●11日目:「海と山の境界線 ~八戸から久慈へ~」
朝日が昇り始めた八戸市の空の下、真中清風と水上爽香は、ホテルを後にした。清風のメタリックレッドのロードバイクと、爽香のパールブルーのクロスバイクが、今日も朝の光に照らされてぴかぴかに輝いている。
「よし、出発だ。今日は岩手県に入るぞ」
清風の声には、新たな冒険への期待が滲んでいた。
「うん! 青森ともお別れね。寂しいような、でもワクワクするような……」
爽香の声には複雑な感情が混ざっていた。その瞳は、どこか遠くを見つめている。
二人は軽快なペダリングで、八戸市を後にした。潮の香りが鼻腔をくすぐり、カモメの鳴き声が耳に心地よい。海岸線に沿って走る道は、時に起伏があり、二人の脚力を試すが、それもまた旅の醍醐味だった。
清風は時折、爽香の表情を確認しながら走っていた。彼女の横顔に、これまでにない決意の色が見えるような気がした。「この旅で、爽香も少しずつ変わっていっているんだな」そう感じると、清風の胸に温かいものが広がった。
一方、爽香は前を向きながら、自分の中に芽生えた新しい感情を整理しようとしていた。「この旅を始めてから、私の中で何かが変わってきてる。もっと強く、でももっと優しい自分になれる気がする」そんな思いが、彼女の心を満たしていった。
二人が階上岳の麓に差し掛かったとき、爽香が突然声を上げた。
「あっ! 清風、見て! 野うさぎ!」
道路脇の草むらに、小さな野うさぎが顔を覗かせていた。その愛らしい姿に、爽香の目が輝く。
「ほんとだ。可愛いな」
清風も思わず微笑んだ。
「ねえ、写真撮ってもいい? ほんの少しだけ」
爽香の声には、少女のような無邪気さが混じっていた。
「ああ、いいよ。でも驚かさないようにな」
清風が同意すると、爽香は慎重にカメラを取り出し、そっとシャッターを切った。
「よし、撮れた! ありがとね、うさぎさん」
爽香が小さな声で呟くと、野うさぎは耳をピクリと動かし、茂みの中に消えていった。
◆
階上岳の急な斜面に、清風と爽香の姿が小さく見える。二人の自転車は、重たそうに両脇に立てかけられている。木々の間から差し込む陽光が、汗で光る二人の額を照らしていた。
「はぁ……はぁ……清風、もう無理かも」
爽香の声は、疲労と諦めが混じっていた。彼女の肩は大きく上下し、息は荒く、頬は上気していた。髪の毛が汗で額に張り付き、普段の爽やかな表情は影を潜めていた。
清風は爽香の様子を心配そうに見つめた。彼の呼吸も乱れてはいたが、それでも冷静さを保とうとしていた。ゆっくりと爽香に近づき、そっと彼女の背中に手を置いた。
「大丈夫だ。ここまで来たんだ。もう少しだけ頑張ろう」
清風の声は、優しくも力強かった。その手のぬくもりが、爽香の緊張した背中の筋肉をほぐしていく。
爽香は小さく頷いた。その瞬間、突然彼女の表情が歪んだ。
「あっ……いたっ!」
爽香が右足をつかみ、顔をしかめる。
「どうした?」
清風が素早く爽香の傍らに膝をつく。
「ごめん、足が……つっちゃった」
爽香の声は震えていた。痛みと焦りが入り混じっている。
「大丈夫、大丈夫。ゆっくり座って」
清風は穏やかに、しかし確実に爽香を導いた。彼女をそっと地面に座らせ、つっている足を優しく伸ばす。
「少し痛むかもしれないけど、我慢してくれ」
清風は爽香の足首を持ち、ゆっくりと足を曲げ伸ばしし始めた。同時に、つっている箇所を丁寧にマッサージしていく。
「痛っ……でも、少しずつ楽になってきた」
爽香の表情が、徐々に和らいでいく。清風は黙々と、でも愛情を込めて処置を続けた。彼の手の動きは的確で、長年の経験が感じられる。
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
爽香が申し訳なさそうに呟く。
「何言ってるんだ。俺たちはパートナーだろう? こんなん当たり前さ」
清風は優しく微笑んだ。その言葉に、爽香の目に涙が浮かぶ。
「うん、ありがとう」
しばらくして、足のつりも和らいできた。清風は立ち上がり、爽香に手を差し伸べた。
「さあ、行こう。頂上まであと少しだ。ゆっくりでいいから、一緒に登ろう」
爽香は清風の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。二人は再び自転車に乗り、ペダルを踏み始める。今度は以前よりもゆっくりと、しかし着実に坂を登っていく。
二人の間には、言葉以上の絆が流れていた。困難を乗り越え、互いを支え合う二人の姿は、まるで一つの生き物のようだった。そして、その絆こそが、この旅の真の目的なのかもしれない。頂上へと続く道は、まだ長く険しいが、二人ならきっと乗り越えられるはずだ。
ようやく頂上に到着すると、息を呑むような絶景が広がっていた。眼下に広がる太平洋の青さ、点在する島々、そして遠くに見える岩手県の山々。360度の大パノラマに、二人は言葉を失った。
「わぁ……」
爽香の目に、涙が浮かんでいた。
「美しいな」
清風もその景色に魅了されていた。
二人は自転車を止め、しばしその絶景に見入った。風に乗って、野の花の香りが漂ってくる。遠くでは、鳥のさえずりが聞こえる。
「清風……ありがとう」
突然、爽香が呟いた。
「え? 何が?」
「この景色を見せてくれて。私をここまで連れてきてくれて。全部、全部よ」
爽香の声には、感謝と愛情が溢れていた。清風は優しく彼女の手を握った。
「なんだよ、急に……。こちらこそ、だぜ。一緒に来てくれてありがとう」
二人の指が絡み合う。その瞬間、二人の絆がさらに深まったのを感じた。
休憩を終えた二人は、再び自転車に乗って下り坂を駆け下りた。風を切る爽快感と、先ほどまでの苦労が報われた達成感で、二人の心は高揚感に満ちていた。
昼頃、二人は小さな漁村に差し掛かった。地元の食堂で「ひっつみ」という郷土料理を味わいながら、二人は旅の思い出を語り合った。
午後、予想外の「やませ」に遭遇し、霧と寒さに包まれる。しかし、二人で支え合いながら、慎重に前に進んでいく。
霧の向こうに、うっすらと小袖海岸の岩場が見えてきた頃、突然晴れ間が広がった。太陽の光を受けて、海面がキラキラと輝き始める。
「わぁ! きれい……」
爽香の声が震える。清風も思わず息を呑んだ。
二人は自転車を止め、しばしその景色を楽しんだ。海からの潮風が頬を撫で、波の音が耳に心地よい。
「清風、手を繋いでもいい?」
爽香が少し照れくさそうに言った。清風は無言で彼女の手を握った。二人の指が絡み合う。
再び自転車に乗った二人は、久慈市に向けて最後の力を振り絞った。道中、海岸線の美しさに何度も足を止めながらも、着実に目的地に近づいていく。
夕暮れ時、ようやく久慈市の境界線が見えてきた。
「爽香、あれが久慈市だ」
清風が静かに告げる。
「うん……私たち、本当に頑張ったね」
爽香の声には、達成感と感動が滲んでいた。
二人は、新たな冒険への期待を胸に、ゆっくりと久慈市へと入っていった。70kmの道のりは、二人の心をさらに近づけ、お互いへの信頼と愛情を深めたのだった。




