第3話:神の試練を終えし者
――そして。
長い時が、過ぎた。
広大な空間に、カイは静かに立っていた。
いや――立っているのは、あの気弱な少年と、同じ姿のはずだった。ずり落ちる眼鏡も、痩せた肩も、変わらない。歳すら、取っていない。
なのに、纏う空気が、まるで別人だった。
ここまで歩んできた途方もない年月―― 一万二千年・十二界。
丸まっていた背は、すっと伸びている。伏せていた目は、まっすぐ前を見ていた。その瞳の奥に、星が生まれては消えるような、深く、静かな光が宿っている。
周囲には微かな光が揺れ、彼を導くように集まっては消え、また現れている。
その光が彼の内面に呼応し、今やカイは自らの心と宇宙が一体化したような感覚を得ていた。
一界ごとに、限界の先を求められた。肉体も、心も、数えきれぬほど砕けた。そのたびに、たった独りで、自分を繋ぎ止め、立ち上がってきた。
恐れも、迷いも、とうに越えて。気づけば、人間だった頃の自分が、ひどく遠い。
「ついに、ここまで来たな……」
ぽつりと落ちたその声に、もう、怯えはなかった。
「ついに……終わるのか」
自身の呟きが広い空間に吸い込まれていく。果てしない孤独に耐え、幾多の世界の知恵と万物の力を手にしてきたが、今も胸に残るのは、静かな高揚と、深い、深い静寂だけだった。
この空間には、最初から誰も存在しない。神の試練の全てを終えた自分を、見届ける者もいなければ、もはや試されることもない。
自分自身だけがここにいる――そんな感覚が、魂の奥底からこみ上げる。
すると、彼の頭にいつか聞いたあの冷ややかな声が、悠久の時を越え、再び響いた。
『よくぞここまで来た。君は、神となる試練を乗り越えた』
たったその一言を聞いた瞬間、カイの胸にすさまじい達成感が満ちた。人間だった頃の記憶も、抱いていたであろう夢や希望すら遥か彼方へと消え去るほどの長い年月を越え、ついに修練を成し遂げたのだ。
自分がこれまでに辿った年月を振り返ろうとするが、あまりに膨大な時間が重なり合った途方もないレイヤーが続いている。
『声』が続ける。カイは、静かに次の言葉を待つ。
『では、最後の試練だ。あの壁の向こうにある出口へ行くのだ』
カイは、ゆっくりと顔を上げる。
眼前に、あの壁。
一万二千年前、傷ひとつ付けられなかった、厚い漆黒。世界を塞ぐ、絶対の障害。
『穴を、ひとつでいい。君が通れるだけの、小さな――』
「いや。……もう」
カイは、壁に向かって、そっと手をかざした。
「ボクの行く手を阻むものは、存在していない」
――その瞬間。
音も、なかった。光も、衝撃も。
ただ、世界を塞いでいたはずの漆黒の壁が、最初から無かったかのように、消えていた。
穴ではない。砕けた残骸も、ない。
ただ、きれいに――無く、なっていた。
『…………』
一万二千年、この少年を導いてきた声が、初めて、絶句した。
『……あの壁を。存在ごと、消し去ったのか』
「ああ」
カイは、振り返りもせず、静かに答えた。
「存在しなければ、無いのと同じだからね」
『声』は、しばらく、沈黙して。
『……末恐ろしい子だ。よかろう。これで君は、神となる資格を得たのだ』
ようやく絞り出されたその声には、労いと、わずかな畏れが、滲んでいた。
『だが——、今の君が、そのまま地上に戻れば、神が降臨するに等しい。人間たちは驚き、恐怖し、世界がパニックに陥る危険がある』
「……確かに」
カイは、今の自分がどれだけの影響力を持つのかを理解していた。これほどの能力を自覚したまま元の世界に戻ったとしたら、世界が混乱するというのは容易に想像できる。
『よって、ここでの記憶は封じることにする。ただし、修行で得た力はすべて維持される』
「記憶は封じるけど、力は残す……と?」
『そうだ。そして、状況に応じて君は、自らが何者であるかを徐々に思い出していくことになる。その過程で世界も君の力に順応していくだろう』
そう告げられた瞬間、空間がゆっくりと変化し始め、彼の視界は白い光に包まれていく。その光は穏やかで、すべてを包み込み、あらゆる存在の根源に触れるような温かさを帯びていた。
その光の中で、カイは「人間」という存在がもはや遠い記憶のように感じられ、彼自身が果てしない生命の流れと一つになっていることを悟る。己が世界の一部であり、世界そのものであるという感覚。すべての命と共鳴し、神の心を宿す者として、これから自分が何を為すべきかが、自然と浮かび上がってきたが、同時に全てを忘れていく感覚に包まれた。
『では、行くがいい――”神託者”よ』
白い光が、すべてを包んだ。
一万二千年が。神になった意識が。あの果てのない孤独が――ゆっくりと、少年の奥底へ沈んでゆく。
……行ってらっしゃい。
最後に声が、そう言った気がした。
(つづく)




