敵の名は
第三部 絶星
第一章【触発】
1
顔を上げると、すぐそこに目的地が見える。手が届きそうに思えるが、そこまで辿り着くのは、実に難儀に思えた。
鍛え上げた大人をも吹き飛ばそうとするかのような暴風、体中からひっそりと力を奪っていく低気温、視界を惑わそうと乱舞する風雪。一歩踏み出す毎に足先は深い雪の中に沈みこんでいく。吹雪の中の進軍では、声をあげる者もおらず、気持ちもまた重く沈みこんでいく。
季節が季節ならば、駆け足でほんの僅かの間なのだが、極寒の季節にあっては、その距離が数倍にも思える。
そこまでが遠く思えるのには、また、別の理由がある。なるべく到着の時を遅らせたい、あるいは、辿り着きたくない、そういう思いが、心中にあるからだ。己の立場からは、決して口にしてはならないことだが、その迷いは殺しきれず、胸の奥底で重石となっている。
皆を指揮する自分には、別の思惑など持ち得ない。そう皆に示さなくてはならないのだが、無意識に沈痛な表情になっているのだろう。後続する統士たちも、普段は劣悪な環境にあっても軽口の一つも叩いていそうなものだが、今は押し黙っている。彼らと共有してきたものが多いだけに、命令とは言え、そう簡単に割り切れないのは同じなのだろう。
サイト・成は、一度立ち止まり、空を見上げた。目を閉じ、白い息を吐く。深く、胸の奥底にある思いも吐き出そうとするかのように、長く息を吐いた。呼気と入れ替えに、冷気が体内に侵入する。その痛みを糧として、己の中に怒りを生じさせる。その感情をぶつけるべき相手、それはすぐそこにいる。闘いはすぐそこだと、気持ちを切り替える。
「敵は近いぞ。油断するな」
敵と強調した固い声を聞き、背後の部下達もまた、引き締まった表情へと変わっていく。
闘いたくない。殺しあいたくなどない。けれども、彼らは敵なのだ。殺さなければ、自分達が殺される。殺し合いを良しとしたから、自分達はここにいる。甘えは許されない。
さすがに歴戦の統士たちである。戸惑い揺れ動いていた視線は定まり、刃のような鋭さを帯びる。命のやり取りを始めるために、がらりと気持ちが切り替わったのだ。
漲る殺意を背に感じながら、サイトは頷く。
そう、自分はこれから殺し合いにいくのだ。かつての部下を、戦友を、殲滅しに行くのだと、余分な思考を振り払った。
「行くぞ」
迷いなく油断なく、敵の姿を追い求めて、戦場へと進み出ていく。そこにはもはや迷いは無い。主を守り、主の敵を砕く。それが、真穿に課せられた使命なのだから。
*
まるで、遠方よりやってきた友を待ちわびていたかのように、彼らは雪原に整然と立っていた。だがそれは歓待ではない。煌びやかな着飾りは一つもなく、皆物々しい武装をしている。幾多の血を吸ったであろう、殺戮の道具を地面に突き立てている。笑顔の代わりに、表情は強張り、哀しみを貼り付けているかのような鎮痛な面持ちだった。
隊長を頂点に、二翼を広げている。一点突破の突撃を得意とする彼ららしい陣取りだった。
サイトよりも年上で、五十は軽く超えているはずの男は、初めて会った時と変わらぬように、傲然と立っている。雪が張り付いた強面は、寒さで固まっているわけではなく、如何なる時も深い皺を刻んでいる。決して己を曲げない、その芯の強さに再びまみ見えることで、サイトは懐かしさを覚えた。
彼は、クウー・骸は、いつだってそうだった。
*
クウー・骸はサイトの下で、真穿十獅の一人として、設立時から共に戦って来た。強敵を打ち倒す。それのみが己の生きがいという信念を持ち、どのような困難であろうとも、怯まずに進んでいった。その猪突していく背中が遠く思えたときもあったが、彼が近くにいるとどんな劣勢にあっても揺るがないでいられた。
今もきっと、反逆者として処罰される対象と成り果てても、彼の後ろに立つものは、迷いなど抱いていないだろう。この背中に付いていく、そういう一生を選んだ猛者たちだから。
かつては味方として、頼もしい限りだった彼らが、今、敵対している。クウーは老いを隠せず、隊の規模は往時に比べ落ちているが、依然として彼らが放つ圧力は凄まじい。年若い統士たちが気圧されて怯んでいるのか、そわそわし始めた。これほどまでだったとはなと、今更ながらサイトは思う。
だが、もはや引き返しはできない。
サイトは、無言で剣を抜いた。
そのまま、敵陣に向かって一人歩んでいく。クウーもまた、愛用の小斧を肩に乗せ、踏み出してくる。
両者無言で距離を詰めていく。部下達はかたず固唾をのんで見守っている。
ふと、近付くにつれ、歩きやすくなっていることに気付いた。積雪が浅くなっている。これまでの行程と比べると、走りやすく、踏ん張り易い。比較的、闘いに向いている。
サイトは思わずに口元を緩めた。クウーらしいと、思った。
地の利はもちろん、迎え撃つ向こう側にあるのだから、この季節ならば、雪を障害として使い、陣取りも幾多も考えておけたはずだ。それをせずに、わざわざ闘いやすい土地を選んで待ち受けているとは。
向かい合うクウーもまた、笑みを浮かべている。どうだ、これで存分に遣り合えるだろう、そう無言で語りかけている。
本来なら、両陣営の境で、最後の交渉が行なわれる。互いの主張が通らず決裂したなら、両将が戻ったあと、戦が始まる。
反逆の将として、クウーを説得するのがサイトの役目だ。そのための言葉も、一応、一通り考えてきた。感情に訴えかけるものから、理路整然としたものまで、用意はしてきた。
だが、それらはもう必要ないと、サイトは気付いた。
一方的ともいえる措置で反逆者とされ、地位を剥奪され、クウーは今、命すらも危ぶまれる状況にある。本来なら、納得できないと憤りを露わに、罵詈雑言でも浴びせられそうなものだ。大雑把な性格なクウーであっても、この処遇には腹を立てていたと聞く。
それが誇張されて伝聞されて、討伐の言い訳とされたのだが、時間が経てば、そうしたことをいつまでも気にする男ではない。
相対するクウーの眼には、そんな後ろ向きなものはない。
ただ、好敵手を見つけ、わくわくする時間を過ごせることに興奮している。この俺の最後の大戦、よくぞ付き合ってくれた。さあ、派手に打ち合おうぞ。表情にそう書いてある。
「敵わないな……」
サイトは軽く息を吐く。それから、下げていた剣を持ち上げ、正眼に構える。クウーもまた、小斧を振りかぶる。
もはや言葉は要らない。
闘いは、もう―――。
オオオオゥ!
空気を深く震わせて、背後の男達が吼える。かつての戦友クウーの気概を知るサイトの配下達は、こうなることを予想していた。説得も何もなく、接触したならば、もう闘いが始まるのだろうと。
クウーの部下達もまた、主の行動を知り尽くしている。嬉々として、クウーの後に続けと駆け出してくる。
「さあ、やってみろ! 俺を、見事倒してみせろ!」
サイトは叫ぶ。強敵に挑む時、倣岸な態度で挑むのが、クウーの流儀だった。サイトはそれを真似て、わざと挑発して見せた。
目を見開き、一瞬意外そうな顔をみせ、それからすぐにクウーはにんまりと微笑む。
「言うようになったじゃないか! 壊しがいがあるぜ!」
両者の距離が零になり、互いの顔に殺気が漲る。
渾身の力を込めた一撃が、戦いの開始の合図となった。




