騎士は静寂に暁染めゆく 3
人が増え始めた通りを抜け、仏頂面のリーディアをつれてやってきたのは年季の入った木製の看板を掲げた飲み屋だった。
「ここ、俺のお勧め!」
王国の中心部に近い地区とあって、辺りには旅人向けの宿屋を兼用している酒場が多い。
そんな中、周囲の賑やかな雰囲気から逸脱しているような小さな一軒家の店を指差し、ディルは満面の笑みを浮かべてみせた。
「お、ギリアちゃん。いらっしゃい」
定食の看板をしまいに出てきた初老の男が、人ごみを掻き分けてやってくるディルの顔を見て皺の目立つ頬にさらに皺を刻んだ。
「よう、久しぶり」
手を振ってその笑顔に答え、ディルはリーディアを男に紹介する。
「こっち、俺の同僚のリーディアだ」
「はじめまして。王国騎士団黒騎士団長のリーディア・カーザスです」
頭を軽くたれたリーディアの肩を叩き、ディルは人受けのいい笑みを浮かべる。
「よろしくしてやってくれよ」
「わかってる、わかってる。
ほら、早く中にお入り」
男は愛想のよい笑顔で手招きしてみせると、そそくさと看板を小脇に抱えて店内へと入ってゆく。
日は沈んだとはいえ、まだまだ夜というには浅い時間帯ではあるが、店はそれなりに繁盛しているらしい。
淡い光が漏れる軒先は、ざわめきに揺らいでいた。
「ずいぶんと親しいようだな?」
「俺に酒を教えてくれた、ありがた~いおじちゃんだぜ。
暇と金がある時は、ちょくちょく来てるんだ。
愛想のいいおじちゃんでさ、俺のほかにもけっこう常連客がいるみたいだぜ」
緑色の瞳を細め笑うその顔は、よほど気に入っているのだろう……子供のように純粋な表情だった。
「お前も仕事が趣味って顔してないでさ、たまには外も遊び歩いてみたっていいんじゃないか?
ここは外交も結構盛んだかな、市になんか行くと結構いろいろなものがあって楽しいぜ」
「気が向けばな」
リーディアは、はぐらかすように曖昧に頷く。
「そうそう。せっかくこんな豊かな国に生まれたんだ、堪能しなきゃ意味が無いさ。
言うだろ? 何事にも限度……ってよ」
「お前こそ、ほっつき歩いてばかりいないで、たまにはまじめに仕事もしたらどうだ?
何事も限度と言うからにはな」
「遊びはまた別さ。とことん楽しまなくちゃ、意味がない。
まあとにかくメシだ。ほら、行こうぜ」
「まったく」
リーディアのあきれ顔に笑みを零し、ディルは先に暖かい光がともる酒場に足を向けた。
その背を追いかけてリーディアも軒先にかかる紺色の暖簾をくぐると、暖色系の照明が彼等を暖かく出迎えてくれる。
「らっしゃい!」
先ほど、店先でランチメニューを片付けていた男が、良く通る声を店内に響かせる。
「おじちゃん! いつものセットを二つ!」
その声に招かれるまま、にこやかに言ったディルはカウンター席にその腰を下ろす。
「二食も食べるのか?」
その隣に座ってメニューに目を通しながら、リーディアは遠慮のないやつだと嘆息した。
「なに言ってんだよ」
だが、そう言われたディルは、真顔になって否定した。
「お前の分じゃん?」
「……」
リーディアはため息をついて持っていたメニューをカウンターに戻すと、店主の男が出してくれた水を口に含んだ。
「ちゃんと了承を取ってから注文をとれ」
水を半分ほど飲んで、コップをテーブルに置く。
「いいだろ、別に。
どうせ、メニュー見たってどんな料理かわかんないんだから、同じだろうよ?
大丈夫だって、美味いから安心しなよ」
「勝手なことを」
「まあまあ、喧嘩しなさんなって」
けらけらと笑う嗄れた声に、リーディアは不本意ながらも詰め寄りかけた体を戻した。
「ほら、いつものやつな」
いがみ合いながらも並んでカウンター席に座る彼等の前に、出来たての料理を慣れた手つきで店主は並べてゆく。
「今日は珍しく魚が入ってね、おまけしておいたよ」
「ありがと!」
爽快に笑う店主に、ディルは大きな片目をぱちりと閉じて、無駄に愛嬌を振りまく。
「魚か。めずらしい」
クロス王国は内陸にあるために、こういった魚介類を目にするのは非常にめずらしい。
「う~ん、美味そう」
焼きたてのふっくらとした黄金色のパンに、程よく煮込まれたビーフシチュー。
そして、おまけ程度に小皿に置かれた魚の煮込み。
甘く、深い匂いが空腹の胃を刺激する。
「じゃ、リーディア」
パンと手を打って、ディルは食事と一緒に運ばれてきたグラスに手を伸ばす。
「ん、ああ」
促されて、リーディアも同じようにグラスを持ち上げた。
「何事もなく終わる今日に、乾杯!」
チンと高く澄んだ音が、手元で響く。
心地のいい音色に満足げに頷くディルをまねして、波を立てる無色の液体をリーディアは口に含み……
「うっ、ごほっ!」
軽くむせた。
「おいおい、リーディア」
一気に半分ほど飲み干したディルは、コンコンと咳をするリーディアの背を軽く叩き、うつむいているその顔を覗き込む。
「おまえ、酒飲めなかったっけ?」
「得意というわけではないが」
ふう、と息をついて、リーディアは胸をさすって軽く首を振る。
「強い酒だな」
しびれるような熱さが、まだ喉元に残っている。
「そうかな? でも、結構いけるだろ?」
笑ってディルは残り半分を平気な顔で空ける。
「まあ、悪くはない」
ゆっくりとグラスを傾け、答える。
ここ最近酒など口にする時間がなかったためなのだろう、余計に強くアルコールを感じる。
「お前の好きそうな味だな」
刺激に慣れれば、それほど嫌な味でもないことがわかる。
「へへ。
おじちゃん、お代わり。もう一杯ね」
食事に手を付ける前に、ディルは酒を注文している。
それをあきれつつ、リーディアはとりあえずビーフシチューに手を付けた。
「本当にこの酒好きだね、ギリアちゃん」
客の注文をひととおり捌ききり、手の開いた店主は小さなボトルとグラスを手にしてこちらへとやってくる。
「そりゃあ、もう」
人懐っこい笑みを浮かべ、ディルは男に向ってとんとグラスを差し出す。
「はいはい」
性急な仕草に苦笑して、男は栓を抜いた黄色の瓶を、ディルと自分のグラスに傾けた。
「リーディアさんは?」
「いえ、まだありますので」
まだグラスの中の酒は半分も減っていない。
リーディアは丁重に断り、かわりに牛肉を口に運んだ。刺激的な味よりも、深みがあり、それといってしつこすぎない甘味のほうが彼の好みにあっていた。
「ほらぁ、おじちゃんカンパーイ!」
気分が乗ってきたのか、普段にも増してやけに陽気なディルは、自分のグラスを男のものにこんとぶつける。
「おうおう、いい飲みっぷりだ」
「くはっー! 効くー!」
勢いよくグラスをあおり、ディルは甲高い声を上げて身悶える。
「おっかわり!」
「こらこら、そんなに慌てて呑むんじゃないよ。
もっとゆっくり飲んだって、ばちは当たらないよ」
苦笑しながら、男はグラスに酒を注ぐ。
「なに言ってるのさ、仕入れるのに困るほど人気のある酒じゃねぇだろ?」
「まぁ、そうだがね」
黄色いガラス製のボトルを明かりの中ですかし、男は渋るように頷く。
「どうしたんだよ?」
ディルは手を止め、リーディアも注意を男に向ける。
「実はね、ここんところこの酒を狙って盗む輩がいるようなんだよ」
「……は?」
疑るように、ディルは顔をしかめた。
「あれ、聞いていないかい?
分隊騎士には嘆願書出したんだがね」
「嘆願書?」
おやと首をかしげる男と、それを見て表情を濁すディル。
その様子を隣で見つめながら、リーディアは重いため息をついた。
「ディル」
広大な王都を守護する騎士団を統轄している三騎士団の下には、区ごとに別けられている街を個別に守護する分隊騎士団という組織がある。
それらを統轄する騎士団の団長である彼等は、分隊騎士団からの報告書につねに目を通していなければならないのだが。
「ま、待てよ。勝手に誤解すんなって。
ここ最近は認定試験の試験官役でグランドに篭りっきりだったからさ、その間に出されたものは把握しきれてねぇんだよ」
ぶんぶんと首を振って言い逃れるディルにやれやれと首を振って、リーディアは厳しくさせた視線を不満げな男に向けた。
「ご主人、盗まれるほど珍しい酒なのですか、これは?」
ここら一体はディルが仕切る白騎士団の管轄下にあるので、大きな事件で無い限りはリーディアの方まで話はまわってこないのだ。
事の真相を尋ねるリーディアに、男はぶんぶんと首を振る。
「いいや、そんなことないですよ。これは王国近郊の村で作られる地酒でして。
売るにしろ、飲むにしろ、この酒に勝る物はたくさんありますからね」
わけが分からないと、男は皸ばかりの両手を挙げてみせた。
「最初はここいらの子供の悪い悪戯だとおもっていたんですけどね、あんまりにも数が多いんで、騎士団にどうにかしてもらえないかと」
「それで、嘆願書を?」
「ええ。だしました」
頷き返すその表情は、かなり深刻な様子に見える。
「ふーん。かわった奴もいるもんだな」
なめるように酒を飲んで、ディルは首をかしげる。
「確かにそうなんだが、冗談じゃないぞ。
この時季出荷も少なくなるから、そろそろ在庫も底をつきそうなんだよ」
「え、ええっ!」
がたんと音を立てて立ち上がり、男に詰め寄るディル。
「そりゃあ、困るよ。俺の財布で飲める唯一の酒なんだぜ!」
「……飲めてないじゃないか、自分の財布で」
「う、うるせょ……」
ぽそりと耳打ちされる恨みがましい声に少しばかり赤面して、ディルは机を叩く。
「そうは言われてもねぇ。犯人はなかなか素早いらしくてね、捕まえることはおろかその姿を見たもんさえいないんだ。
被害はまだ酒だけだが、そのうち怪我人まで出ちまうんじゃないかってみんな心配しているよ」
「庶民の財布には大打撃だな、オレにいたっては死活問題だ」
大げさとも言えなくも無い素振りでため息をついて、ディルはカウンターに手をつきうなだれる。
「ここは、何とかするしかねぇな」
「ディル」
意気込むディルの言葉をとめたのは、硬い表情にわずかな緊張感を上乗せしたリーディアだった。
「ん?」
普段からの仏頂面とは違った雰囲気に、ディルは促されるように濃紺の視線の先を目で追った。
「……!」
「どうしたんだい、二人とも?」
二人同時に神妙な表情になり、店主はその張り詰めた様子に少しおびえながら辺りを見回す。
ざっと見回してみるが彼等がいぶかしむような変化は、どこにもない。
年季の入りすぎた狭い店内は、いつものようにたくさんの客で賑わっている。
皆楽しそうにそれぞれの話題に没頭していて、雰囲気は穏やかだ。
「なにか?」
「おっちゃん。あっちの部屋、なにが置いてあるんだ?」
ディルは店の一番奥、暖簾がかかった向こうを指差す。
「ああ、あそこは普通にわしの部屋になっているよ。
その奥には酒蔵があって――」
「ディル」
ちらと、リーディアは目線で合図を送る。
「ああ」
その視線に頷いて、呆然としている男に向きなおったディルは、緊張感を取り払った砕けた笑みを浮かべて言った。
「おっちゃん、その酒キープな! 近いうちに、また飲みにくるからさ」
「おい、こらちょっと」
軽く手を振って、二人は出口ではなく店の奥へと歩いてゆく。
「ギリアちゃん?」
「静かにしてな」
ディルは人差し指を唇に当て、小声になって男に注意を促す。
「まさか!」
「我々が様子を見てきますので、どうか冷静に」
上ずった声を上げる店主にリーディアは軽く頷き返し、食事の代金をテーブルに置くと酒蔵へと続く廊下へ先に進んで行くディルを追って暖簾をくぐった。
「さっそくって、感じだな」
大人二人が肩を寄せて並んで歩けるぐらいの手狭で薄暗い通路は、店内と酒蔵から流れ込んでくるアルコールの香りが充満していた。
「大丈夫か、リーディア?
顔色よくないけど」
「……酒は得意でないといったろう」
気だるそうに掠れた低音の声に、ディルはにんまりと微笑む。
「酔っちゃったの、リーディアちゃん?」
白い歯をちらつかせるその笑みはひどく癇に障るものであり、強いアルコールに当てられているリーディアは、奥歯を噛み締めながらディルを睨んだ。
「人の心配よりは、自分の心配をしたらどうだ?」
「ウワバミ王の名をいただくオレ様だぜ?
あれくらいの量で酔えるかってんだ!」
へらへらと手を振るその陽気な姿は、どう見ても酔っ払いのそれだ。
「なんなら、建国祭でのオレの武勇伝、こと細かく語ってやろうか?」
「聞きたくないな。微塵も」
「み、みじん……?」
不満げに呟いて足を止めるディルを置いて、リーディアは一段と強い香りが漏れ出す扉へと急いだ。
「ドアが、開いているな」
半開きになっているドアから、ひんやりとした空気が流れ出てくる。
「例の酒泥棒か?
まあ、とにかくこのオレが来たからには、そう簡単に盗ませてたまるかっての」
「おいっ」
慎重に息を潜めているリーディアの横を通り過ぎ、あろうことか、ディルは堂々と酒蔵へ続く扉を開けてしまう。
「まったく」
頭を振って、仕方なくリーディアも部屋を覗き込む。
「おいこら、盗人!
この俺の胃袋におさまるであろう酒を盗もうなんざ、いい度胸しているじゃねぇか!」
薄暗い室内に向かって大声を張り上げ、泥棒(と思われる人物)を威嚇する。
「ひっ!」
細い体のどこにそんな力が眠っているのかと思うほどの大声に、部屋の奥から小さな悲鳴が上がった。
「子供?」
聞こえてきた声に疑問を持ちながらも、リーディアはすぐそばにあった電灯のスイッチを入れる。
「ひゃっ!」
「あぁ?」
ぱっと、明かりに照らし出される酒蔵。
多くのワインやら酒樽やらが所狭しと並べられ、その中に埋まるように少年が丸まって隠れていた。
「なんだよ、子供じゃないか」
闇の中なら有効だったのだろうが、こうも明るく照らし出されてしまっては、いくら身を潜めようとも、すべてが丸見えだ。
多少気をそがれながらも、ディルは酒蔵に足を踏み入れる。
「未成年がこんな所に、何のようだ?」
「だ、だれだよあんたら!」
体に対してかなり大きめの麻袋を両手に抱え、少年は猫のように丸い、琥珀色の目を威嚇するように彼らに向ける。
短く切られた髪はこの辺りではめずらしい赤毛だが、着ている衣服と同様にぼろぼろで、みすぼらしい姿をしていた。
「だれって、この制服見てわからないか?
王国騎士団だよ。王国騎士団の、白騎士団長ディル・ギリア様だ」
むろん、少年のそんな威嚇に臆するわけもなく。ディルは視線を鋭くしながら一歩、一歩と詰め寄ってゆく。
「ほらほらほら! さっさと諦めて、こっちに出てこい!」
「ディル。
子供相手に怒鳴ることはないだろう」
酒樽の影に隠れている怯えきった様子の少年を見かねて口を挟むが、とうのディルはそんなことに聞く耳を持ってはいないようだ。
「その袋の中身、もしかしなくとも酒だな」
「これは……」
黙りこんだまま、少年は持っていた袋をディルから隠すように横手に持ちかえる。
「大人しくそいつを寄越して、おにぃさんたちと一緒に騎士団に行こうな?
小難しいおっさんに、説教してもらわないとなぁ?」
不気味な猫なで声と笑っていない笑顔に、少年はすっかり脅えてしまっている。
「まて、ディル」
さらに詰め寄ろうとしているディルを制して、リーディアは少年に注意を向ける。
どこがとは、はっきり言い当てられないが、何か雰囲気がおかしい……いや、異様だ。
『正義二属スルモノガ、子供ヲ脅ストハナ』
リーディアのその疑問に答えるように、くぐもった声が響く。
少し年をとった、しゃがれた男の声。
無論、少年のものではない。
しかし、リーディアやディルのものでもないし、かといって彼ら三人以外にこの部屋には誰もいない。
では、誰が……
「これは?」
笑みを消して、ディルはすばやく室内を見渡す。
いつの間にか、不穏な空気が酒気の中に混ざり始めていた。
ディルは意識を集中させるように目を閉じて深く息をついて、ゆっくりと瞼を持ち上げながらその視線を少年へ向けた。
「へぇ」
少年の周囲に、黒いもやのような塊が見える。
「有意志精霊……か?」
「精霊だと?」
ディルの後ろに立ち、リーディアも一緒になって少年を見やる。
魔法士でないリーディアには、少年の背後にあるものを目視することは出来ないが、肌を刺すような威圧感はたしかにそこにある。
「こんなところになんで居やがるかは知ったことじゃないが、とにかく事情は聞きだしておかなきゃな。
一緒に来てもらうぜ?」
「い、いやだっ!」
抱えていた袋を力いっぱいに抱きしめ、少年は抵抗をしめす。
「そんなこといわれてもなぁ。お前に憑いてるそれ、あんまり良いものじゃないぞ」
「嫌だったら、嫌だっ!」
『残念ダガ、ソウイウコトダ。
貴様ラニ捕マルワケニハユカンノデナ!』
「このっ、こんなところで!」
突風に似た圧力に、ディルは反射的に力ある言葉をその声でつむぐ。
『トゥカナ・ウラノトメリア・ゼカ・エルフ!』
響く言葉と共に現れた淡い緑色の輝きは、押し迫る力から主人を守る盾のように、ディルの目前で複雑な線が絡み合って形成される円陣を作り出した。
『数多の刃をその顎にて砕かん!』
絵画のような美しさを持つ光の紋様に、ディルは手刀を叩きいれる!
『キサマ!』
真っ二つに割れた円陣が力の渦となって、迫りくる脅威を飲み込むように広がった。
『相殺シタ、ダト?』
「へっへー。
やるもんだろ?」
『人間ニシテハ、大シタ魔法ヲ使ウ。ダガ!』
少年の影に隠れて意気込む精霊。
その異変にいち早く気づいたのは、リーディアだった。
「ディル」
ひゅっと風を切る音に、リーディアは含み笑いを浮かべるディルの背中を容赦なくけり倒す。
「ぎゃあ!」
その頭上をワインのボトルが尋常ではない速さで飛んでゆき、壁に当たって粉々に砕けた。
「あ、あぁ……」
ツンとくるブドウの酸味ある香りが、狭い酒蔵に漂う空気をさらに濃厚なものへと作り変えてゆく。
「エンディレン産の十年物がぁ!」
赤いしみを付けて通路に転がっているラベルを見て、ディルは半泣きの声を上げる。
「ほかに言うことはないのか?」
壁に飛び散る赤い染みは、まるで殺人現場のあとのように、妙に生々しい。
あれがまともに顔面に衝突していれば、頭を割るどころではすまなかっただろう。
『避ケタカ。
デハ、コレハドウダ!』
「甘い!」
不意打ちならいざ知れず、ご丁寧に宣告されてからの攻撃に臆するリーディアではない。
先ほど掠めすぎた物と同じ大きさ、同じ速さで飛んでくるフルボトルの軌跡を、すでにその濃紺の瞳でしっかりと捉えている。
かすかな余裕を残す動作で、剣に手がかかった。
「リーディア!」
しかし、集中を破ったのは床に突っ伏したままのディルだ。
「切るなぁー!」
まともに打ち付けたのか、赤くなっている顔を持ち上げて叫ぶ。
「なっ!」
タイミングを崩され。
それでも、とっさの判断と瞬発力で、リーディアは顔面めがけて飛んでくるボトルを間一髪のところで両手で受け止める。
「くっ……」
あまりの衝撃に受け止めた両手に痺れが走るが、それ以外の負傷はないようだ。
とりあえず一息ついて、同じように安堵しているディルを般若の形相で睨みつけた。
「どういうつもりだ?」
神業に近い動きで受け止められたから良いものの、失敗していれば命はなかった。
「だってさ」
殺気の混じるリーディアの視線に、たじろぎながら口を濁す。
「マルルティーニの十二年物のワインなんて、弁償できねぇじゃん、俺ら。
アルゼイン総団長の胃腸の調子を考えると、こんな超高級のワインの請求書なんて、とてもじゃないが見せられねぇよ。
いや、病院送りにしたいんなら話は別だけどさ」
「だからといって――」
「えいっ」
ぱしゃん。
妙に評しぬけた音に、リーディアは口を止めた。
いや、止めざるをえなかった。
「り、リーディア?
わ、ワイン、いやリーディア~!」
「くっ!」
まず理解できたのは後頭部の鈍い痛み。
ついで、強烈な眩暈。
そして、騒ぎ立てるディルの声。
参ったことに、意識を保つのがやっとなリーディアは、愚痴すらこぼす余力もなく無様に片膝をつく。
「ああ、くそ。なんてこった!
ワイン大丈夫か!
いや、大丈夫か、リーディア!」
「ワインか、俺かどちらか一つに絞れ……」
自分自身、間抜けな台詞だと思いながらも、押さえきれない怒りに必死になって言葉を搾り出す。
「え、じゃあ、ワイン?」
「貴様っ!」
冗談とは分かっていても、つかみ掛かって殴りつけたいところではあるが、あいにくと衝撃から立ち直れていない体は力が入らず、それどころではない。
むせ返るような強い酒気に、衝撃とは別の眩暈に吐き気がこみ上げてきて、リーディアはたまらずに唇をかんだ。
「う、くそ!」
べたべたとした感覚に表情を苦くさせたリーディアは、床に両手をついて体を支えて呻いた。
黒いジャケットに染みを残し、中に来ている白いシャツまで赤ワインの濃厚な朱に染ったその姿は、まるで返り血のようだ。
「だ、大丈夫かよ?」
「オレの……ことはいい。少年はどうした?」
毒々しい色合いの胸元をゆっくりと上下させながら、強い視線で浮ついているディルを見上げる。
ディルはその視線に促されるように背後を振り返り、叫んだ。
脅えていたばかりの少年は二人のやり取りの隙を見計い、大きな袋を抱えたまま走り去ってゆく。
「てめぇ!」
「早く追え! このっ、馬鹿っ!」
指先にさえ感覚が戻らないリーディアは、追跡をディルにゆだねるしかない。
精一杯の怒声で、ほうけているディルを促す。
「わ、わかってるよ!」
背後に精霊がついているとはいえ、子供は子供だ。
ディルは細身の体を最大限の速さで動かし、飛び出してゆく。
「逃がすかよ!」
睨み付けた視線の先、勝手口のドアノブに手をかけている少年の姿が見える。
『トゥカナ!』
呼び声に、再び淡い光が彼の体を包み込む。
『彼の者を逃すな!』
滑らかな木材で作られた扉に、琥珀の光線によって小さな円陣が刻み付けられる。
ガチャガチャと少年は必死になってノブを回すが、並の大人でさえ魔法で封印された扉を開けることは難しい。
「ほぉら、捕まえ……」
「ギリアちゃん、なんなんだい今の音は? って、ぎゃあああああああっ!
わ、ワインが。わしの秘蔵のワインがぁ!」
「っわ、なんて声出してんだよ!」
鼓膜を劈くような金切り声に、思わず足を止めてしまう。
「ていっ」
「っう! てめぇ!」
その隙を狙って、少年はその小さな足でディルの向こう脛を蹴りつける。
容赦のない一撃に、低く呻きながらたまらずに膝をついた。
「待ちやがれぇ……!」
その隙を逃すようなへまはしないと、少年は痛みに悶絶するディルの横をすり抜けて、店内の方へと走り去る。
「くっそ! 頭にきた!
ぜってー捕まえる!」
壮絶な痛みに大きな瞳いっぱいに涙を溜めながら、ディルはすばやく体を反転させて少年の後を追う。
街に出られては厄介だ。
大きく、華やかな建物が目立つ大国だが、意外にも路地や裏通りなどが複雑に入り組んだつくりになっている。
そういった場所に逃げ込まれでもすれば、見つけ出すのは容易ではないだろう。
「何をやっている、ディル!」
「おいおい、大丈夫かよ?」
びっしょりと頭からワインを被ったリーディアが、よろめきながら廊下に出てくる。
「逃がすわけには、いかんだろう!
しゃべる暇があるなら足を動かせ!」
「ああ、わかってるよ!」
頷いて、先頭を切って走るディル。
その後ろを、リーディアが続く。
少年の姿はまだしっかりと、二人の視界の中に納まっている。追いつけない距離ではない。
「うおぉあぁああああああっ!」
雄たけびを上げ、ディルは全身のばねをはじかせて少年の背中に手を伸ばす。
しかし――
「えい」
「あっ!」
少年は振り向きざま、黄色いボトルをディルに向かって放り投げた。
「とととっ!」
それは、そこら中の酒場から盗まれているという例の酒だ。
やっぱり盗んでいやがったのかと悪態をつきながら、ディルは半ば件反射的に、低めに投げられたボトルに手を伸ばす。
当然……
「ぎゃあ!」
ボトルを受け止めようと前に傾いた重心に、走ってきた勢いが重なり派手に転倒する。
「何をやっている!」
「ちっくしょー! 酒、割れたし!」
毒つきながら起き上がるディルと結局派手に割れたボトルの破片を追い越し、少年を追って店内へと飛び出るリーディアは少年の姿を必死に探す。
「とまらないか!」
騒ぎに耳を傾けている客の間をするりと走りぬけ、あっという間に少年は店から脱出してしまう。
「逃げちまうぞ、リーディア!」
「くそ!」
追いついてきたディルの叱咤を尻目に、夜の帳が落とされた通りへと出る。
「あそこか?」
込み合う雑踏の中、小さな後ろ姿が視界の先にある。
「ディル! 追うぞ!」
「わかってるよ!」
頷いて、彼等も人ごみの中へと飛び込んで行く。