無我として
6
通りに沿って、寒風が吹き抜けていく。外気に触れている部分が、あっという間に冷えて固まる。
静かなものだった。かつて国の中心地であり、真まで登りつめた者を輩出したこともある豊かな街だったが、今ではその活力は失われている。人が流れていったことで活気を失い、街を再び盛り立てようとする真っ当な人間も少ないようだ。かつて道は隅々まで整備され、区画は整然と仕分けられていた。今では市や家が区画など無視して好き勝手に建てられるようになっている。
ゴミとも所有物とも知れない、薄汚れたものがそこかしこに積み上げられている。今は寒季が間近なため、臭気は押さえられているが、人心が荒れていることを如実に示している。そうした物陰から怪しげな視線も感じる。こちらの隙を窺う無法者の数も増えている。
「おっと」 サイトは機敏に動いて、駆けて来た子供を避けた。その子はサイトに気づいていなかったようで、被っていた仮面を押し上げてサイトをぎょろりとした目で見た。隙を見せまいと、精一杯虚勢を張って睨んで来る。サイトは苦笑し、手を振って問題ないと示した。
「今のは、ムガか……」
治安が悪化し、寒さが増してきた中でも、外で遊ぶ子供たちはいる。どうやら化け物退治の遊びをしているようである。その仇役は、凶暴な太獣でも苛党でもなく、ムガという化け物だった。
素の組成が異常となり、人に災いをもたらすものを禍形という。ムガはその一種で、これに遭遇したものは記憶を失うと言われている。過去を忘れ、最低限社会で生きていく常識までも、脳裡から消去されてしまう。経験や知識を積み重ねる事を美徳するこの島の住人にとっては、記憶を奪われることは存在を無かったことにされたことに等しい。忌むべき存在なのである。
ムガに襲われて何もかも失うぞ、そうならない為に努力して、どんな経験でも良いから積み重ねておけと、子供たちは諭されて育つものだ。
地域によって差はあるが、そのムガを退治する遊びは、宝物などを持ち寄って行なわれる。のっぺりとした仮面を被ったムガ役の子が、他の子を追いかけて捕まえる。
ムガ以外の子は体のどこかに数字を書いておく。ムガはその数字を読み取り、名を呼べばその子の持ち寄った宝物を奪うことができる。捕まった子は数字を消され、解き放たれるが、もうムガを捕まえることはできない。ただ、別の子を捕まえれば、その子の宝物を奪い、数字を獲得できる。いわばムガの手下となって、他者を脱落させようとする。ムガが他者によって捕まった場合、数字を失ったままの子は何も得られないからだ。
ムガ役の子を捕まえることができると、それで遊びは終了となる。捕まえた子は、ムガの得ていた物を頂戴できる。
手勢が少ないうちに複数で挑めば、すぐにムガを捕まえられる。けれども、それでは得られる報酬品も少ない。自分が欲しい物を他者が持っていた場合、それをムガが手にした後に捕まえるようにする。ただし、あまり泳がせ過ぎれば、数字なしが増えて自分も襲われる危険が増す。
幼い子は単純に逃げ回るだけで楽しんでいる。それに飽きてくる年になると、幾人かずつの集団を造り、いかにムガを誘導して他者を襲わせ、最終的に自分の欲しい物を取れるか、という頭脳戦へと変化する。ムガ自身も自分の欲しい物を持つ子を捕まえるため、他の子と協力することもある。
手を組んでいる者は誰と誰か。狙っている物は何なのか。ムガは、どこまで手勢を増やしているのか。遊びを終わらせる最良の機はいつなのか。子供達はこうした駆け引きも楽しんでいた。
昔やったよな、と白い息を吐きながら、シアンは懐かしそうに言った。
「お前は面白い奴だった。常に一人で突っ込んでいって―――」 と、思い出し笑いをする。
「ふん。それですぐ捕まったと笑いたいんだろう。向かい合えば数字を読まれ動けなくなる。ならば、その前に一撃離脱、が正攻法だろう」
「そうだな。お前の動きはすごかった。背後へ背後へと、物陰から物陰へと、ムガを翻弄して、近付いて行った。だが―――」
「だが結局、やられっぱなしだった」と言ったサイトの悔しげな顔を見て、シアンは笑みを深める。
「そりゃあ、最終的に正面に立てばやられるよ。当時はお前、遊びの決まりを理解していないか、頭がおかしいのかと思ったよ」 とシアンは屈託無く言う。
「あの頃はな、後ろからなんて、卑怯だと思っていたんだ」 サイトも、笑って答えた。
シアンとサイトの付き合いは長い。シアンの言葉が辛辣で、自分を否定するものであったとしても、それで堪えはしない。その指摘は一部でしかない。それらを含めて、サイトという人間を認めている。そう分かっているから、サイトは笑って答えられる。シアンという人間をよく分かっていると、サイトは疑っていない。
凄いというならお前だろう、とサイトは言い返す。「いつも要領よく生き残って、最後にムガを捕まえて、宝を選びたい放題だ」
「それがあの駆け引きの醍醐味だろう? いや、そんなことより、お前は痛快だった。いつもは猪突猛進だけど、それが心地よい時もあった。たとえば、ズルをしている奴がいるような時だ。ムガ役の子の弱みを持ち出し、絶対服従を強いるような奴がいた時。負けているのに、ムガ役から戦利品を得ようとする、そんな白ける奴がいる時。お前は人が違ったようだった。自分からムガに捕まりに行き、あえて数字なしになり、そういう奴らをあっという間にのしちまいに行った」
「そこですかさず、ムガを捕まえたのは誰だよ? 最後に良いところ取りしていたのは、誰だった?」
「ははっ、まぁ、隙があったら、誰でもおこぼれを拾うだろうさ。でも、そうなんだ。どうにもならないという時、お前はそんな状況をぶち壊し、勝利を導いていた。だから皆、お前を認めていたよ。最終的に自分達が付いていくべき者、統べるべき者はお前だと、認めていたよ」
「いや、それはない。その後は大抵喧嘩だったんだぜ。あの遊びには良い思い出などない」
苦笑いするサイトの言葉に微笑んで、一拍置いてから、シアンが言う。
「あの遊び、ムガに意思があるから引き締まるんだよな」
「それはそうだろう。上手く出し抜けば勝者となれる。だが、いつ襲われるか分からない。ムガの力量が遊びを引き締めていた」
「あれで、ムガ自身に意思がなかったら、どうなのだろう? つまり、最初から誰かと結託して、特定のものだけを狙おうとしていたら」
「それだと単なる道具扱いだ。ムガ役の奴は楽しくないだろうな」
「そう。実は、最終選択の権利は、ムガの手にあるんだよ。やろうと思えば、いつでも独占できる。そうやってムガに裏切られた奴は辛いよな」
「だから、ほどよい緊張ができるんだろう? 最後まで出し抜け切れるか、って」
「ああ、確かに、そうだった」 ちょっと混乱しただけさ、とシアンは笑った。
「そういえば」 と、サイトは話題を変えた。
「お前、前に護士として真宮にいた時、真弟を見た事があるか? オウの弟、オウル・青のことだ」
シアンは、少し驚いたような顔をしていた。「ああ、会った事があるな。それがどうかしたか?」
「そうか。俺もこないだ、偶然真宮で彼を見たんだ。オウルは、本当に兄に似ているな」
「そりゃあ、そうだろう。血が繋がっているのだから、似通っても来るさ」
サイトはそこで、渋い顔をして言った。
「人が悪いな、真弟は。最初、オウかと思って、いつも通りに話しかける所だった」
「おいおい、それは、お前が悪いよ。どの道、シント相手に気安く話しかけるなんて、よくないことだぞ」
「危ない所だったよ。澄ました顔をしているものだから、てっきりあいつだと。咎めるような視線でもしてくれれば、すぐにそれと気付いただろうに。側に、何て言ったかな、あの政司。真弟の側に常にいるあの人がいる、その違和感に気付かなければ、本当に不始末を仕出かす所だった」
「まあ、真弟は病弱で、表に出てくるのは極めてまれだ。似てきたのなら、区別はさらにむずかしいだろうな。でも、真が本人かどうかを見分ける術はある」
「ああ、あれだな」 と言って、サイトは自分の手首を握った。
「そう。オウ・青の右手首は常人より骨が太い。手の付け根に輪をつけているように見える」
「そう。変わった手首だなと思った」
「父クスルや真弟にもない、オウ・青だけの特異体質のようだな。その特徴を指して、大いなる円を体に持つものとして、瑗でも彼を崇めている者もいるらしい」
「そうか… …」
何とか体調を持ち直し、表に出てきて、兄を支えて欲しいものだとサイトが思った頃、シアンの足が止まった。サイトもまた、自然に立ち止まった。