、花嫁です。 ……樹宝さん」
「じゃあ、来い」
「はい!」
ぐいっと肩を抱き寄せられる。 まだ、相応しいかって聞かれたらきっと足りない。 けど。
「花嫁ってのは、不要品じゃないな。 だから、貰ってくぞ」
「はいっ」
誰の花嫁か聞かれたら、最初から決まっている。 ぎゅっとその身体に抱きつくと、あの暖かな場所の匂いがした。 まだ相応しいというには足りないけれど、離れたくない。 私はこの人の花嫁。
「はぁ~い。 と言う事でぇ、悪いけどぉリトさんは精霊王がお嫁さんに貰っていくよぉ。 うふふ、それじゃあねぇん!」
ビオルさんの声がして、樹宝さんが私を抱える。 一瞬だけ渦巻くような風が起こって次の瞬間、私たちは空の上。
「おい、しがみついておけよ。 落ちたら洒落にならないんだからな」
「はぁ……。 樹宝さんやぁ、落とす気もないだしぃ、折角素直になったならもうちょっと言い方ってものがあるでしょぉ?」
もう、ってため息つくようなビオルさんの声と、間近で久しぶりに見る愛しい人の、不機嫌そうなのに赤く染まった顔。
色違いの橙と唐紅花の双眸が私を見る。
「お前が、……俺の花嫁だ」
ああ、何でだろう。 嬉しいのに、また視界が滲んで歪む。 声が震える。
「……はい」
「さっきから、はい、しか言ってねぇぞ」
「はい」
呆れた様な樹宝さんの声。
「くふ。 じゃあ、帰ろうかぁ。 ううん。 違うねぇ、今日はリトさんが嫁ぐ日なんだから、ようこそかなぁ?」
風が動く。 私たちの身体は風に包まれてあの地へ運ばれる。
伝えたい事がたくさんある。 足りないところもいっぱいある。 私は樹宝さんに少しだけ強く抱きついた。
伝えたいことの、一番最初は決まっているから。
のちに狭間の薬師と呼ばれる人物が現れる。
その薬師は分け隔てなく様々な人々の病や傷を癒しその術を伝えたという。
かの人は狭間の地に住み、大陸の心である精霊に愛されていたという伝承が今でも近隣の村には伝わっている。
終
ここまで読んでくれてぇ、ありがとうぅ。
一応ぅ、このお話はこれで終わりだよぉん。 くふ。 楽しんでもらえたかなぁん?
楽しんでぇくれていたら、とっても嬉しいよぉん。
ありがとうねぇ。
さてぇ、このお話はここで終わるけどぉ、完全な蛇足話が公開中ぅ。
内容は私の日記みたいなものだからぁ、すっきり終わりたい人とかぁ、蛇足で台無しにしたくない人は見ないほうがいいかなぁん。
5月11日の活動報告にぃ載ってるよぉ。
もう一度改めてぇ。
読んでくれてありがとうぅ。 よかったら、またどこかでねぇん。