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後日譚 「ゼリーの詰め合わせ」

翌日、美空が病室に戻って来るときに紙袋を引き下げてきた。中に入っていたのはゼリーの詰め合わせだった。


「これ、病院食が味気ないと思って。売店で買ったものですけど」


「ありがとうございます」


美空は椅子を引いて腰を下ろした。昨日よりも落ち着いた顔をしている。昨日は緊張と感謝で精一杯だったのが、今日は少し余裕がある。


しばらく二人とも黙っていた。


「一つ聞いてもいいですか」と美空が言った。


「どうぞ」


「なんであの時、飛び出してきたんです? 普通、あんなことしないですよ」


悠希は少し考えた。


「放っておけなかっただけです」


「それだけ?」


「それだけです」


美空はしばらく悠希を見ていた。


「ずっと考えてたんです。なんでだろうって。自分が助かりたければ隠れてればよかったのに。もしかして何か理由があったのかなって」


「理由は特に」


「本当に?」


「怖かったのは確かですよ。でも怖い前に体が動いてた。そういう癖があるんだと思います、俺」


「癖で命がけのことをするの?」


「考えてたらできなかったと思うので、癖でよかったですよ」


美空は少し笑った。


「私、悠希さんみたいな人初めて会いました。なんか、すごく普通に言うから」


「普通ですよ」


「普通じゃないです」美空はきっぱり言った。「普通の人はああいうところで飛び出してこない」


「そうですかね」


「そうです」


美空はゼリーの袋を一つ取り出して、悠希のサイドテーブルに置いた。


「悠希さん」


「何ですか」


「ありがとうございました」


「さっき言ってたじゃないですか」


「何回言っても足りないので」


美空はそう言って、部屋を出ていった。


――――――――――――――――――――――


三日後、悠希が窓の外を眺めていると、廊下から重い足音がした。


入ってきたのは四十代くらいの男だった。スーツを着ていて、表情に疲れと何か別のものが混じっている。


「あなたが三輪悠希くんですか」


「そうですが」


男はしばらく悠希を見た。それからゆっくりと頭を下げた。


「月城です。娘がお世話になりました」


「……ああ」


「あの子が今回のことで傷を負ったのは、私のせいです。あなたが守ってくれなければ、どうなっていたか」


「大したことはしてないですよ」


「そんなことはない」


男は頭を上げた。目が少し赤かった。


「何かお礼をさせてください。何でも言ってください」


「一つだけいいですか」


悠希は少し間を置いた。


「俺、事情があって戸籍がないんです。どこにも記録がない人間になってしまって」


月城の父親が、静かに眉を上げた。


「事情というのは」


「長い話になりますが——信じてもらえないかもしれません」


「聞かせてもらえますか」


悠希は話した。全部を話した。タイムトラベルのこと、墜落した飛行機のこと、702便に飛んで取り残された経緯を。話しながら、自分でも荒唐無稽だと思った。


月城の父親は、ずっと黙って聞いていた。病室の外の廊下から、ナースステーションの音が遠く聞こえていた。


「……信じ難い話ですね」


「そうですね」


「ただ」と男は言った。「娘を助けてくれた人間が、理由のない嘘をつく人だとは考えにくい」


悠希は何も言わなかった。


「具体的に何が必要ですか」


「身元を整えてもらえれば。戸籍と住む場所。あとは自分でやります」


「戸籍は難しい話ですが、やれることはやります」月城の父親は静かに言った。「時間はかかりますが、なんとかしましょう」


「ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございます」


男は再び頭を下げた。今度は長く、深く。


悠希はその頭を見ながら、少し先のことを考えようとした。うまく形にならなかった。今は今のことだけをやればいい。そう思った。


――――――――――――――――――――――


それから半年かけて、悠希の身元は少しずつ整えられた。


月城の父親がいくつかのルートを動かしてくれた。手続きの詳細は教えられなかったが、ある日、封筒が届いて、中に必要な書類が揃っていた。


三輪悠希という名前はそのままにした。あの場所から持ってきたものはボルト以外何もないが、名前だけは持ってきた気がした。どこから来た人間かを、少なくとも自分が覚えていられるように。


住む場所は月城家から電車で二十分ほどのアパートに落ち着いた。費用の面倒は最初の一年だけ見てもらって、それ以降は断った。アルバイトをいくつか掛け持ちして、自分で払った。


高校は通信制に入り直した。年齢的に浮いていたが、特に気にしなかった。必要な単位を揃えることだけに集中した。


美空とは時々会った。

最初は病院でのやり取りがきっかけで、退院後もたまに連絡が来た。最初はメッセージだった。「お礼、もっとちゃんと言いたい」というよく分からない理由だったが、悠希は短く返した。それが続いた。


会う時は大体、近所の喫茶店だった。美空は毎回少し緊張した顔でやってきて、数分後には打ち解けた顔になった。中学生と喫茶店でコーヒーを飲む成人男性というのも妙な絵だったが、美空は気にしていないようだし、悠希も気にしなかった。


「学校、どう?」と悠希が聞いた。


「少しだけ行きにくくなった。何があったか話さなくていいのに、みんなが気を遣ってくれるのが逆に」


「そういうもんですよね」


「悠希さんはどう? 新しい生活」


「まあ。落ち着いてきました」


「友達は?」


「まだいないです」


「作らないの?」


「向こうから来たら相手しますよ」


美空は少し笑った。


「悠希さんって受け身なんだね。行動は速いのに」


「観察してから動くタイプなんで」


「でもハイジャック犯には観察なしで飛びかかったじゃないですか」


「あれは例外です」


「例外が命がけなのは普通じゃないですよ」


美空は笑いながら言った。


別の日、美空は少し珍しく黙っている時間が長かった。


「どうかしましたか」


「なんでもない。ちょっと考えてただけ」


「何を」


「父のことで少し話があって。私のせいでいろんな人に迷惑をかけたって、父が言ってた」


「それは違うでしょ」


「うん。私もそう思う。でもなかなか言えなくて」


「今度言ってみたら」


「言えるかな」


「美空さん、わりとはっきりものを言う人だと思うんで、言えると思いますよ」


美空はしばらく黙ってから、少し笑った。


「そうかな」


「そう見えます」


「じゃあ言ってみる」


美空が高校生になった頃、突然宣言してきた事があった。


「CAになります」


「前にも言ったが、未来の美空がCAだったからと言って無理にCAになる必要はないと思うぞ。別にパラドックスが起きない可能性だってあると思う」


美空は少し間を置いてから言った。


「それは分かってる。でもCAになりたいのはそれと別。飛行機が好きだから。あと——」


「あと?」


「未来の私が言ったんじゃないですか? 恩人に会いたいって」


悠希は窓の外を見た。


「悠希さんは? 」


「パイロットになろうかと思う」


「未来の悠希さんがCAだったからと言って無理にCAになる必要はないと思いますよ」


からかいながら美空は言った。


――――――――――――――――――――――


月日が経った。


悠希は高校を卒業し、航空大学に入った。訓練を重ね、ライセンスを取った。一つひとつの手続きに時間がかかったが、急いではいなかった。やるべきことをやっていれば、いつかなるべきところに着く、という感覚があった。


訓練の中で、いつかコックピットで見た月城悠希の手の動きを思い出すことがあった。計器を読みながら機体をコントロールする、あの落ち着いた動き。あれが自分の目標だと、言語化はしていなかったが、体がそれを知っていた。


――――――――――――――――――――――


美空が二十歳になった年の秋、悠希はあのボルトを取り出した。


不時着した機体の床から拾い上げて、ずっとポケットに入れていた。形見のようなものだった。あの場所にいた証拠であり、全部が繋がった瞬間を指差すものだった。


美空に渡しておきたかった。


近くの職人に頼んで、磨いてもらった。工業用のボルトは、磨くと意外なほどきれいな表面が出てきた。職人は裏に文字を彫ることもできると言った。

日付と、回数。それだけを入れてもらった。


2015年8月13日。7044回。


渡す時、美空は黙って受け取った。裏の文字を読んで、しばらく動かなかった。


「これ、何?」


「数年後の未来の飛行機の床に落ちていたボルトです。それを拾って、ずっと持ってた。そして未来の自分はそれのお陰で美空を助けに行けたんです」


美空はボルトを手の中で転がした。


「……重いね」


「重いですよ、ボルトだから」


「そういう意味じゃないよ」


美空は笑ったが、目が少し赤かった。


「まあお守りみたいなもんだと思って」


「ありがとう。大事にする」


美空はボルトを胸の前で握りしめた。その横顔を、悠希はしばらく見ていた。


「月城さん」


「何?」


「俺と付き合ってもらえますか」


美空は固まった。


それから、また笑った。


――――――――――――――――――――――


その二年後、悠希と美空は籍を入れた。


悠希が月城の家に入り、月城悠希になった。


書類に新しい名前を書いた時、それが自然に感じられたのは、もうずっと前から準備ができていたからかもしれなかった。


式の前夜、月城の父親が悠希に言った。


「娘をよろしく頼みます」


「はい」


「あなたのことは、まだ全部は分からない。どこから来た人間なのかも、本当のところは」


「そうですね」


「ただ」と男は言った。「娘があなたを選んだなら、それでいい。娘の目は、そんなに悪くないと思っているから」


悠希は頭を下げた。


「大切にします」


月城の父親は少しの間悠希を見てから、目を細めた。


「そう言ってくれると信じてる。あなたはずっとそういう人だったから」


――――――――――――――――――――――


月城悠希として最初の便を飛んだのは、三十代の初めだった。


離陸前のチェックリストをこなしながら、悠希はふと9年前のコックピットを思い出した。焦げた金属の匂い。鳴り響く警報。そしてもう一人の月城悠希の手が、落ち着いた動きで機体をコントロールしていた。


あれが、自分の未来だった。


あの時見た手の動きが、今は自分の手の動きになっている。


「準備いいか」と副操縦士が聞いた。


「大丈夫だ」と悠希は答えた。


エンジン音が高まり、機体が滑走路を加速していく。浮き上がる瞬間の感覚は、何度経験しても同じように来た。地上の重力が一度だけ強く引いて、それからふわりと手放す。


窓の外が青になった。


「さてとそろそろ迎えが来る頃かな」

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