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追放聖女は、サンドイッチを買いに行く  作者: m


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6/6

風は駆ける


「ヴァール!」


 自分の名を呼びながら駆けてくる少女の髪が、エルシャハルの強い陽を浴びて、眩しく輝いている。


「聞いて!マールがね、エルシャハルに来てくれるの!」

 

 息を整える間も無く、満面の笑みを浮かべたアステラが、嬉しそうに報告してくれる。


 この少女が、こんな風に笑うようになったのはいつからだったろうか。


 どこか冷めた雰囲気だったアステラが、何処にでもいるような、年頃の少女らしい表情を浮かべていることに、ヴァールは、彼女と初めて出会った時のことを思い出していた。


 


 最初に出会ったのは、アステラの故郷であるラヴィリエの、その王都の外門だった。

 自分の主であるジアードの誘いを受けて、エルシャハル行きを決めた彼女に、自分は引き合わされたのだった。


 小柄で、華奢というよりは貧相な印象の少女だった。

 けれどその見た目の素朴さでは隠しきれない程、清廉で、良い匂いの空気を纏っていた。


 主人に相応しい人間か見定めようとしていたヴァールを、緑の瞳が真っ直ぐに見つめる。


「ヴァールだ。共にエルシャハルへ向かう」


「初めまして、アステラです。ゔぁ、ヴァー、ル?」


「大陸共通語ではないからな、エルシャハルのある部族の言葉で“風”という意味だ」


 ジアードに名付けられたその名は、ヴァールにとっては誇りである。

 

「そうなんだ。良い名前。よろしくお願いします“ヴァール”」


 今度は上手くその名を呼んで、地味で小柄な、けれど不思議な空気を持った少女が微笑んだ。 

 それは透明な、淡い笑みだった。



 ラヴィリエの王都を後にして、街道を逸れた木立の陰で、野営の為の準備をしていた。

 午後中ずっと駆け通しで馬の背に揺られていたアステラは、全身の強張りと、降りてもなお感じる揺れに、大分参っているようだった。


 周囲の様子を見に行くジアードに少女を任されて、ヴァールは焚き火をぼんやりと眺めるアステラと、主人の帰りを待っている。


「ねぇヴァール、ヴァールはこんな風にジアードと一緒に、ずっと世界を旅して来たんだよね」


 まだ白い顔をしたアステラが、気を紛らわす為か、こちらに話しかけてくる。


「ヴァールは海とか、見たことある?」


 気まぐれな主人はこの数年、どこに向かうともなく、この大陸中を移動し続けていた。

 その中には、険しい岩だらけの山もあれば、迷いそうに深い森、湖のような大河を渡ったこともあるし、当然、どこまでも続く海原だってある。


「……見たいって言ったら、行けるかな」


 ぽつりと呟かれた言葉は、火のはぜる音に掻き消されそうな程、ささやかな響きだった。


 今日のジアードの雰囲気では、おそらく最短で駆ける、内陸を辿るルートになるのではないかと思っている。

 エルシャハルにも海に面した地域はあるが、このラヴィリエから海路を辿るためには東の海側に出なければならず、エルシャハルとは反対方向だった。


 黙ってじっと見つめるこちらの視線に気づいて、アステラが微かに笑って見せる。

 

「王都の外に、こんなに広い麦畑が広がっているなんて知らなかった。可笑しいよね、自分の国なのに」 


 街道沿いにまで広がっている金色の農地を駆けるのは、麦の穂の波を掻き分けていくようで、なかなか爽快な気分だった。

 それをただ、言葉もなく見つめていた少女を思い出す。

 

 彼女は今日、この地を永遠に追放されるのだという。

 二度と戻れない故郷をその目に焼き付けて、何を思っていたのだろうか。

  

「ねぇ、海に行く時は、きっと一緒に行こうね」


 まだ見ぬ世界への約束は、彼女にとってどんな意味を持っていたのだろう。

 


 遠くで僅かに、小枝を踏み抜く音が聞こえた。

 ジアードがそろそろ、こちらに戻ってくる気配を感じる。

 

 少し強まってきた風の音を聞きながら、ヴァールはそっと、焚き火の方にアステラの肩を押しやった。




「すごい、これが海……!」


 海風に煽られた銀の髪が、ばさばさとアステラの顔に当たっていて痛そうだった。

 当の本人は、目の前の海に釘付けで、何ら気にした様子もない。


 潮風で髪が傷むことをジアードが気にしていたが、アステラの銀の髪がはためき、陽光を受けて輝く様は美しかった。

 彼女が今日、宿の風呂場で嘆かないことを祈ろう。



 あの日、友人の来訪を喜ぶアステラの後に来たジアードが、彼女の手にあった手紙に目を通して、


「海路で来るのか。この日付なら、今日発てば港で丁度かち合う頃だな。折角だアステラ、彼女を出迎えてやってはどうだ?」 


「えっ」


 その言葉にアステラが、きょとんとした顔を浮かべる。


「丁度いい機会だ。ここへ来てお前自身も仕事を持ったし、街の外にもろくに連れ出してやったことがなかっただろう?」


 瞬きをする緑の瞳が、ジアードの言葉を反芻して、


「でも明日も仕事が」


「街の者だって時には休みくらい取るさ」


 相変わらず真面目な勤労少女に、半ば呆れた笑みを浮かべたジアードが、アステラの華奢な肩を軽く叩きながら告げる。

 

「アステラ、お前はもう自由に、どこへだって行って良いんだ」


 主人が浮かべるその笑みは、いつも自分に向けられるものと同等に、どこまでも優しい色をしていた。

 


 ラヴィリエからエルシャハルへ向かう旅の間中、アステラはずっと楽しそうだった。

 自然や人、その暮らしや食事、それら一つ一つに歓声を上げ、まるでこの世に生まれ直した赤子のように、目の前の世界を楽しんでいた。

 

 勿論、初めての長旅に、途中何度か体調を崩すこともあった。

 本人がその片鱗に気付かないものだから、熱を出した時も、慣れない馬で身体を痛めた時も、突然倒れるのが困りものだった。

  

 けれど本来なら、もう疾うに限界を迎えていてもおかしくないはずの身体は、何かに守られているように、次の日にはけろりと治っているのだった。

 これには旅慣れたジアードも、途中で診せた薬師も、首を捻らずにはいられなかった。


 それは、彼女との旅そのものにも言えることだった。

 出立の日はいつでも快晴で、天候で何処かに留め置かれることもなく、ついぞ盗賊に遭うこともなかったし、野営場所には野犬一匹、近付いてくるようなこともなかった。 

 

 見上げる夜空にはいつでも満天の星が広がっていて、夜半に雨に降られる心配などないような夜ばかりだった。

 人の気配のしない、焚き火のささやかな火で凌ぐ真っ暗な夜闇ですら、どこか温かな気配に満ちていた。


 ある時、目の前で降っていたスコールが、見る見る間に雲ごと遠ざかって虹がかかったのには、いっそ笑ってしまいそうだった。


 エルシャハルに来てからも時折、自分のところに立ち寄ってくれるアステラは、日に焼けてどんどんこの国の民らしくなっていった。 

 それを見るのも良いものだったが、こうして目の前で海に感じ入っている彼女を見ていると、あの旅での日々を思い出す。


 まだこの世界には、どれだけでもこの少女を驚かせ、喜ばせるものが満ちていることだろう。


 


 港を見下ろす丘の上にある街道からは、丁度港に入ってきた商船が錨を降ろし、荷受け場に接岸する様子がよく見えた。


 港にも船にも数多の人間達が蠢いていて、船の到着を告げる鐘の音が響く中、行商や船乗りの声、多部族の言語が飛び交う様は、遠くからでもちょっとした祭りのような賑わいだった。


 風に煽られる、あの旅の頃よりも伸びた髪を押さえながら、アステラはその風景に見入っている。

 ぽつりと、独り言のように彼女が口を開いた。


「私がここへ来なくても……、ここにはこんなに沢山の人が、普通に暮らしているんだよね。旅の間に立ち寄った、いろんな場所でもそうだった。私が立ち去ってもここの生活が変わらずにずっと続いていくのが、なんだかすごく不思議」


 その言葉に呼応するように、周囲の空気が澄んでいくのが分かる。


 それは祈りだ。

 この地に今、在ることへの喜びと、ここに住まう人々の営みに触れて贈られる、純粋な祈り。


 こんな力を持つ人間が、自覚なくその辺をうろついているなど、危なっかしいことこの上ない。

 この少女を自分の主人に引き合わせた人間の慧眼を、心から称賛したい気持ちだった。


 身内に対して些か甘すぎる嫌いはあるが、この地を統べる王家の一員であり懐の深いジアードなら、守護役としては適任だろう。

 砂漠の民は、その財を奪うものに容赦はしない。



「ジアード見て!あの赤い髪、あれ絶対にマール!」


 浮かれて駆け出そうとするアステラを見兼ねて、ヴァールは主人の肩をこづく。


「待てアステラ、ヴァールが乗れと言ってる」


 振り返ったアステラは、光る海を背に背負って、溢れんばかりの笑顔を浮かべている。


 それは何故だか、泣きそうなほど幸福な感情を、ヴァールの裡に沸き上がらせたのだった。



 主人に引き上げられた少女を背に乗せて、ヴァールは気合を入れて駆け出した。

 速さが自慢のこの足で、一刻も早く、かつて聖女と呼ばれた少女を、友人に会わせてやるために。


 “黒い風”の名に相応しい速さで。

 ジアードの愛馬は、港までの道を駆け抜けて行くのだった。



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