再び、その名を
6
空を見上げ、大きく息を吐いた。身勝手な思想がぶつかり合う地上と異なり、上空はあくまで澄み切っている。戦場を旋回し続ける鷹がいつの間にか三匹に増えている。人物を喩える時、鷹は孤独を好み、価値観の異なる生き物として表される。あの人は鷹だったのだろうかと、トオワはいなくなった大隊長のことを思った。
「トオワさん。大丈夫でしょうか?」
「え?」 と、我に返ったトオワは聞き返した。よほど気の抜けた顔をしていたのだろう、サーカの片方の眉がつりあがる。
途中でサーカの隊と合流して、真穿本隊を救いに行く途中だった。ガデロ隊の襲撃を受けて、真穿は、いやバイローは早々に退却している。追いすがるガデロの背後を突いてやる。そう思って追いかけていた所だ。
「ああ。平気だ」 と答えるが、平気ではなかった。
頭の中では、先ほど受けたトゼツ憤死の報せが駆け巡っている。トラルを助けられなかった己の無力さが心を苛んでいる。考えまいとしても、彼らの最後の姿が思い浮かんで来てしまう。
「いえ、貴方の体調を聞いているのではないですよ」
ああ、と頷いて、「何とかする」とトオワは言った。
「そうは思えないんですよ。ほら」 とサーカは指差す。その先を見て、トオワは苦境に追い込まれつつあると悟った。真穿がガデロ隊により粉砕されるまで時間の問題だった。
「だから、言ったんですよ。駄目だなぁ。皆、好き勝手に何やっているんだ?」 とサーカは肩をすくめる。
「……トラル、それから、トゼツは、死んだ」
「ああ、死にましたか。戦の中でなら、本望でしょうね」
「おい、サーカ! その言葉は取り消せ」
「おぉ……?」 と、サーカは大げさに驚いてみせる。「どうしたのです? あんなに反目しあったのに。やっと口うるさい奴が消えたって言うのに」
「そうだ。口うるさい奴だった。だがサーカ、今はお前の方が、―――煩い」
温厚なトオワらしからぬ物言いに、サーカは怪訝そうな顔をした。
「……本当に、大丈夫ですか?」
トオワは、無言で返した。その頑な顔を、サーカはじっと観察していた。
「後ろ、来ていますよ」 と、唐突にサーカは言う。それから、数歩後退した。
トオワは、何のことだろうと戸惑った。それから、はっとなって振り返る。すぐ目の前に統士が一人、迫ってきていた。
向こうの方が勢い付いていた。今から助走無しにぶつかっても、跳ね返される。一か八かと、トオワは敵に向かって転びこむ。懐を掻い潜って、敵をやり過ごす。
すかさず跳ね起きて、向き直る。斬り返そうとして、腕の反応が鈍くなっていることに気付く。ぞっとするが、構わず強引に攻撃に出る。
敵の腕は大したことがなかったが、すれ違った際にトオワも傷を受けていた。ギリギリの戦いに冷や冷やしながらも、なんとか打ち倒すことに成功した。
「いけませんねぇ」 とサーカが不機嫌そうに言う。珍しい声色だったが、トオワはそのことにも気付いていない。
もうここは駄目か。聞き取れるか否かほどの声だったが、サーカがそう呟いたのが分かった。トオワは、構う気力も無くしていた。
サーカは、急に不自然なほどの笑顔で、分かりました、と言った。
「私がガデロの気を引きます。その隙に、トオワさんは大隊長の所へ」
「ああ……」 と力ない声でトオワは答える。
それから彼は、ガデロの気を引くために仕掛けに行くと見せかけて、少し離れた所で向きを変えた。逃げに転じたように見えるサーカの動きを知りつつも、トオワは何も行動を起こさなかった。
「隊長、まずいです」 と配下が悲痛な声で言う。一拍遅れて、トオワは顔を上げる。
「セイ・靭の部隊が、こちらに向かっています。もう、すぐそこです!」
ガデロを背後から突こうとする部隊を察し、またもセイ隊が仕掛けてきたようだ。この分だと、近付いた所でガデロが反転して、こちらが挟み撃ちにされてしまうこともありえそうだ。
「トオワ様! 敵が!」 との声に反応して、トオワはゆっくりと向き直ろうとした。もう聞いた。だが、今更どうしようもない、と投げやりに答えようとした。
だが、さらに、「違う! 貴方のすぐ側に!」と、警告が続いた。
振り向く途中で、右から槍を構えた統士が迫っている事に気付いた。さらに、すぐ背後にも人の気配を感じた。隊の話ではなく、自分が狙われていたのだ。
前後同時に相手はできない。
避けねば。
右、左? 一か八か、どちらに飛ぶ? だが、それは明らかに敵の予想していることだ。
「くっ……!」
鋭く息を吐いて、トオワは自ら後方に飛んだ。意表を突かれたか、背後の敵はトオワの体当たりをまともに受けた。それからすかさず横に転がり、トオワは二人の間から抜け出た。
逃がすまいとして、二本の槍が追いすがってくる。トオワはそれを、辛うじて避けた。周囲の部下は、それぞれ自分の敵で精一杯だ。ここは何とか一人で乗り越えないといけない。
どうする? 不利と知りつつ闘うか? しかし、疲労からか精神的衝撃からか、思考が鈍っている。それは体にも影響している。先ほどかすり傷を負ったように、全然思い通りに動けない。とても勝ち目は無い。ならば逃げるか? 隊長としての威厳など忘れて、命を守ろうとするか。
こんな時、とトオワは父の姿を思い出そうとした。あの人なら、どうするだろう。迅家の者なら、こういう事態には、と考える。
だが、少し前までは、はっきり像を結んでいた父の背中が、今ではおぼろげにしか思い起こせない。緊迫状況だからだろうか、いや、前はそうではなかった。代わりに、強く印象に残っている背中が、やけに頼もしく思える。
二人がじりじりと迫ってくる。手負いと知りつつも、油断していないようだ。
「……トゼツ、貴方ならどうする?」 と、トオワは口にした。それから、「ふん、言うまでもない」 とトゼツの口調を真似て言った。
トオワは背筋を伸ばし、敵を睨み付ける。
「来いっ! 俺は只ではやられんぞ。道連れを十人は選ぶ!」
雄叫びを上げて、槍が繰り出されてくる。最初の突きは、両方とも避けきった。連携もせず、各自突き出してくるだけ。大した腕ではない。避ける事は可能だが、さすがに体勢が乱れて、反撃する余力はない。それでも、トオワは何度も繰り出された槍をかわし続けた。
「どうした、そんなものか!」
トゼツを真似て、挑発してみた。焦って、反撃の隙を与えてくれないかと思っての事だが、不慣れな挑発は裏目に出た。
かわしたと思った槍が、引き戻されず、力任せに横に振られた。柄の一撃を肩に当てられ、踏ん張り切れずにトオワは弾き飛ばされた。
急いで顔を上げる。
目の前、一人、だ。無理な動作でへし折れた槍を捨て、小刀で刺そうとしてくる。
辛うじて、その一撃を受けた。だが、それで手一杯。押し返そうとして、動けなくなった。
もう一人も駆け寄ってきている。トオワを狙って、槍を突き出そうとしている。
―――これで、終わりか。思わずトオワの心に諦めが入った時。
「させぬ!」 と、気合の入った声がした。
閃光が煌めく様に、一撃また一撃と、鋭い斬撃が空を走った。
トオワに止めを刺さそうとしていた槍は半ばで切り取られ、次いで、トオワに圧し掛かっていた男にも一撃。
二人の統士は力を失い、倒れこんだ。視界が開けたその先に、一人の男がいるのが見えた。その手に持った長剣は、新調したばかりのように真新しいものだった。
「まさか、こんなことが……」
こんな事が起こりうるのか。トオワは我が目を疑った。
「サイト・成!」
トオワは、目の前に立つ男の名を叫んだ。同時に、自分がいかにその名を呼びたく思っていたかを知った。