●10日目:「八甲田の風と南部の味 ~十和田から八戸へ~」
夜明け前、十和田湖畔の民宿「湖畔の宿」から、真中清風と水上爽香が出発した。まだ暗い空の下、清風のメタリックレッドのロードバイクと、爽香のパールブルーのクロスバイクのライトが、流れる路面を照らしている。
「爽香、日の出を見ながらペダルを漕ぐなんて、贅沢だと思わないか?」
清風の声には、新しい一日への期待が溢れていた。
「うん! まるで私たちだけの特別な朝みたい。さあ、八戸まで80km、頑張ろう!」
爽香の返事に、清風は心強さを感じた。
二人は静かにペダルを踏み始めた。湖畔の道を進むにつれ、東の空が少しずつ明るくなっていく。やがて、太陽が顔を出すと同時に、湖面が燃えるように輝き始めた。
「わぁ……!」
思わず声が漏れる。爽香は自転車を止め、スマートフォンを取り出してシャッターを切った。
「ねえ清風、こんな光景、一生忘れられそうにないね」
「ああ、この旅で見る景色は、どれも特別だ。でも、今日のこの朝日は格別だな」
二人は言葉少なに、しばらくその瞬間を味わった。
八甲田山系に近づくにつれ、道は次第に上り坂になっていった。汗が滲み始める頃、清風が声をかけた。
「そろそろ休憩しようか。あそこに面白そうな建物があるぞ」
清風が指さす先には、古民家を改装したような建物があった。看板には「八甲田山麓 山菜茶屋」と書かれている。
店内に入ると、山菜の香りが鼻をくすぐった。カウンター席に座った二人を、年配の女将さんが温かく迎えてくれた。
「いらっしゃい。あら、お二人さん自転車旅行かい?」
「はい、十和田から八戸まで走っているんです」
爽香が答えると、女将さんは驚いた様子で目を丸くした。
「まあ、大変だねえ。そんなあんたたちには、うちの『山菜天ぷらそば』がいいよ。山の恵みで疲れも吹っ飛ぶさ」
二人は顔を見合わせてうなずいた。
程なくして運ばれてきた「山菜天ぷらそば」は、香り豊かな蕎麦つゆの上に、カラッと揚がった山菜の天ぷらが乗っている。タラの芽、コゴミ、ウド……色とりどりの山菜が、春の訪れを告げているようだった。
「いただきます!」
二人で声を合わせて箸を取る。
「うん! これ、すごくおいしい。山菜の香りが口いっぱいに広がるね」
爽香が感動した様子で言う。清風も頷きながら口に運ぶ。
「そうだな。山の空気を吸っているような気分になるよ」
食事を終えた後、女将さんが二人に話しかけてきた。
「お二人さん、これからの道中で気をつけることがあるよ。ここから先、『ヤマセ』って知ってるかい?」
二人は首を傾げた。
「ヤマセは、太平洋から吹き込む冷たい東風のことさ。これから通る海沿いの道では、急に霧が出たり、寒くなったりすることがあるんだ。防寒着は必ず持っていくといいよ」
清風と爽香は、女将さんの親切な忠告に感謝しながら、再び自転車に乗った。
午後、予想通りヤマセの影響で気温が下がり始めた。霧が立ち込め、視界が悪くなる。
「清風、ちょっと寒くなってきたね。女将さんの言う通りだったよ」
「ああ、あの忠告がなければ焦っていたかもしれない。地元の人の知恵って本当にありがたいな」
二人は防寒着を着込み、慎重にペダルを漕いだ。
霧の向こうに、うっすらと種差海岸の岩場が見えてきた頃、突然晴れ間が広がった。太陽の光を受けて、海面がキラキラと輝き始める。
「わぁ! 清風、見て! 虹だよ!」
爽香が空を指さす。霧雨と太陽光が作り出した美しい虹が、海岸線に沿って広がっていた。
「すごいな……こんな光景、なかなか見られないぞ」
清風も思わず感嘆の声を上げた。
夕暮れ時、ようやく八戸市に到着。市内に入ると、活気のある声が聞こえてきた。
「あれ、なんだか賑やかだね」
爽香が不思議そうに周りを見回す。
「ああ、確か今日は八戸三社大祭の最終日だったはずだ」
清風が答えると、二人の目の前に驚くべき光景が広がった。通りには、金箔や色鮮やかな布で装飾された豪華絢爛な山車が、威風堂々と並んでいる。各山車の上には、歴史上の人物や神話の登場人物を模した人形が、まるで生きているかのように鎮座している。山車の周りには、法被姿の男たちが集まり、掛け声と共に山車を動かす準備を整えていた。
祭りの熱気は、まるで生き物のように街全体に満ちていた。通りの両側には、色とりどりの提灯が吊るされ、夕暮れの空に妖しく揺れている。露店が立ち並び、焼きそばやりんご飴の甘い香りが漂っていた。
清風と爽香は、思わず自転車を路肩に止めた。二人の顔には、疲れを忘れさせるような興奮の色が浮かんでいる。
「すごい……こんな光景、見たことない!」
爽香が目を輝かせながら呟いた。
「ああ、僕も初めてだ。八戸三社大祭の迫力は、話に聞いていた以上だな」
清風も感嘆の声を漏らす。
突然、太鼓の音が轟いた。低く重厚な音が、二人の体に響き渡る。それに合わせるように、篠笛の甲高い音色が鳴り響いた。リズミカルな太鼓と、哀愁を帯びた笛の音が絶妙なハーモニーを奏で、祭りの雰囲気を一層盛り上げている。
人々の歓声が沸き起こった。「ヤートセ! ヤートセ!」という掛け声が、通りに響き渡る。山車が動き出すと、見物客からは歓声と拍手が沸き起こった。
清風と爽香は、思わず体を揺らし始めていた。80キロを走破した疲れはどこへやら、祭りの熱気に包まれ、新たな活力が湧いてくるのを感じる。
「ねえ清風、私たちも祭りに参加しちゃおうよ!」
爽香が清風の袖を引っ張る。
「そうだな。せっかくだし、思い切り楽しもう!」
清風も満面の笑みで答えた。二人は自転車を安全な場所に止め、祭りの渦中へと飛び込んでいった。
まず二人は祭りの山車を背景に、記念写真を撮った。その笑顔には、80kmを走破した達成感と、新たな冒険への期待が満ちていた。
「さあ、祭りの屋台で腹ごしらえして、明日への英気を養おう!」
清風の提案に、爽香は目を輝かせてうなずいた。
祭りの熱気に包まれた二人は、屋台が立ち並ぶ通りへと足を踏み入れた。夕暮れの空の下、提灯の明かりが温かく通りを照らし、活気に満ちた人々の声と匂いが入り混じる空間が広がっていた。
「清風、見て! あそこでなにか美味しそうなものを焼いてるよ!」
爽香が指さす先には、大きな鉄板の上でジュージューと音を立てる屋台があった。
「ああ、あれは八戸名物の『せんべい汁』だ。屋台バージョンなんだな」
清風が説明すると、爽香の目が輝いた。
「食べてみたい!」
二人は屋台に近づき、できたてのせんべい汁を受け取った。南部せんべいが入った熱々の汁に、鶏肉や野菜がたっぷり。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「熱いから気をつけて」
清風が優しく注意を促す。爽香は慎重に一口すすった。
「んん! 美味しい! せんべいが汁を吸って、なんだかもちもちしてるよ」
爽香の感想に、清風も頷きながら口に運ぶ。
「ああ、これは旨い。自転車で80km走った後のご褒美にぴったりだな」
せんべい汁を堪能した二人は、次の屋台へと向かった。そこでは、大きな鍋で煮込まれる「いちご煮」が待っていた。
「いちご煮って、いちごが入ってるの?」
爽香が不思議そうに尋ねる。
「いや、ウニとアワビを一緒に煮込んだ郷土料理なんだ。『海のいちご』と呼ばれるウニが入っているからこの名前なんだよ」
清風の説明に、爽香は感心した様子で聞き入っている。
熱々のいちご煮を受け取ると、ウニの濃厚な香りが漂ってきた。一口食べると、口の中にウニの甘みとアワビの食感が広がる。
「わぁ……こんな贅沢な料理が屋台で食べられるなんて」
爽香がうっとりとした表情で呟く。清風も満足げな表情でうなずいた。
次に二人の目に入ったのは、焼きイカの屋台だった。炭火で香ばしく焼かれたイカから、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「八戸と言えばイカだからね。これは外せないな」
清風が言うと、爽香も同意した。
焼きイカを受け取ると、その大きさに二人とも驚いた。新鮮なイカは歯ごたえがあり、噛むほどに旨味が広がる。
「清風、これ本当に美味しいね。こんなに新鮮なイカ、初めて食べたかも」
爽香が感動した様子で言う。清風も頷きながら、
「ああ、港町の祭りならではの味だな」
と答えた。
屋台を巡る中で、二人は地元の人々との会話も楽しんでいた。八戸弁の独特な響きに耳を傾けたり、祭りにまつわる逸話を聞いたりしながら、その土地の文化に触れていく。
最後に、二人はデザートとして「ポップコーン」の屋台に立ち寄った。
「ポップコーンか。懐かしいな」
清風が少し照れくさそうに言う。
「そうだね。なんだか子供の頃を思い出すな」
爽香も柔らかな表情を浮かべた。
甘い香りのポップコーンを手に、二人は祭りの喧騒から少し離れた場所に腰を下ろした。
「ねえ清風、今日は本当に素敵な一日だったね」
爽香が空を見上げながら言った。
「ああ、自転車で長距離を走破して、最後にこんな素晴らしい祭りに出会えるなんて。旅ってやっぱり素晴らしいな」
清風の言葉に、爽香は優しく頷いた。二人は静かにポップコーンを口に運びながら、今日一日の出来事を振り返った。疲れた体に、祭りの熱気と美味しい食べ物が新たな活力を与えてくれた。そして何より、この瞬間を共有できる相手がいることの幸せを、二人は強く感じていた。
祭りの喧騒が遠くに聞こえる中、清風と爽香は明日への期待を胸に、静かにこの夜のひとときを楽しんでいった。




