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目を開けた瞬間、空気が違うと感じた。
(……ここ、どこ?)
見慣れない天井。石造りの壁。体は無傷。服もそのまま。けれど、空気が妙に澄んでいて、現実感が薄かった。
「目覚めましたか、異界の方」
声に反応して振り向くと、白い法衣をまとった人物が立っていた。年齢不詳の男性。その背後には、神殿のような荘厳な空間が広がっている。
「あなたは、神の導きによってこの地に召喚されたのです」
楓は眉をひそめた。
(“召喚”?……ファンタジーの話みたい。信じろっていうの?)
でも、状況は現実だった。数分前まで自室にいたはずなのに、今は見知らぬ場所に立っている。
「……話を聞かせてください。混乱はしていますが、冷静に判断したいです」
その言葉に、神官は満足げに頷いた。
楓は神殿の広間に案内され、白い石の祭壇の前に座らされた。周囲には複数の神官が控えていたが、話を主導するのは一人の男だった。
長身で、銀髪を後ろに束ねた五十代ほどの神官。その声は低く、よく通る。まるで舞台俳優のような語り口だった。
「異界の来訪者よ。目覚めの混乱は理解しております。だが、あなたの存在は神託により予見されていたもの——我らが〈エルディア〉にとって、希望の光となる方です」
「この地には、長きにわたり〈災厄〉が続いております。魔物の出現、土地の荒廃、民の不安……それらは、神の怒りによるものとされています」
(“神の怒り”?……宗教的な解釈か。科学的な根拠はなさそう)
「神託によれば、異界より来る者が、災厄を鎮める鍵、そして、この地に降りた者は、すべてを見届ける。——そう記されています」
楓は眉をひそめた。
「その“神託”は、具体的にどういうものですか?私が何をすればいいのか、明確な指示は?」
男の神官は一瞬だけ目を細めたが、すぐに微笑を浮かべた。
「神の言葉は象徴に満ちており、解釈は我々に委ねられております。あなたの力は、まだ目覚めていないのかもしれません」
(つまり、“何ができるかは分からないけど、期待してる”ってこと?)
「あなたには、王宮にて陛下と謁見していただきます。その後、国の方針に従って行動していただくことになります」
「……拒否する選択肢は?」
神官は微笑を崩さなかった。
「神の導きに背くことは、我々には想定されておりません」
(……脅しではない。でも、逃げ道は用意されていない)
楓は静かに息を吐いた。
「わかりました。話は聞きます。ただし、私の意思は私が決めます」
男の神官は再び頷いた。
「その姿勢こそ、神が望まれたものかもしれません」
そう言いながら、彼は手を振り、侍従たちが楓に衣服を整えるよう促した。
(……形式ばってる。まるで“役割”を演じさせようとしてるみたい)
馬車の準備が整い、楓は神殿を後にした。その背後で、神官たちは静かに祈りを捧げていた。男の神官は、祭壇の前で目を閉じていた。
馬車の揺れは思ったよりも穏やかだった。昼過ぎの空は薄曇り。街並みは静かに流れていく。
楓は窓の外を眺めながら、神殿での言葉を反芻していた。(“災厄を鎮める鍵”……私が? 何を根拠にそんなことを)
馬車の中には、護衛の兵士が二人。若い兵士と中年の兵士。どちらも無口だったが、楓は少しだけ口を開いた。
「……この国では、異界からの召喚って、よくあることなんですか?」
若い兵士が驚いたように目を見開いた。
「いえ、滅多に……というか、俺が生きてる間には初めてです。神殿の儀式も、十年ぶりくらいで……」
「そう。じゃあ、私が来たことは、かなり特別なことなんですね」
「はい。陛下も、かなり……期待されてるようです」
楓はその言葉に、少しだけ眉を動かした。
(“期待”って、信頼じゃなくて、都合のいい希望かもしれない)
中年の兵士が、ぽつりと口を開いた。
「王都では、民の不満が高まってます。税も重いし、魔物の被害も増えてる。だから、救世主の話が広まれば……少しは落ち着くかと」
楓は静かに頷いた。
(つまり、“私が来た”という事実だけで、政治的な効果があるってこと)
馬車は石畳の道を進み、街の中心へと近づいていく。窓の外には、ぼろぼろの服を着た子どもたち。荷車を引く老人。そして、遠くに見える煌びやかな塔。
「……ずいぶん、偏った世界ね」
誰に言うでもなく、楓はそう呟いた。若い兵士がちらりと彼女を見たが、何も言わなかった。
やがて馬車は王宮の門へと到着する。楓は深く息を吸い、表情を整えた。
(まずは、話を聞く。感情は後回し。今は、それが生き残る術)
──
王宮の謁見の間は、静寂に包まれていた。高い天井、磨かれた石床、重厚な装飾。
(……異世界って、もっと混沌としてると思ってた。これは、整いすぎてる)
玉座には、年老いた王が座っていた。銀の冠に深紅のマント。その目は、楓を値踏みするように見下ろしている。
「……これが、召喚された者か」
低く、威圧的な声だった。
「はい、陛下。神殿の儀式により、確かに異界より現れました」
楓は一礼する。
「朝霧楓と申します。状況はまだ理解できていませんが、話を伺う準備はあります」
(まずは情報。感情は後回し。ここではそれが正解)
王は楓をじっと見つめた。その視線には、何かを測るような鋭さがある。
「……よい。お前には、我が国の災厄を鎮める力があると聞いている。神の導きがあるならば、〈エルディア〉のために尽くしてもらおう」
楓はわずかに眉を動かした。
(“尽くす”って……命令口調。私の意思は関係ないってこと?)
そのとき、玉座の脇に立つ男が口を開いた。
「兄上、彼女はまだ状況を把握していない。まずは情報を与え、選択肢を示すべきでは?」
楓はそちらに目を向けた。黒髪に軍服、鋭い目元。年齢は三十代前半くらいだろうか。
(……この人も、言葉は丁寧。でも、目が笑ってない)
「私はこの国の軍を預かる者。王弟、〈レオン・エルディア〉だ」
楓は彼の名を胸に刻んだ。その声は冷静で、王とは違う種類の力を感じさせる。
「朝霧楓殿。あなたがこの国にとって何者なのか——それは、あなた自身が見極めるべきだと私は思う」
楓は彼の言葉に、わずかに目を細めた。
「……そのつもりです」
その声には、揺るぎない意志と、相手の言葉を鵜呑みにしない冷静さが込められていた。
王は不満げに鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。楓は、玉座の王よりも、脇に立つ男に目を向けていた。
(王よりは話が通じそう。でも……この人も、信用しすぎるのは危険かもしれない)
レオンの視線は鋭く、何かを探るように楓を見ていた。
(私が“何者か”を見極める前に、この国の人間が何者かを見極める必要がある)
謁見の間に、わずかな沈黙が流れた。そして、王が重々しく口を開いた。
「神殿の言葉に従い、まずは王宮にて過ごすがよい。必要な教育と準備は施される。力が目覚めるまで、我が国の保護下に置く」
(“保護”……つまり監視。自由はないってことか)
楓は一礼した。
「承知しました。状況を理解するためにも、情報をいただけると助かります」
王は頷き、侍従に目配せした。
「連れて行け。部屋と侍女を用意してある」
楓は護衛に囲まれながら、謁見の間を後にした。背後で、王と王弟が何かを交わす声が聞こえたが、言葉は遠くて聞き取れなかった。
(この国は、私に何を求めている? “力”って何? そして……誰が本当に私を見ている?)
楓の胸には、疑問と警戒が渦巻いていた。