第55話 凍てつく町と、氷の呪い
吐く息は白を通り越し、微かな氷の結晶となって宙に舞った。
美しくも残酷な白銀の世界。
だが、その冷気には、明らかな「死」の匂いが混じっていた。
巨大な湖のほとりに作られた町、グレイシア。
かつては湖で獲れる魚と、美しい氷の彫刻で栄えた観光地だったという。
だが、今の姿はゴーストタウンに等しかった。
家々の壁は厚い霜に覆われ、窓は板で打ち付けられている。
通りに人影はなく、ただヒュルヒュルと凍えるような風が吹き抜けるだけだ。
『……ひどい有様だな』
トムさんが手綱を引きながら、険しい顔で周囲を見回す。
『まるで、町全体が冷蔵庫にぶち込まれたみたいだ』
『さむい……さむいです……』
リゼルは毛布を二重に被り、ガタガタと震えていた。
王都から着てきた外套では、この極寒を凌ぐには薄すぎる。
『リゼル、唇が青いわよ』
隣に座るシルフィが、心配そうにリゼルの背中をさすった。
彼女は風読みの民特有の耐寒性があるのか、それとも薄緑色のマントに秘密があるのか、涼しい顔をしている。
『煙が出てる。あそこの宿屋、人がいるかもしれないわ』
シルフィが指差した先。
一軒だけ、煙突から細く頼りない煙が上がっている大きな建物があった。
*
ギィ……と重たい木戸を開けて中に入る。
宿屋の1階は酒場になっていたが、客の姿はまばらだった。
暖炉に寄り添うようにして、数人の村人が無言で座っている。
皆、落ち窪んだ目で、何かに怯えているようだった。
『……旅の者かい。悪いことは言わねぇ、今すぐ引き返しな』
カウンターの奥から、くたびれた初老の店主が声をかけてきた。
『この町は、もう終わりだ。「竜の呪い」に呑まれるのも時間の問題さ』
『竜の呪い?』
トムさんがカウンターに銀貨を弾きながら尋ねる。
『温かいスープを三つ。……話を聞かせてくれ』
店主は銀貨を一瞥し、重いため息をつきながら鍋に火をかけた。
『一週間前だよ。一夜にして、湖が完全に凍りついたんだ』
リゼルはハッとした。
風の谷の風が止まったのと同じ時期だ。
『ただ凍っただけじゃない。氷の下に、黒い血管のようなものが走り始めた』
『黒い血管……』
『あれに触れた漁師は、生きたまま中から凍りつき、氷の像になっちまった。それからだ、夜な夜な湖から「化け物」が這い上がってくるようになったのは』
店主の手が小刻みに震えている。
『伝説の「眠れる氷の竜」様が、怒っておられるんだ。我々が湖を汚したから……だから、生贄を捧げなければならないと騒ぐ連中まで出てきている』
『生贄なんて……そんなの、間違ってます!』
リゼルは思わず立ち上がった。
竜が怒っているのではない。
あの黒い亀裂から漏れ出した「影」が、湖の竜を蝕んでいるのだ。
『竜様はお前たちの守り神だろ? そいつがなんで、お前たちを襲うんだよ』
トムさんが鼻を鳴らした。
『それは「呪い」じゃねぇ。ただの「病気」だ。俺たちの船長なら治せるぜ』
『船長?』
店主がいぶかしげにリゼルを見る。
その時だった。
パキィィィン……ッ!
外から、ガラスが割れるような甲高い音が響いた。
続いて、悲鳴。
『ヒィィッ! 来たぞぉぉぉ!』
酒場にいた村人たちが、一斉にテーブルの下に隠れる。
リゼルたちは顔を見合わせ、すぐさま酒場の外へ飛び出した。
*
町は、異様な光景に包まれていた。
凍りついた湖の方角から、ゾロゾロと何かが歩いてくる。
それは、人間の形をした「氷の像」だった。
だが、ただの氷ではない。
体の中心に、あの「黒い結晶」のようなドス黒い核を持ち、目は赤く不気味に発光している。
店主が言っていた「呪いで氷の像にされた漁師たち」なのだろうか。
『ギ……ギギ……』
氷の像たちが、鈍い音を立てながら迫ってくる。
その手には、氷でできた鋭い槍が握られていた。
『トムさん、あれ……!』
『ああ、分かってる! 中に人がいるなら、闇雲にはぶっ叩けねぇな!』
トムさんが大盾を構えて前に出る。
氷の像の一体が、強烈な突きを放ってきた。
ガァァンッ!!
『ぐおおっ!? 重てぇっ!』
トムさんが数歩後ずさる。
ただの氷じゃない。鋼鉄のような硬さと重さだ。
『シルフィちゃん!』
『任せて!』
シルフィが身軽に跳躍し、近くの屋根の上に登った。
背中からショートボウを引き抜き、矢を番える。
『風よ……教えて』
シルフィは目を閉じ、肌で空気の流れを読んだ。
氷の像は硬い。だが、動く以上は必ず「関節」に隙間があるはずだ。
風が、その僅かな隙間に吸い込まれていくのを感知する。
『――そこッ!』
ヒュンッ!
放たれた矢が、風に乗って奇妙なカーブを描き、氷の像の膝裏に正確に突き刺さった。
『ギヂッ!?』
像の足が止まり、体勢が崩れる。
『ナイスだ、新入り!』
トムさんが盾で像を弾き飛ばし、リゼルの射線を確保する。
『リゼル、今だ!』
『はいッ!』
リゼルはペンダントを握りしめた。
攻撃して砕いてはいけない。
中の人を助けるには、あの「黒い核」だけを溶かし、浄化しなければ。
(温かい光……命を呼び覚ます光!)
リゼルの両手から、青く、そして太陽のように温かい光の波が放たれた。
『浄化ッ!!』
光が氷の像を包み込む。
黒い核がジューッと音を立てて蒸発し、像の表面の氷が溶け落ちていく。
中から現れたのは、気を失った屈強な男――紛れもなく、町の漁師だった。
『……やった! 助け出せました!』
リゼルが歓声を上げる。
だが、休む暇はない。
湖からは、さらに十数体の氷の像が押し寄せてきていた。
『キリがねぇぞ!』
『風の流れが悪いわ。湖の方から、ずっと冷たい邪気が流れてきてる』
屋根の上のシルフィが、連続で矢を放ちながら叫ぶ。
彼女の矢で動きを止め、トムさんが盾で受け流し、リゼルが浄化する。
三人の見事な連携で、次々と漁師たちを救出していく。
だが、リゼルの息が上がり始めていた。
『はぁっ……はぁっ……!』
いくら大地の力を借りているとはいえ、これだけの連続浄化は体力を激しく消耗する。
おまけに、この極寒だ。
指先の感覚が麻痺しそうになる。
『リゼル、無理すんな! 一度宿に引くぞ!』
トムさんが倒れた漁師たちを両脇に抱え、後退を指示する。
『――大地の光よ、壁となれッ!』
リゼルは残りの力を振り絞り、地面に光の防壁を展開した。
氷の像たちが光の壁に阻まれ、それ以上進めなくなる。
その隙に、三人は救出した人々を連れて酒場へと逃げ込んだ。
*
『おおお……なんということだ……』
酒場の店主と村人たちが、助け出された漁師たちを見て泣き崩れた。
氷の像にされ、死んだと思われていた家族が戻ってきたのだ。
『ありがとうございます……! あなた方は、竜様の使いですか!』
『ただの旅人です。……でも、まだ終わっていません』
リゼルは暖炉の火で手を温めながら、深刻な顔で首を振った。
『今の光の壁も、長くは持ちません。……原因は、あの湖の底です』
『やはり、竜様が……?』
『竜は苦しんでいるだけです。あの黒い脈のせいで』
リゼルは窓の外、凍てついた湖を見据えた。
黒い血管は、より一層太く、不気味な脈動を繰り返している。
『湖の底に行って、元凶を絶ちます。……竜の呪いを、解きに』
リゼルの瞳に、強い決意の火が灯った。
それは、外の猛吹雪さえも溶かしてしまいそうな、熱く力強い光だった。
(第55話・終)




