消えない思い
8
トイトルの仇を討ちたいという気持ちは、サイトの中に確かにある。それよりも、非力な己が彼女の死を導いたという自責の念が強い。実際は、彼女の死は不運な出来事であり、そこにサイトは関知していない。だが、少年サイトはそう思わなかった。
―――守れなかった。あの時は、守れなかった。では、今は? 今なら、誰も命を落とすことなく、周囲の者を守れるか?
―――いや、それもムリだ。死は圧倒的に無慈悲で、人は時にふらりと自らそちらに倒れこむ。
―――ではどうする? あの時と同じように、ただ、死を見つめるだけか?
―――否。吹き荒れる死の風は止められない。死そのものを無くすことはできない。ならばせめて、自分の背後にいる者だけは守ろう。人一人分と僅かな空間だが、この身を呈して、死との境界を作ろう。
トイトルを失った悲しみと、炎への恐怖、バトウへの憎しみを共有したのは、シアンとソンヴだけだ。中でもシアンは、一時性格が荒れるほどの衝撃を受けていた。
落ち着いた頃、俺は決めたのだと、サイトは宣誓した。シアンもソンヴも、俺が守る、こんな思いは二度とさせない、と。それを聞いたシアンはすぐに言った。それでは狭い―――、と。
その時と同じように、シアンは今、親友に向けて熱を込めた言葉を口にする。
「お前が身を張っても、守れるものは高が知れている。手を伸ばして、どこもどれもと救えれば良いが、全部は不可能だろう。ならば、こう考えよう。お前の影を増やせ。お前はもっと大きな者になれ。そうすれば、お前の背後に守れる者はもっと増える」
「……大きな者?」
「そうだ。お前は身を張ってお前の部下を守れ。そしてお前とお前の部下とで、この国を守れ。そして、お前とお前の民で、厄災から島を守れ」
「島を……?」 と、サイトは戸惑った。
「とてつもない話に聞こえるだろう。だが、お前はそのくらいの器を持っている。聞いているんだろう? お前には生まれ持った定めがあると」
定めと聞いて、サイトは沈痛な顔をして応えた。
「……クブ・トーの予言か。あの話は、もう聞きたくない」
「ダロル・シン。真の中の真・太真が、近々現れる。その時お前は、民を統べる者を支える定めを持つ―――。確かに、世迷い事に聞こえるが―――」
サイトがまだ子供の頃、樹真クブ・トーを崇める祗官たちにより、そう予言されたと聞いている。彼ら木輪教徒は、時として気宇壮大な事を言い出すこともあり、大衆にそれほど受け入れられている訳ではない。サイトの相を見極め、そう予言したとき、周りにいた者達は一様に苦笑いしたという。
未来のダロル・シンと予言され、その気になって国を引っ掻き回し、破滅の途に付いた者は多い。これまでに実現した例がないのに、この予言をありがたく受け入れろというのは無理な話だった。予言を受けた父も、やはり無言でクブ・トー教徒達を追い出したらしい。
「父はそれを信じず、それどころか、恥をかかせた俺を家の外へ放り出した」
「違うよ、サイト」とシアンは、首を振って言った。「俺が思うに、親父さんは信じたんだ。それも、誰よりも深く」
親友が何を言い出したのかと、サイトは訝った。シアンはさらに熱心に言葉を継いだ。
「信じたからこそ、きっと、恐れたんだ。だって、世界を統べる真だよ。つまり、他の真すべてを従えるということだ。もちろん、真は誰もが国の要となる者ばかり、彼らがすんなり受け入れるはずがない。最悪、全土を巻き込んでの大戦争が生じる。さらにまずいのは、そこまで
しても、首尾よくダロル・シンとなれるとは限らない。途中で候補が死んでしまい、戦乱で国土が滅茶苦茶になるだけ、かもしれない。あるいは、ダロル・シンが暴君で、全ての民が苦しむかもしれない……」
「それは、そうかもしれないが」
「いや、きっとそうなる。仮に本物だとしても、暴君にならぬよう戒めるとしても、そこまで導くにはきっと、命懸けの苦労が続く。そんな博打をさせるくらいなら、今のままが良い。最初からそんな改革の子なんていない方がいい。君もまた、戦乱に巻き込まれず、穏やかに暮していて欲しいと、親父さんは思ったんじゃないか」
サイトは一瞬黙り込み、そして顔を背けて言った。
「……父が、そう言った訳じゃない。それは、お前の解釈だろう」
「確かに。でも君には秘めた何かがある。出自なんかは関係なく、現状を切り開いていける力がある。それは、親父さんも承知で、それで彼は思ったんだ。君ならきっと、戦で功を成す。上手くいけば、真と深く関わるまでに。そうなれば、本当に真の元で何を仕出かすか分からない。そういう未来を、恐れたんだ」
「……考えすぎだ」 と、会話を断ち切るように、サイトは言い切った。
サイトは父から将来を問われた時、自分の才能を生かす場所として『統』分以外はありえないと答えたことがある。それなのに、統士を育成する仕事に就いていたサイトの父は、それは許さないとした。
『支』の中で生きて行くはずだったが、リンズ・楼率いる特殊部隊に見出されたのは、運命だったのかもしれない。
そんなサイトを見て、『支』分として生きたいと願っていたシアンもまた、『統』分へと転属して、戦場に身を投じた。微力ながらも、サイトの力となれる日が来ると信じて。
「……今度、アヌンに行く」と、サイトは言った。
「アヌン? ああ、お前が行く事になったのか」
「聞いているのか」と、サイトはシアンの顔を見た。
「テイスグ様が悩んでおられたのでな」とシアンは言う。「ある苦渋の決断を迫られている。それを回避する術はないかと、心を痛めていた」
「テイスグ様が……」
「何を悩まれているかは言えない。策戦上の話だからな」
同じ統分といえども、漏らせない情報もある。シアンはテイスグから信用されている。
「ただ、アヌンの件は俺も他人事ではない。なぜなら、俺が進言したからだ。彼に語ってもらえば、戦を終わりにできるかもしれない。その彼がいるとされるアヌンを押さえるべきだと」
「お前だったのか」とサイトは驚いた。「エンイ・彗がアヌンにいると、上に告げたのは―――」
河津が先代クスル・青の暗殺を指示したのではないか、そういう疑惑があった。一度は否定されたが、再び持ち上がって、今回の火種となった。
エンイ・彗は、クスル暗殺の首謀者ではないかと疑われた一人である。確証は無く、姿を眩ましていたが、最近、その彼が河津領土にいるという話が出てきた。
エンイは、たまたま河津に逃れていたのかもしれないが、そうではなく、綜真暗殺の功を称え、取り立てられたかもしれない。そう考え、詳しい居所を探ろうとしていた。
ただ、そうした疑いをもったというだけで、河津に対する良からぬ考えがあると曲解され、モウ・牙は激怒し、今に至っている。
「アヌンにいると、どうやって場所を特定したんだ?」
「統士だって、なにも皆が皆、頭の中まで筋肉で出来ているわけじゃない。人と仲良くなるのが得意な奴だっている。耳の良い友達だっている」
どうやら、統分の外交士か、支分の廻人辺りに話を付け、情報を仕入れてきたようである。相当な対価を払えたのは、実家のお陰のようで、シアンは詳しく話さなかった。
「こちらも、テイスグ様が攻団を進める。ただ、河津領土を奪いたい訳じゃない。あくまで情報の真偽を確かめるまでの時間稼ぎだ」
「どうだかわからないぞ。実際無実かもしれない」
「それなら、それで良いんだ。その方が良いに決まっている」
彼に直接真偽を問い質せば、状況が変わる。彼が素直に認めれば、モウ・牙も態度を変えざるを得ない。逆に、エンイが関与を否定すれば、それは仕方がない。素直に詫びて和解の道を探ることになる。
どちらにせよ、このまま放っておけば双方折れず、戦は拡大し、もし統国軍を形成されれば、片方が滅びるまで闘うことになる。
―――アヌンに赴き、エンイに真実を問い質せ。それが、サイトら真穿大隊に新たに与えられた任務だ。その重大さと、アヌンという場所で待ち受けるであろう事態を思うと、サイトは気が重くなる。
「サイト、俺達はさ」
来るべき闘いから気持ちを切り替え、おう、とサイトは応えた。
「立ち止まっている場合でもない。進み続ける。だよな?」
そう言って、シアンは深く息を吐いた。サイトが顔を覗き込むと、いつもより暗い目をしているように思えた。
「あぁ。火の粉が降りかかれば、すべて払ってやるさ」
「俺達が勝ったとして、その後は、どうなる?」と、シアンは途方に暮れたように言った。
「その後……?」
「勝って良いものだろうか。信じても良いものだろうかと、どうしても思ってしまう」
「信じる? 何を?」
親友が何を悩んでいるか図りかねて、サイトは問いただした。けれどもシアンは、やや苛立ったように首を振った。
何か葛藤を抱えているようだが、サイトにも言えないようだ。
無言でやり取りしているかのように、シアンはじっとトイトルの墓を見つめ続けていた。