表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Holy Conquest  作者: Qosmin
4/6

4節

 誰かに蹴られて目を覚ますと、すぐそこにギヨームがいた。先ほどまで目蓋の裏に広がっていた灰色の故郷の風景はもうなく、小さな明り取り窓からは青い空が見えた。


 アルトーは蹴られたことへの文句を言おうとするが、ギヨームに睨まれて口を閉じた。そのときになってようやく、辺りの異変に気づく。昨夜は足の踏み場もないくらいに人で埋まっていた兵舎にはその半数ほどもおらず、どこか浮き足立ったような雰囲気があった。決戦を控えて殺気立った緊張感もなく、浮ついた空気を引き締める司令官の姿すらない。朝食に固いパンを配る光景もなく、空腹を抱えたまま戸惑うアルトーに、ギヨームは告げた。


「急いで支度をしろ。早々に出るぞ」


 急かされるままにチェーンメイルを着て剣を持ちながらも、アルトーにはまだ、何が起きているのかさえわからなかった。ギヨームに背中を押されて外に出ると青い空が広がり、城壁から見下ろす海にもそれが映されていた。マルマラ海を取り囲む入り江のシルエットが、朝日を浴びて美しく浮かんでいる。目を凝らせばどこまでも見通せそうなほど澄んだ風景。だがそんなものとは対照的に、城壁を挟んだ反対側に広がるコンスタンティノープルの街は煤けていた。


 破壊された建築物から巻き上がる砂埃と、火攻めの苛烈さを示すようにあちらこちらから立ち上る黒煙。街には戦闘に巻き込まれるのを怖れて市民たちが姿を消していた閑散とした様子は既になく、殺伐とした喧騒に溢れていた。通りを行き来する者たちの多くが味方の兵士たちで、彼らの上げる統制の取れていない喚声が、耳鳴りのように響いていた。


「一体何があったんだ!」


 城壁を駆け下りて街へ降りようとするギヨームに訊ねると、彼は大宮殿を指した。示されるままに目を遣り、アルトーは唖然した。そこには昨日まで確かにはためいていた、ビザンツ帝国の象徴である双頭のワシの旗が消えていた。


「どういうことだ!」


 先行するギヨームに怒鳴ると、彼は首だけを後ろに向けた。


「詳しいことは俺も知らん。だが昨夜の内に腰抜けの皇帝が逃げ出したらしい。それを察知した貴族どもは先を競うように宮殿を占拠し、戦いは集結したというわけだ。今頃ヤツらは手柄の取り合いで忙しいんだろうさ」


 街へ降りて、アルトーはそこでようやく何が行われているのかを理解した。略奪だ。敗者に待ち受ける運命は、ここでも例外ではないらしい。信仰のために剣を取った兵士たちはその手で市民の家の扉を叩き壊し、食料を、金目のものを、自らの懐の中に入れていく。市民たちの怯えた目も、慈悲の対象にはならなかった。兵士たちは足元に縋りつく男を邪魔だと蹴り飛ばすと、そのまま剣で刺していく。やがて大量の血を失って地面に這い蹲るしかなくなった男を、一人の兵士が踏みつける。彼が一言二言何やら呟くと、周りの連中はさも勝ち誇ったように笑っていた。男には身を守るための鎧も、誰かを傷つけるための剣も、何も持ってはいなかった。


 その光景は正に、兄たちの最期を見ているようだった。突如東から訪れた異民族に弄られ、そして殺された。僅かな麦と、僅かな金品。それが兄の命の値段だった。そのために彼らは顔の形が変わるまで殴られ、腹を裂かれた。神の存在さえも知らない連中はどこまでも残酷で、どこまでも野蛮だった。だが、それと同じことがこの、神の軍でさえも行われていた。


 止めに入ろうとするアルトーの手を、ギヨームが掴んだ。振り解こうとするも、その屈強な腕力に勝てるはずもなく、引き摺られるようにして歩いた。


 辺りを眺めてみれば、よくよくそんな光景に溢れていた。今更一つの事象を止めたところで、全体のうねりを止められるはずもない。路肩には名も知らぬ死体が打ち捨てられていて、戦利品を貪り、昂揚した声が木霊する。まるで獣が我がもの顔で闊歩しているみたいだ。アルトーはそんな彼らの胸や肩口に入った十字の紋様から目を逸らした。


 殺してはならない。盗んではならない。神が嘗て啓示した言葉を、アルトーは繰り返す。そうすることで、自分の理性を守ろうとしていたのかもしれない。だがその度に、目の前で起きている現実との差が、より鮮明になるような気がした。


 ギヨームは一体どう思っているのだろう。毎晩聖書を読み解き、神の御心に触れんとする男には、この光景がどのように映っているのだろう。そう思って覗き込んだ彼の顔からは、何の感情も読み取れなかった。


 城壁からは次々と全裸の男女が吊るされていく。恐らくは逃げ遅れた貴族たちに違いない。彼らの身に纏う服には華美な刺繍が施されていて、それが西欧の特権階級のものたちの流行となっているらしい。持ち帰れば高値で取引されることは、同行していたヴェネツィアの商人たちから聞いていた。戦に負けた彼らは全ての財を奪われ、肌を隠すための布さえも与えられずに惨めに死んでいく。そこには魂を導くための祈りも何もなく、悼まれない気持ちにさせられる。


「しめた!」


 突然ギヨームが声を上げたかと思うと、民家のドアを蹴り破った。彼が他の暴漢たちと同じ行動を取ったことに唖然としていると、遠慮もなしに家の中に入っていく。もうわけもわからなかった。たった一晩で世界が、人々の心が、ひっくり返ってしまったように感じられた。悪い夢でも見ているのかもしれない。だけど、それを信じるにはあまりにも荒んだ空気は暴力的で、無秩序な世界に取り残されるのを怖れたアルトーはギヨームの後に続いた。


 中には女がいた。歳はアルトーよりも一回りくらい上なのかもしれない。板に布を敷いたベッドの上で半身を起こし、怯えた目でギヨームを見ていた。恐らく病に冒されているのだろう。肌はやや黒ずみ、足は立つことができるのか心配になるほど細く骨が浮いていた。脇に十歳ほどの男の子を守るように抱くその姿は母親を思い出させ、アルトーは思わず目を背けた。恐怖と理不尽な憤りを湛えた視線が容赦なく向けられていた。


 アルトーの様子を気にするでもなく、ギヨームは女を見据えて低く唸った。


「おい、食い物はどこだ」


 震える指先で、女は部屋の奥を指す。そこにはかまどにかけられた大鍋があり、魚を煮込んだ生臭い匂いがした。その更に奥には幾つかの壷があり、その中には麦や野菜が入っているのだろう。


 何はともあれ、女が従順でいてくれることに、アルトーは安堵していた。相手が無抵抗ならば、こちらが乱暴に振舞う必要などない。食べ物が欲しいのなら、こちらの事情を説明してわけてもらえばそれでいい。厳つい顔をするギヨームだって、わかっているはずだ。そう、思った。


 ギヨームは女が指し示すままに室内を眺めると、小さく頷いた。きっと彼も女の素直な態度に満足したのだろう。そんな雰囲気が伝わったのか、女も頷き返した。彼女の瞳に浮かんだ警戒色が、少しだけ和らいだような気がした。そしてギヨームは徐に体を大鍋の方に向けると何気ない手つきで剣を掴み、そして女の喉を刺した。


 悲鳴を上げたのは母親の血で汚れた男の子ではなく、寧ろアルトーの方だった。唐突の出来事に目を背けることもできず、女の喉から溢れる色彩の鮮やかさをただ、目に焼き付けるだけだった。それがベッドに敷いた布を染め、男の子の頬を染める。床まで滴れ落ちて爪先まで濡らしてもまだ、ギヨームは眉一つ動かさなかった。まるで戦場で勇猛に敵の首を切り落とすのと同じように、彼は冷静に無抵抗の命を一つ奪ったのだ。


 母親の亡骸にしがみついたままの少年の目は大きく見開き、顎は小さく震えている。徐々に手の中の温もりが失われていく現実に、彼は一体何を思うのだろう。理不尽に別れを与えられた少年に、アルトーは自分の姿を重ねずにはいられなかった。その戸惑いも、憤りも、不安も、恐れも、全て自らの胸の中にも強く灯った感情であるし、今もそれが消えたわけではない。そして男の子の惑う瞳はゆっくりと宙を泳ぐと、睨むようにギヨームを見た。それと同じ目が自分にも向けられていることに、アルトーは胸を詰まらせていた。


 ――これは試練なのです。


 あの日、神父はそう言った。これがアルトーという一人の人間を測るために神が下された試金石だとしたら、どうすることが正しいのだろうか。一体どうすることで彼を救うことができ、神の愛を体現できるのだろう。答えを求めるようにギヨームを見る。髭面の大男はやはり表情も変えずに剣を引き抜くと、その切先を汚す血も乾かないままに、少年の首を撥ねた。


 アルトーは目を瞠ったまま、動けなかった。結局、何もしてやれない内に親子はただ、物を言わぬ肉の塊に成り果てた。支える力を失った二つの体は寄り添うように重なり合うと、ベッドの上に崩れ落ちていく。母親の血で濡れた床に男の子の血が流れていき、やがてそれは一つに混じり合った。まるで生まれ分かれる前の生命に戻っていくようだった。


 ギヨームが剣の汚れを振り払うように一度大きく宙を薙ぐと、頬に水滴が飛んでくる。手で拭うと、赤く汚れた。もう冷たくなっているはずなのに、それはひりつくような熱さを感じた。


 二つの死に何の感慨も持っていないのか、ギヨームはさっさと部屋の奥へ向かうと、大鍋の中身を皿に装った。そのまま傍らの椅子に豪快に座ると、今人を殺したばかりのその手で食事をする。アルトーにはそれが信じられなかった。


「なぜ、殺した!」


 震える声で訊ねると、ギヨームは口の中にものを詰めたまま答えた。いつもと同じく聖書を読み聞かせるときのように、自然に。


「殺さない理由がないからな。奴らはラハブでも、何でもない」


 ラハブとは、エリコの街にいた娼婦の名だ。ヨシュアがカナンの地攻略にあたって調査のために送った斥候を、彼女は追っ手から匿った。エリコの街の民を裏切ったその行為によって彼女は、善き業を為した者としてヤコブの手紙においても賞賛されている。今回の戦いでその役目を果たしたのはコンスタンティノープルに居留していたヴェネツィア人たちであり、目の前で静かに横たわる親子などではないのだと言いたいのだろう。助ける理由などない。それでもアルトーは、容易に納得できなかった。


 いつの間にか睨むような目つきになっていた彼に、ギヨームは笑った。


「そんなに怖い顔をするな。別に単純なことだ。二人分の飯がある食卓に四人が座っている。腹一杯食うにはどうすればいいか? 答えは簡単だ。二人減らせばいい」


 お前の分だと投げて寄越されたパンを、アルトーは見つめた。親子を殺して、得たものがそれだ。そのために二人はただ、死んだ。


 ギヨームの理屈は多分、正しいのだろう。自分も経験してきたことだ。母親を見殺しにしたから、ヴェネツィアへ辿り着くことができた。その間の食料や宿の心配をしなくて良かったのは、二人で分けていたものが一人になったからだ。聖地へ行くことが神の意思なのだと、神父は言った。だからアルトーが旅立つためには母の死は必要で、それは主の望んだ必然だったのかもしれない。


 だがその選別は物質的にアルトーを満たしただけで、救いを求める心は飢えたままだった。いくら腹が膨れたところで、自らが背負った十字架の重みがなくなるわけでもない。


 そして今、新たな十字架を背負った。それなのに、こんなときでも思い出したように腹が鳴る。齧り付こうとして反射的に口が開く。そんな浅ましい自分がただ、惨めだった。これもきっと、主のお与えになった試練の一つなのかもしれない。こんなときにイエスは、モーセは、一体どうされるのだろう。そう考えながらも唾が溜まり、胃が沸き上がるのをアルトーは止めることができなかった。補給の乏しい戦いが続いていたせいで慢性的に続いていた空腹はもう、耐え難いところまできていた。


「お前の持っているパンはどうあがいたところでただのパンでしかない。お前が食わなかったとしても誰か別のヤツの腹に入るか、捨てられるだけだ」


 アルトーの躊躇いを見透かしたようにギヨームが口を挟む。アルトーは自分の弱さを主に詫びると、パンを口に運んでいく。そして一瞬手を止めると、意を決したように一気に頬張った。


 味なんてまるでわからなかった。硬く乾いたパンを無理矢理に噛みしめていく。そして飲み込むところになって、アルトーは嘔吐した。寄り添うように折り重なった親子の死体はまだ、目の前にあった。


 血の海の上に一頻り胃液をぶちまけるアルトーを見て、ギヨームは鼻を鳴らした。空になった皿を投げ出すと、椅子から立ち上がる。そして無言で立ち去ろうとする男の背中を、アルトーは縋りつくように追った。


 何を信じていいのか、わからない。その男をこのまま信じ続けていいのかも。それでも歪む視界の中で、独りで取り残されることがただ、怖かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ