ただ無視しただけで、全てが崩壊した件
稽古の合間。
兵
「――あぁッ!」
打ち合いの最中、不注意で一人の兵が腕を切った。
テュエル
「見せてみろ……。
……包帯を取りに行ってくる。
他の者は続けろ。」
静かに、しかし的確に告げて歩き出す。
兵たち
「はっ!!」
残された兵たちは、小声で話し始める。
兵A
「……やっぱテュエル様って優しいよな……」
兵B
「俺も前に手当してもらったけど、手際良いし、結び目も綺麗で全然乱れねぇんだぜ……」
兵C
「厳しいけどさ……自分にも厳しくてまじで尊敬する……」
兵D
「理想像すぎて、ただの憧れじゃ追いつけねぇよ……」
彼らの声は、テュエルの耳には届かない。
ただ包帯を抱え、静かに戻るその背中は——
優しさそのものだった。
その優しさが、
このあと彼自身の胸を切り裂くとは、
まだ誰も知らない。
──。
戻る途中。
静かな回廊の向こう、
視界の端に“二つの影”が映り込んだ。
シャガルとレイラが並んで座り、
湯気の立つ茶を楽しげに口へ運んでいる。
シャガルの腕がレイラの椅子に軽く触れ、
レイラは——
テュエルにしか見せていなかったはずの
“心から緩んだ笑み”を浮かべていた。
その瞬間。
(…………笑ってる…………
レイラ様が…………
あいつと………………)
――バキンッ。
胸の奥で、
硬質な硝子が砕け散る音がした。
呼吸が詰まり、
視界が揺れ、
世界がゆっくりと赤く染まる。
“誰かと笑っているだけ”
それだけのはずなのに。
テュエルには——
自分という存在が薄れていく幻覚のような痛みが走った。
レイラは彼に気づき、
少し気まずそうにしながらも
柔らかく手を上げる。
レイラ
「テュエル」
いつだって届いた声。
幼い頃からずっと、
どんな雑踏の中でも真っ先に拾ってきた声。
しかし——。
テュエルはピクリとも反応せず。
ふいっと背を向けた。
そのまま歩き去る。
【―――――無視――――――】
時間が止まる。
シャガル
「なんだあいつ……感じ悪いな。
なぁ? レイ――」
言葉が止まる。
レイラの笑顔が
“すっ”と凍りつくように消えた。
頬の筋肉は動きを止め、
唇の温度は奪われ、
瞳は一点を見つめたまま
生気を失っていく。
泣いていないのに、
泣いているように見えるほど“表情が死んだ”。
その顔は——
テュエルと出会う前のあの、
何も感じなかった“11歳の雪の少女”そのものだった。
ドスッ……
レイラの胸の奥で、
何かが鈍く落下する音がした。
それは、
二人で積み上げてきた年月、
寄り添い合い、支え合ってきた絆が——
まるで雪崖が崩れ落ちるように
静かに、しかし確実に
音を立てて崩れた音だった。
シャガルは息を呑む。
(……なんて……顔をしておるのだ…………
あいつが……こんな顔をさせたのか……?)
胸を殴られたような痛みと共に、
そっとレイラの肩に触れる。
シャガル
「……レイ……ラ……?」
返事はない。
瞳は虚ろで、
まるで冷たい人形のよう。
シャガルは悟る。
——今のレイラを独りにすれば、壊れる。
そして同時に。
胸の奥で何かが、確かに破裂した。
シャガル
(テュエル…………あの猿……!!
絶対に……!!!許さぬ……!!!)
――――――――――――
朝。
目を覚ましたレイラがまず見るはずの場所――
テュエルの定位置。
普段なら、扉を開けるとそこに
テュエルが笑顔で立っていて、
『レイラ様!おはようございます!今日は快晴です^^
そんな快晴の空よりもレイラ様は眩しく美しいですけどね!』
なんて、毎朝のように言ってくれる。
その声と笑顔が、朝の始まりの合図だった。
だが今朝——
そこにあるのは、幻影のような残像だけ。
テュエルはどこにもいない。
(………………………居ない……)
事実を認めることが、信じられないほど辛い。
胸が締め付けられ、足元がふらつく。
そして——
バタバタッ
音を立てて、膝から崩れ落ちる。
そのまま、無表情のまま、大粒の涙だけが頬を伝う。
声も出せず、ただ静かに、止めどなく。
――
床に倒れ込むその音で、シャガルは飛び起きる。
視線の先にあるのは——
無表情のまま、ただ大粒の涙を流すレイラ。
その冷たく生気のない目に、シャガルの胸はぎゅうっと掴まれ、まるで心臓をえぐられるような痛みに襲われた。
シャガル
「レ……イラ…………」
息が詰まり、体が震える。
その姿は、声を上げて泣いているわけではないのに、胸を打つ雷のような破壊力を持っていた。
今まで守ってきたものが、
――目の前で完全に”壊れていく”――
シャガルは思わず膝をつきそうになりながらも、
レイラのもとへ駆け出した。
胸の奥では、怒り、悲しみ、焦り――
守るべきものが目の前で粉々に壊れた怒りが、渦巻き煮えたぎっていた。
視線がふと、レイラの腕に止まる痣に触れた。
赤黒く浮かぶその痕は、あの男の、嫉妬と独占欲の爪痕が残したものだと、理由もなく胸に刺さるように理解できた。
シャガルの胸で、何かが弾けた。
(……は?)
見た瞬間、その痣がまるで着火剤のようにシャガルの怒りに火をつける。
レイラを傷つけた――その事実だけで、理性は吹き飛び、全身の血が沸騰した。
心の奥で、大切にしていた宝物が、無情にも砕け散る。
それはレイラの笑顔であり、安心して心を預けていたレイラという存在そのもの。今、その全てが、目の前で崩れ去った。
シャガルの拳は自然と握りしめられ、体中の血が怒りで熱を帯びる。
思考は焦点を失い、理性は消え失せた。
手足は、胸の奥から沸き上がる衝動に導かれるように、テュエルの元へ向かっていく。
シャガル
(お前にとって――あの宝物は――
そんなに軽いものだったのか!!?
あの絆は――そんなにも浅いのか!!?
お前の想いは――そんなにも薄っぺらいのか!!!!)
思いがけず湧き上がった怒りと悔しさが全身を焦がす。
胸をえぐられる痛みが、頭の先から足先まで走る。
シャガルは もう止められない――
自然と、理性を振り切り、テュエルへ向かうその足は、誰にも止められない衝動そのものだった。
——この一歩が、止まらぬ怒りの始まりだった。




