晴れのち
2
険しい道程を越えて、切り通しを抜けた先にあるわずかな平地にアヌンはある。土地は豊かだが、周りは山で狭い。耕地など広げられる範囲にも限度がある。また、そこから山を越えても、南部の栄えている地域までは易しくない道程が繰り返されるため、東の街道に比べて人の往来は少ない。
かつて綜との争いがあった際に、この街も襲来に備えて防御が固められた。だが、河津本国からも重要度は低く見られ、その内、他国から流れてきた者や異教の輩が流れ着くようになった。挙げ句のはてに、この地はバトウ信者の溜まり場となってしまっていた。
アヌン自体は忘れかけられた土地ゆえに、護士はそう多くはなく、実戦慣れもしていないはず。斥候からは、使用されていない防護壁は脆く崩れ行き、所々で破損しているという報告があがっている。構造自体も昔のままで、時代遅れの遺物といえた。アヌンの護士はこちらと同程度と見積もられていたが、個々の武力差を考慮すると、一大隊での陥落も難しい話ではない。この程度の砦なら真穿は綜国内で幾つも打破してきた経験がある。
だが、その見込みは甘く、サイトにとって、これほど恐ろしい闘いは体験したことがなかった。
*
アヌン守団とは、街の手前の草原で対峙した。ここ数日、からりとした天気が続き、気持ちの良い青空の下の遭遇だった。短い夏の間に精一杯背伸びしようとして、膝下まで伸びた雑草が、涼やかな音を立てていた。冬に凍りつき、解けた後もじめじめとした湿地なのであろう所も乾燥しきっていた。
アヌン守団は、街を囲む森へと続く緩やかな坂道の、少し右よりの位置に布陣していた。防御すべき街道を中途半端に塞ぐというおかしな配置ではあるが、そこが周囲で一番小高くなっている場所で、少しでもこちらを見下ろそうとする意図かと思われた。
敵布陣を確認後、真穿は部隊を展開して、すぐに戦闘の準備を整えた。
その中で、サイトは二つ気になることがあった。
一つは、完全に真穿を迎え撃つ準備ができていた事。しかも守団は、アヌンの護士だけではない。一応は河津の街なので、本国から派遣されていた統士もいたかもしれないが、この規模はそれに留まらない。一大隊分は増えている。
綜の攻団の本体は真っ直ぐ南下しており、主眼はそこにあると思わせているが、エンイを狙ってくる事を考慮して増員しておいたのかもしれない。ただ、テイスグが南下を始め、真穿が別行動を始める前の段階では確認されていないので、その後で増員されていたことになる。真穿が出発するのと同時期に動き始めていては、このような僻地だと間に合わない。まるで、こちらの動きを事前に知って、待ち構えていたともとれる、嫌な感じであった。
さらに気になる事は、敵陣の様子であった。その中心には盛大にかがり火が灯されている。戦闘前に儀式らしきものが執り行われ、ジバに勝利を祈願していた。
その本陣にいて、統士たちに指示を飛ばしている男がいる。縮れた黒髪、がっしりした体躯に、浅黒い肌をしている。武装の上からバトウ信者特有の深い紅色の衣を羽織っている。街に潜行していた斥候より聞いた容姿と一致したため、彼がアヌン守団を仕切るテイ・漂だと思われた。
テイ・漂は、エンイ・慧に次ぐ実力者で、元は南西の果てにあった古オウ国の統治者の子孫であるらしい。彼もまた、バトウを主とする炎の信徒である。過激な火の使用を奨励するという噂もあった。
そのテイの側には、女がいた。ふくよかで、機敏な動きができそうには見えず、戦場には不釣合いな印象を受ける。横幅もあるテイと並んでいると、よく似た体型から彼の娘か何かと思えるほどだ。
彼女が姿を見せた時、「変わったな」 とリェンが小さく謎の言葉を漏らした。その時、リェンはとても青ざめた顔をしていた。酷く重大な失敗をしてしまったと気付いたかのような、そんな顔をしていた。戦場にあっても、何事があっても動じず対応してきた彼にしては珍しい表情だった。
戦闘前に、クウー・骸がサイトの元にやってきた。「森が擦れている」 と、クウーは顎をいじりながら言う。クウーは、山地域出身で、かつて猟師をしていたこともある。その彼が何かあると言うなら、きっと見逃せない重大な意味がある。そう危惧したサイトは先を促した。
「やつら、何故街から出てきた? ここから見るだけでも、あいつらの程度の低さが分かる。動きを見れば、鍛えられているかどうか分かるだろう? それなのに、こんな平地に出張ってきやがった。これは、何かある」
「罠、だろうか?」
「落とし穴などの仕掛けをしたのなら、もう少しその痕跡が残っている。俺の目から見れば、未踏の地と一度人が踏み入った地とで、明らかに差が分かる。ここいらには、そうした痕跡がない。綺麗なものだ。何かをした様子はない」
「不慣れなので、闘いやすい所を押さえておこうとした?」
「それは、ある。ただ、やけに急いでいないか?」
「あぁ、確かに」
「まるで、闘う時は今でないとならない、そう急いているようだ」
「補給の当てがないから短期決戦に逸ったか?」
「さぁな。ただ、どうにも気の様子が気になる。ハヴが少なく、ジがピリピリしてやがる。この土地自体に歓迎されていないような、嫌な感じだ」
この日は特に乾燥していた。途中、住民に問いかけた所、天候の移り具合からして、もう数日もすれば雨があるだろうと聞いていた。ちょうどアヌン到着がその時分だったはずだ。まさか、闘うなら条件の良い晴天で、などという理由で出張ってきたわけではあるまい。今、決戦をしかけようとした訳。何かある。
「後は、お前が考えろ。俺はもう、手を動かすだけだ」 と煩わしそうに言って、クウーは去っていった。
サイトの心配をよそに、戦闘が開始された。アヌンの統士は、武装は簡素で、個々の武力も低かった。鍛えられた武人というより、少し腕の立つ素人といった程度でしかない。こちらは遠方よりやってきた為、少なからず疲労が蓄積しており、普段どおりの実力発揮とはいかない。それでも、数の不利をものともせず、真穿は優勢に立っていた。
アヌン守団は、じりじりと後退して、背後の森へと遁走し始めた。こちらの目的は手透きになった街道を通り抜けることである。街への侵攻阻害という主旨を放棄しているアヌンの護士達は、もはや戦意がないのかと思われた。
サイトは、森へ追撃する部隊と、進路の先を確保する部隊とを編成した。真穿の中にも森などでの戦闘に慣れた部族もいる。そうした者たちに追撃を命じた。ただし、深追いせず、こちらが街道を抜けるまでの牽制に留めるようにと、クウー・骸に釘を刺しておいた。
先行して街道を確保する部隊は、すぐに戻って来られるように、足の速い者たちで構成した。そうして本陣を少しずつ前進させていった。
*
「どうした?」と、サイトは緊張していた。普段後方にいてあまり前に出てこないジルが、わざわざ何かを言いに来たのだから、よほど気になることがあるのだろう。
「嫌な、予感がする」 とジルは言う。「あの女。侮ってはいけない」
「あの女? ……敵陣にいた女か? 誰なんだ、あれは?」
ジルは眉をしかめつつ、どこか納得した顔をした。
「聞いていないのだな。あいつ、やはり……」
「どういうことだ? 誰か、知っている者がいるのか?」 とサイトは問い掛けるが、その答えを得ることはできなかった。事態が動いたと、知らせが入ったからだ。
「成様! やつら、本格的に退いて行きます!」
見ると、アヌン本陣が背後の森へと消えていく所だった。街道の方は完全に放棄するつもりらしい。その無防備な背を追って、追撃の命を下したものたちが勢いよく駆けて行く。足が速すぎると、サイトは心配になった。
「トオワ! 深く追うな!」
頷いて、トオワが駆けて行く。サイトたちも、本陣を街道へと前進させる。その途中で、ジルに先ほどの続きを問い質そうとするが、すでに彼女は側にいなかった。
「成様!」 と、遠くから声がする。振り返ると、丘の上まで辿り着いたトオワが叫んでいた。
「まずいです! 今すぐ退いてください!」 と大きく手を振っている。
そこへ、森の中から突然矢が降ってきた。彼の意識はサイトの方へと向いているため、無防備な背中目がけて矢が迫る。
「トオワ! 前だ!」 とサイトは叫ぶ。自らも剣を抜いて、前線へと駆けつけようとする。
「この程度でっ!」 と、トオワは振り向き、矢を叩き落す。幸運なことに、矢に勢いが全然なかった。その弱さは、妙な違和感を憶えさせるほどだった。しかし、初動が遅れたため、一本の矢がトオワの腕を掠める。思わず膝をつき、痛みに身を強張らせた。
殺傷力は低いものの、トオワをはじめ、多くの者の足が止まっていた。上空の危険を避け、慌てて森に逃げ込む者もいた。
「今行く!」 と言って、サイトは近寄ろうとした。
「駄目です。やつら、使う気です。あれをっ!」
「まさか……」 とサイトは険しい表情になった。「本気であれを人に向けるのか?」
肌で感じられるほど、乾燥した空気。水の素の少ないカサカサした森の状態。わざわざ前進してきた意味。数日後の降雨を避けて、青天を選んだ意図。
火。その天敵は水。
炎。それを崇め、使用するのが、バトウ。
やつらの戦術。伝え聞いた悪行。
かつて目にしたではないか。人が、焼かれる様を。
それは、誰の行いだったか? これから何が行なわれるのか?
「後退!」 と、サイトは叫んだ。「森から出ろ! 火が放たれるぞ!」
普段取り乱す事ない大隊長の動揺ぶりに、部下達は事態の深刻さを察した。
その混乱を待ち受けていたかのように、森に向けて大量の矢が殺到してきた。その全てに炎が宿っていた。あっという間に、炎に接触したものがあちこちで燃え上がり始めた。
「このままだと火に巻かれる! リェン、火を消す手配を!」 とサイトは振り返るが、彼は所定の配置にいなかった。
配下達だけが残されていたが、青い顔をして走り去って行った隊長の行方を知る者はいなかった。