こころの叫び
「電話じゃ、らちがあかない。上がろう」
「うん」
太っちょと玲華はエレベータで十階へ上がった。
ドアをたたく。返事がない。仕舞いに太っちょはドアを激しく蹴飛ばし始めた。
補助鍵の金属パイプが付いたまま二十センチほどドアが開いた。
「警察をよぶぞ」富岡の声だ。
「あんた富岡って人ね。ここにいて一番都合が悪いのはあなたじゃなくって?」
「脅迫するつもりか」
「ええそうよ。華子さんを引き渡しなさい」
「そんな人間はいない」
「うそ、いま電話で話したところよ」
「いないといったらいない。それより、その後ろのデブは何者だ」
「俺は華子の恋人だ。許婚だ。いいから早くここを開けろ。そうしないと富岡氏がここにいるって大騒ぎするぞ。下のロビーには顔の知れた外国のお偉いさんがウヨウヨいて、新聞記者も山ほどいたぜ」
富岡はドアを開けた。奥のベットに横たわる女性の姿が二人の目に一目散に飛び込んできた。
叫ぶ太っちょ。
「華子!」
そこには一見して信じがたい華子の姿があった。
その姿はまるでパステル色の絵の具で描かれた肖像画のように薄く、その輪郭も今まさに消えかけているように見える。
今を生きている人間の姿には到底見えない。
太っちょは華子に駆け寄った。体は透き通っていて太っちょの手の平は虚しくベットの上についた。
「華子! 華子! 華子――――!」
玲華はあっけにとられたように口を開き、声も出ない。
その時富岡は上着を取ると逃げるように部屋を出て行った。
「ほらね。もともと人生永すぎたわけじゃよ。君の華子なんて、もともとこの世にいなかったわけじゃね」
先ほどの自称占い師の老人がいつの間にか部屋の入り口のところにいた。
我に返ったように、太っちょが老人の方へ向き直った。その目は激しく血走っている。
――ある時点へ戻って分岐された人生。それは、不幸を背負ったまま終わらせないという、誰かのお情けなのか。
太っちょは目を力いっぱい閉じ、歯を食いしばった。そして喉の奥から声を搾り出した。
「人生のハッピーエンドだとう? そんなことを望んでいない人間だっているんだ。人それぞれ、その人なりの人生なんだ。リセットだ? そんなことをする権利は神にだってない! あるはずがない! あってはいけないんだ!
華子はなあ。必死に人を愛し続けてとうとう悪事に手を染めてしまったんだ。そんな華子の人生なんか、煙みたいに消えてなくなってもいいとでも言うのか! おまえは! ええ?」
自称占い師の老人はじっとだまって聴いていた。何も言わない。その目は少し大きく見開かれている。
「このやろう! 何とか言いやがれ。このうすらじじい!」
太っちょは老人に掴みかかろうとして、その体をすりぬけ思いっきりドアに頭を打ち付けることになった。
「あっ、あなた大丈夫?」
太っちょが頭をかかえながら振り向くと、そこには華子が立っていた。いや、太っちょの見間違えだ。華子ではない。ヤマンバルックの玲華だ。すでに濃い化粧も半ば落ちかけてところどころに華子の顔が見え隠れする。
太っちょはベッドの方を見た。既に華子の姿は消えてしまっていて見えない。
「華子――――!」
太っちょは絶叫した。
「だから頭大丈夫?」と玲華。いや、華子。どっちだ! ともかく今、部屋には太っちょ以外は一人の女性しかいない。
「華子? か? おまえ、華子か?」
「そうよ。どうしたのよ。頭打っておかしくなった?」
「玲華はどこへいった」
「誰よそれ。まさかまたあんた、他にヘンな女作ったわけ? いい加減にしないと怒るよ」
太っちょは涙を流しながら笑いだした。
華子はちょっと残念そうな表情を見せながら言った。
「あっ、そうか、私だってあなたに内緒でスケベなおじさんと会ってたもんね。とうとうバレちゃったね。でも、それは、すべて太っちょと私のため。本当だよ。まさか、太っちょがここまで来るとは思ってなかったよう」
「おまえ、その化粧何とかしろ」
華子は部屋の入り口に備え付けられた鏡を見た。
「やだあ。何この化粧。酷い。誰のいたずら?」
「ははは」もう一度太っちょは泣き笑いをした。