アステラは国を追放される
「本日をもって、お前を国外へ追放する」
国外追放を言い渡す王子の声を聞きながら、聖女アステラの胸には、いつも唱える聖句がふっと浮かび上がってきた。
聖女たる者 いつだって慈悲の心と哀れみを持ち 聖女たれ 清廉なる魂…
子供の頃から何度も繰り返し、繰り返し、魂に刻みつけるように唱えてきたその言葉。
(聖女たれ 我は聖女なり…)
そんなもの、この国と一緒に捨て去ってしまおう。
用済みの聖女には、きっともう不要なものだろうから。
澱みなく追放を告げた王子に、顔を伏したままでアステラは話しかける。
「恐れながら、理由を聞くことは叶いますでしょうか」
「ならぬ、お前に教えられる理由などない」
鬱陶しそうに答える王子の眉間には、今日も皺が寄っているのだろう。
天使のように美しい金の髪を持つ彼は、アステラが聖女になってからもう十年の付き合いだが、いつだって不機嫌な顔を隠さなかった。
朝の祈りを終えてすぐ、王宮から話があると呼び出しを受けたのだ。
急な召喚は珍しく、朝食をとる間も無く登城した先、小謁見の間で待っていたのは、王子と、その横に控える数名の側近達だった。
そして今、アステラの国外追放が告げられたのだ。
一月後には建国祭を控えた、その最中での突然の追放だった。
毎年王都で開かれる建国祭では、聖女が天に、雨を乞う祈りを捧げることになっている。
昔、この地で聖女が雨を呼び、それが建国の礎になったという伝説に倣うものだった。
それなのに、このタイミングで聖女追放とは。
ああ、とアステラは思い至る。
(新しい聖女が、生まれたんだ)
最近神殿がどこか落ち着かない雰囲気だったのは、祭りの所為ばかりではなかったらしい。
それは唐突で、突然に、前触れもなく、託宣によってのみ告げられる。
八歳で託宣を受けた、アステラの時もそうだった。
新しい聖女が生まれ、そして国に聖女は一人だけ。
二人同時に存在することはないと聞いている。
灰色の髪にそばかす顔のアステラを、この美しい王子が忌々しく思っていることは知っていた。
歴代の聖女の世話人を、王族の年若い王子が務めるのは伝統だった。
そして時にはその王子達が、聖女を伴侶として娶ることもあったという。
それ以外の聖女達は、こうしてどこかにやられていたのだろうか。
「国境までは見張りの騎士が連れて行く。これまでお前に与えてきた我が国の恩情に感謝するがいい。以降は二度と、この地を踏むことはならぬ」
「承知いたしました」
小謁見室の入り口の方で、人が増えた気配がする。
アステラの背中側で見ることは出来ないが、それが見張りの騎士だろう。
逃げることは叶わぬ、という言外の圧を感じる。
(猜疑心の強い王子様らしい)
この国の孤児院からそのまま神殿に入ったアステラに、逃げる宛などあるはずがないのに。
「御前を失礼いたします…永遠に」
最後の言葉は聞こえないくらいに呟いて、これだけは叩き込まれたカーテシーで頭を下げる。
つくづく自分は根が平民なのだろう、言葉遣いや作法も結局身に付かず、唯一及第点をもらえたのがこのお辞儀だった。
これが人生最後のカーテシーになればいいなと。
見納めになるだろう、王宮の美しい寄せ木細工の床を眺めながら、そんな風に思っていた。
聖女であったアステラは、この王都の、城下までなら自由に行き来していいことになっている。
といっても、週に一度、昼の間のほんの僅かな時間だけだったけれど。
その貴重な自由時間が、アステラの唯一の楽しみだった。
週に一度のその日は、いつもアステラの食事の支度をする者達の安息日でもあり、自分で昼食をとらねばならなかった。
その為にと渡されるお金は微々たるもので、パンを一つ買うくらいのことしか出来ない。
聖女に賃金という概念はなく、衣食住の世話を受けているとはいえ、こういう時には困るのだった。
けれど時折、臨時収入を手にする事があった。
神殿にお布施を積んだ貴族の為に、特別に祈りを捧げる時などに、アステラの服にこっそりと、心付けを捻じ込んでくる者がいたのだった。
彼らは皆、そうした方が、奇跡が発現し易くなると信じていたようだった。
本当のところはあまり関係がないのだけれど、分厚い法衣の、袖や後ろ襟の下に差し込まれてしまうと、正直、脱ぐ時にしか気付けないのだった。
なのでこっそりと、ありがたく頂戴しておいた。
それでもなるべく節約を、と思ってたどり着いたのが、この「雲雀亭」だった。
「マール!いつものサンドイッチ、持ち帰り用に包んでもらえる?」
カウンターの中で、一際忙しく働いている、赤髪の大柄な女性に声をかける。
この時ばかりは、普段、喋る機会自体が少ないアステラも、腹の底から声を張り上げなければならない。
でなければ、店内の喧騒に負けてしまい、忙しく騒がしい厨房に、注文の声が届かないのだ。
まだ昼前だというのに、賑やかな食堂の店内には、楽しそうな人の輪と笑い声が幾重にも折り重なっている。
その賑やかさに負けぬよう、店員も客も、怒鳴りつけるように話すものだから、なおいっそうに騒がしい。
「珍しいねアステラ!食べて行かないのかい?」
大きなフライパンを豪快に揺すりながら火の前に立つマールは、この雲雀亭の店主であり、最高の料理人でもある。
酔っ払いを拳一つで黙らせる手腕と、全てを吹き飛ばすような明るい笑い声、そしてその人柄以上に豪快で美味しい料理。
皆、そんな彼女と料理に惹かれて、此処に集まってくるのだった。
「そうなの!国外追放になったから、来るのはきっとこれが最後!」
「アンタなんかしたのかい?」
アステラに返事を返しながら、その手元では野菜炒めを作り終え、空けたフライパンの汚れをさっと拭うと、すぐに別の食材を炒め始めている。
いつ見ても惚れ惚れするような手捌きで、その間に店員に声をかけることも忘れない。
「トマス、これ持っていきな!それで?」
「聖女の役目が終わるの!一刻以内に荷物まとめなきゃいけなくて、だから挨拶に来たの」
食堂の入り口に立っている、監視の騎士をちらりと見遣る。
騎士服を着てはいるが、きっと正規の兵ではなく、アステラを護送するために雇われた傭兵だろう。
外国人らしい浅黒い肌と黒い髪は、この国では珍しい色合いだった。
アステラの視線を追って騎士を認めたマールの、その目が一瞬眇められたような気がしたが、見間違いかもしれない。
「アンタ本当に聖女だったのかい。リン!そこの皿さっさと下げな!」
そこ、尻を触んじゃないよ!
アステラと話しながら、不埒な客も見逃さない。
マールには目と口が三つくらいついてるんじゃないかと、アステラはいつも思っている。
初めてこの店に来た時、その騒がしさに圧倒されて、入り口でUターンしようとしたアステラに、目敏く声をかけてくれたのも彼女だった。
「そう聖女だったの!さっきまでね!」
かなりの声量で話していても、誰もこちらの話など気にしていない。
聖女という言葉に反応した者もいそうだったが、街の食堂で声を張り上げている地味な女を、本物だと信じる気にはならないだろう。
(貴き王の庇護を得て、清廉な白き聖女、清き神殿の奥深く、絶えず慈悲の祈りを捧げたもう)
この国では子供でも暗唱できる聖典の引用句である。
彼らが思う聖女は、穢れなき白の法衣に包まれ、何十人という神官達に傅かれた、神輿の上の神々しい聖女様なのである。
ちなみにあの法衣、夏は地獄の暑さだった。
今のアステラは、いつも外に出る時に着ている、唯一の私服を身に纏っている。
何年も着ているくたびれたワンピースは、元はもう少しマシな色合いだったのが、洗濯で褪せてしまって何とも見窄らしい。
そこいらの街の子供達の方が、聖女である自分よりも余程いい服を着ていると思う。
「アステラ、アンタ行く宛は?あるのかい?」
「ない!この国から出たことないから」
「どこの国境だい?」
「分からない、多分、同盟国のどっちかだと思う!」
それはアステラも気になってはいるのだ。
人を捨てます、と宣言しなくてもいい国というと、周辺国では条約を結んでいる二国に限られる。
おそらく、どちらかの国境の門を潜ったら、そこで放り出されるのではないかと思っている。
「ちょっと待ってなアステラ。ブッカー!アンタんところの商会の荷物、今日はまだ出ていないんだろう?」
「おうよ!この後出立する予定だ。旅立ち前の一杯だよ」
ブッカーと呼ばれた壮年の男性が、同じテーブル席の男達と笑ってそう答える。
まあまあの数のジョッキが並んでいるようで、その状態でこれから旅とは、何とも豪快なことである。
「北と東の国境門に、ちょいと手紙を届けておくれ!」
「おう、お安い御用さ!ビール一杯サービス頼むよ」
ちゃっかり注文しているあたり抜け目がない。
「アステラ、国境の砦にいる奴らに一筆書いとくよ!何かあったら頼んな!」
「!ありがとう、マール」
「嬢ちゃん、俺らも来月砦に行くから、何かあったら言えよ」
近くのテーブル席のガタイのいい一団から、そう声がかかる。
彼らはおそらく、国境に派兵される騎士達だろう。
ボリュームのある料理が多いこの店では、騎士団員や警備兵達も常連だった。
「あっちに、元は王都にいた奴らが何人もいるんだ。嬢ちゃんのこと声かけておくよ」
やいのやいのと声がかかる。
この店では、どんな悩みも大したことがないような気がしてくる。
妻を亡くした男性を、皆が飲ませながら思い出話で盛り上がっていた事もあった。
片腕を亡くした兵士に、労いと感謝の杯を捧げていた事もあった。
食べて飲んで笑って、肩を叩き合って。
自分の追放が、ちょっとそこまで出掛ける程度の話のように感じてくる。
マールがオーブンで焦げ目のついたパンに、手早く具材を挟んでいく。
「残りの時間で、隣のサイモンとこで外套を一枚買っていきな!北も東も王都よりも寒いよ」
「分かった!マールは他の国に、行ったことがあるんだね」
「勿論さ!元は冒険者だからね、トマス!こっちの肉も持っていきな」
それはさぞかし、頼れる冒険者だったに違いない。
手に持つフライパンが武器に変わっても、何ら違和感のないマールが想像できる。
みるみる間に仕上がった、ポテトサラダと雲雀亭の自家製ハムを挟んだサンドイッチが、美しく切り分けられ、油紙に巻かれていく。
注文していないはずの、ナッツペーストと黒すぐりのジャムのサンドイッチまでもが一緒に。
「待たせたねアステラ、落ち着いたら連絡よこしな」
最後に荒いざら紙で全体を包んで、カウンター越しに渡してくれる。
思いのほか、ずしりと重い包みをしっかりと両手で受け取った。
「ありがとうマール、本当に」
どんなにか、この味と明るさに助けられてきたか知れない。
最後まで、マールとこの店のお陰で、湿っぽい気分を捨てて出発できそうだった。
「アステラ!」
扉の側にいた騎士に着いて出ようとしたところで、マールから声がかかる。
「ありがとうね!この国が住み易いのは、アンタのお陰だったんだろう。今度はアンタが幸せになりな!」
我らが聖女様に!
そう言って店中の酔っ払い達が、手に思い思いのカップを、皿を、剣を、そしてフライパンを掲げてくれる。
「上手いもん食べなよ!」
「変な奴には気をつけろよ!」
湿っぽいのは嫌だったのに、たまらず目元が緩みそうになる。
「ありがとう!皆のお酒が今日も美味しくあるように!」
聖女アステラの最後の祈りを、この店の、彼らのために。
これでもう思い残すことはない。
笑顔で手を振って、そうしてこの国を後にするのだ。
「聖女たれ 我は聖女なり」
アステラの前を歩いていた騎士が、その言葉に振り返る。
どうやら無意識に、口に出して聖句を唱えていたらしい。
長い前髪の奥から、アステラを見る切れ長の瞳が金色で、それもまたこの国では珍しい。
(私…意外と重症なのでは)
口に出ていたのは完全に無意識だった。
何しろ、祈りながらずっと唱えていたのだ。
聖女に余暇などなかったから、寝る時と食べる時を除けば、ほぼ一日中。
祈らなくてもいい人生など、
(考えたことも、なかったなぁ)
あの後、神殿の部屋を引き払い、今は王都の北にある外門を目指している。
そこからは馬車に乗って国境に向かうのだと、目の前の騎士が教えてくれた。
外門に続く、大通りから一本内側に入った静かな道を、名も知らぬ騎士と二人で歩いている。
「聖女様」
黒髪の騎士が僅かにその足を緩めて、アステラの隣に並んだ。
「少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ。でもあの、」
「何でしょうか」
「もう私聖女じゃなくなるので、どうぞ名前で」
その言葉にきょとんとした大の男の顔が、ちょっと可愛い。
近くで見ると、恐ろしく整った顔の美丈夫だった。
見上げるようにすると、首が痛くなりそうな長身である。
「アステラ様」
「私平民なので、呼び捨てでどうぞ。敬語もいらないので」
「では、アステラ。私のこともジアードと」
もう何年も“聖女”が自分の名のようになっていた。
この国でアステラの名を呼んでくれたのは、あのマールくらいだった。
「アステラ、君の祈りは、雨を降らせると聞いたのだが」
「そうですね。でも、すぐに降り始めるとかでは無いです。それに雨なんて、祈らなくても、いつかは降りますし」
乾季のないこの国では、雨は年中、いつかしら降るものである。
それが祈りによるものかどうかは、聖女になってからずっと、休みなく祈っているので、最早分からないのが正直なところだった。
「傷が目の前で塞がるとか、そういうのもないですし」
聖女という存在は、民達の尊敬と信仰を集める、いわば神輿のようなもの。
力の有無よりも、ただそこに居るだけでありがたい、そういう存在なのだと思う。
それはずっと世話役の王子から、アステラが言われてきた事だった。
「奇跡は人の手で起こせないから、多分、奇跡って言うんですよ」
それでもああして、この国で楽しく生きている人達がいて。
「聖女が自分達のために祈っている」ということが、少しでも彼らの幸福のよすがであるのなら。
アステラが、この国で祈っていた意味はきっとあったのだ。
自分にも聖女としての功績があるとしたら。
アステラのそれは全て、あの店に詰まっている。
「その力は、この国を去っても発現するのだろうか?」
「…どう、でしょう、何せ国を出たことがないので」
そんなこと考えたこともなかった。
そもそも、次代が見つかった今、自分がまだ聖女なのかどうかもよく分からない。
「私の国は雨が少ないのだ。行く宛がないなら、来て貰えないだろうか」
なるほど、彼がこの仕事を受けたのはその為だったのだろう。
女を一人、国境に捨ててくるなんて、こんな旨味のない面倒な仕事を、よく引き受けたものだと思っていたのだった。
途中で売り払われるくらいはあり得ると、少しばかり思っていた。
「でも、降らないかもしれないですよ」
「構わない。…奇跡に縋りたいくらいには困っているんだ」
軽い口調で話しているようなのは、アステラへの気遣いかもしれない。
端正な顔に寄った眉間の皺が、本当の苦悩を物語っているようだった。
「長年の役目を終えた君から、また自由を奪うことになってしまい申し訳ないが」
そんな事を言われたのは初めてで、少し驚いた。
確かに今のアステラは自由になったのだろう。
国外に行くことも出来るし、一日中祈りを捧げる必要も無い。
けれど、
「聖女が特別、不自由だったとは思ってないですよ。だって皆同じでしょう?どこかの場所で、自分ができることで働いて、そうやって生きてる」
自由な冒険者から、一つ所に留まる事を選んだマールが、不自由になったようには見えない。
誰だって、生きて行く為に、同じ場所に留まることも、やりたくも無い仕事をすることだってあるだろう。
だから自分も、ただ生きる為に働いてきたに過ぎないのだ。
それがちょっと特殊な、アステラにしかできない仕事だったというだけで。
「だから新しい働き口だと思えば、有り難いくらい。まぁできれば、お給料がもらえるなら嬉しいけど」
その場合はやはり、成功報酬になるのだろうか。
貯金がない自分には、当面の生活を支える別な仕事も必要になるかもしれない。
ジアードの眉間に寄った皺の深さが、一段階上がった気がする。
大きく、溜め息のような息を吐いてから、長い前髪をかき上げて、その美しい顔が顕になる。
そのまま真っ直ぐにアステラの顔を見つめて、
「約束しよう、ジアード・ディエ・エルシャハルの名にかけて。アステラの働きに見合うものを用意する。例え雨が降らなくても、住む所と新しい仕事の世話もしよう」
「…ありがとう。でも、いいの?」
「俺はなアステラ」
急にガラリと、それまでの端正な雰囲気が変わって、野生の獣のような気配を帯びる。
ニヤリと笑うその顔は、きっとそちらが素なのだろう、恐ろしい程に似合っている。
「人の働きに、正当な評価をしない奴が嫌いなのだよ」
アステラの了承を得られたからには急ぎたいと、何処からか現れた黒い馬の前に座らされ、後ろから抱えられながら、初心者には些か強烈な速度で駆ける馬上で、揺れる脳みそで思い出す。
あの名は、西の大国の名だったような気がするなと。




