毒か薬か
5
サイトは、草原の焼け跡へと向かった。もう二度と思い出したくは無いが、それでも今見ておくべきだという思いがあった。
もう二度と、繰り返さないと、己に誓わせるために。
一面黒く擦れてしまった焼け跡では、アヌンの民が集って、幾つか人の輪を作っていた。アヌンにも水の素を崇拝する者もいるようで、火の暴走をこれ以上起こさせないための儀式を執り行っているようだ。
即席の炉の周りを数人で囲み、火の素の対となる水を順番にかけていく。いきなり全部は消さずに、周囲から、少しづつ勢いを削いで行く。周囲が湿り、燃え広がる余地が無くなった所で、残った火を始末する。
通常は、足で踏んで揉み消す事が多い。そして、火は消えたが人は残っている、ということを示して終わる。こうして優劣を示し、今後ここでまた火の暴挙が繰り返されないように願をかけるのだ。
または、物の素を大事にする者ならば、砂をかけて消すというように、崇める素によって消し方は異なっている。バトウが幅を利かせる町にあって水の素は少数派だろうから、大火を不吉として、周辺の集落からもやって来ているようだ。
今は、足ではなく、直に手の平で押し消している人が多い。人の手で滅したいという意志なのだろう。苦しげな顔をして手の平を押し付けたり、泣きながら何度も拳を叩きつけたりしている人もいる。我が身の痛みよりも、親しき人を奪った火が許せないのだ。
輪から少し離れて、一人嗚咽を漏らし続けている女がいた。家族か誰かを亡くしたのだろうが、輪には入れてもらえなかったようだ。もしかしたら、バトウ信者なのかもしれない。
その女は膝を折り、灰を掴んで、なにやら恨み言を言っている。悲しみをぶつける背中を見ていると、サイトは複雑な気分になった。
親しき者を炎に蹂躙された姿に、深い同情の念と共感が沸いてくる。かつてサイトは同じようにしてトイトル・韻を失った。見ているだけで胸が痛ましい。ただサイトは、女に声をかけることはしなかった。
亡くなったのは統士だ。彼らは、自分達がこうなる可能性を無視して、火を遣ったのだ。その結果、敵ではなく自分達にも炎が襲い掛かっただけだ。
彼らは何度も見てきたはずだ。火という不可侵であるべきものに対すれば、人など所詮燃えやすい物の素の塊にすぎず、抗う術などない。それを承知の上で、火という狂気にすがり、何人もの尊厳を灰にしてきたのだ。他人の死を見ておきながら、それが自分達の未来にもあると想像しなかった。その傲慢が現状を呼んだ、とも言える。
サイトの背後に、そっと忍び寄ってきた者がいた。
「冗談に付き合う気分ではないぞ」 低い声で、サイトは言った。
察知された事に驚いていたようだが、それでもサーカ・狸は澄ました顔で言った。
「いえいえ、とんでもない。ただ、重大な事を、聞いたものですから。一刻も早く、御耳に入れようとするあまり、配慮が欠けてしまいました」
「重大な、事か……」と、目の前の惨状を見ながらサイトは呟いた。
面倒ごとを増やす気分ではなかった。だが、隊を預かる身としては、いつまでも虚脱している訳にはいかない。
「聞こう」
サーカは、その話をクウー・骸から仕入れたという。
炎の包囲網を突き抜けた後、森をぐるりと大回りして、クウーは本隊との合流を果たした。さすがに火傷は避けられず、今は他所で治療を受けている。そんなクウーを捕まえて、サーカは武勇伝を聞き出そうとしたらしい。
只でさえ人一倍の無愛想なのに、負傷とこの事態で、極めて機嫌が悪かったはずだ。その彼に話しかけ、情報を得ようとするとは、大した度胸だと、サイトは呆れた。
「勘ですよ。機嫌が悪そうだから、何か良くない物を腹に収めたんだろうと思いまして」
サーカの読みは正しく、クウーは意外な物を目撃していた。
クウーは、偶然、ある人物が敵と密会している様子を見たと言うのだ。聞き終わり、サイトは直ちにリェンを連れてくるように命じた。
*
「どうか、しましたか?」 と、首を傾げてリェンは言う。隊長格が居並ぶ前に連れてこられても動じた様子はない。「火傷の治療で忙しいので、あまり、時間は取れません」
「そうか。悪いな。お前の薬の知識がなければ困っていた所だ」 と労わるような声でトオワは言う。
「―――薬だと、良いがな。毒、ではなくて―――」 と、脇からトゼツの辛辣な言葉が投げかけられる。
「どういう、意味でしょう」 と、軽く眉を寄せてリェンは言う。
「薬に詳しいということは、つまり、毒にも精通しているというじゃないか。気をつけてくれよ。毒は御免だ」
トゼツの言葉通り、リェンは薬の知識を持っており、さらに、古今東西の毒に対しても知識は深い。
「トゼツ。リェンがいなければ、火傷の被害はもっと甚大だった。その事では、とやかく言わずに」 と、トオワが咎める。
トゼツは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「リェン、聞きたいことがある」 と、サイトは固い声で言った。
「はい」 と答えたリェンは、次に続いた言葉で凍りついた。
「敵の策士、ホウヴ・峰。お前は、あの女と通じているな?」
「―――それは」 リェンは平静を装っているが、声が微かに擦れている。
「お前は、我々を裏切ったのか?」
「そ! そんな滅相もない。確かに、ホウヴとは、浅からぬ縁がある。ですが……!」
「話せ。全てを、だ」 サイトは短く言った。
「……分かりました。黙っていて、申し訳ない」
そしてリェンは語った。
テイ・漂の助言役、ホウヴ。彼女の戦略は瑗の策師カク・源のそれを思い起こさせる。わざと逃げ道を残して置き、そこに誘い込み、希望を断つ。今回の火計も、それと通じるものがあると、サイトは感じていた。
それは筋違いの発想ではなく、ホウヴは、ゲンカクの門弟だった男ラヌ・峯の妻だった。ラヌは同郷の友人であり、その縁を通じてリェンはホウヴと知り合っていた。
リェンはホウヴに心惹かれたが、その頃には彼女はすでにラヌと婚姻を決めていた。リェンも本気だったが、男らしく手を引いて、友人の将来を祝福した。
その際、決してホウヴを手放してはならない、彼女を守りきれ、とラヌに誓わせていた。
ところが、ラヌは策戦を数度も失敗し、信頼を失ってしまう。瑗にいられなくなり、ラヌとホウヴは流れ流れて、河津の西果て、アヌンまで辿り着いた。そこでテイ・漂の庇護を受けて、ようやく居場所を得た。そこまではリェンも知っていた。
同じく瑗を出奔していたリェンの元へ、一度ラヌが密かに訪ねてきた事があった。もし、アヌンで自分の身に何か有った時は、ホウヴを救ってやってくれと頼まれた。
テイ・漂からは客分として接してもらっているが、狂信的なジバ信者からは疎まれているという。何かが起こる予感がしていたらしく、実際、アヌンに戻ってしばらくして、ラヌは抹殺されてしまう。
今後はリェンを頼れとラヌは言い残していたが、ホウヴは夫の最後の言葉を聞かなかった。あくまで、自分達を迎えてくれた恩義あるテイ・漂の為に働こうとした。
夫より手ほどきを受けていたホウヴは頭角を現し、テイ・漂の片腕までのし上がっていた。
リェンは、火災の混乱に乗じてホウヴに接近し、最後の説得を試みた。お前を守る事をラヌから託された、お前と敵対したくなどない、すぐにアヌンから手を引け、と。
ホウヴは頷かなかった。リェンの必死の説得にも動じず、テイ・漂のために命を捨てる覚悟もあると、言い切った。リェンと殺し合うことも躊躇わない、とも。
彼女は一度決めたらその意志を翻すことは困難だと承知していたため、リェンは已む無く説得を止めた。
サイトは一度ため息をついて、それから口を開いた。
「それで、もう諦めが付いたのか」
リェンは、決心して言う。
「もう充分、言葉は尽くしました。彼女は彼女の意思で、私に牙を向くのだと言う。ならばもう、私にはどうしようもありません」
「では、どうする? あの女は敵としてお前の前に立つだろう。その時、命を奪えるのか?」
「……敵として立つなら、例外はありません」
「信用できん」 と、トゼツが吐き捨てる。
「トゼツ、決めるのは成様だ」 と、トオワが言い返す。
「何故、最初に言わなかったのですか?」 と、邪気のなさそうな顔をしてサーカが問う。リェンの顔が歪むのを見て、サーカは言う。「あ。そうか。たとえば、知人ということを悪用されるかもしれないから、か。説得と言う名目で彼女を呼び出して、で、罠にかける、等等ね。おお、悪いねぇ、悪いねぇ。人でなしだ」
「彼女がとっくに覚悟を決めており、いきなり私を、我々を嵌めるかもしれない。そう危惧して、一人で、会いに行きました」
「……なるほど」 と、サイトは頷きもせずに言った。「その話、信じる根拠はないな。過去の関係は真実かもしれないが、今は分からない。叛意を促していたのではないという可能性は高い。かつて愛した女を救うために、こちらを、裏切っていたかもしれない」
「そうだ! きっと、こいつが我々の情報を流していた。だから、こうも準備万端で……」 と、トゼツが熱くなる。今にも立ち上がってリェンに詰め寄りそうなのを手で制して、サイトは言う。
「リェン。お前には随分世話になってきた。瑗からここまで付いてきてくれたこと、感謝している。だが、それとこれは別だ。分かるな?」
「ええ……」
「今回の戦闘からは外れてもらう。それと、逃亡の懸念があるため、拘束させてもらう」
以上だ、とサイトは断じて言った。