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妻が毎日こんな世界を見ていたなんて聞いてない


闇は、どこまでも同じだった。


走っても、走っても、

景色は変わらない。


方向も、距離も、

意味を持たない暗闇。


「……くそ」


テュエルは歯噛みした。


「埒が開かない……」

「このままでは……」


拳を強く握りしめる。


「一刻も早く、お助けしなければいけないのに……!」


その背後で。


シャガルが、ふと足を止めた。


「……違う……」


低く、思考を噛み砕くような声。


「レイラの核……」


テュエルが振り返る。


「核……?」


シャガルは、ゆっくりと首を振った。


「余らが向かうべき所は、場所ではない」


「?!」


「レイラが、レイラであるために必要な物……」


闇の中で、シャガルは目を伏せる。


(レイラが……)

(大切にしているもの……)


それは、記憶ではない。

思い出でも誇りでもない。


過去の出来事の積み重ねではない。


(……違う)


(レイラを、形作ったもの……)


その瞬間。


思考が、一本の線で繋がった。


シャガルの瞳が、僅かに見開かれる。


「……レイラと」


低く、しかし鋭く。


「どこで出会った?」


「……は?」


唐突すぎる問いに、

テュエルは言葉を詰まらせる。


「何を――」


「答えろ」


シャガルの声に、冗談はない。

その眼は、王のそれだった。


「最初だ」


「一番最初……」

「あいつと、出会った場所だ」


その瞬間。


テュエルの中で、

何かが――音を立てて噛み合った。


「…………」


喉が、無意識に鳴る。


「……皇族専用の……庭だ」


言葉が、自然と零れ落ちる。


「俺が……合同訓練を抜けて……」

「昼寝をしていた場所……」


闇の中に、

鮮やかな光景が差し込む。


青い空。

高く、澄み切った昼の空。


静かな庭。

風に揺れる木々。


何も起きていない。

だからこそ――すべてが始まった場所。


「……庭、か」


シャガルが、ぽつりと呟く。


どこか、引っかかるように。


(余も……)


皇族専用の庭にある、大岩。

誰にも邪魔されない、余の特等席。


王としてでも、

妖としてでもなく、

ただ“そこに居た”場所。


「……なるほどな」


次の瞬間。


闇が、きしりと音を立てた。


空間が、歪む。


思い出ではない。

記憶でもない。


“核”に触れたことで、

世界そのものが――応えた。


テュエルが、思わず目を見開く。


「これは…………?!」


「……開いたな」


シャガルが、低く告げる。


二人の前に、

裂け目が――静かに、確かに、開いた。

 

レイラの核へと続く、

直通の歪み。


魄喰の、想定外。


《……侵入許可は……》

《……出していない……》


だが、躊躇はなかった。


二人は、同時に踏み出す。


――レイラを、迎えに行くために。



 ――――――


歪みを抜けた瞬間。


「――――ッ!!」


テュエルの喉から、思わず声が漏れた。


視界が――

壊れた。


色が、重なる。

音が、重なる。

匂いも、温度も、気配も――

すべてが、同時に押し寄せる。


それは、幻覚でも異常でもない。

レイラが、いつも味わっている世界の“それ”だった。


(……なんだ、これ……!!)


耳鳴りのような雑音。

だがそれは音ではない。


人の感情。

世界からの殺気。

地面に染み込んだ血の記憶。

空気に残る祈りと呪詛。


世界そのものが、

叫んでいる。


「……っ、ぐ……!」


膝が、落ちかける。


シャガルも、同時だった。


「……これは……」


奥歯を、強く噛みしめる。


王として、妖として、

数え切れぬ戦場を見てきた。


それでも――

これは別物だった。


視えてしまう。


人の奥底。

人の本能。

隠された悪意。

抑え込まれた恐怖。


それらが、

“景色”として、流れ込んでくる。


「これを……毎日、か……」


シャガルの声は、低く掠れていた。


「……ぐっ……!」


額に、じわりと汗が滲む。


テュエルは、必死に呼吸を整える。


「ダイン…陛下も……?」


シャガルは、短く首を振った。


「いや……」

「あやつは、五感は鋭かったが……」


一拍、言葉を切る。


「――“目”は、持っていない」


その言葉の重さに、

テュエルは、息を呑んだ。


視界が、まだ、揺れている。


立っているだけで、

精神が削られていく感覚。


テュエルは、思わず零した。


「……生きてるだけで……」


喉が、わずかに震える。


「…まるで……罰じゃないか……」


シャガルは、否定しなかった。


それが、答えだった。


(……だから……)


(すぐ、眠るわけだ……)


(倒れるわけだ……)


その瞬間。


――ひそり。


どこからともなく、声が混じった。


「……姫様って……」

「ねぇ……ちょっと、不気味じゃない……?」

「何を考えてるのか、分からなくて……」


女官たちの、噂話。


意識して聞いたわけじゃない。

拒もうとしても、遮断できない。


ただ――

“届いてしまう”。


テュエルが、思わず歯を食いしばる。


(……聞こえる……)


その時。


幼い声が、静かに重なった。


【……何も、考えてないのに……】


それは、誰の声でもない。

言葉でもない。


――レイラの、内側。


【考えたって……無駄……】


【考えることが……無駄……だもん】


六歳の思考。


世界を拒絶するためでも、

拗ねているわけでもない。


壊れないために、思考を止めた。


それが、

彼女なりの、生存方法だった。


シャガルは、

そこで初めて、はっきりと理解した。


(……だから、だ)


(思い出でもない)

(誇りでもない)

(記憶の積み重ねでもない)


(……あそこだ)


レイラが、

初めて“何も見なくてよかった場所”


初めて、

世界が、牙を剥かなかった場所。



――闇が、うねる。


視界に流れ込む、

レイラの五感の奔流。


音。

色。

感情。

気配。


世界そのものが、

二人の意識を引き裂こうとしていた。


「……くそ……!」


テュエルが、歯を食いしばる。


「このままじゃ……」

「飲まれる……!」


シャガルは、深く息を吐いた。


「……焦るな」


低く、だが断ち切るような声。


「想像しろ」


テュエルが、はっとする。


「想像……?」


「そうだ」


シャガルは、目を閉じる。


「場所だ」


テュエルの中で、

答えが、はっきりと形を取った。


「……庭…」


小さく、だが確信を込めて。


「皇族専用の……庭」


テュエルも、目を閉じる。


思い浮かべる。


青い空。

風に揺れる木々。

静かな石畳。

誰にも邪魔されない、昼の光。


「……そうだ」


シャガルが、静かに言った。


「そこだ」


二人の意識が、

同じ一点へと、重なる。


次の瞬間――


耳鳴りが、消えた。


押し寄せていた感覚が、

嘘のように、静まる。


世界が、初めて――

牙を剥かなかった。


「……解けたな」


シャガルが、低く呟く。



そして。



 歪みを抜けた、二人の前に。


広がっていたのは――

闇の中にあるとは思えないほど、澄んだ青空だった。


風があり、

やわらかな光があり、

肌に触れる温度は、どこか懐かしく、心地よい。


ここは――

レイラの核。


皇族の庭。


それは、戻るための場所ではない。

逃げ込むための場所でもない。


レイラが――

レイラとして在り始めた、原点。


かつて、城は全焼し、失われた。

だが双国の民は、王を偲び、記憶を抱き、

この庭を再び築き上げた。


そのため、景色は現在の庭とよく似ていながら、

どこか、微妙に違っている。


時間が、重なっているのだ。


テュエルが、息を吐くように呟いた。


「……懐かしい……」


彼の視線は、確かに“ここ”を覚えていた。


一方、シャガルは、わずかに首を傾げる。


「…………?」


この時代を、彼は知らない。

だが――

胸の奥に、説明のつかない引っかかりだけが残った。


テュエルは、静かに歩き出す。


かつて、昼寝をしていた場所へ。

そして――

六歳のレイラに、声をかけられた、あの地点へ。


――そこに、いた。


皇族の庭の中央に佇む、六歳のレイラ。


氷のように感情を閉ざした、その表情は変わらない。

だが、瞳からは、静かに涙が流れていた。


泣き声は、ない。

助けを求める仕草も、ない。


ただ、孤独のまま。

小さな身体で、立ち尽くしている。


その姿を見た瞬間――

シャガルは、息を呑んだ。


――一緒だ。


テュエルの嫉妬によって、

理由もわからぬまま、距離を置かれた、あの日。

拒絶されたと、思い込んでしまった、あの時。


「また、独りになるのか」


そう思い詰めてしまった――

あの日のレイラ。


その表情と、

目の前にいる六歳の少女の顔が、重なる。


(……同じだ)


氷のように静かで、

誰にも助けを求めない。


本来なら、

六歳など、無邪気さの塊のはずだ。


笑い、泣き、走り回り、

世界を疑いなく信じる年頃。


だが、彼女は違った。


(……あぁ……)


(本当に……氷のような子供だったのだな……)


その事実が、

胸を、強く締めつける。


――だが。


その隣で、

テュエルが抱いた感情は、まったく異なっていた。


目を細め、

懐かしむように、安堵するように。


(……あぁ……)


(そうだ……これが……)


(これが、レイラ様だ)


胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。


氷のような表情。

感情を表に出さず、

誰にも甘えず、

誰も信じず、

ただ静かに世界を見つめていた姿。


(……原点だ)


(懐かしい……)


(この後だ……)


(この方は、俺と手合わせをして――)


(そして……)


(あの、陽だまりのような笑顔を……)


あの日。

護衛になると決めた理由。


それは、忠義でも、義務でもない。


――守りたい、と

初めて、心から思った瞬間だった。


だからこそ。


二人は、同時に、

その少女へと声をかける。


テュエルが、穏やかに。


「レイラ様。

お迎えにあがりました^^」


シャガルが、自然に。


「レイラ。

――帰るぞ」


その言葉だけで――

レイラには、十分だった。


争っていない。

責め合っていない。

傷つけ合っていない。


ただ、

二人が並んで、ここにいる。


それだけで。



 

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