第12章 いつもそばに
リヒャルトは警部の車で本宅に戻っていったが、帰り際にクラレンスにこう言った。
「ノワール様やリョウ様を宜しく頼みますよ、クラレンス。お二人が末永くお幸せに暮らせることが、フランツ様と私にとっての望みですから」
それを聞いたクラレンスは、重々しく頷いた。
「もちろんです。今回のことで、お二人をお守りする覚悟が改めて強くなりました。どうぞリヒャルトさんもお体にお気を付けて」
二人は堅い握手を交わして別れた。
その日の夕食はヒューイーやハリーも同席し、久々に賑やかなものとなった。
ハリーは近場で次の依頼を受けるため、もう一晩ここに泊まることになった。
「とにかくだ、今回はロッセーリのジーさんに世話になりまくったワケだからな、当分足をヴェネツィアに向けて寝るんじゃねえぞ?」
ハリーはノワールと井沢にそう言って、美味そうに食事を続ける。
「あのさあ…ハリー?」
井沢がちょっと心配そうな声で訊く。
「もしかして、その…今回呼んだのって依頼料とか…発生したりする?」
「んああ?」
突然の言葉にハリーは驚いた様子になった。苦笑いを浮かべて、
「アホか!お前に払えるわけねえだろ。俺を雇うにはめちゃくちゃ高額な金が要るんだぜ?」
「えっ、だってノワールが…」
井沢が戸惑ってノワールを見遣ると、彼は澄ました表情で食事を続けているだけで何も言わなかった。
しかし口元には可笑しさを堪えきれないといった様子がうかがえた。
「ええっ?また騙された…?」
井沢がそう言うと、ノワールは肩を揺らして笑った。
「ハリーの機嫌次第と言ったはずだがね。というよりも、その男が君に金など要求するはずがなかろう?君のことを、常に心配しているのだから…」
もちろん私の次にな、と付け足す。
それを聞き、ハリーは軽く咳払いをしてみせる。
「おい、ノワール。あんたってホンットに……いや、何でもねえ。何でもねえよ!」
少し照れたようにプイと横を向いてしまうハリー。そんな様子に、井沢はノワールと顔を見合わせてクスッと笑った。
一段落し、食後のコーヒーが出された頃にヒューイーが口を切った。
「ノワール様には本当に感謝の言葉しかありません。会ったこともない私の気持ちを尊重していただけて、ありがたいとしか…」
「いいえ。私にも思うところがありましたので」
ノワールの言葉に、皆が耳を傾ける。
「かつての私は自分のためだけに生きていた。他人に期待をせず、信頼など無意味だと思っていた…」
「……」
「だがイザワと出会い、私は変わった。彼を守りたい、彼の笑顔を傷つけたくない──と。誰かを守るという気持ちが芽生えたのは初めてでした」
聞いている井沢の口元に、優しい微笑みが浮かんだ。
「それが私にとっての“慈悲”だったのでしょう。そこから誰かを救いたい、守りたいという気持ちに繋がることを今回の件で知りました」
ノワールは意志の強い紫紺の瞳を煌めかせて言う。
「守るべき人は血縁ではなく、信頼で決まる──改めてそう思います。今後もご子息をいっそう信頼していく所存です。ヒューイーさんからお預かりした、大切な息子さんですからね」
「ノワール様……ありがとうございます。息子をどうかよろしくお願いいたします」
深く頭を下げるヒューイー。ノワールはクラレンスに頷きかけ、微笑んだ。
「お優しい父上の気持ちを無駄にはしないでくれたまえよ、クラレンス」
「は…はい!勿論です。私もいっそうの信頼をもって、ノワール様とリョウ様をお慕いしていくつもりです!」
そんな息子の成長が嬉しかったのだろう。ヒューイーの目に熱いものがこみ上げてきたようだった。ハンカチで目元を拭う父をクラレンスが優しくなだめていた。
団らん後、アレクに送られ、ヒューイーは市中心部のホテルへと戻っていった。
ノワールがゲストルームはあるからと引き留めたのだが、警察の事情聴取もすべて終わったわけではないというヒューイーの言葉に残念そうに頷くだけだった。
「またいつでもいらして下さい。今よりもさらに息子さんの立派な姿をお見せできるでしょう」
「ありがとうございます。本当にお世話になりました。息子をこれからもよろしくお願いいたします」
ヒューイーと交わした固い握手の名残を、玄関先でノワールはしばらくの間思い返していた。
その夜──
現場検証もすべて終了し、2日前の緊張状態に包まれていた雰囲気とはまったく違う、普段の静けさが戻った庭で、ノワールと井沢は水入らずで話していた。
「いろいろあったのが嘘みたいに静かだね。でも、誰も怪我したり傷ついたりしなくて本当に良かった」
井沢はテラスに通じるところの白いベンチに腰を下ろして、ホッとしたように笑う。傍に立つノワールも頷き、
「そうだな…クラレンスやアシュフォード氏が無事で何よりだった。リックとも久しぶりに会えて喜んでいたようだ」
「うん。楽しそうに話してたね」
井沢はふいにベンチから立ち上がり、ノワールの隣に寄り添うように並ぶ。
その口からぽつりと言葉が漏れた。
「おれも、誰かを守れるようになりたい。ノワールみたいに」
それを聞いたノワールは、静かに微笑みながら応える。
「君はもう充分に私を守ってくれている。君のおかげで、私は昔のように人を撃たずとも誰かを救うことができたのだから」
「……ノワール…」
「ありがとう、イザワ」
短いが深い感謝のこもった言葉だった。
井沢は照れたように笑う。知らないうちにノワールを支えることができていたと知り、嬉しそうな顔になった。
初秋の夜風が頬をかすめ、彼らの髪を優しく揺らして過ぎていく。
言葉を交わさなくとも繋がっている気持ち。それが心にじーんと響いている。
2人が初めて出会った夏からちょうど1年が経った。その間、決して良いことばかりではなく、身も心も傷つき、多くの涙を流した。
しかし、それらがあったからこそ結びつきが深まり、今に通じる。ノワールが過去の自分とは変わってきていると感じたのも、前に進んでいるという証だ。井沢とともに過ごす中で、その感覚はとても大切なことだった。
(血塗られた手を持つ私が誰かを守るために動くようになれたのは、君のおかげだ……イザワ)
(君のために、私はこれからも君を守り続ける。君との優しい生活のために……温かい気持ちを大切にしていきたい)
ノワールは目を伏せ、気持ちを新たにしようとする。
優しい井沢の視線に気づき、ノワールはふと思い出したような顔になった。
「…そういえば、まだ君からの『愛してる』を聞けていなかったな」
「えっ…?」
突然話題が変わり、井沢は困惑したような顔になる。
小さな声では伝えたが、あまりに小さすぎてノワールが聞き取れず保留になっていたのを思い出した。
「え、今?ここで?」
慌てる井沢に対して、ノワールはサラリと言う。
「今なら誰にも聞かれないぞ。我々しかいない」
「……」
少しだけキョロキョロと見回す井沢だったが、確かに夜の静寂が広がるだけで辺りには人影はない。
「…えっと…」
月明かりの射す中で、ノワールの紫紺の瞳をちらっと見る。彼はいつも以上に穏やかな微笑みを浮かべていた。
少しずつ速くなっていく鼓動。
相手にも聞こえてしまいそうなくらい、大きく高鳴っていく。
溜めて…溜めて……井沢は恥ずかしかったが、自分の素直な気持ちを伝えなくてはと思い直す。
彼の目を真っ直ぐに見つめ、頬を少しだけ赤らめながら、
「……愛してるよ、ノワール」
そんなふうに自然にぽろっと零れた言葉。
「……」
照れてしまって言えないとばかり思っていたノワールは少しだけ驚いたように目を見開くが、やがて心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。君のその言葉は、私に情熱と勇気をくれる。いつでも、どんな時でもだ」
「…えへへ…」
照れ笑いする井沢の頬に手を添えて、ノワールはゆっくりと顔を近づけた。
「イザワ…愛している」
低く囁き、すぐ後に柔らかく唇を重ねた。井沢も彼に体を預け、背中にそっと手をまわした。
温かな感触──
無事であったことへの感謝と、そしてよりいっそうの深い愛情をこめて。
抱き合う2人のシルエットがテラスの床に伸びる。月の光が優しく、穏やかに2人を包み込むように輝いていた。
そんな2人を、見ていた者がいた。
ゲストルームに泊まっていたハリーが庭に出て、煙草を吸おうとしていたのだ。
2人の寄り添う姿を木陰から見守るようにしていたハリーの口から、ぼそっと文句が零れ出る。
「なんだあいつら…見てるこっちまで照れちまうじゃねーか、クソッ!」
場を取り繕うかのようにライターに親指をかけ火を点けようとしたが、ハリーはその手を止めた。
音と火が2人の邪魔になるように思えたからだ。
火の着いていない煙草を咥えたまま、
(ま…いいもん見せてもらった、か。貸しがまた増えたってもんだ)
フッと笑い、幸せそうなノワールと井沢に静かに背を向けて部屋に戻っていった。
翌々日には井沢の新しい学校への手続きにいくことが決まっていた。
ハンブルクでの新しい生活、新しい人々との出会い、大切な“家族”ともいえる人との触れ合いに、井沢の胸は高鳴っていた。
そして何よりも──ノワールとの愛を再確認できたことが嬉しかった。
Always with you──
いつも、いつでも君のそばに……
fin.
(2025.10.06 up!)




