・其之漆・
宇治より右大将が帰って、一ヶ月が過ぎた。暦は長月から神無月へと変わり、季節は秋から冬へと移る。
宮廷内では特に何もなく、智成は相変わらず検非違使府生だった。
「小鹿殿、小鹿殿!一大事だぞ!」
静かに文章を作成していた智成の元に府生仲間の『廿条殿』こと春日利親がいつものように滑り込んでくる。
「何ですか騒々しい……」
煩げに智成が眉をひそめると、利親はバンと机に手を突いて、ヌッと顔を突き出した。
「新しい上司が来る。元服したての坊ちゃんらしいが、容姿端麗でその上、舞は宮中一の腕前。」
「ふーん…」
智成は興味なさげに聞き流す。彼にとって上司が誰になろうがあまり関係ないことであったからだ。
「おい、もうちょっと興味を示せよ。しかも元服前は上皇の寵童だったらしいぜ。」
「私には関係ありませんから…」
そう言っていると、戸口の方が騒がしくなる。大尉殿がひょっこり顔を出し、続いて若い官吏が出てきた。
どうやら新米の“上司”に大尉殿が案内しているようである。
「おお、ちょうどいい。ほらアレだぜ。新しい上司って…」
利親に促され智成が顔を上げると、丁度その新米上司と眼があった。
向こうも智成に気がつくと、大尉殿もそっちのけで新米上司は一直線に彼のもとに来る。
「え?」
声を上げたのは利親だ。智成はぽかんと口をあけている。新米上司はにっこり笑って言った。
「久しいですね、智成殿。本日より検非違佐に任官された源敦雅です。その節はお世話になりました。」
智成は、最初はわからなかったが、やがて開けていた口が更に開く。思わず利親を押しのけて、敦雅を指差した。
「えっ…も…もしかして…稲女殿…じゃなくって、菊若殿?」
「はい、元服して敦雅と名を変えました。これから立場は上となりますが、仕事以外では以前と同じ付き合いをしてくださいね。」
「え、ええ、もちろんです。稲…じゃなかった。敦雅殿さえよければ、是非。」
智成の返答に、ホッとした表情を見せて、敦雅は握手をと手を差し出す。智成はしっかりとその手を握る。
「よかった…もし覚えていてくださらなかったらどうしようかと…私も随分不安だったのですよ。」
「いや、髪形も変わったし、身なりも変わったし、それに随分男らしくなったから…ちょっとわかりませんでしたよ。」
「嬉しいな、男らしくなった。だなんて…貴方様に言われると。」
敦雅は頬を染めた。智成も微笑む。ついていけないのは大尉殿と利親である。
「お…おい!どうして小鹿殿と検非違佐殿が知り合いなんだ?さっぱり分からん。」
感動の再会ムードの中、すっかり存在を忘れ去られていた利親が二人の間に割って入る。敦雅が笑ってそれに答えた。
「実は、元服前に智成殿には随分お世話になりましてね。」
「な…なにぃっ?」
眼を白黒させている利親に敦雅は更に追い討ちをかけた。
「智成殿からは求婚もされていまして…」
「わっ、わっ、わぁっ!」
奇声を発して語尾をさらったのは智成、だけどその言葉の主旨は既に皆に伝わってしまっていた。
新任検非違佐と府生のやり取りに耳をそばだてていた噂好きの案主たちは、左右の者と激しく意見交換を始める。
その様子を魂の抜けた様子で見つめる智成……
「どうしてくれるんですか…敦雅殿……」
「小鹿殿…人の噂も七十五日…がんばって耐えなされ」
敦雅がポンと智成の肩を叩き慰める。しかし智成はストンと腰を落とし、床にペッタリ座りこんで叫ぶのだった。
「これから私は、どうすればいいんですかぁっっっっ!」




