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・其之伍・

「あ…頭…痛い…」


差し込んだ朝日に照らし出され、智成は苦しげに唸った。


「大丈夫ですか、智成殿。」


昨夜からずっと彼の傍を離れていない稲女が水を差し出す。


「う…あ…稲女殿。気分が悪いです。一体これは……」


「二日酔いですよ。もしかして、お酒…飲んだことなかったですか?」


智成は首を左右に振るが、すぐに偏頭痛に襲われたらしく、頭を抱え込んだ。


「いいえ、始めて…という訳ではないのですが…飲み慣れないもので…」


「そうでしたか…昨晩は随分勧めてしまい…申し訳ありませんでした。」


稲女はしおらしく俯く。その様子に慌てたのは智成だ。


「い…いえ…私がつい飲みすぎてしまったのですから、稲女殿が謝られることはございませんよ。」


「…そうでしょうか……」


顔を上げようとしない稲女にどうして良いか次の言葉を智成が考えていると、御簾の向こうから翁がやってきた。


「稲女、ここにいたか…すまんがそろそろ朝の準備をするので、下に行って水を汲んで来てもらいたい。」


「あ…はい。」


稲女は言われたとおりに立ち上がる。それを見た智成も、頭痛に耐えて慌てて彼女の後を追った。


「私も参ります。」


「……」


稲女は振り向き智成を見つめる。しばらく黙っていたが、口元をほころばせて言った。


「そうですね。閉じこもっているよりは、動いていた方が気分も晴れましょう。」





 この屋敷の水汲み場は、庭を右手に折れたところより続く獣道をしばらく下ったところにある。

そこは美しい清流で、時折跳ねる魚は岩魚か鮎か、舞い落ちた川面の紅いもみぢ葉が錦を織り成している。

空は青く澄み渡り、風は凛として涼やか、朝露に草も青く輝き、景色は枯れ果てる冬を前に最後の輝きを見せていた。


「昨日参った所も美しかったですが…ここも美しいですね。」


「ええ、私はここを気に入っていますの。智成殿にも気に入っていただき、光栄ですわ。頭痛…大丈夫ですか?」


「大丈夫ですよ。この美しい景色を見ていたら、そんなことも忘れていました。」


「美しい…そうですね。」


手桶を傍らに置き、稲女は深呼吸して瞼を下ろす。


「人と契らば 濃く契れ 薄き紅葉も 散れば散るもの」


「え…」


智成はおどろいて稲女を見る。彼女は見られていることに気がついて、振り返った。


「何でもございません。さあ、水を汲んで帰りましょう。父上も朝の支度が出来なくて困っているでしょうから…」


憂いの表情を一掃し、稲女は元気良く岩を伝って水を汲む。智成も聞き違いだったかと表情を戻して後を追った。


「手桶は私が持ちましょう。私も検非違使、そのくらいの力仕事は出来ますゆえ。」


「あら、まだ根に持っていたのですね。」


稲女は彼がまだ昨日鹹(から)かった事を覚えていたのに苦笑する。そして手桶を差し出した。


「では、お言葉に甘えましょうか。」




道々話し帰りつくと翁が出迎える。


「稲女待っていたぞ。おや、智成殿に持たせて。すまないなぁ、智成殿。」


手桶を受け取って翁が恐縮すると、智成は自分の言い出したことだからと首を振る。


「では智成殿は向こうでお待ちくだされ。稲女や、手伝っておくれ。」


「はい、父上。」


稲女が(たすき)をかけて行ってしまうと智成は居場所をなくしてしまって、部屋に戻る。


部屋には饗宴の跡に頼長と公春が待っていた。


「おや、出ていたのですか?」


いつもの絶やさない微笑で公春が問いかけてくる。


「ええ、稲女殿と下の小川に水汲みに参っていました。」


「……」


頼長は不貞腐れた様にそっぽを向いていたが、やがて懐から筆と紙とを取り出すと、物凄い勢いで書き付けて「ん」と智成に押し付けた。

そうしてニヤリと笑うと公春と智成を残して庭に降りる。紙には次のような文句が書き付けてあった。


  『秋山戚戚葉零零  (秋山は戚戚 葉は零零)


   糜鹿鳴音数処聆  (糜鹿の鳴音 数処に()く)


   勝地尋来遊宴処  (勝地尋ね来たりて遊宴する処)


   無朋無酒意猶冷』 (朋無く酒無く 意猶冷し)


漢詩に智成が困っていると、公春が後ろから覗き込む。


「おや、これは管公の詩ではありませんか。ふむ…」


「頼長様が何故私に管公の詩を?」


理由が分からない智成は尋ねる。公春はしばらく考え、やがて智成を見る。


「分かりましたよ。全く…素直じゃないんだから。こんなに捻ったら、智成殿には伝わらないでしょうに…

まあ、まだ詩自体を書いてきたところが救いですが…」


「え、どういう事ですか?」


公春の独り言が分からない智成は戸惑いを隠せない。


「ご自分で考えなさい。と言いたいところですが、智成殿にはまだ教えていないところです。」


「はあ…」


「 “奥山にもみぢふみわけなく鹿の”の歌はご存知ですか?」


公春はにっこりと笑って言う。智成は、漢詩の話をしていたのに何故和歌が出てこなければならないのか分からない。それでも何とか記憶を辿って歌を思い出す。


「 “奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき”でしたっけ?」


「そうです。この歌は古今集の四巻、秋に読み人知らずとしてあります。」


公春は満足げに頷いた。智成は間違っていなかったと胸をなでおろす。


「しかし、その歌が管公の漢詩と何の関係があるのですか?」


智成が首を傾げる。公春は人差し指を、智成の顔の前に立てる。


「大有りですよ。先ほどの漢詩はこの歌を元に作られたものなのです。」


「はぁ…」


生返事を返す智成に焦れてか、公春は人差し指を智成の鼻先に押し付けた。


「頼長様は徹底的に和歌嫌いですからね。

恐らくは“奥山に”の方の歌を智成殿に差し上げたかったのでしょうが、それでは癪なのでそれを元に作られた漢詩を送られたのでしょう。“なく鹿”は稲女殿を追ってばかりの智成殿。更に管公の“勝地尋来遊宴処”を昨日の宴に掛けているのでしょう。」


智成は唖然と公春を見つめた。


「 “友無く 酒無く 意猶冷し”?」


公春はこっくりと頷き


「酌をさせて頂いていた私にとっては、甚だ不本意ですが…」


と付け加える。

聞くなり智成は部屋を飛び出し、庭の頼長に駆け寄った。


「頼長様!」


叫んだはいいが、後が続かない。困っていると頼長がゆっくりと振り向く。


「小鹿…稲女が好きか?」


「え……」


智成はその眼差しにうろたえる。頼長は再び聞いた。


「小鹿、稲女を好いているのか。」


「…稲女殿は良くして下さいますゆえ。」


智成の脳裏に“奥山の”の歌が蘇る。

“なく鹿”を智成に例えた頼長、「好き」の意味が、自分の回答とずれているのを分からない智成ではない。


 彼は首をブンブン左右に振って、もう一度回答しなおした。


「…稲女殿は好きです。けれど、それが恋かどうかは…私には分かりません。」


「…私の目から見れば、お前はまるで恋する牡鹿に見えるがな…」


「……」


また絶句する智成。静寂が二人の間に流れる。


それに終止符を打ったのは頼長だった。


「今日中にも我々は山を降りることになった。呼び出されたのだよ、宮中で問題が起こったらしい。」


「え…では」


「そうだ。これから当分、宇治に来る予定は無い。お前さえ望むならば、稲女を公春か俊通の養女にさせよう。」


その言葉に、智成の頬に紅が注す。

つまりそれは、稲女をそれ相応の身分にして、智成の嫁に迎えればいいということだったのだ。


「どうだ、智成。そなたは私のように官位に縛られ、妻を押し付けられることも無いのだ。もし稲女を好いたのならば……」







「公春殿、何が楽しいのだ?」


御簾越しに庭の喧騒を見ていた公春に、俊通が声をかけた。


「おや、私は楽しそうにしていましたか?」


公春はいつもの表情のまま俊通を見る。俊通は頷いた。


「ああ、随分楽しそうだったぞ。」


「そうですか。確かに楽しいですけれど…それが顔に出てしまっていたならば、私の修行不足ですね。」


微かに眉をひそめる公春に、俊通は首をひねる。


「庭に見えるのは…頼長様と智成殿か。一体何があったのだ?」


「頼長様のお手並みを、拝見させていただいていただけですよ。」


公春がさらりと言うと、俊通はぎょっとして御簾に張り付いた。


「手並みって…頼長様がとうとう智成殿をか!そうか…智成殿もいよいよ…」


「残念ながら違いますよ。早合点されては困りますな、俊通殿。まあ我々には関係ありませんけど。」


公春はきびすを返した。

一人残された俊通は御簾に張り付いてまだ外を見ていたのだった。



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