【悪女の側】知らなかった令嬢は、黙っていた令嬢は、言わせた令嬢は
独立した三部作の三作目です。各作それぞれ完結しますが、初読は【断罪された側】→【親友の側】→【悪女の側】の順がおすすめです。
泥棒猫、という言葉を聞くたび、商家育ちの癖で相場を付けたくなる。
市場でその日いちばん安い魚くらいの値だと思う。誰でも投げられて、日持ちがしない。
建国祭の夜会から一年。男爵令嬢ミレーヌ――つまり私は、その安い言葉を毎日浴びて過ごした。王太子殿下をたぶらかし、公爵令嬢から婚約者を奪った悪女。縁談は消え、招待状は絶え、父の店の貴族向けの取引は三件減った。
先週は、店の壁に赤い塗料で「毒花」と書かれた。父は職人を呼んで塗り直させ、ついでに壁全体を明るい色に替えた。
「前から塗り替えたかったんだ。宣伝費が浮いた」
父はそういう人だ。私の悪名の請求書を、父は一度も私に回さなかった。
明日、私は家族と港町へ発つ。父の商いの本拠を移すのだ。
荷造りはほとんど終わった。残っているのは、机の上の帳簿が一冊。
商品の帳簿ではない。貸し借りの帳簿だ。一頁目に、十二年前の日付で、たった一行だけ記されている。
『傘、一本。――未返済』
商家の帳簿は、貸しを忘れないためにある。
けれどこの一冊だけは逆だ。忘れないでいるために、借りたものを書く。父の教えにはない使い方だった。
◇◇◇
十歳の春、私は初めて貴族の庭園会に出た。
男爵位は、父が船と倉庫と二十年で買ったものだ。招かれた私は、成り上がりの見本として、それはそれは丁寧に扱われた。
わざと零されたお茶。聞こえるように話される陰口。仕上げは、帰りの馬車の手配を「うっかり」忘れられたことだった。
十歳の私は、まだ相場を知らなかった。自分が何を間違えたのかを数えて、間違いがひとつも見つからないことに、いちばん傷ついていた。
にわか雨の庭で、私は使用人の出入り口の脇に立っていた。軒は狭く、半分濡れていた。通りかかる使用人は皆、目を伏せた。成り上がりの娘に構うなと、言われていたのだろう。
傘が、目の前に現れたのはそのときだ。
白い小さな手が、私の手に柄を握らせた。同じ年頃の、見知らぬ少女だった。
「おうちまで、まっすぐ帰るのよ」
「……あなたが、濡れます」
「あなたが濡れていると、私が寒いの」
少女は変な理屈を言い、それから胸を張った。
「大丈夫。私、走るのが得意なの」
少女は本当に走っていった。ぜんぜん速くなかった。水たまりを二つ踏んで、庭の向こうの建物に消えた。
後から知った。あれはフォルタン公爵家の一人娘、アデール様。次の王太子妃と目される人だった。
もっと後から知った。あの方は、この一件を覚えていない。
数年後の茶会で、それとなく傘の話を向けてみたら、あの方は首をかしげて、「どなたかとお間違いでは」と困ったように微笑んだ。
覚えていない親切だけが、本物だと私は思っている。
値札のついた親切なら、商家の娘は見飽きるほど見てきた。あの傘には、値札がなかった。だから利子が付く。十二年、複利で付き続けた。
ついでに白状すれば、あの日の私は、家に帰ったら父に「貴族をやめて」と泣きつくつもりだった。傘一本のせいで、言いそびれた。男爵令嬢ミレーヌは、つまり、あの傘を元手に立っている。
元手をすり減らされて黙っている商人は、いない。
◇◇◇
返済の機会は、最悪の形で巡ってきた。
一年半前、父の名代で王宮へ出入りするようになった私は、遠目にあの方を見た。
式典の裏で、来賓の名を殿下に耳打ちし、落ちた杯を目配せ一つで片付けさせ、殿下の言い間違いを笑顔で上書きする。王太子の有能さと呼ばれているものの正体は、隣に立つ婚約者だった。
冬の夜会では、こんなこともあった。酔った老侯爵が殿下に絡み、場が凍りかけた。あの方は扇を一度閉じ、老侯爵の亡き奥方の思い出話へ、会話ごと持ち上げてみせた。老侯爵は上機嫌で帰り、手柄は殿下の器量ということになった。
拍手は、いつも隣の人に流れる。あの方はそれを、当然の配分のような顔で受け入れていた。
配分がおかしい、と思うのは、たぶん商人の子の癖だ。
そして春の公務で、あの方は一度、目を閉じて揺れた。
深い礼に見えた。私には、立ったまま燃え尽きる寸前の人に見えた。倉庫で働き詰めの人夫が倒れる直前、ああいう揺れ方をする。
調べれば調べるほど、あの婚約は出口のない契約だった。
両家合意の政略。円満に解消するには理由が要る。あの方の側の事情を理由にすれば、あの方が傷物になる。王家の都合を理由にすれば、公爵家との同盟に亀裂が入り、結局あの方が責めを負う。
どちらに転んでも、あの方が払う。
もっと早く、誰かが動いていれば、別の道もあったのかもしれない。けれど、あの方が次に倒れてしまう前に、今から間に合う道は、一本しか見つからなかった。
ならば、誰も理由を言わなければいい。
ただし、密室で解けば、公爵家が娘を差し出したと噂される。書面だけで解けば、王家はあとからいくらでも理由を書き足せる。だから、三百人の証人の前で、殿下ご自身の口に理由を拒ませる。証人の前で示さなかった理由は、あとから責任を軽くする材料には使えない。付け足せば、王家が、三百人を証人とした宣言を、自らの手で翻すことになる。
それでも世間は、勝手に理由を探す。人の噂は、空欄を嫌う。だから空欄には、先に埋め草を差しておく。心変わりした愚かな王太子と、たぶらかした成り上がりの悪女。疑いの目が残らずこちらへ向くように。あの方の欄だけを、空白のまま守り切る。
それに、殿下おひとりの乱心となれば、王家は公爵家へ詫び、賠償し、同盟を守る側に回らざるを得ない。公開の侮辱は、王家が頭を下げる理由になっても、公爵家が退く理由にはならない。
契約は、破り方で値段が変わる。理由を示さぬ一方的な破棄。契約の世界でいちばん行儀の悪い、だからこそ非の全てが破った側に載る破り方。あの方は名誉に傷を負わないまま、同情と賠償だけを受け取って、外へ出られる。
必要なものは、三つ。
悪辣な王太子と、憎まれ役の女と、一言一句間違えない台本だった。
二つ目は、私でいい。どうせ社交界に、置いていく物はない。
父にだけは、私の悪名が店へ及ぶかもしれない、とだけ話した。父は帳簿から顔も上げずに言った。
「店の勘定は、私がする。お前は、お前の勘定をしなさい」
◇◇◇
殿下は、思っていたより話の早い人だった。そして思っていたとおり、弱い人だった。
「僕だって、彼女が限界なのは分かっている。だが婚約を動かせば、フォルタン公と父上が」
「ですから、殿下おひとりの、突発的なご乱心ということにいたします。台本はこちらで書きます。殿下は覚えて、言うだけ」
「……君は、僕に一生の汚名を着ろと言っている」
「はい。私も着ます。お揃いです」
殿下はしばらく黙り、それから、独り言のように言った。
「僕は昔から、幼いうちに結ぶ婚約が嫌いだった。結んだ分だけ長く、二人の自由を担保に取る。婚約があるから、破棄で泣く人間が出る。……するなら、式の直前で足りるんだ」
「ご立派なお考えです。十年、実行なさらなかったことを除けば」
「……手厳しいな」
「思想は在庫です、殿下。店に並べなければ、無いのと同じですわ」
「言えなかったんだ。あの人は、決められた約束を守り抜く側の人だ。僕が制度を疑えば、あの人が守ってきた十年ごと、疑うことになる」
それに、と殿下は続けた。
「人を増やそうとしたことは、ある。だが彼女は、増えた人間の仕事まで覚えた。休めと言えば、自分の務めが足りないのかと謝られた。……僕が婚約者である限り、あの人は、自分から檻へ戻るんだ」
「それで十年、あの方の働きに甘えたのですね」
「……そうだ」
言い逃れをしない人だ、と少しだけ見直した。弱い人の理屈で、けれど、嘘の匂いはしなかった。
殿下は長いこと私を見た。
「……君は、彼女の何なんだ」
「債務者です」
「は?」
「こちらの話です。お忘れください」
殿下は一度、深く息を吸った。それから、初めて王族らしい顔で言った。
「今さらでも、あの人の名誉が守れるのなら、汚名は僕が着る。――台本をくれ」
稽古は温室で三度行った。殿下は毎回、台詞を勝手に和らげた。
「『理由は追って沙汰する』では駄目なのですか」
「駄目です。追って沙汰したら、理由が生まれてしまう。理由は、どんな嘘でも、必ずあの方を刺す形に育ちます。――理由を示さぬ破棄だけが、あの方を刺さない」
「せめて『すまない』と一言」
「もっと駄目。あの場での『すまない』は、殿下の評判を少し軽くする代わりに、あの方へ『許すかどうか』という荷物を運びます。王家が正式に頭を下げるのは、あとで結構です」
殿下は台本を睨み、それから、絞り出すように言った。
「僕は十年、あの人に何をしてきたんだろうな」
「それを考えるのは、当夜が終わってからになさってください。今は一文字も変えずに覚える。それが殿下にできる、唯一の誠意です」
ひどい言い草だと、自分でも思う。けれど台本の一文字は、あの方の名誉を守る壁の一部だ。まけられない。
仕上げに、当夜より先の仕事も約束させた。
「殿下、お役目はあの夜で終わりません。当分のあいだ、愚か者を続けていただきます」
「……続ける?」
「王家は必ず、復縁であの夜の傷を繕おうとします。ですが、殿下が愚か者のままなら言い出せない。万一言い出せば、今度は、断ったあの方が薄情者にされてしまいます。……愚か者の在庫だけは、切らさないでくださいませ」
殿下は苦い顔で、分かった、と言った。
仕込みは、台本の外にもある。破棄の五日前から、殿下と二度、人目の多い刻限の庭園を歩いた。噂という魚は、餌を先に撒いた池ほど、当日よく釣れる。
三度目の稽古を、伯爵令嬢のソレンヌ様に聞かれた。
鉢植えの陰から出てきた彼女は、青い顔で、それでも逃げなかった。あの方の親友は、あの方に似て、逃げない人だった。
聡い人だった。説明を聞き終えた彼女は、止めなかった。代わりに三日間、ひとりで抱えることを選んだ。私は彼女に手紙を預けた。私が渡し損ねたときの、保険として。
共犯者が増える夜は、少しだけ、荷が軽くなった。困った発見だった。
◇◇◇
手紙は、三度目の稽古の前の晩に書いた。
便箋を二枚、無駄にした。
一枚目は、事情を全部書いて、破いた。真相は、あの方に「誰かの罪」を背負わせる。知らないままが、いちばん軽い。
二枚目は、謝罪を書いて、破いた。謝れば、あの方は私を許すかどうか、考えなくてはならなくなる。悪女に許しは要らない。
三枚目に、必要なことだけを書いた。
あなたは、何一つ悪くありません。
どうか、奪われたのではなく、お返ししたのだと思ってください。
最後の一行だけ、私情を書いた。……いつか、傘のお礼をさせてください。
帳簿の癖で、貸し借りを書かずにいられなかった。悪女にも、業というものがある。
署名は、入れなかった。万一あの手紙が誰の目に触れても、ただの見舞い文で通るように。見られて困る一行は、最初から書かない。
それから、同じ文面を、もう一通だけ写した。ソレンヌ様に預けたのは、そちらの一通だ。
◇◇◇
当夜のことは、実は、あまり覚えていない。
殿下は完璧だった。三度の稽古でいちばん上手かった。私は殿下の斜め後ろで、勝ち誇った悪女の顔を作って立っていた。
悪女の顔は、鏡の前で三晩練習した。口角を上げ、顎を引き、扇は開かない。開くと、指の震えが伝わるからだ。
会場の囁きが、値踏みの音に聞こえた。泥棒猫。成り上がり。けっこう。全部、私が発注した評判だ。納品が確かで何よりだった。
覚えているのは、あの方の背中が震えていたことと、それでも折れなかったことだ。
私の仕事で、いちばん難しかったのは、台本でも演技でもなかった。
あの震える背中に、駆け寄らないこと。
傘を差し出しに行かないこと。それだけだった。
すれ違いざま、袖に手紙を差し込んだ。触れた指先は、十二年前の雨の日の、私の手と同じ温度をしていた。
◇◇◇
それからの一年は、請求書の季節だった。
悪名、縁談の消滅、取引三件。父は帳簿を眺めて、「安い」と一言だけ言った。父は昔から、私が本当に欲しいものの値段だけは、見誤らない人だ。
母は何も聞かなかった。ただ、あの夜会の翌朝から、食卓に私の好物ばかりが並ぶようになった。無言の炊き出しは、ひと月続いた。
家族というものは、帳簿の外で商いをする。私はまだ、その帳尻の合わせ方を知らない。
殿下とは、あれきり一度だけ話した。廃太子こそ免れたが、彼の評判は床に落ちたままだ。
「僕は一生、愚か者として記録されるんだな」
「ええ。それが殿下の払う分です。……お安くはありませんが、払えない額でもありません」
殿下は初めて、台本にない顔で笑った。あの人はあの人で、檻の中にいたのだ。愚か者の役は、彼が生まれて初めて自分で選んだ役だった。
そして、港町への移転。父の商いの都合というのは表向きで、これも仕舞いの手順のうちだ。店と倉庫を畳み、本拠を移す支度には、きっちり一年かかった。悪女がいつまでも王都にいては、噂が育ち続ける。退場して、忘れられて、店の看板から私の名前が剥がれるところまでが、悪女の役だ。
◇◇◇
出発の朝、馬車へ乗り込む寸前に、一通の手紙が届いた。
差出人の欄に、フォルタン、の文字。
指が、少しだけ震えた。悪女ともあろうものが。
開けるまでに、朝の鐘が二度鳴った。
罵倒なら、それでよかった。真相に気づいた上での絶縁状なら、それも計画のうちだと言い聞かせてきた。想定していなかったのは――あの方が、いつも想定の外から来ることだった。昔から、そうだった。
『ミレーヌ様へ
お手紙を、一年かけて、ようやく開きました。臆病をお笑いください。
あの夜のことは、ソレンヌから聞きました。怖かったことも、救われたことも、どちらも本当です。ですから、お礼もお叱りも、お会いしてから、直接いたします。
傘のことは、懸命に思い出そうとしたのですが、どうしても思い出せませんでした。
ですから、お礼は受け取れません。
その代わり、新しい貸しを作りにいらしてください。南の丘の、青い屋根の家です。雨の日でも、遠くから分かるようにしてあります。
友人と二人、下手な水彩と、上手な紅茶をご用意してお待ちしています。
あなたが濡れていると、私が寒いのです』
最後の一行で、駄目だった。
覚えていないくせに。あの方は、覚えていないくせに、十二年前とまったく同じことを言う。
人が変わらないということが、こんなに恐ろしくて、こんなにありがたい。
私は馬車の中で、商家の娘にあるまじき顔で泣いた。母が黙ってハンカチを差し出し、父は窓の外を見るふりをしてくれた。
帳簿の一頁目に、私は新しい一行を書き足す。
『傘、一本。――返済は受領を拒否された。代わりに、青い屋根の家への訪問予約、一件』
取り立てに行かなければならない借りが、また増えた。
悪女の帳簿は、今日も黒字だ。
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。三部作は、これで完結です。
同じ一件を別の視点から描いた【断罪された側】【親友の側】も、それぞれ単独で完結しています。三本を読み終えてから一作目へ戻ると、あの夜会が少し違って見えるかもしれません。
作者は普段、「前世が地方公務員だったので普通の行政で領地を立て直す」といった、専門職の主人公が異世界の問題を地道な実務で解決するお仕事ファンタジーや、SF短編を書いています。似た読み味がお好きでしたら、作者ページをのぞいてみてください。お気に入りユーザ登録をしておいていただくと、新作の折に見つけやすくなります。
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