対面
笛を錦の袋から出して布で磨いていると、亀井光時さまがおいでになったとそでが知らせに来た。日がだいぶ傾いているので、いつものように簾越しだとこちらの方が明るくなってしまう。簾は奥の方が暗ければこちらからは見えて、相手からは見えないのだが、今の時間帯だと逆にわたしの方が相手に見えてしまうことになる。だいたいふだんあの方は昼前においでになっていたので、日暮れに近いこんな時間にご対面したことはないのだ。
やむなく、簾越しではなく、屏風を立ててその陰にいることになった。あの方からはわたしの左の肩より先がのぞいている形になる。もちろんわたしからも光時さまのお顔は見ることができないが、どうせ恥ずかしくて顔も上げられないのだからかまわない。この間思いっきり顔を見られてしまってから、もうだいぶ経っているが、まだ隔てなしの対面は恥ずかしいのだ。もちろんちゃんと着替えもした。普段着の染めの小袖ではなく、白小袖に二藍の絽の打掛を着ている。御所でお客様に会うときくらいあらたまった服装だ。このくらい気合を入れないと、まだ夫となる方の前には出られない。
光時さまの席までは一間(1・8m)とない。筆談をお願いしてあるので、席の脇には文机が用意してある。紙も筆もさっきわたしが使ったものだが仕方ない。ご挨拶だけとおっしゃったけれど、どんなことを話せばよいのだろう。あれこれ考えているうちに、卯木がもうご案内してきてしまった。
「今夜の施餓鬼会に笛をご供養いただけると聞いて、おいでになったそうでございますよ。」
と卯木が言う。
「お、お耳にとどくとようございます…」
我ながら消え入るような声が出た。だめだ。どうしても緊張してしまう。屏風の裏側からでは光時さまの反応がわからない。卯木が文机を動かして光時さまにお願いしている。相手から見えていないことはわかっていても顔が上げられない。しばらくして、濡れたままの文字が書かれた紙が差し出された。
(私どもの鄙の祭りに高貴なあなたが心を寄せてくださったことを、私も一族郎党もみな感謝しております。少しでも笛の音をよく聞きたいと、一番こちらに近いところに席を設けて、あなたの演奏を楽しみにしております。逆に騒ぎすぎてあなたを困らせるようなことになったら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください。)
読みながら、そういえば先ほどから人声が丘の上から聞こえていたのに気づいた。光時さまにご対面することでいっぱいいっぱいになっていて、気に掛ける余裕がなかったのだ。わたしの笛を多くの方が聴きたいと待っておられるというの? わたしはただ光時さまに聞いていただければと思っていたのに? 困ってしまったけれど、今更そんなつもりではなかったなどとは言えない。
「…心込めて、…。」
こういう時に限って御所で培われた当たり障りのない返事というものが、よどみなく出てきてしまう。ああ、どう言えばいいのだろう。また涙がこぼれそうになった。だめなわたし。
次の紙が、卯木から渡された。
(今日はいつもよりあなたを近くに感じることができてうれしかったです。できるならこのままここで、あなたの笛を聞きたいところなのですが、両親が上で待っておりますので、一度顔を出しにもどらねばなりません。)
ちょっと待って。ご挨拶ってそういうことなの? もう帰ってしまわれる? わたし、わたしの気持ちは。屏風の向こうであの方が立ち上がる気配がする。
「会えてよかった。」
突然声がした。あの方の声。体がぴくっと反応する。けれどいろんな思いでいっぱいになったわたしの心は、今その程度じゃもう引きずられない。待ってください。のど元まで出てきた言葉は音を失くす。こんな時なんて言えばいいのか、わたしは教えられてない。
「あ、あの…。」
考えるより先に声が出てしまった。自分でもびっくりして、思わず口元を押さえて背を伸ばす。顔を上げた瞬間、あの方が見えてしまった。え? ということは、あの方からもわたしが見えている…?
光時さまは御背が高いのだった。わたしを見下ろした目が、静かに優しく微笑んでおられる。どうしよう、どうしよう。ドキドキが止まらない。
「また、参ります、姫。」
そう言うと、あの方は背を向けられた。気が遠くなりそうだった。