支度
思いがけない御馳走の昼飯を食って、竹薮を吹き抜ける涼しい風に身を任せて、うとうとしていると、どこからか聞いたことのない音が聞こえてきた。北風が吹き抜ける音のようで、それでいてかろやかな、春のそよ風が花の香りをはこんできたような感じの音だ。我知らず耳を澄まして聞き惚れた。なるほど、これが評判の姫君の笛の音か。光時さまが演奏だけで心奪われたというのももっともだと合点がいった。
真っ昼間で何の教養もない拙が聴いていてこれなのである。お施餓鬼の晩の、月明かりのもとで聴いたらどんなに身に沁むものになるだろう。そう思うとなんだかわくわくしてきた。
残暑の日が傾いてきた。そろそろ光時さまや大殿様が館を出発なさる頃だ。今から行けば途中で出会える。小屋の前につながれていた馬を解いて、並足で来た道を逆にたどる。少し行ったところで大奥様から妹のはるまで館のおなご連中が歩いてくるのに出会った。馬に乗れないおなご衆は、例年二里あまりの道を歩きなのである。馬から降りて黙礼すると、お千代さまから声をかけられた。
「弥太どの、お使い大儀でありました。戻られるのですか。」
「いえ、光時さまにお知らせしたいことがありまして、お出迎えに参ります。」
拙の返事に、少しざわめきが起こる。大奥様がお尋ねになる。
「弥太どの、差し支えなくばその話、教えてくだされ。」
「はい。実は今宵の施餓鬼に、西の院の姫様が供養に笛を聞かせてくださると、叔母のそでから聞きまして。」
はじめ固まっていたおなご衆の表情がぱっと明るくなった。都でも評判の姫君の笛を聞かせてもらえるならば、祖先だけでなく我らにも御馳走である。
「それで、西の院の方は、お施餓鬼の場に来てくださるのかえ。」
「いや、たぶん院の建物からはお出にはならないと思われますが。」
日没を待って灯篭やら燈明皿やらに火が入ると、かがり火をたよりに坊主が経を読む。まず姫君ならその声が聞こえるところへは、出て来られないだろう。読経が終わって落ち着いたのを見計らって、西の院で演奏なさるに違いない。
「鷺丸、仮小屋を今から奥へ移すことはできるかえ。」
「へえ、まだ日が高いですから、やれなくはねえです。」
大奥様付きの小者、鷺丸は大奥様が嫁入りなさったときに実家から荷物を運んでついてきたという老爺だ。顔はしわだらけだががっしりした体格の持ち主で、いまでも大奥様の用心棒を兼任している。おなご衆はいくら月が明るくても、さすがに夜道を帰ることはせず、定信寺の敷地の中に先に仮小屋を作っておいて、そこで一晩過ごしてから翌朝帰るのである。去年までは秀時様とその配下の若党が寝ずの番に残られたが、今年はおまき様親子がおられる故、館に戻られるはずだ。とすれば、残られるのは光時さまということになる。
「では、光時さまにご報告しましたら、拙もお手伝いいたしましょう。」
「まあ、それは助かりまする。頼みますぞ。」
一礼をして、かしましい一行と反対に向かってまた進む。そろそろ亀井のお屋敷が見えるかというところまで来て、大殿たち十数名の騎馬の一行に出会えた。
「おお、弥太ではないか。帰るのか。」
「いえ、お出迎えに参りました。」
怪訝そうな光時さまに目で合図を送る。馬上の光時さまが、身をかがめて拙の耳打ちを聞くや、これまた目をかがやかせて叫んだ。
「父上、兄上。奏子姫が今宵の施餓鬼の供養に、一曲披露してくれるそうですぞ。」
「ほほう。都の名高き笛の姫君のしらべを、この耳で聴けるとはのう。」
大殿もまんざらではなさそうだ。ついでにおなご衆が仮小屋をいつもより敷地の奥に移動して、笛の音を満喫するべく支度をしていると口を滑らせると、
「なるほど、それはいい趣向じゃ。光時、弥太、それから後ろのお前ら、早う行ってわしの席も作って参れ。」
と命じられた。さすがは大奥様と長年夫婦でいるお方だ。考え方というかノリがそっくり同じだ。
大殿に命じられたので、堂々と大殿を追い越して馬を走らせた。古参の藤垣殿に命じられて、途中の農家で外してある板戸を何枚か借りる。光時さまが気前よく借り賃を先払いしたので、筵も何枚か借りることができた。これらと定信寺近辺の竹薮の竹で、仮小屋を作るのだそうだ。藤垣殿は若かりしころには仮小屋づくりの担当をしていたことがあるのだそうだ。さすがに先達の知恵という物は尊ぶべきものである。
定信寺に着くと、はるやお千代殿まで総出で仮小屋をこわして運んでいるところだった。お施餓鬼の会場たる観音堂は、街道筋から見ると定信寺の敷地の一番奥まった北側にある。だが西の院は観音堂から見ると南西側の一段低い場所に位置しており、平年通りお施餓鬼の会場に面したところに作った仮小屋ではいかんせん遠いのである。大奥様が仮小屋の移動を命じられたのは卓見であった。さっそく拙らも加勢して、もとの仮小屋の倍はある、大きなものを作り上げたらもう日暮れである。足元の竹薮の向こうには西の院がある。姫君は仮小屋を組む拙らの声を気にしなかっただろうか。うっかりしていた。するとお千代殿が
「心配はいりませんよ。光時さまがここへ着くなり、西の院へご挨拶に行かれましたから。」
と仰せられた。そういえば光時さまはどうやって姫君と話しておられるのだろう。




