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星抱く鬼  作者: 守野伊音
13/13

13.星抱く鬼






 ざぁあ、ざぁあ、と、穀物を袋に流し入れる音がする。

 ヒナトは、ゆっくりと目を開けた。


「この先?」

「……たぶん」


 松が大量に植わっている場所を抜けた先に、海がある。





 知らないはずの音は、細かな粒が互いを擦りながら、止めどなく淀みなく流れていく音に、よく似ている。

 音が流れる。背の高い草原を風が走り抜けるように、稲穂の間を風が通り過ぎていくように、音が流れ続けている。


「竹じゃねぇんだな」

「松は山津波じゃなくて塩害を避けるためらしいから」


 竹はその身の細さからは信じられないほどの根を張る。竹の林は、ちょっとやそっとでは崩せない絡み方をして根付き、地盤の緩い土地や、主に斜面に植えられていた。ここにあるのは松だ。松は塩害に強く、潮風が陸地の物を脅かさないよう壁になっている。

 潮風というものはそんなに強いものなのかと不思議だった。嵐の風のように強風なのか、それとも風自体に何か害があるのか。だったらそんな風が吹く場所では人が暮らしていけないのではないか。そんなことを、昔、クリツと話した。



 ヒナトは思いっきり息を吸い、胸が膨らむ。

 匂いがする。これがきっと、海の匂いなのだろう。川にだって匂いはある。寒い日と暑い日は匂いも違う。この匂いは、暑い日の川が漂わせている濃度に似ていた。吸い込んだ空気が重い。風が重い。空気に密度がある。


 無意識に踏み出した足の下で、じゃりっと音が鳴った。ここに来るまでと土が違う。湿り気を帯びた腐葉土じゃなくて、乾燥した砂が混じり始めている。

 音と匂いが、ここには知らない何かがあると教えていた。



 ヒナトは、握っていたクリツの手を軽く引いた。立ち止まってしまったクリツを覗きこめば、困ったような顔をして立ち竦んでいた。


「どした?」

「……どうしよう、ヒナト」

「うん」

「この向こうに、海が、あるんだ」

「うん」


 震える手をぎゅっと握りしめ、ヒナトは歩を進めた。繋いだ手に引っ張られ、クリツの身体も進みだす。覚束ない足取りに、ヒナトは苦笑をすぐにくるりと引っ込め、いつものものへと入れ替えた。それは張りつけた仮面なんかじゃない。

 初めて出会ったときから、ヒナトがクリツへ向け続けてきたものは、ずっと本当だった。


「海だな、クリツ」

「うん」


 ヒナトが握っていた手から、ヒナトの手を握る力が篭められる。お互い同じ強さで握りあえば、どんなに強くても痛みなんてない。


「お前と来られて、嬉しい」

「僕も、君と一緒で嬉しい」


 二人で海を見に行こう。

 約束した。もうずっと昔、出会ったその日に交わした約束は、予想もしない形で実現した。けれど、望んだ形はそのままここにあったから、二人は顔を見合わせてくしゃりと笑った。







 どこまでも開けた世界があった。

 色は青。

 それも、一面の青だ。


「これが、海」


 ぽつりと、ヒナトが言った。

 空と水面の境を、色の濃淡でつける日が来るなんて思わなかった。青が広がる。空よりも濃い青が、地上に広がってきらきらと光る。細かな光が白い色となって水面できらきらと光を弾き、宝石のようだ。

 細かな音がする。穀物を流すような、細やかな音が散って、大きな音を作り出す。


「これが、海……?」


 ぽつりと、クリツが言った。

 ざぁあざぁあと、細かな音から漏れ出したような声が、ヒナトの隣に落ちた。声は散ってしまいそうなほど小さく、力など入っていないのに、繋いだ手に篭められた力だけは千切れんばかりに強い。


「すごい……」


 クリツが言った。


「すごい」


 クリツが言った。


「すごい」


 一歩も動き出していないのに、まるで走り出したかのような声だった。一歩一歩弾むように、クリツの言葉が跳ねて、その瞳から雫が落ちる。落ちた雫は一直線に砂混じりの土へと落ちていき、小石に弾けて散った。


「ヒナトの色だぁ」


 そう言って、嬉しそうに笑うから。クリツがあまりに嬉しそうに笑うから、ヒナトは思わず笑ってしまう。


「俺の目、こんなに綺麗な色してないよ」

「ううん……ヒナトの色だよ。ヒナトの、目だ」


 クリツが笑う。ぼろぼろと雫を撒き散らしながら笑うから、ヒナトは困る。だって、こんなに大きくて美しいものと同じ色だと言われても、どうすればいいのだ。

 そんなヒナトの困惑をよそに、クリツはほっとしたような声で言った。


「なぁんだ」


 拍子抜けしたような、安堵したような。ため息とも呼吸ともつかぬ声が、クリツから漏れた。昼寝から目覚めた幼子のような声に、ヒナトは思わず海から視線を外してクリツを見た。同じようにヒナトを見ていた瞳と視線が重なる。


「ヒナトが、僕の海だったんだ」


 ヒナトは息を呑んだ。息を呑んで、湧き上がった喜びとも絶望とも持たぬ気持ちに呑みこまれる。こんなに美しい色と同じだと言ってもらえたことは、他ならぬクリツがそう言ってくれたことは嬉しい。けれど、けれど、ああクリツ。


「ヒナト……ヒナト? どうして泣くの?」


 今度はクリツが困ったような声を上げるけれど、ヒナトの涙は止まらない。海の水はしょっぱいと聞くけれど、しょっぱいものならヒナトから幾らでも溢れだす。


「駄目だよ、クリツ。それは、駄目だ」


 泣きながら否定するヒナトに、クリツは穏やかな笑みを浮かべる。


「ごめんね、ヒナト。僕は海を、死ねない理由にはできないみたいだ」

「クリツっ!」

「凄いね、ヒナト。こんなに広いのに、こんなに美しいのに、ここには誰も住んでいないんだ。ここから先に人間は誰もいない。海って、寂しい場所だったんだね。だから、ねえ、ヒナト。もし君が世界のどこにもいなくなったら、僕は海を見る度に寂しくて堪らなくなる。君の色をした海の中に誰もいないことが寂しくて堪らなくて、僕はきっと飛び込んでしまう」


 ねえ、ヒナト。

 穏やかな声で自分を呼ぶクリツを、ヒナトは嗜めるべきなのだ。そんなことを言ってはいけない。そんなことを思ってはいけない。そんなことを願ってはいけない。そう言うべきなのに、ヒナトはその名を呼ぶことしかできない。逆の立場だったら、ヒナトだってきっとそうするのだ。どんな言葉を並べたらクリツを生かせるかも分からないのに、並べる言葉すら、選べない。


「僕は、世界に君がいない今日が続くことが、何よりも恐ろしいよ」


 俺もだよ。お前が世界からいなくなることが、何よりも恐ろしいよ。ヒナトは、胸の中で答えた。

 ここは、ヒナトとクリツに決して優しくはなかった。ここで途切れることが、ヒナトの大事な人が途切れることが苦しいと思うのは、ただ自己満足なのだろう。自分だって死ぬことはまったく怖くないのに、クリツには死なないでほしいなんて、どう頑張ったって説得できるはずがないのだ。でも、諦めることもできやしない。そんなこと、どうして認めることができるだろうか。


「君がくれた星を解いて、僕は夢を編んだ。星の供給源である君がいなくなったら、夢は編めなくなるし、僕は何も生み出さない。……何もおかしなことじゃないよ、ヒナト」

「……どうすれば、お前は生きていける?」

「君が、世界にいてくれたなら」


 ざぁあと、波が流れる音がする。今度からは、穀物が流れる音を聞けば海を思い出すのだろうか。竹の葉が風で舞い上がる音を聞けば、稲穂がたわわに実った田を風が駆け抜ける音を聞けば、海を思い出すのだろうか。



 魚が山ほどいると聞く。ならば、魚を食べれば海を思い出すのだろうか。海岸は岩と砂でできていると聞く。ならば、岩と砂に触れれば海を思い出すのだろうか。

 海はしょっぱいと聞く。ならば、泣けば海を思い出すのだろうか。


 そうして、生きていけるなら。海を生きる理由にできるなら、して、くれるなら。ヒナトと見た海を縁に、一体どこまで行けるのかは分からない。それでも、それを理由にしてくれるのなら、何かを理由にできるまで繋げていけるかもしれないと思った。

 けれどクリツは、海を理由にはできないと言う。海を(よすが)に生きてはくれないと言う。もうこれしか方法が無かったヒナトに向かって、海がヒナトの瞳の色だから無理だと、ヒナトにとってこれ以上ないほど惨いことを穏やかに笑って言うのだから、クリツは随分と酷い奴だったらしい。


「……俺にとっての海は、お前だったよ。お前だけが、俺の夢だった」

「僕の星も君だったよ。君がいれば、僕の夜道はいつも明るかった」


 クリツのせいでヒナトはぼろぼろ泣いているのに、クリツは穏やかに凪いだままそんなヒナトの手を引いて歩きだす。細かな砂に沈み込む足元の感触を楽しんですらいるようだ。なんて酷い奴なんだろう。

 波打ち際まで辿りついたクリツは、ふとしゃがみ込み、海に指を突っ込んだ。その指をぺろりと舐めて、動きを止める。そして、何を思ったかいきなりヒナトの頬を舐めた。

 しばしの沈黙が落ちる。海に白い色を混ぜこんでいる波が建てる音はずっと続いているけれど、ヒナトからは一切の言葉が発せられない。


「……お前、何してんの?」

「海と涙って、同じ味かなって」

「……そうかよ。どうだった?」

「海のほうが味が濃いから、海の後だと涙の味は分からなかった」

「へえ」


 興味を惹かれたヒナトも、海に指を突っ込んでみる。ぽかぽかと春の陽気を通り越した太陽が出ている今日だから生温かいかもしれないと思ったのに、水面に触れた指はじわじわと体温を失っていく。まだ泳ぐには少し早いくらい、水は冷たかった。

 冷え切る前に指を出し、ぺろりと舐める。確かに、味が濃い。水の感じも少しとろりとしているように感じる。この後では涙がただの水に思えてしまっても仕方がない。

 海は、何度も何度も涙を重ねたみたいな味がした。






 手を引かれたまま海岸線を歩く。蟹がいた。貝があったし、いた。魚があって、いた。生きた物から死んだ物まで様々見かける。自然の者から人工物まで入り混じった漂流物が固まっている場所もあれば、何もない真っ新な砂場もあった。海流や海岸の形で、漂流物が集まる場所は自然と決まっていくのだろう。


 一通り歩いて満足すれば、岩場を目指して歩を進めた。

 海に迫り出した一番先の岩場は、表面にたくさんの貝が張りついていたけれど、面白そうだからと座ってみることにした。


 ここは満潮になれば海に沈むのかもしれないねと、クリツが言った。

 雨の後でも台風の後でもないのに、海は毎日決まった時間に波打ち際が変わるらしい。こんなに大きな水の塊に変動を齎すものは、ここではないどこかで降った雨なのか、それとも海全体がゆっくり揺れているのか、ヒナトは知らない。知ったらきっと、凄いなと感動するだろう。どきどきもするだろう。だけど、知ろうとするのはいつだってクリツだ。世界に関心を持っていたのも、実際に調べるのも、クリツだったのだ。


 狭苦しい故郷で、どれだけがんじがらめに閉じ込められようと、世界への関心を失わなかったクリツが、ようやく外の世界に出られたのに、どうしてここで終わらせることができるのだろう。もっと、もっとたくさん、あるはずなのだ。海だけじゃない。いま、知っていることだけじゃない。いま知りもしない何かが、名前も存在も知らない何かが、この先、クリツの大事なものになるかもしれないのだ。

 それなのに、どうして。どうしてもう終わりにしようとするのだ。もう終わったヒナトはともかく、終わっていないクリツまで一緒に滅びようとするのだ。




 ヒナトはクリツと並んで座ったまま、じっと海を見つめる。そこに答えなど書いていないと分かっていても、波の音は答えを教えてはくれないと分かっていても、クリツを見るわけにはいかない。ヒナトがクリツを見つめれば、海の上で弾ける細かな光と同じものを瞳の中に宿しているクリツの瞳がヒナトを向いてしまうと分かっているからだ。


 嬉しいくせに。この、ただのしょっぱい水の塊を、太陽の光と同じくらいきらきらとした光で見つめているくせに。クリツはここで終わると言うのだ。ヒナトが終わるから、クリツも終わるのだと。なんの未練もない声で、そう言うのだ。

 こんな酷い話があるか。こんな馬鹿げた話があるか。あって、堪るものか。

 ヒナトは、クリツに降りかかる全ての理不尽を許せない。誰もに平等に降り注ぐ当たり前の理不尽を許せるくらいなら、今ここにはいなかった。

 ヒナトは必死に考える。ずっと考え続けて答えが出なかったことでも、もう先が無いのだ。ここで答えが出なければ、クリツはヒナトと終ってしまう。

 いま持ち得る全ての記憶をひっくり返して根こそぎさらう。


「全てを味方にできる覚悟って、なんだよ……」


 ぽつりと呟いた言葉は、幸い大きな波音に遮られてクリツには届かなかったらしく、クリツの瞳は変わらず海を向いたままだ。




 この身の内には、クリツの角がある。それが、ヒナトの命を繋げている。クリツが鬼ではなくなったら、ヒナトの命は尽きると言う。それは、別にいい。問題は、ヒナトが死んだらクリツが死ぬと言っていることだ。ならばどうすればいいのか。ヒナトがクリツを説得できない以上、ヒナトができることは一つしかない。


「なあ、クリツ」

「なに、ヒナト」


 クリツはあれだけ熱心に海へと向けていた視線を、呼べばあっさりとヒナトへ向けた。


「俺、どうしたら生きていられるかな」


 ヒナトを見ていた目が、零れ落ちんばかりに見開かれた。


「お前が鬼じゃなくなっても生きていける方法ってないのかな。他の、それこそ化物になったって構わないから。お前がくれた角がさ、完全に俺の中に溶け込んだら、お前が人に戻ったって生きていけるようになったりしないかな。あいつらに聞けば、そういう手段知ってるかな。知らなかったら、何すれば手段探すことに協力してくれるかな」


 クリツがヒナトがいなければ生きていかないと言うのなら、ヒナトが生きていればいいのだ。どんな手段であってもいい。どんな化物になってもいい。今すぐは無理でも、いつかと定めていればいい。クリツがいなくてもヒナトが生きていけるようになる頃に、ヒナトがいなくてもクリツが生きていけるようになっていれば、そのときはきっと、クリツが鬼ではなくなっているということだから、それでいい。

 手段が見つかる前にクリツが鬼で無くなれば、ヒナトは死ぬだろう。だけど、それでいい。最初から目的はそれだけだ。ヒナトは、クリツが生きていればそれでいいのだ。


 これは、賭けだ。クリツの力が無くなってもヒナトが生きていける手段などないのかもしれない。そもそも、その手段を探すことすら許されないかもしれない。ただ結論を先延ばしにしているだけかもしれない。

 けれど、いま手持ちにある手段が行き詰り、尚且つその手段を受け入れることができないのなら、先に持ち越すしかない。

 今のクリツにはヒナトしかいない。だけどいつか、いつかヒナト以外に、ヒナト以上に大切な何かが出来ればいい。既に死んだこの身は、それまで保てば上等だ。

 いつかクリツが、生きていたいと、ヒナトがいなくても生きていきたいと言ってくれる理由が出来るまでの繋ぎになれればそれでいい。

 ヒナトにとってはそれだけのことだった。だからとりあえず、いまクリツが生きていく決断をしてくれるのなら他はどうでもよかったから、気づくのが遅れた。


「君は」


 ぱたりと、ズボンに染みができる。波しぶきが散ったのかと思ったけれど、ぱたぱたと断続的に落ちる染みは、海の水よりもっと軽くて、ヒナトにとっては何より重い物だった。


「生きていこうと、して、くれるの?」


 クリツが泣いている。


「死にたくないって、思ってくれるの?」


 また、泣いている。さっきのヒナトみたいに、ぱたぱたと止めどない涙を零し、瞳を見開いたまま。


「ヒナト……ヒナト……、ヒナト、ヒナト、ヒナトっ……」


 クリツの両手がヒナトの腕を掴み、ぎりぎりと締め上げる。痛めつけているかのように強いのに、項垂れて泣き続けていては縋っているようにしか思えないし、それは事実なのだろう。



「お願いだから、死にたくないって言ってよっ……!」



 そう叫んだクリツから散った涙が、また一つ海をしょっぱくした。











「死にたくなかったって、死ぬのは怖かったって、死ぬのは嫌だったって、言ってよ! どうして言ってくれなかったの。どうして、死んだんなら仕方がないだなんて、どうして、ヒナト、どうして、どうしてそれなのに、僕には死んでほしくないなんて酷いことを言うんだよ!」


 ヒナトの身体はがくがくと揺さぶられる。クリツは酷く泣きながら、酷い酷いと、ヒナトを責める。乱暴に掴み、乱暴に揺さぶり、大声で怒鳴りながら、泣き叫ぶ。


「君は酷い奴だ、酷い、奴なんだ。だって僕は、君が生きていたいと言ってくれるなら何だってするのに、君はどうしてそれを願ってくれないんだ。僕は、生きるなら君と同じ世界で生きていきたいのに、君は僕にだけ生きろと言う。一緒に生きたいと言ってくれないくせに、一緒に死ぬのも駄目だと、未来の悉くを否定する。そんなの、どうやって許せって言うんだ!」

「そんなの、だって俺もう……死んだだろ」

「でも終わってないだろ!」


 涙を散らせながら、クリツが叫ぶ。


「君がもう終わっていると言うのなら、ここで海を見た君は誰だ! 君は海を見ることなく死んだ。でも、君はいま海を見た。じゃあ、君は誰なんだ! 僕と海を見たじゃないか! 海を見ることなく死んだ君が、海を、見たのに……それでも君は、あのとき終わったって、そう言うのか」

「クリツ……」

「海を見たことなく死んだ君が、海を見た。君はこれを、続き以外の何と呼ぶつもりなんだよ!」


 喧嘩をしようと思った。ヒナトはクリツと喧嘩をしようと思ったのだ。今までクリツとしたことが無いような、クリツ以外の誰ともしたことのない、大きくて自分勝手で我儘で、けれど絶対に譲れない喧嘩をしようと。思った。クリツがしたくなくても、ヒナトは一方的に吹っかけるつもりだったし、そうしたつもりだった。ヒナトはクリツに酷い決断を迫って、酷いことを言って、したつもりだった。


 けれど、ヒナトはどうやら、それ以上にもっともっと酷くて惨いことを、クリツにしていたようだ。そして、海を(よすが)に、理由にしようとしていたのは、どうやらヒナトだけではないらしい。

 最初は、鬼となったクリツを追い掛けたつもりだった。全てを切り捨てようとしているかのようなクリツをこの世界に引き留めているつもりだった。けれど。


「僕は、血の繋がった実の家族を殺した。そんな僕が生きていることは当たり前に許すくせに、どうして自分が生きてることは許さないんだ!」


 先に鬼になったのは、どうやらヒナトだったらしい。

 鬼籍に入ることを抗いもせず、全てを切り捨て、背を向け、生を望みもせずに去ろうとしていた存在を、追いかけ、引き留め、この世界に留めようと叫び続けていたのは、クリツのほうだったのだ。







 いつの間にか動きを止めてしゃくり上げるクリツを、ゆるりと上げた腕で抱きこむ。もっと身体が大きければ包んであげられたし、両親がしてくれたみたいに抱き上げてあげられたのに、ヒナトにできるのはいつだってこんなことくらいだ。だけどクリツはこれで充分だと言うのだ。いつも、これでいいのだと、これが欲しかったのだと嬉しそうに言う。だからヒナトは、もっともっといいものがあるのだと教えたくなるのだ。

 だけどクリツは、ヒナトがクリツにあげたかった全てのものより、ヒナトに生きていてほしいらしい。どんなに屁理屈をこねてもヒナトが死んだ事実は変わらないのに、ヒナトはまだ終わってはいないらしい。


「……僕は、君が生きていきたいって言ってくれるなら、もしもあいつらがそれを許さなくても、世界中の人間が許さなくても、叶える。君が、僕が鬼であり続けることを気にするのなら、僕が人に戻っても君が生きていける方法を一生懸けても探し出す。誰に頭を下げても、他の角全部折ったって構わない。あいつは、僕達には三つしか道が無いって言ったけど、そもそも前例がないんだ。だったら、僕らが前例になればいいだけの話なのに、君はその道すら放棄する。君が生きていける道を探すことすら考えもしない」

「…………うん」


 死んだのに温かくて、死んだのに楽しくて、死んだのに悲しくて、死んだのに遣る瀬無くて、死んだのに団子を食べて、死んだのにクリツが心配で、死んだのに海を初めて見て、死んだのに喧嘩して、死んだのにクリツを抱きしめて、死んだのに泣いてる。


「鬼は狂うと言うけれど、僕は狂ったりしない。君がいる限り、狂ったりはしないんだ。だって鬼が狂うのは大事な人を失ったからだ…………僕は、君を失ってはいない。だって君は、ここにいるんだ」

「……死んだ人間がここにいるって言い張るのは、狂ってると思うけどな」

「君を失うことを正気と呼ぶことこそが、僕にとっての狂気だ」


 これ以上強くなり様がないと思っていた、ヒナトにしがみつく力がもっと強くなる。強く、痛く、熱い。生きている温度が、熱い。


「……楽しいことが、あるんだ。海だけじゃなくて、もっとたくさん、きっと、世界中にはまだ僕達が見たことのないもので溢れている。ねえ、ヒナト。いっぱい、あるんだよ。まだ見たことのない、本でしか知らないことや、本でも知らないことが、いっぱい、ある、のに、君はまだ、それを見ていないのに、死んだら、駄目だよ。君は今までたくさんつらいことがあったのだから、これからはもっと、もっとたくさんの喜びの中を過ごさなければならないんだ。君は、本当に些細なものを幸せだと笑ったけれど、そんなものじゃないんだ。もっと、もっといろんなものがあるんだ。もっとたくさん、幸せな、君にとっていいことは、山ほどあるんだ。それを受け取らず、そんなちっぽけなもので満足して終わっていくなんて、駄目だよ……駄目だよ、ヒナト。そんなの駄目だよ、どうしてそんなの、許せると思うんだよ……」


 言葉に詰まりながら、必死に選んで伝えようとするクリツの言葉を聞いていたヒナトは、思わず笑い出してしまった。乾いて引き攣った、笑いというには程遠いものだったかもしれないけれど、何に一番近い感情かと問われれば、ヒナトはきっと笑いだと答えただろう。

 声を上げて笑うヒナトに、クリツはぽかんと口を開ける。笑うヒナトなんて珍しいものでもないだろうに、ぽかんと、まるで初めて見たかのように。

 ヒナトは笑いながら、自分を掴むクリツの手を外して、自分の手で握りしめる。温かい手と同じ温度を、この先ヒナトも持てるかどうかは分からない。けれどそれは、どうでもいいことだ。ヒナトはやっぱり、自分の形などどうでもいいのだ。

 角のなくなった額の中心、ヒナトにくれた角の痕に額をつける。ヒナトにとっては命の痕だ。





「ごめん」

「ヒナトっ」


 謝ったヒナトに、クリツは泣きながら眦を吊り上げた。怒鳴り、激怒しているのに、その瞳が違う色に染まる。この怒りは、クリツの嘆きで、絶望だ。ヒナトがクリツへ向けた、絶望なのだ。

 死にたくないとは思えない。この先が無いことも、新しいことを知ることができないことも、ヒナトは恐ろしくはない。でも、どうやらそれではいけないらしい。

 ヒナトはクリツへ絶望を渡し、クリツはヒナトへ絶望を返した。絶望を交し合ったって、ここには絶望しか生まれない。絶望しか渡さずに、希望に変換しろだなんて惨いことだ。


「僕じゃなくていいんだ。生きたい理由に、生きる理由に他の何かを据えることは、そんなのはどうでもいいけれど……ヒナトお願いだから、死んでも仕方がないだなんて思わないで。死ぬのに理由は必要ないかもしれないけど、でも、死にたくない理由がないだなんて、そんなの駄目だよ。……抗ってよ。君を殺そうとするすべての理由に抗ってよ! そうじゃないのなら、僕はずっと鬼でいる! 君を殺そうとする全てを僕が殺して、君を終わらせないっ! 君は鬼である僕の未来を嘆くけれど、生きようとしない君のほうが、僕にとっては何より恐ろしいよ! 鬼である僕の未来より、死んだ事実に脅えず、悔やまず、嘆かない君より怖いものなんて、この世界にあるものか!」


 ヒナトは自分がそれなりに壊れている自覚があったけれど、人としてだけではなく、生き物としての根本的な部分まで壊れていたらしいと気づいた事実が他人事のように落ちた。本来他人事であるはずのクリツのことは何よりも優先して考えられるのに、自分が生き物として持っていなきゃ駄目な部分が壊れている事実は、どうでもよかった。

 けれど、その事実がクリツを嘆かせて鬼にしたのであれば、これはヒナトの罪だ。

 クリツを鬼で居続けさせる自分などさっさと死んでしまいたいけれど、そう思うことがクリツを鬼にするのなら、ヒナトはその考えを改める必要があった。


「俺はやっぱり、終わりたくないとか、生きていたいとは思えないし……もう終わっていいんだって思ったときほっとした。けど、お前を置いていくんだなって思ったことは怖かった……それは、怖かったんだよ。お前と逆の立場だったら、置いてかれるのが一番怖いよ。……だよなぁ。人に何かをしろって言うんなら、自分だってしなきゃだよなぁ」


 クリツを鬼にしたのは、クリツの家族でもヒナトの死でもなく、ヒナトが自分の命を蔑ろにしたからだとすれば、ヒナトはこのまま終わるわけにはいかない。壊れた自分が齎した歪みに、クリツを引きずり落としたまま、自分だけはいさようならと解放されるなんて自分勝手なこと、クリツにだけはするわけにはいかない。クリツに齎せるどんな理不尽も許せないのに、その筆頭に自分がなることなど許せるはずもない。


「ごめん、クリツ。俺はやっぱり死にたくないって思えない。でも、お前を一人にしたくないとは思うし、鬼のまま死なせたくないって思うし、そもそも死んでほしくない」

「……君は、勝手だ」

「そうだな。まだそんな理由でだけど、いま俺死んじゃ駄目なんだって思った」

「……遅いよ、馬鹿っ!」


 クリツに罵られるのは珍しい体験だ。他の誰かに罵られたら、ああそううるせぇなくらいにしか思えないけど、クリツに言われると非常に面白いし、得した気分にさえなる。


「馬鹿かぁ」

「自分にされたことを、それこそ殺されたことでさえ怒っていないのを馬鹿以外のなんて呼べばいいんだ!」

「ごめん」

「僕のことは一発殴られただけでも烈火のごとく怒るのに!」

「そりゃ、怒るだろ」

「同じことを僕が怒ると不思議そうな顔をするところだって馬鹿だ!」

「ごめんってば」


 クリツに猛烈な勢いで怒られていると存外いい気分になって思わず笑ってしまったら、凄く睨まれた。膨れられても、それすら笑ってしまってどうしようもない。






「じゃあ、これからどうしようか」


 本当なら、このまま海に沿って進んでもよかったし、必要ならば都に戻ってもよかった。手段を探すために世界中を旅できたら幸福だけど、そうじゃなくてもいい。

 レゼントの言うことが本当なら、鬼になったクリツには、誰かの、恐らくは大人の手が必要だ。人として、生き物として壊れたヒナトだけでは駄目なのだろうと、理屈は分かる。

 どうするかはなんでもいい。目標だけ間違えなければ、それでいい。


「お前の課題は、人に戻ることと俺がいなくても生きていけるようになること」

「君の課題は、死んでもいいと思わないことと僕にしてくれるくらいに自分を大事に思うこと」


 ヒナトとクリツは、お互いをじっと見つめて噴き出した。


「できる気がしねぇー」

「僕も」

「そもそも、今の俺の状態で生きてていいって言う奴、ほとんどいねぇと思うけど」

「君が生きていることを否定するやつの生は、僕が否定するから大丈夫だよ」

「……お前って結構過激だったんだなぁ。知らなかったよ」

「僕もあんまり知らなかった」


 けらけら笑いながら無意味にお互いの身体を揺らし、後ろに倒れ込む。岩の上に張り付いた貝が背中に刺さった痛みに二人で元の位置に跳ね戻って、また笑う。


 風さえも塩気を帯びてしょっぱい海風を浴び続けて身体はべたつくし、髪も重くなってきた。海水に入っていないのに塩を浴びた身体は、普段なら不快に思えただろう。しかしそんなことが些末事に思えるくらい、なんだか愉快だ。

 海と空を交互に見れば、海のほうが色が濃い。この光景を見られてよかったと、ヒナトは思う。見られなくてもそんなに悔いはしなかったけれど、見られてよかったと思えることは、たぶん、いいことなのだ。








 お互いに凭れあって海を眺めていると、大きな影がふっと落ちた。視線を上げれば、レゼントが後ろから覗きこんでいた。唐傘の分、影はとても大きい。


「お話、終わった?」


 ヒナト達の動きから、話し合いが終わったことの見当はついていたのだろう。ちょうどいい頃合いを見計らって、ひょいっと現れたレゼントに、ヒナトとクリツは声を合わせた。


「四つめ」

「──へえ」


 レゼントは、面白そうに声と眉を上げた。


「俺はクリツが鬼じゃなくなっても生きていける道を探す」

「僕が鬼じゃなくなってもヒナトが生きていける道を探す」


 それぞれのもう一つの目標は、レゼントに話す必要はない。ヒナトとクリツ、互いだけが知っていればいいことだ。他人に無遠慮に触れられたくないことでもある。二人だけで抱えてきたことはそうしたくてしてきたわけではなく、そうせざるを得なかったことも多いから、宝物のように大事に抱えている物ばかりではない。けれど、だからこそ、他人に明け渡せない部分でもあるのだ。


 レゼントも、深く追求してはこない。鬼となった過去があり、今尚人に戻り切れていない男だ。失って鬼になるほど人を愛した男だからこそ、人に踏み込むのは慎重だった。だからこそ、ヒナトもクリツも、さほどの拒絶感を覚えないのかもしれない。だが。


「お前達が認めないのなら、僕はヒナトと行く」


 神院がその結論に否を出すと言うのなら、ヒナトとクリツはここを離れる。結論を先延ばしにしただけかもしれない選択でも、今のヒナトとクリツにはこれ以外選べないのだ。


 立ち上がったクリツに、レゼントは肩を竦めた。


「誰がそんなこと言うかよ。よーし、撤収!」


 砂浜に向けて出された大声に、ヒナトは視線をそちらに向けた。

 じっと見ていると、あちこちの物陰からほとんど全裸に近い男達が現れる。中には濡れている男もいたから、海に入っていたのかもしれない。そんな男達に服や手拭いを持った唐傘が走り寄る。彼らは、男達に手拭いよりも何よりも先に唐傘を差し出した。中にはこっちにちらりと視線を向け、ひらりと軽く手を振る者もいた。


「なんだ、あれ」

「お前達が飛びこんじゃった時用の保険。目の前で心中されたら悲しむだろ」

「誰が」

「俺らが」


 堂々と胸を張って自信を指さすレゼントに、ヒナトとクリツは特に反応を示さない。レゼントはわっと顔を覆った。


「そこ笑うところだろ!」

「おっさんうるさい」

「よーし、訂正させてやろう」


 レゼントはけろりと顔を上げ、指を立てる。



「俺、一つお前らに嘘ついてたんだけど、二十四歳だったのは鬼になったときの年齢で、実は俺いま百五十歳なんだ」

「…………おっさん、頭おかしいのか?」

「残念なことにおかしくねぇんだよ。俺は、おっさんじゃなくてお爺さんなの。……世界中でただ一人を失った感情を、たかだか数年で飲みこめると思うなよ、ガキ共。人間の一生懸けたって、足りやしないんだ。中には、傷を癒せる何かに出会える奴もいる。それは薄情だとか幸運だとか、そういう話じゃない。自分の唯一を、誰かの唯一と比べる必要はないんだ。……神院の創設者、俺のダチだって言ったら、お前ら信じる?」


 突拍子もない話だった。けれど、嘘を言っているようには見えなかった。本当かどうか確かめるにはレゼントのことを何も知らないけれど、少し待ってみてもレゼントは嘘だとも冗談だとも言わない。


「俺はまあ、それだけ長く生きてるけど、その中でもお前らのような前例はいない。だから、お前らが前例だ。神院はいつだって鬼を歓迎するけど、中でもお前らは大歓迎だよ。認めないなんて言うはずがない。そもそも、鬼を追い返したことなんて一度もないけど。鬼狩人になればな、世界中のあちこち飛び回れて、意外と楽しいぞ。何せ、世界中のあちこちで鬼が生まれるから、俺達は山も海も川も町も地の底までも大忙しだ。そんな俺でも……」


 唐傘の持ち手をくるりと回せば、丸い円もくるりと回る。特に意味のない動作だったのだろう。それ以上回されることはなかったけれど、もしかしたら言葉を探していたのかもしれないと思ったのは、レゼントの表情が一瞬、ほんの一瞬だけ泣き出しそうに見えたからかもしれない。


「お前達が、初めてだ。クリツ、お前が初めてだよ。唯一を失わなかった鬼は、お前だけだ……お前達が唯一を失わなかった前例になってくれ。そうすれば、俺達も救われる。救う手段があったのだと、俺達に見せてくれ。もう間に合わなくても、俺達には手遅れでも、これからの誰かが救われるなら……鬼に、意味があったのなら…………俺は、この長い生も、本望だ」


 唯一と定めた人を失ったまま生きるのは、どういう生になるのだろう。人としての生も、酷く狭い場所で変化なく過ごしてきたヒナトとクリツには分からない。痛いのか、悲しいのか、寂しいのか、苦しいのか、許せないのか。その全てかもしれないし、そのどれも違うのかもしれない。





 海岸には、たくさんの唐傘がいた。恐らくは、五鬼であるクリツに合わせて、これだけの数を揃えたのだろうが、そんな事実は今はどうでもよかった。

 この誰もが、ヒナトにとってのクリツを、クリツにとってのヒナトを失った人達なのだと思うと、堪らない気持ちになる。他人のことなどどうでもいいし、自分達と同じ気持ちを他の誰かが持っているわけでもない。

 だが、それでも、ヒナトがクリツを、クリツがヒナトを失いたくないと思い続ける以上、彼らを見れば胸が詰まる気持ちは湧いた。その程度には、二人はまだ人だったようだ。


「これからもいろいろあるだろう。お前らの在り方をとやかく言う奴もそこら中に溢れてる。いい悪い関わりなく手を出す奴も、口だけ出す奴もいる。そのくせ誰も責任なんて負わない。手を出そうが口を出そうが邪魔しようが、なんの責任も負わず、お前達の結果だけを責めたてるだろう。でもな、俺はお前らの在り方を美しく思うよ……お前達は、全ての鬼の願いの先にいる。希望でも、憧憬でもない。そうありたかったと思うには、お前達の形は不安定過ぎるし、俺達は唯一を誰かと重ねることなんてできない。それに、この先がどうなるかなんて誰にも分からない。だけど、お前達の未来に、俺達は自分の救いを重ねた。お前達には与り知らぬことだ。それでいいんだ。だけど……だけどな、どうか俺達と一緒に、救われてくれないか」


 救いというものがどういうものか、ヒナトには分からない。それがクリツに齎されるものならば喜ばしいことだ。けれど、クリツはそれでは駄目だと言う。クリツには、その形が見えているのだろうか。



 未来は不確かで、救いの形は定まらず、鬼は悲しい生き物で、ヒナトは終わらなかっただけのただの残滓だ。

 でも、ヒナトもクリツも、どうやらまだ先が長いらしい。


 だったら、考える時間はたくさんあるのだろう。レゼントが言うには、世界中を回ることだってできるらしい。たくさんのものを見て、たくさんのことを知れば、何かが分かるかもしれない。


 けれど本当は、何も分からないかもしれないとも思う。今日も明日も明後日も、昨日と同じことの繰り返しが訪れるだけかもしれない。何も解決を見出せず、同じ日を延々と続けるだけかもしれない。この先に何かいいことがあるかもしれないと思うには、ヒナトは大事なものが欠けてしまっていて、願いが叶うかもしれないと信じられる段階はとっくの昔に通り過ぎている。延々と続くどころか、明日終わってしまうかもしれないことだってあると、ヒナトはもう知っているのだ。

 それでも、クリツと本を読んで憧れた景色を二人で見られるのは楽しいことだと言うことは分かる。ヒナトは、それが嬉しいと、思う。

 だから、何故かじっと自分を見ているクリツに向いて、口を開いた。


「クリツ、俺、あのとき終わらなくてよかったかもしれない」


 だから、ありがとう。

 そう続けたヒナトに、クリツは俯く。


「…………うん」


 鬼を今日だけでも何回も泣かせている自分は、極悪人ではないかと思う。

 ヒナトは、海水の塩分濃度を上げているクリツの頭を抱えて自分の胸元に抱き寄せる。こんな状態でもクリツはヒナトに角が刺さらないように気をつけるし、ヒナトは刺さってもいいやと遠慮はしない。

 きっと、ヒナトとクリツの形は正しさなどではないのだろう。けれど、間違っているとは思えないし、思わない。正しくも間違ってもいない二人の在り方で、どこまで行けるのかは分からなかった。けれど、どこに辿りついたってヒナトはきっと、あのとき終わるよりは楽しいことを増やして終わっていけるのだろう。

 ふと顔を上げて、ヒナトは目を細める。視界を遮るもののない空は、やがて満天の星空を海に落とすのだろう。

 けれど、ヒナトにはそんな満天の星より大事なものがある。数え切れないほどの星が現れる前に、一足早く現れたもの。せっかちでも何でもないのに、輝きすぎて他のどんな星より早く空に顔を出してしまう、導きの星。空に輝く一等星。でも本当は、一番大事な物はそれじゃない。だって一等星は二つあるのだから。

 万人の一等星と、ヒナトの一等星を見比べる。


「ほらやっぱり、地図の印は星で合ってただろ」


 ヒナトは、自分の胸に輝く泣き虫の一等星を抱きしめて、困ったように、晴れやかに笑った。












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― 新着の感想 ―
[一言] 凄い作品を読ませて頂きました。極限状態にある二人の少年が互いを唯一としたまま極まったら、ここまで行き着いてしまうのかと。どんでん返しにも驚かされましたが、それ以上に納得させられました。素晴ら…
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