013「じゃぁ、――――私を知って」
頭を撫でる優しい手が、暖かい。
もっとして欲しいのに、もっとその手を感じていたいのに、感じれば感じるほど、意識が遠ざかっていく。
なんとか意識を保とうと「んぅ」と声を上げるが、その声を上げた途端、手は止まってしまった。暖かな手が止まるのは不本意だったため、寝ぼけながらも手を掴み、頭の上で上下に動かすと、再び頭を撫でるのを再開してくれた。
その優しさに心地良さを感じたまま、私はもう一度意識を手放した。
瞼の裏では、白い手が揺れ、黄金の瞳が細められた。
「ん~ぅ」
ゆっくりと自分の意識が浮上していくのを感じる。起きたくないのに起きなければいけないという葛藤が働いているようだ。朝か、はたまた昼か、自分の感覚ではわからない。しかし、頭の上に感じていた温かな手が、今は感じられない事を寂しく思う。
「起きたのか」
意識は完全に浮上してはいないが黎翔の声が聞こえてきた。起きなければいけないような気はするのに、うまく意識が浮上しない。
「……気のせいか」
気のせいではない。起きたいのに寝たい。けれども、この暖かくて、ふわふわな布団がその邪魔をする。
わしゃわしゃと私の髪を撫でる黎翔の手は乱暴のように感じるけれど、やはり暖かくて優しい。そのぎこち無さや強い力も、不思議と恐怖心を煽らない。
目は開かないけれど、起きている証拠を伝えたくて、黎翔の小指をぎゅっと握る。
「起きているのか?」
小指を一回ぎゅっと握ると、黎翔は納得してくれたようだった。
「食事が出来ているぞ」
その言葉に、少しずつ瞼を開く。昨日よりも眉間の皺が少なくなった黎翔が視界に映る。よく、眠れたのだろうか。
人の側では、よく眠れない。今までそういう人に何人も出会ってきた。黎翔もそうではないかという可能性を考えてもいなかったが、
「……」
黎翔の様子を見る限り大丈夫だろう。
「起きたか」
「おはよ、ごさいます」
「よく寝たな」
高い位置にある太陽は、白い壁を雄黄に染めていく。この国で、一番太陽に近い場所。そして、一番空から遠くて近い場所。
黎翔に視線を移す。黎翔の服装は仕事に行くような格好ではなく、昨日の夜、私と一緒に眠った時の服装のままだ。もしかすると、起きてからもここに居てくれたのだろうか。
「おはよぉ」
嬉しくなって、もう一度、朝の挨拶をする。起きて、一人ではないというのは、とても嬉しいものだ。
「ああ、おはよう」
「服だ」
黎翔がクローゼットから当然のように私の服を出してきた。どうして黎翔のクローゼットに私の服が入っているのかは聞かないでおこうと思う。きっと霙か白鴎が、私のクローゼットから持ってきてくれたのだろう。
相変わらず、下から頭をスポッと通すだけなので着やすい。首後ろのチャックだけ黎翔に閉めてもらえば、着替えは完了だ。強いていうならば、自分でチャックすら閉められないこの手の短さが恨めしい。
「髪を結ぶ。座れ」
黎翔がソファーを指差したので、そこに座る。
「黎翔様、髪出来るの?」
本当に失礼ながら黎翔が他人の髪の毛を結ぶようなイメージが全くもって湧かない。
「これくらいは当然だ」
「へぇ」
この世界では、男性が女性の髪の毛を結べる事は、当然なのだろうか。出来る事が多いに越した事はないのだろう。
当然だという言葉を疑う隙もない程、黎翔は慣れたような手つきで、私の髪の毛を編み込んでいく。二つに分けた後、下の方まで三つ編みをして、それをくるんと巻いている。二つのお団子だろう。この髪型は可愛いから嫌いではない。
「よし」
黎翔は満足そうに頷いた後、私の髪から手を離した。
「ありがとぉ」
「いや……」
黎翔は、照れたように、そっと顔を背けたけれど、私の礼は受け入れてくれた。
「おっにぎり~」
髪を結んだ後すぐに届けられた食事は、私が好きなおにぎりがあった。
まるで、子どもの夢を詰め込んだかのような、幸せの代名詞。誰だって一度は食べてみたいと夢見続ける定番。
「おこさま、ランチ……」
一つのお皿の中におにぎり、ポテト、スパゲッティ、サラダ、ウインナー、デザートのゼリーが入っている。
遠回しに私に対して子どもと言われているようで、若干の不満が心を燻ぶる。
けれども。そんな不満を流し切るほどの多幸感が押し寄せる。
「おいしそぉ」
ずっと、ずっと。食べてみたかった。絵本の中の子どもたちは、いつだってそれを美味しそうに頬張る。時にはレストランで。時には、家庭で。
いつだって、一緒に。
私には、きっと無理だ。
なんて、夢のようなプレートなのだろう。このように特別感のあるもの、今まで食べた事がない。一つ一つを考えれば、どれも今まで食べた事があるものだ。けれど、一つのお皿に乗るだけで、全く印象が変わる。
私はお子様ランチを強請る年齢でも、他人にそれを求める立場でも無い。だからこそ、私はこの世界で、もう一度人生をやり直しているかのように感じる。
幸せで、とても幸せで、とても、苦しい。
どうやったって、私に空を掴む事は出来ないのだから。
「あれ黎翔は食べないの?」
「食べたばかりだ」
届けられた食事は私一人分。食べたばかりという事は、朝食を食べた後にまた布団に戻ってきてくれたのだろうか。
「そっかぁ」
「残念ながらお前ほど頻繁に飯は入らん」
「……」
もしかすると、燃費が悪いと馬鹿にされているのだろうか。それについては、事実なので今の所は、反論の余地もない。
「いただきます」
手を合わせて食べ始めるが、その間、黎翔は机に頬杖をついて、私を見つめていた。人が食べている所を見続けるのは暇ではないのだろうか。私は見続けられると食べにくいのだが、この世界に来てからそれには少しづつ慣れて来た。黎翔に関わらず、ここでは物珍しいものを見るような目で見られる為、動物園の生き物にでもなったかのようだ。動物としての役割は飼われて愛想を振りまく事なので、そう考えると食事風景を見られるくらいはなんて事はないと思おう。
おにぎりは良い。温かな優しい手を思い出す。柔らかな塩気。味気ないのに幸せな味が詰まっている。これ程までに不思議な食べ物があるだろうか。真っ白で、キラキラで、黒とはほど遠い。
「それが好きか」
「うん、好き」
美味しいものはなんでも好き。
「ハンバーグも、うどんも、オムライスも、スパゲッティも、…………お野菜も、みんな好き」
「今、トマトの事を考えただろう」
「……」
気づかれている。
「まあ、良い。それよりも食え。時間が経つと腹が膨れて食えなくなるぞ」
「……!」
それは大変だ。お喋りなどしている暇は無い。
「さて、私は仕事をしてくる」
食事を終えた私に黎翔はそう言う。
「……えー」
折角のお泊まりなのにという不満が思わず口からこぼれる。
「……」
黎翔も無言で私を見つめる。私だって負けていない。黎翔が仕事に行ってしまったら、私はする事がなくなってしまう。
「……急な案件が入った。すぐに片付ける」
渋々という言葉が似合うほど苦々しい表情だ。それはやらなければならない事か。ならば、
「一緒に行く!」
「は?」
それなら一人になる事もないし、暇にもならない。黎翔の仕事が終わったらすぐに相手をしてもらえるし。
「来てもつまらんぞ」
「いいの!」
「まぁ、一人にしておくよりはマシか」
「うん!」
「自分で納得するな」
我儘が、通ってしまった。なんて、優しい世界なのだろう。
大丈夫、きちんと良い子にしているから。黎翔の邪魔をしたりしない。
「いくぞ」
黎翔が差し出してくれた手を握る。いつもよりもっと、手が温かく感じた。歩きにくいだろうけれど、黎翔は文句一つ言う事なく、ただ無言で歩き続けた。
「そこに座っていろ」
たどり着いた部屋は目新しくもなんともない。少しだけ見慣れた黎翔の部屋だ。何度か入ったから見覚えはある。2人掛けの黒いソファを指さされ、腰掛ける。背もたれにもたれかかるとゆっくりと沈んていく感覚が心地よい。ちらりと黎翔の方を見るともうすっかり仕事モードだ。私の方を見向きもしない。
私はただ、黎翔が仕事をするのを眺めていた。そこでふと、黎翔も私の食事風景をじっと見ていたと思い返す。見慣れないものだと、じっと見てても飽きないとは、どうやら本当らしい。大人の人が仕事をしている姿をみる事なんてないから、飽きない。ペンの運び方や紙のめくり方、頬杖のつき方に足の組み方。色々な所に彼らしさが現れている。黎翔を知っていけるようで嬉しい。
ああ、面白い。
もしかすると黎翔も同じような思いだったのだろうか。私の事を知ろうとしてくれたのだろうか。
私が黎翔を見つめて、かれこれ数十分が経っただろうか。
「……暇か?」
ボーッと眺めていたから、急に話しかけられて少し驚いた。
「ううん、大丈夫。楽しい」
「何もしていないのに楽しいのか」
黎翔を見つめるので忙しいのだけれど、何もしていないと言われればそうかもしれない。というよりも、黎翔はこれだけ私に見つめられても集中力を乱さないで、よく仕事が出来るものだ。私に集中力がないといわれれば返す言葉もないが。
でも確かに暇になってきたと言われればそうかもしれない。仕事をしている黎翔を見つめても、これ以上新しい黎翔を発見出来そうもない。
「……もうしばらくじっとしていろ」
「はぁい」
良い子風に返事はしたものの、「じっとしていろ」と言われれば逆に動き回りたくなるのが人間だ。
「よーいしょっと」
ソファから立ち上がり、黎翔の下へ歩いていく。そして、横からよじ登り、黎翔の膝にお邪魔する。
「……何をしている」
「お仕事の見学?」
机の上を見てみると、紙が沢山あった。一見読めない字だらけだけれど、ゆっくりと文字を追えば、何となく知っている文字に変換される。
「ちゅう、お、うひろ、ば……の、き、せいに、つ……いて?」
中央広場の規制について。意味は全く分からないけれど、読む事は出来る。
「か、くう……?き、んし?」
こちらも読めるけれど、意味がわからない。
「……字が読めるのか」
「ちょっとだけ」
「そうか」
それから黎翔は私が膝に乗っている事を気にせず仕事をしてくれた。私が黎翔の服で遊んでも、身動ぎをしても、書類を触ってみても、悲しいくらい動じなかった。
後々思えば、私が見てはいけない書類等は無かったのだろうか。
「……書類仕事にもう少しかかる。どこかで遊んでいるか」
黎翔は呟くように私に問いかけた。もう少し、とはどれほどだろうか。体感的には数時間経っているのだけれど、恐らくまだ一時間も経っていない。私が暇そうにしていたからそう言ってくれたのだろう。ここの事は全く分からないから、一人で何処かに行っても確実に迷う。なにより、子どもが見て面白いと思うようなものはここには無いだろう。
「ここにいる」
「そうか」
それでも、暇そうにしていた私を見かねたのか、
「絵でも描くか? 好きなのだろう?」
と、提案してくれた。
「描きたいけどお絵描き帳ないよ?」
「紙ならば、その辺にある」
そう言って黎翔は先ほどまで仕分けたり書き込んだりしていた紙を裏返した。
「……えっ、いいの?」
仕事用の紙だろうに。こんな子どもの落書きに使っていいのだろうか。
「構わん」
黎翔が良いと言うならば良いのだろう。黎翔から鉛筆受け取り、紙に書き始める。黎翔の膝の上で描くと邪魔になってしまうだろうと感じたが、黎翔が何も言わないので良い事にする。
「何描こうかなぁ」
いつも目に見えるものを書きたいと思ってから、お絵かき帳を開く。今は何も考えていなかった為、迷う。
「ごはん……、お花、飲み物、うーん、」
決まらない。これが色鉛筆なら、きっと何でも書く事が出来ただろうに。鉛筆の黒一色というだけで、とても難しくなった。いっその事黒いものを書けば、色の濃淡で下手に思われないかもしれない。黒いものは無いかと部屋の中を見渡してみるけれど、黒い色のものというのはなかなか無い。
頭をぐるっと物理的に回してみたら、黎翔が紙に何やら文字を書き込んでいるのが見えた。
「せい、じょ……さ、まの、」
これって、
「私の事?」
「ああ。披露会についてだ」
「ふぅん」
興味がないと言ったら嘘になるけれど、恐らく難しい内容だから、私が理解出来るはずもない。それにしてもこれが字だなんて。こんな絵の羅列がどうして意味を持つのか不思議だ。字なんて、見方によったら絵だ。その人にとっては日常的に使っている文字であっても、普段使わない人からすれば、それはただの絵。
そうは思うけれど、私はこの先、この国で生きていかなければならないから、読めるように、書けるようにならなければならないのだろう。
「えっと、『せ』は……、くるっと回って、こう?」
「惜しい。ここを跳ねる」
「ふむふむ」
やはりなんだか難しい。少しの違いでも別の文字になったりするのだろうか。あいうえお表の様なものがあれば多少練習しやすいのかもしれない。
「じゃあ、『い』は」
「書いてみろ」
読むのは出来るけれど、書くのは難しい。私が文字を書くにはまず、読めないはずの文字をゆっくりと読んで、その文字を知っている日本の文字と知らないこの世界の文字とを照らし合わなければならない。そうしてやっと、この世界の文字が持つ意味に気付けるのだ。
「ぐにゃぐにゃして難しい……」
「それがこの世界の文字だからな」
遠回しに、この世界を受け入れろと言われているようだ。
「貸してみろ」
黎翔は私からペンを取り、紙にスラスラと何かを書き始めた。
「なんて書いてるの?」
「『空の聖女』だ」
「そらの、せいじょ?」
「この国の聖女という意味だ。書けるようになっておけ」
「はい」
黎翔はすでに私に興味が失せたように仕事に取りかかってしまった。そうなると私には他にすべき事がない。とりあえず黎翔の言葉通り、この文字の練習をするのが良いだろう。
黎翔の書いてくれた文字を見つめながら、それと同じ文字を下に書いていく。文字というより、もはや絵だ。黎翔の真似をして書いているとはいえ、文字を書いているという感覚が全くない。同じ模様を書いているという気分だ。けれども私の視界にはこれが文字として認識されているのだから不思議な事だ。
「『そ』……『ら』」
この2文字は書く事が出来た。私が書いたこの模様のような文字からも私の知っている日本語が浮かんで来たという事はうまくかけているという事だろう。
1文字1文字を書くだけで小さな作品でも描いているかのようだ。とても時間がかかる。これでは自分の名前を書くなどとんでもないだろう。ちらりと黎翔を見るけれど、すらすらとこの世界の文字を書いている事に尊敬を覚える。この世界の人からするとこの世界の文字を書く事はそれほど難しい事ではないはずなのに、元の世界の言葉にすら苦手意識があった私からすると未知だ。
私が苦戦しながら書いていると何やら黎翔からの視線を感じた。
「どうかしたの?」
「いや、それほど難しいのならば講師をつけようか」
「講師?」
「つまり先生という事だな」
先生という事は私に文字や勉強を教えてくれる人という事だろう。それはとてもありがたい事のように思える。けれども
「や」
私はそれを受け入れるつもりはない。文字くらいなら自分で書いて練習出来る。それに、まだ良いではないか。今はまだ。
「私、お勉強しないもん」
「そうか」
黎翔は特に怒る訳でもなく、呆れる訳でもなく、ただ淡々とそう言葉を返した。
「終わったの?」
「ああ」
文字の練習にも少し飽きてきて黎翔の膝の上でうとうととしていると黎翔が私の両脇を掴んで私を床に下ろした。急に動かされた事に驚きを感じながらも立ち上がり黎翔に問いかけると仕事が終わったとの返事が帰ってきた。
「じゃあ、あそぼ!」
「何をして」
「お散歩!」
「まて、飛び出すな。上着は着ていけ」
部屋から飛び出そうとした私に黎翔は、上着を被せてくれた。
「うぅ、さむ……」
中にいると寒さを感じなかったが、庭に出た事で、肌に冷たい風が刺さる。行く前に黎翔が上着を着せてくれて助かった。
「冷えるな。中に入るか」
「やっ!」
せっかく出てきたばかりだというのに、どうしてもう入らなければならないのか。
黎翔とやってきたこの場所は、中庭のようだ。四方を建物に囲まれている。背の高い建物に囲まれているというのに圧迫感がないのは、この中庭がとても広いからだろう。
「お花いっぱいね」
綺麗。可愛い。美しい。
この花たちを指すのにふさわしい名前はなんだろう。
建物の白。
花の白。
土の黒。
黎翔の白。
私の黒。
白に囲まれたこの景色はモノクロのように見えるけれど、白という色がある。この場所で唯一はっきりと白ではないものは、土。土は、この白い世界で何を思って黒で居続けているのだろうか。白になりたいとは思わないのだろうか。
「誰がお世話してるの?」
「庭師だ。今は別の場所で作業をしている。」
花は枯れたら茶色くなるのに、ここにはその茶色がない。しっかりとお手入れされているという事だろう。
「……どうして、白いお花ばかりなの?」
「……象徴だ」
「ふぅん」
「聞いておきながら興味がなさ気だな」
「そ、そんな事ないよ?」
ただ、少し難しかっただけで。象徴なんて壮大な言葉はすんなりと受け入れるには重すぎる言葉だ。否定してはいけないし、受け入れがたい。
思わず天を仰ぐと、視界に白くて速いものが映った。
「あ、鳥さん」
一昨日の朝に描いた鳥だろうか。真っ白な鳥だ。けれどよく見ると少し灰色がかってるような気がする。光の加減だろうか。
「おいで!」
思いっきり空に向けて両手を広げてみる。来るはずもないと分かっているけれど、来てくれると、いいなと思った。予想通り鳥は来るはずもなく、そのまま大空を自由に飛んでいた。もともと来るはずもないと分かっていたから、落ち込む訳もなくそっと手を下ろした。しいて言うならば、格好つけて大声で鳥を呼んだにも関わらず、鳥に無視をされている場面を黎翔に見られた事が恥ずかしい。いっその事見なかった事にしてくれないだろうか。
「はぁ、」
黎翔はため息をついて手を自身の口元に持っていった。
「?」
首を動かしげ、黎翔を見つめる。すると、
ピィーーー
という不思議な音が鳴り響いた。
「!?」
その音の正体は分からないけれど、黎翔の口元から響いたように聞こえた。
バサッ
私の視界を白が遮る。速くて、少し灰色で、でも真っ白。気づけばそれは、私の右肩を占領していた。
「えっ?」
一体どういうカラクリだろうか。もしかするとこの鳥は自然に生きている鳥ではなく黎翔たちが作った機械なのかもしれない。
そうでなければ納得がいかない。ただの人間が大空に飛ぶ鳥を地上に連れてこられる訳がないのだから。
「どうして鳥がおりてこられたの?」
「私達は鳥と相性が良い」
黎翔はきっと、空の住人なのだ。あぁ、そうか。ここは空の国だからここの住民は空の生き物と相性が良いのだろう。そう思わなければ自分自身で納得がいかない。
「すごいすごい!」
それでも自身の肩に鳥がとまるという体験はそう出来るものではない。興奮あらわにしたいけれど、鳥を驚かせないように静かに騒ぐ。
「これくらいの事、この国の人間なら誰でも出来る」
やはりこの国の人間は黎翔だけではなく他の住民も空の生き物と相性が良いのだ。空の国だから。どうせならばここの住民に空の生き物と仲良くなる能力を授けるのではなく鳥が人間と仲良くなる能力を授かればよかったのに。そうすればこの国の人間ではない私ももっと自由に鳥と仲良くする事が出来ただろうに。
「こっち、おいで」
鳥が乗っている肩に向かって反対の手を差し出すと鳥は素直に私の腕に乗ってきてくれた。
「あれ?」
私の腕に乗った鳥は驚くほど綺麗な白色だった。灰色など全くないほどこの世の全てから色を抜き取ったような綺麗な白だった。
「黎翔様、この子、さっきは少し灰色じゃなかった、ですか?」
「……そうだったか?」
黎翔は心底不思議そうに首を傾げながらまじまじと私の手に乗っている鳥を眺める。まさか鳥が入れ替わったという事もないだろうし一瞬で鳥の色が変わったなどというマジックも起こる訳がない。だとしたら残された可能性としては私の見間違いか光の加減で少し暗く見えただけだろう。
「たぶん、きのせい」
「そうか」
そうだ。今は鳥の色はさして重要ではない。綺麗な鳥だ。体は真っ白で瞳は黒い。そのアンバランスさがより一層、白を際立てる。よく見るとくちばしは白のようで薄い黄色だ。帰ったらあの絵にくちばしの黄色を足そうか。いや、まだこの鳥があの絵を書いた時に見た鳥と決まった訳ではない。違うか合っているかを試す方法はないけれど。
ツンツンと私の腕をくちばしでつつきながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように動き回る。まるでうさぎのようだ。この可愛らしいトサカがうさぎの耳に見えてきた。
出来る事ならば、ずっとこの腕の中で綺麗な姿を見せてくれたら良いのに。しかしそのような願いが叶わない事は分かっている。次の瞬間、鳥は小さくて大きな翼を広げ大空へと飛び立ってしまった。
「あっ……」
地を生きるものと、空を生きるもの。相容れないと分かってはいるけれど、もう少し一緒にいたかった。その青空へ私を連れて行って欲しかった。私もいつか。
「時間切れだ」
私ががっかりした声を出したからそう言ったのだろう。鳥が飛んで行った原因は私にあるのではなく鳥が空に帰る時間が来た。そういう事だろう。
「空が好きか」
「はい」
空が好きかという疑問に迷う事なく答える。恐らくこの感情は憧れだ。広くて大きくて自由な空に憧れた。一生手の届く事がない、夢だ。
「空だけじゃなくて、この国の色々なものが好き」
ここは白が多いけれど、決してモノクロではない。世界がカラフルに色づいている。
優しい世界だ。
寒くなってきたので、室内に入る事にした。とは言っても、城の中は広い為、室内を探索するにも十分な時間を必要とする。好きなように歩き回ろうかとも思ったが、黎翔が「見せておきたい場所がある」と言ったので、その場所に向かう事にする。いくつか階段を上り、たどり着いた部屋はとても広く、バルコニーがついていた。バルコニーというよりもその部屋が丸ごとバルコニーという名前がふさわしい場所だった。ここまでの道のりは距離で言えばあまり遠くはないけれどこの短い足では十分長距離だった。
「入るぞ」
黎翔の声かけで広い部屋の中に足を踏み入れる。足を踏み入れた途端、開いている窓から冷たい空気が入り込み冬の匂いがした。寒くて震えそうになりながらも、今までの事を思えば耐えられないほどでもない。鋭い風が広い部屋を突き抜けバルコニーに向かう。大きな窓の向こうに見える空はまるで窓枠が額縁となって、とても大きな絵画のようだ。それほど空は綺麗で美しく非現実的に映った。
「何故止まっている。見せたいものはこの奥だ」
あまりの綺麗さにどうやら足が止まってしまったようだ。
「今行きます」
一歩足を踏み出すごとに冷たい風が肌を突き刺す。大きく開いた窓からバルコニーへと足を踏み入れる。
まるで前からぶわりと強い風が吹いたようだった。体が後ろに押されそうになりながらも前に足を踏み出す。
「ここから見える景色が、この国だ」
「!」
果てなんて見えない。真っ白で、真っ青な空が続いている。今までは空を見上げてきたけれど今はまるで空を見下ろしているかのようだ。
それでもやはり空は遠くて見上げる事しか出来ない。少し高さが変わっただけの普段と変わらない空のはずなのに、手が届きそうに感じた。けれど同時にもっともっと空を遠くに感じた。
「空って遠いね」
「遠ければ、近くまで行けば良い」
黎翔の迷いのない鋭い声を聞きながら空を見上げる。視界の隅に黎翔の白くて長い髪が視界に入る。青い空に映るそれは、風になびかれている。まるで黎翔は鳥だ。だから黎翔は空と近いのだろう。
「ちなみにここは、披露会の時に挨拶をする場だ」
聞いてない。挨拶するなんて聞いてない。
ここからはきっと、全部見える。広い庭も見えるし、大きな門も見える。遠目から街も見える。
「当日はこの下の庭は国民で埋まる」
「……?」
この広い庭が人で埋まるというのは現実的に難しいだろう。いかにも誇張が過ぎる。ここから庭を見下ろしたとしても、人を認識出来ない。それほどまでにここから見た庭はとても小さい。そんなに小さい人が一体どれほど集まればここを埋め尽くせるというのだろうか。不可能と言わざるを得ない。
今回の散歩で分かった事がある。いや今回の散歩で分かった訳ではない。元々わかっていた事だけれど改めて感じた。
『城は広い』
当たり前だ。遠くから見た時でさえ城の存在をとても大きく感じていたのだから実際に自分が歩いてみると大きいのは当然だ。
歩き疲れた私は当然のように黎翔の腕に抱かれていた。
「ここは黎翔様のお家なの?」
「家かどうかは分からないが住んでいるという意味ではそうだな」
「そっか」
こんな大きな家に住んでいるだなんて。
「寂しくないの?」
「その質問の意図はよくわからないが、ここには多くの者がいる。寂しいと思う暇はないな。……しいて言えば時折退屈を感じるという事か」
白い城は、圧迫感がなく、とても広く感じる。だからだろうか。私が住んでいる場所にしても、この城にしても、私はどうしても寂しさを覚えてしまう。その寂しさが何に対してなのか、明確な答えが見つからない。ただ、この世界に来てから幸福とは別に何か心に穴が開いたような心地を味わう事がある。その正体が分からない事が何よりもどかしい。
「城の構造は覚えられたか」
「全然」
自信たっぷりに否定の言葉述べる。それも仕方がない事だろう。だって広い事に加え景色は相変わらず白と金に彩られている。
扉に書いてある文字を読めば何に使われている部屋かわかるけれど遠目からではもうわからない。せめて扉がカラフルであれば、覚えられるというのに。
「また近々案内しよう」
黎翔は私の答えが分かりきっていたようで呆れる事なくそう答えた。
呆れられなかった事を喜べばいいのか初めから期待されていなかった事を悲しめばいいのかわからない。窓の外から見える白い鳥はそんな私を嘲笑うかのようにいつまでも優雅に飛んでいた。
目を開けると、辺りは真っ暗だった。窓の外は真っ白な月が空高くに輝いている。黒い空の中にたった一つの白い光だというのに、眩しいくらいに目に留まった。白の中に一つだけ黒があったとしても、それはただ煩わしいだけというのに、色が変わるだけでどうしてこうも眩しく輝かしいのだろうか。
真っ暗な空を見て思う。ああ、土は黒くないのだ。本当の黒はこれだ、と。
「起きたか」
私はどうやらいつの間にか眠ってしまっていたようで、ベッドに寝ていた。黎翔は眠っている私の横で座って本を読んでいた。果たしてそれが趣味の読書なのか仕事の読書なのかは私には計り知れないが。
黎翔もどうやらもう少しで寝ようとしているようだ。服装は完全に昨日と同じく寝るためのものだ。
「もう夜?」
「あぁ、日付がもう少しで変わる」
どうやら寝ていたら夜どころか夜中らしい。この世界でこの時間に起きていたのは初めてだ。
私がいつの間にか寝ていたから、今日もここに泊まる事になったらしい。
「暗いね」
「夜だからな」
もう一度窓の外の月を見る。微かにだけれど、月の近くには星が輝いているように見える。
「ここにも、星があるんだね」
「前の世界にもあったのか」
「うん、あったと思う」
私はまともに見ようと思った事は無かったけれど。
「お星さまには、人が住んでるの?」
「かもな。ここから見える星も1つの大地だからな」
「じゃあ、その世界は黄色いんだね」
「……なぜ?」
「だって、星は黄色いんでしょ?」
「……固定概念だな」
難しい言葉を使わないでほしい。
「ここは、色んな色があるんだね」
「普通だろう」
「キラキラしすぎて目が痛いよ?」
「すぐに慣れる」
慣れる筈もない。黒一色の夜でさえ、色とりどり綺麗な星が輝いている。
「さっきの所、行きたい」
「さっきとは」
沢山歩いて、沢山の所を見て回った。「さっき行った所」なんてありふれている。
「お空が見える所。お庭が見えて街が見える所」
「……夜は冷える」
「暖かくしていく」
「……夜も遅い。子どもは寝る時間だ」
「いっぱい寝たから、まだ眠くない」
「……はぁ」
大きくため息を吐いた黎翔からは幸せが逃げてしまった事だろう。
「お前に風邪を引かせたら、私が霙に怒られる」
「大丈夫、馬鹿は風邪をひかないのよ」
「確かにそんな諺があるな。だが、私はお前が馬鹿かどうかを判断する程の関わりがない」
「じゃぁ、――――私を知って」
思ったよりも真剣な声が出た。
「……そのつもりだ」
「私もこの世界を知りたい。…………夜の、綺麗さを知りたい」
私は、夜を好きになりたい。
「だから連れて行って」
「結局そこに行き着くのか」
「うん」
「まぁ、我儘を言えるのは良い傾向か。その代わり長居はしない」
「うん!」
自分で言い出した事とは言え、やはり夜は冷える。上着も着ている。靴も靴下も履いているというのに、足元から冷えが伝わってくる。反対に、繋いだ手はとても暖かい。この温度差で風邪をひいてしまいそうだ。
あのバルコニーは私の部屋からは遠い。廊下を沢山歩いて、階段を登って、また廊下を歩く。渡り廊下を渡って、また階段と廊下を歩いて。途中からは黎翔に抱き上げてもらった。
私が言い出した事だから、寒いも疲れたも言いたくなかった。無言で両手を伸ばすと、察したように抱き上げてくれた。黎翔も、何も言わなかった。
昼と夜では全く違う。
「明かりはいるか?」
「ううん、いい」
明かりを灯してしまうと、外が見えない。窓という額縁の中に浮かぶ色は黒。昼間の青、水色とは違う。禍々しく、優しい闇が世界を包み込む。
黎翔が私を下ろすと、再び足元に冷えが舞い込んでくる。ぶるりと震えるけれど、自分の足で額縁をこえたかった。
髪の長い黎翔が窓の所に立っていると、まるで絵画の中に住む天使のようだ。この世界を導く、白くて綺麗で美しい天使。
窓に近づくと、さらに気温は下がる。寒いはずなのに、ぶわっと吹いた風は、暖かかった。
昼間と同じ感覚で一歩、額縁の向こう側へと足を踏み入れる。私は、この時言葉を忘れた。
「空が黒いからこそ、灯りが綺麗だな」
黒いからこそ――。
真っ暗な闇の中に、明るい星。星はどうして光っているのだろうか。星は黄色なんて、そんなのは嘘だ。だって、私が見ている星は白くて、オレンジ色で赤くて、…………やはり、黄色だ。
「違う」
星だけではない。私の目線よりさらに下の方に広がる明かりは、民家が明かりだ。人が生き、生活し、そして、命を育むための光。街灯の光、窓から漏れる室内の明かり、ランタンの光。きっと色々な光があるのだろう。光は、白。闇は、黒。これこそ固定概念だ。
「そっか、」
言葉が出なかった理由がわかった。綺麗なんて、言葉では表せない。
ああ、なんて、――――――美しい。
昼の綺麗さ。
夜の美しさ。
私の目は、これを映すためにあるのだ。これを、守るために、私はここに来たのだ。
「ありがとう」
世界の美しさを知る事が、私を彩る。
私が私の存在を知った時、カチリと、日付が変わった。




