5 1マルスの花束
料理の匂いで起きたのか、不機嫌そうな顔をしたルドルフが体を起こしてソファーに腰掛けていた。
「ルドルフ様、お加減はいかがですか」
「……筋肉痛がひどい」
「ではバスタブにお湯を溜めてまいりますね。全身を温めるといいと聞きますから」
こくりとうなずくルドルフ。その動作でも痛むのか、また顔をしかめていた。
「お風呂の介助は必要ですか」
「いらない」
ぴしゃりと跳ね退ける様子はいつもと変わらない。そのことに安心しながら、カティはバスルームへと足を向けた。
バスルームもちゃんと魔術仕様になっていて、蛇口を回せばお湯が溜まっていく。白い陶器のバスタブはどこから見ても一級品で、これだけ見てもルドルフがどれくらい裕福なのかよくわかる。カティの家にこういう魔術を使ったものはなく、初めて見た時にはこんなに便利なものがあるなんてと感動したものだった。
さすが魔術師の家というべきか、他にも便利な道具がいろいろあってカティの仕事を楽にしてくれた。この町で同じように魔術道具を揃えているのは町長の家くらいだろう。
夕食の準備も終え、お湯も溜まったのでルドルフに報告して帰りの挨拶をする。
「それでは今日はこの辺りで失礼します。また明日参ります」
ルドルフはいつもの位置で、本から視線を外さずにただ「お疲れさま」とだけ言葉をかける。本当に今までと変わらず、拍子抜けするほどだ。
しかし、玄関のドアに手をかけようとした所で引き止められた。何だろうと思っていると、彼はカクカクした動きで部屋の奥へ行き、戻ってきた。苦痛で表情を歪めながらもルドルフが手渡してきたのは、じゃらりと音がする布袋だった。
「きみは必要ないと言ったが、慣例に従う。持っていくといい」
それはおそらく、10マルス。
何か言おうとしても音にならず、口をはくはくさせてルドルフを袋を交互に見るが、彼はずいっと袋を差し出すばかりだ。
「ほら、早く受け取りなよ。腕が痛い」
「で、でも」
「早くしないと1マルス追加するよ。それでもいいの?」
カティは青ざめた。そんなことさせるわけにはいかないと「いただきます!」と急いで受け取る。頭の上でルドルフが笑ったのがわかった。恥ずかしくて顔が熱い。
「いい子」
そう言ったドルフの声が柔らかくて、いつまでも耳にこびりついていた。
◇
家族に払われる10マルスは、嫁入りの支度に使ったり、何かあった時にとヘソクリとして娘に渡すことが多いという。カティにはもう両親がいないので、こんなふうにお金が手元にくるとは思わなかった。
父と母からの最後の贈りもの。そんなふうに思えて心がふわふわと浮ついている。実際はルドルフの義理堅さから頂いたものだけれど。
「……お母さん、わたし結婚しちゃった」
ひとりぼっちの暗い自宅。夕食を済ませたテーブルで頬杖をつき、ぽつりと呟いた。
「ルドルフ様はね、変わってるけど、お優しくていい人よ。頭がよくてしっかりしてて……」
夫というよりも雇用主としての認識だが、ルドルフが悪い人じゃないのはわかる。それに体調を崩した原因は研究のしすぎだと言っていた。ひとつの物事に没頭できるのはすごいことだ。きっと努力の日々だったに違いない。
ルドルフはすごい人だ。
自分なんかとちがって。
そのぶん、しっかりとお仕えしようとカティは心に決めた。
次の日、カティは今までと同じよう朝九時ごろに家を出て、食材や日用品を買いものをしてからルドルフの家に向かった。ひと月分の給与や必要経費は先にもらっているのでその中からやりくりをするのだ。今日は野菜と燻製肉、それと卵をいくつか買っていった。
朝の挨拶をしてもルドルフはいつもと同じ。掃除をしても洗濯をしても同じで、いつもと変わることはなかった。
ルドルフの筋肉痛は次の日になればだいぶマシになったようだ。しかし体を動かしたいからと痛む体でまた散歩に行ってしまった。もしかしたら今日も調子がいいのかもしれない。
「戻った」
「おかえりなさいませ」
帰ってきたルドルフに声をかけると、彼はそっぽを向いたまま色とりどりの花束を差し出した。
「きみにだけ1マルス渡さないのはフェアじゃない」
どこかの店で買ったのか、きれいなリボンで飾られた花束だった。薄い黄色やピンク、白色の小さな花に囲まれて、立派な赤いバラが咲き誇っている。
カティは思わず両手を伸ばして受け取っていた。胸に抱くと甘い香りが鼻をくすぐる。
「ほんとこの町の人は暇みたいだね。僕を見るなり本当に結婚したのかと騒ぎ立てるんだ。あげくに新妻には花を贈るものだとうるさいし」
「いただいて、いいんですか」
「もらってくれないと僕がマヌケになるんだけど?」
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
1マルスの花束はとてもキレイで、いい香りがして、とっても幸せな気持ちになれた。半分はルドルフの家のリビングに飾り、もう半分は自宅へ持って帰った。
テーブルの上に飾った花は部屋を明るくした。指先でそっとバラの花弁を撫でながら、カティは穏やかな表情を浮かべたのであった。
事件が起こったのはその翌日のことである。
◇
朝、ルドルフは唖然とした。
エントランスに現れたカティの頬が赤く腫れていたのだ。エプロンはわずかに土で汚れていて、それでも一生懸命汚れを落としたあとのようだった。髪も所々ほつれ、いつも食材を入れている買い物かごは壊れて空っぽ。カティは笑みを貼り付けているが、あきらかに様子がおかしかった。
「……誰にやられたの?」
つまずいたにしては被害が大きすぎる。
どう見たって誰かに乱暴されたあとだ。
ルドルフの機嫌は急降下し、声は重く冷えていく。カティは困ったように眉を下げるだけで、何もしゃべらなかった。
「なんで何も言わないの。そいつをかばうっていうのかい」
ルドルフの攻めるような口調にカティは首を横に振った。それでもしゃべろうとしない彼女にひどく腹が立った。そんなルドルフの様子を察してか、カティは目を伏せ、唇をきゅっと結んだ。何かに耐えるように歯を食いしばり、体がわずかに震えている。
「なに。言わないと分からないよ」
これまでカティはどんな質問にも答えてきた。意味のない質問も無駄な感情論もはさまずに、実に気持ちよく質疑応答ができた。
そんな彼女が一切話そうとしない。
なぜ。どうして。
もどかしくてイライラする。
堪えきれなかったのか、下を向いたカティの足元にぽたりと涙が落ちた。
「……もしかして、しゃべれないの?」
ぽたりぽたりと床に涙を落としながら、カティは小さく頷いた。
一瞬で視界が怒りで染まる。この感情がどういうことに起因しているのかルドルフにはすぐに判断できなかった。ただ、カティに怒っているわけではない。カティが原因ではあるけれど。
「……イエスかノーは身ぶりで答えられるよね」
ルドルフの問いにカティはこくりと頷いた。
「声が出ないように何かされた?」
少し考えるようにして彼女は小さく頷いた。
「それは小さな道具のようなものだった?」
カティはパッと顔を上げ、こくこくと勢いよく頷いた。ルドルフは訝しげに片眉を引き上げる。魔術具は便利なもので、声を取り上げるなんて物騒なものが存在することを知っている。ただこの田舎には不似合いだ。しかしそれを考えるのは後だろう。まずは犯人を確定させないと。
「それで、きみの頬をぶって地面に転がしたあげく服を汚してケガもさせて買い物かごも壊した上に魔術具で声を取り上げた大いなる愚か者は……ベン・ゲルゲスで間違いないね?」
カティは大きく目を見開いた。なぜその名前を知っているのかと言わんばかりだ。ルドルフが散歩に行ったついでに話を聞けば、町の人はペラペラとよくしゃべった。カティのこと。そしてベンという男のこと。思い出して腹立たしさが増した。
「早く答えなよ」
ルドルフはいつも以上に言葉が鋭利で、視線も震えるように冷たい。告げ口することをためらったのか、それともルドルフの迫力に怯えたのか、カティは頷くまで時間がかかった。
全身が焼けそうなほどの怒りを覚えたのは、ルドルフ自身じつに久しぶりのことだった。
「僕のものに手を出すなんていい度胸じゃないか。絶対に許さない」




