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Holy Conquest  作者: Qosmin
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3節

 戸を閉めた室内は薄暗く、鉛のように重たい時が満たしていた。視線の先にある壁の染みは物心つく前からあるもので、いつまで経っても変わらない風景に、アルトーは溜息を吐いた。


 変わらないのは壁の染みだけではない。辺りを取り囲む広い草原や森も、五百人にも満たない農村の人々の暮らしぶりも、顔ぶれも、ただ判で押したように同じ日々が、途方もなく漠然と連なっていた。今日も一日健やかに働けることに、そしてパンとスープが得られることに感謝しなさい。そう言われて毎日祈りを奉げてきた。でも、それだけだった。


 しかし、何もかもが変わらなかったわけではない。家族五人で暮らしていた家には母親と二人だけになり、広くなった。そしてその母親も藁を敷いただけの簡単なベッドの上で、次第に痩せ細っていた。麦の収穫を終えて二日後に倒れた彼女は、疲れが溜まっていたのねと言って、心配する息子に謝った。


 ささくれ、細っていく体に、黒く浮かび上がる斑点。それが流行の病であることはすぐにわかった。村ではもう、何人かの者が同じ症状で倒れ、命を落とす者もいた。だけど気丈に笑う母親には、何も言えなかった。


 薬が有効なのだという話は、時々村に訪れる行商人から聞いて知っていた。大きな街では比較的その薬が手に入りやすく、だから地方の農村に比べてあまり深刻な状況にはなっていないのだという。この薬さえあれば、と。少しなら分けてやるという商人の言葉に、アルトーはポケットを探った。指先に触れる冷たい感触に、思わず手を握り締める。一枚、二枚、三枚――手の中にある硬貨の数は何度数えても変わらない。それが、アルトーと母親がこの冬を越すために必要な、唯一の財産だった。薬もそれに比べれば安いものではなく、後にはただ、冬に飢える姿しか想像できなかった。


 そして、結局何も掴まないまま手を出した。


 お大事にと、商人は項垂れるアルトーの肩を叩いた。手元に残った金の一部で、パンと僅かなぶどう酒を買った。冬を迎える空には重い灰色の雲が圧し掛かり、足場の悪い小道をトボトボと歩いた。


 帰り着いた家の中は、心なしかいつもよりも暗く感じた。板に藁を敷いただけのベッドにテーブルと炉といった必要最低限のものしかない伽藍堂な空間が、そこにいる人間の生気までも吸い取っているように感じられた。


 母親が倒れた日からそうだ。


 そもそも母はよく笑う女だった。だから小さな明かり窓しかない室内も明るく感じたし、つい先日まではそれがあった。ある大雨の日に父親が帰らなかった夜も、異民族の襲来で二人の兄が殺された日の後も、彼女は幼いアルトーの手を握りながら変わらず笑った。私がいるから大丈夫だから、と。感情のままに泣きじゃくる息子の肩を抱く腕には、少しの動揺も、怯えも、感じられなかった。不安や恐怖を遠ざけるように笑う彼女がいたから、アルトーもまた笑えたのだと思う。そしてその度に母は主に祈りを奉げた。いつか幸あらんことを、と。あまりにも熱心に祈るのだから、いつしかアルトーも一緒に手を合わせるようになっていた。彼は、自分が大いなる愛に包まれているのを感じた。


 母はアルトーと交わした言葉を必死で守ろうとしていたのかもしれない。だから彼女は一つの愚痴も溢さずに働いたし、息子を食わせるために乞食の真似事までしていた。そうまでする彼女には、一欠けらも嘘はなかった。だから今回も、少し休んでいれば良くなるという母の言葉を信じようと思った。肌からは明らかに生気が抜け落ち、手も足も痩せ細っていくのに、それは病などではなく、薬なんて必要ないものなのだと、信じたかった。そして母親も、何も気づいていないということにすると決めたのだろう。大丈夫だからと、泣きそうな顔をして覗き込むアルトーの顔を撫でると、弱々しく笑った。


 胸が突き刺される想いがした。ポケットの中に入った硬貨が、ただひたすら重かった。


 大丈夫だからと、母親はもう一度繰り返した。だからあんたは――その言葉の先は、結局聞くことはできなかった。


 そして、それから程なくして、母親は死んだ。本格的な冬の訪れを告げる雪が、舞い始めた頃だった。


 神父が故人を偲ぶ言葉を紡ぐのを、アルトーは黙って聞いていた。墓地にはアルトーと神父の他には、棺を埋めるために狩り出された隣家の男たちが数人いるだけしかいない。吹きさらす木枯らしがただ、寒かった。生前、不幸が続いたこともあって母はよく教会に通った。だから神父としても積もった思い出話があるのだろう。だけど男たちは長々と続く説教には無関心そうに、頻りに冷えた手や腕を擦っていた。


 ようやく最期のときになって、アルトーは棺に入れられた母親の頬に触れた。悲しいときや辛いときに決まって安心と温もりをくれた彼女は、残酷なまでに冷たくなっていた。


 まるで彼女から溢れていた愛が全て、抜け落ちてしまったみたいだった。


 あなたがいてくれてよかった。死ぬ間際にそう言って笑った母親の顔をまともに見れずに、アルトーは立ち上がった。母親の命と引き換えに手元に残った金はまだ、ポケットの中に入っていた。


 棺が土に覆われて見えなくなるのはすぐだった。そして役目を終えた男たちが去っていくのもまた、すぐだった。


 人気のなくなった墓地には、寂しさだけが残った。よく笑い、ただ一人残った息子のためにもがき続けた母親が最期に辿り着いたのは、こんなにも寒々とした土の下だった。これではあんまりではないかと、アルトーは思った。夫を失い、二人の息子を失った彼女はいつ、心の底から笑えていたのだろう。いつか幸せをと願い続けた彼女の祈りは、一体どこで消えてしまったのだろう。その答えを知りたくて天を仰ぎ見ても、主の声は一向に聞こえなかった。


「俺は、間違っていたのでしょうか?」


 自分が飢えるのが嫌で、母親に薬を買わなかった。本来比べられるはずのないものを、天秤にかけてしまった。そんな想いに駆られると、ポケットの中の硬貨が途端に卑しいものに思えた。


「人はいつだって正しい選択ができるわけではありません。時には欲望であったり、情といったものに目が眩むかもしれない。だからこそ我々は信仰を通じて完全なる主の御心に触れ、来るべきときに道を誤らぬようにしなければならないのです」


 悔しさで震える体を支えるように、神父がそっとアルトーの肩を抱いた。吐く息が白く凍るほど寒かったから、人の体温に安心したのかもしれない。涙は辛うじて出なかった。


「アルトーよ、悲しみに囚われてはなりません。これは主からあなたに与えられた試練なのです」

「……試練、ですか?」


 そう呟き返すと、神父は確信に満ちた表情で頷いた。


 試練に耐え忍ぶ人は幸いである。ヤコブは同胞に宛てた書簡の中でそう説いた。耐え抜き認められた者は、神を愛する人々に約束された命の冠を頂くから、と。ヤコブ自身多くの試練に打ち克ち、その末に大いなる祝福を受けてる。


 そんな聖書の一節を引き合いにして、神父は試練の大切さを語った。悲しいとき、不幸だと感じるときほど信仰が試されるのだと。神は乗り越えられない試練は与えないのだと。試練を通じて人は、偉大なる父の愛を理解できるのだと。


 耳元で囁かれる言葉の一つひとつを、アルトーは上手く掴み取ることができなかった。今まさに埋められたばかりの母の墓前で、心はまだ混乱していた。だけどそれは教会に吊るされた鐘を揺らす風のように、胸の内を小さく震わせているのを感じた。


「主がなさることには全て意味があるのです」


 母親が亡くなったことも、それが今だったことにも、全て。


 だがその意味を、アルトーは見つけ出せないでいた。つい先日まで自分を包んでいてくれた温かな笑顔と、亡くなって冷たくなった母親の笑みを思い出す。夫の失踪や息子たちの死に涙さえも流せずに、笑うしかなかった彼女の心情を想う。一人残った息子のために自分を殺して働いて、病んでいった姿が目に浮かぶ。挙句の果てに、神が息子に試練を下すために命を奪われた彼女の人生とは一体、なんだったのだろう。あんなにも神を愛し、いつか幸せをと願い続けた彼女を、主はなぜ見殺しにしたのだろう。


 そんな心の中に湧き起こった疑問を他所に、神父は背中を押した。


「アルトーよ、聖地を目指しなさい」


 異教徒に占領された聖地の奪還を、教皇が呼びかけていることは、既に噂になっていた。神の何たるかもしらぬ異教徒たちの手から聖地と聖遺物をいかに守ることができるか、いかにして正しい神への信仰を守ることができるのか、それが最早西欧社会全体に課せられた命題となっていた。病没したシャンパーニュ伯の跡を継いだモンフェラート候の指導の下、有力な貴族たちが続々とヴェネティアに集結を始めているらしい。


 信仰のために自らの危険も顧みない彼らは英雄であり、その話をアルトーは今まさに進行する冒険譚のように聞いていた。彼らが旅立ったあとも自分は、この変わり映えのしない景色の中で、土を耕しているのだろうと思っていた。しかし、神父はその当事者になるように言った。神のために戦う兵士となれ、と。


「それこそが主の意思であり、あなたに与えられた試練なのです」


 結局、神父の言葉には何も答えられなかった。何も考えられなかったし、考えたくもなかった。そのときはまだ母親を失ったことで、頭が一杯だった。


 帰り着いた家は広かった。父親がいなくなったときと、そして兄たちが殺されたときと一緒だ。そうしてアルトーは一人きりになっていた。誰もいない室内で、傍らの藁を敷いたベッドの上で、膝を抱いて座った。そこからただぼんやりと、薄暗い灰色の壁を眺めていた。


 陽が落ちても、アルトーはずっとそのままの格好でいた。外では雪雲に覆われていて、月明りもない夜だった。それなのにランプさえも点けようとはせずただ、夕闇の中に深く落ちていた。煤けた壁を虚ろに眺めながらアルトーは、家の端々にある母の面影を探していたのかもしれない。


 身動ぎをすると、ポケットの中で金属が擦れる感触がした。手で掴み出すと、片手の上で全て納まるだけの金が闇の中で微かに光を弾いていた。それを目にしたアルトーは、小さな嗚咽を漏らす。教会の教えの通り日々労働に励んだ結果がそれだ。だがそんな僅かばかりの富では、誰も救うことはできなかった。もっとここに売り払ってしまえるだけの財産があれば、もっと沢山の金があれば、もっと自分に力があれば――そんな後悔にすらならない呪いの言葉が浮かんでは消え、思わず拳を握った。


 こんなもののために母は死んだのか。そう言葉にするよりも先に、アルトーは握り締めた硬貨を壁に向かって思い切り投げつけていた。バラバラに飛んでいくそれが闇の中で弾けると、甲高い耳障りな音が聞こえた。だがそれもやがて、夜に包まれて消える。アルトーは歯を食いしばると顔を伏せた。


 それから三日ほどが経ってもまだ、アルトーはベッドの上で膝を抱えていた。その間食事も取らず、起きているのか寝ているのかも覚束なかった。時間の感覚さえもなく、今が朝なのか夜なのか、それさえもわからなかった。空は相変わらず厚い雪雲で覆われているらしく、差し込む光もない。だから暗い室内で、何かを考えているようでもあり、ただ泥の中に深く埋もれているようでもあった。頭の片隅にはいつも母の死と、それを試練だと言った神父の言葉があった。だけどその実態は闇の中に溶けてしまっているみたいで、手を伸ばしても何も掴めはしなかった。


 それだから、不意に差した白けた光に、アルトーは目を細めた。見つめ続けていたくすんだ灰色の壁は清らかな白に染まり、それをきっかけにふと、青い空が見たいと思った。


 気づけばまるで本能だけで行動する動物のように、身体は動き出していた。ベッドから転げるように立ち上がると、長い間同じ体勢でいたためか、固くなった関節が節々で痛んだ。しかし、そんなものも気にせずに、木のドアを開く。


 外はまだ、夜と朝が溶け合っていた。いつの間にか降り積もった雪に大地は息を潜め、森は薄紫色の帳の中だった。空も、変わらず厚い灰色の雲に覆われている。


 何かに衝き動かされるように、アルトーは雪を掻き分けると丘を登った。冷たい空気は肺を刺し、口からは白い息が溢れているのに、少しも苦しいとは感じなかった。手足を襲うはずの冷たさすらない。まるで自分の意思ではなく、誰かに引き寄せられているような気がした。ふと、約束の地を前にしたイスラエルの民たちもきっと、こんなふうだったのではないかと思う。丘の頂きが見えると、切れ切れの息も構わずアルトーは駆け出した。空は未だ霞んでいて、青い輝きは少しも見当たらない。それなのにアルトーが頂上に立つと、それを待っていたかのように東の雲が割れた。


 涙が溢れていることに、暫く気づかなかった。清らかな朝日は優しく頬を濡らし、アルトーはそっと手を添えた。まるで誰かの体温に触れたみたいに、温かかった。誰かの慈しみに包まれているように、心地よかった。自分はまだ、愛されているのだと感じた。頭ではなく、心がそれをはっきりと理解したのだ。


 ――今こそ主の愛に報いるべきときなのです。


 母の墓前で聞いた神父の言葉を思い出す。振り返ると雪の白に覆われて、家族で過ごした家は見えなかった。自分の帰りを待つ母さえももういない。繋がれていると思っていた鎖はいつの間にか解けていて、気づけば野に惑っていた。迷える子羊ならきっと、どこへ行くにも自由なはずだ。


 胸が一つ、大きく跳ねるのを感じた。


 もう一度東の空を見ると、先ほどよりも強い光がアルトーを照らした。それを、目を細めることもせず見据える。聖地を目指すことこそが神の意思である。そんな神父の言葉を裏付けるかのように、光は聖地から伸びているような気がした。


 これは道標なのだ。そう思った。


 母が召された意味も、主が自らに与えた試練の意味も、アルトーにはまだわからなかった。だけど、予感があった。主の御心に寄り添えば、あるいは――。


 そこから見える空は、やはり灰色にくすんだままだった。青く澄み渡る空が見たいのだと、アルトーは改めて思った。


 家に戻ると、散らばっていた金を拾い集めてポケットにしまった。そしてその二日後に彼は、教会からうち捨てられた剣と鎧を譲り受けると、故郷をあとにした。


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