(3)
瑛太に意識して会わないというのは、物心ついてからははじめてのことかもしれない。両親の帰りが遅いからと夕飯を食べに来るのも常だったし、逆も多々あったからだ。
さすがに一週間会わずにいると、寂しい。兄が家を出たばかりというのもあったが、急に兄弟が全員家を出てしまったような、取り残されたような心細さが薫を苛んでいた。
だが、部活に学業にと高校生は忙しい。
(瑛太が十番上げるんなら、わたしだって上げないとまずいよね)
そんなふうに寂しさをごまかしていたが――体育祭の練習に熱が入る中、その事件は起こった。
小雨が体操服をしっとりと濡らしていく。空を見上げると、西の空から黒い雲が忍び寄っている。
生徒からはやめようという声がちらほら漏れ出したが、体育祭までのスケジュールは結構過密で、このくらいの雨では練習をやめる訳にはいかないのだった。
薫たちはダンスの隊形の確認をしている最中。雨だと座ったり、寝転がったりしたときに体操服が汚れるから憂鬱だ。
「雨はやだねえ。体育館でやればいいのに」
佳子に話しかけたその時、
「わあっ」
どこかで悲鳴が上がり、薫は声の発信源を振り返った。
「あれ……、ニノミヤじゃない?」
佳子の声が耳が届くなり、薫の体は動いていた。
「ちょっと、動かさないで! 頭打ってるかも!」
先生の声が聞こえて、誰かが保健室へと駆けていく。男子は騎馬戦の練習をしていたらしいが、どうやら途中で馬が崩れたらしい。瑛太は輪の中心で顔を右手で覆っている。
血の気が引く。薫がそれ以上近寄れずに固まっていると、ふと、やけに通る声が響いた。
「――頭は打っておらぬ。打ったのは背中だ。一瞬息が止まっただけだ」
それが瑛太の声だと気づくのに少し時間がかかった。
どことなく堅い口調。薫はまさかと思う。
確認したくて慌てて輪の中に入ると、瑛太の顔には眼鏡がない。
周囲を見ると、足元に歪んでレンズが外れてしまった残骸があった。柄の部分がポッキリと折れてしまっている。
(うわあああ、これ、瑛太の財布に響くやつ……!)
青ざめて瑛太の様子を窺うと、彼は薫を見つけて笑った。
髪はあれから大分伸びたけれど、眉を隠す程度の短さで、きれいな顔は何にも遮られていなかった。
細めた目元、わずかに緩んだ口元に、どきりと胸がはねた。
こんな風に瑛太は笑わない。
瑛太が笑うときは、薫は心がほっと安らぐ。
だけど、今のこの笑顔は、心がざわめく。
いつもはない色気がそうさせるのだ。
(……これは絶対まずいやつ! え、でもなんで。昼間学校で出てくることってなかったのに――)
確信した薫が顔をひきつらせると、
「ああ、薫か――しばらく姿が見えなかったがどうしておったのだ、おぬしも妻ならば――」
自分でもどれだけの瞬発力かと思う。
薫は真顔で瑛太の口を塞ぐと「具合悪そうなので、保健室へ連れて行きます!」ときっぱり申し出た。本当はハンカチでも口に詰め込みたかったが、さすがにそれはやりすぎだろう。
「つま?」
そのフレーズを拾ってしまったのだろう。誰かが怪訝そうに意味を問うた気がしたが、無視だ。
(はいはい、それは空耳ですから!)
必死だった。これ以上今の状態の瑛太を人目に晒すわけに行かない。ただでさえ変人扱いされているのに、更にひどいことになってしまう。とにかくここから瑛太を連れ出さないと。
「え、あ、あぁ」
先生も目を白黒させていたが、「あぁ、そういえば立花さんは、二ノ宮くんの友達だったか……?」となんとか状況を飲み込もうとしていた。
さすがに交友関係までは頭に入っていないのだろう。しかも瑛太は理系男子クラス。文系女子とのつながりがとっさに出てこなかったに違いない。
「家が近所なんです。なんなら送っていきます」
むしろいますぐ送って行かせて欲しい。必死の形相が効いたのか、
「いや、とりあえず、保健室に。そこまで言うなら、付き添いしてもらっていいかな。頭は打ってないみたいだけど、念のため」
「わかりました」
薫が頷いた時、養護の先生が到着した。
支えられて瑛太が立ち上がる。
ホッとして口から手を離した瞬間だった。瑛太――カミサマはぐるりと取り囲むギャラリーに向かって、「心配はいらぬ」と例の妙に色気のある笑顔を振りまいた。
「――――!??」
多少見慣れている薫でも、心臓が妙な動きをする笑顔だ。
ざわりと空気が揺れる。数人が息を呑むのがわかり、薫は厄介なことになったと思いながら、速やかに瑛太を連れ出した。
だが、
「もし倒れたら大変だから、俺もついてくー」
後ろから声をかけられ、
「いや、ほんと、結構ですから!」
と言いながら振り向いた薫は、あれ? と首を傾げた。
「小島先輩?」
小島直人――それは薫の所属する弓道部の先輩だった。
*
保健室につくと、養護の先生は瑛太を簡易ベッドに寝かせたあと、瑛太の親に連絡をしに保健室を出て行く。薫が目で「帰れ」と訴えたのが伝わったのか、カミサマは早退すると言ってくれたのだ。
あなた達はもう練習に戻りなさいよ、と言われて「は~い」と返した小島先輩は、良い返事の割に出ていかない。
先輩は先生が出ていくのを見届けると、ニコニコと笑いながらしれっと言った。
「いや、実は練習しんどいから抜けたかったんだよね。雨降ってんのになんで終わんないんだって思ってたから、助かった」
薫は少し呆れてしまう。
三年の小島先輩はすでに引退したのだけれど、弓道部でも無我夢中でやっているところは見たことがない。要領よく練習して良い成績を残していた。どうやら普段もそんな感じ。スマートで、無駄が嫌いなタイプなのだ。
そして、女子が好きで、それを隠そうとしていない。薫にさえもちょっかいをかけてくる。
(ちょっとチャラいんだよね……)
瑛太の従兄、修造と印象がかぶる。つまり、薫は少しだけこの先輩が苦手だった。
「それにしても……眼鏡、壊れたけどどうするわけ? 結構バッキリで、逝っちゃってる感じするけど」
先輩は気さくに横になったままの瑛太に話しかける。だが、瑛太の方は愛想笑いさえせず、薫に向かって問いかける。
「薫、コヤツは何者だ?」
「…………こやつ? やっぱりちょっと頭打っちゃった? やばくない?」
薫は頭を抱えたくなる。
「すみません、ええと……彼、人見知りがひどくて!」
フォローする言葉もネタ切れ気味だ。だが、
「ふうん。まぁ、変わり者っていうのは聞いてるけど、ちょっと思ってたのと違うかも」
先輩は不自然さを気にせずに、興味深そうに瑛太を――カミサマを覗き込む。けれど、カミサマは鬱陶しそうに、ぷい、と顔をそらしてしまった。
(あれ? なんか……いつもと様子が違う?)
なんだかそっけないのは気のせいだろうか。
(もしかして、瑛太に戻った?)
確認したくてそわそわする。だが、さすがに今、先輩の前で尋ねるのは無理だ。
(ん――……眼鏡が壊れてると、どっちか判断できないのって困るな……)
ゴールデンウィークに稲荷山に登ったときも、瑛太だと思っていたらカミサマだったことがある。
カミサマがわざと眼鏡をかけていたので、簡単に騙されてしまったのだ。
もしカミサマがわざと瑛太の口調を真似してしまえば、判断がつかないのではないかと不安になる。
保健室の窓から外を見ると、雨粒が大きくなってきていた。
これではもう練習は終わりだろうし、教室に戻るべきかもしれない。
とにかく、これ以上先輩と瑛太を接触させるのは好ましくない気がした。
「そろそろ戻りましょうか」
立ち上がりかけると、先輩がふと薫に話しかけた。
「ねえ、前から気になってたんだけど……立花ちゃんって、この二ノ宮くんとつきあってんの?」
「は……?」
またそれか。佳子に言われたのも驚いたけれど、皆して一体何なのだろう。いい加減にして欲しいと顔が険しくなる。
「いえ。ええと、まずどうしてそう思われるのかが謎なんですけど……」
むうっと口をとがらせて尋ねる。
「俺は、どうして立花ちゃんが、そう思われないと思っているのかがわかんないけど。幼馴染ってのは聞いてたけどさ、高二ともなればもうそろそろ卒業する時期だ。普通は進展するか、適切な距離を置くか。だから、まだいつも一緒にいるってことは、どうしても進展したって考える」
「卒業? ずっと幼馴染のままじゃいけないっていうんですか?」
瑛太との関係は、周りから言われて変えるようなことなのだろうか。薫は自分がだんだん不機嫌になるのがわかった。
「いけないことはないけど……。うーん、どう言ったらいいのかな。もし二ノ宮くんを好きな子がいたとしても、立花ちゃんには敵わないから、告白するのは止めておこうって思っちゃうだろうなってこと」
「敵わないもなにも……」
こちらにそんな気がないのに勝手にライバル視されても……と困惑する。それに瑛太にそんな浮いた話があるわけない――と思いかけた薫だったが、はたと我に返る。
(そういえば、佳子ちゃんも言ってたし。瑛太に彼女ができるとかなんとか)
大分見慣れてきたせいもあって、彼の変貌を忘れてしまう。
ちらりと瑛太の顔を盗み見る。形良い眉に、きれいな切れ長の目、通った鼻筋に、薄い唇。それらが絶妙なバランスで配置されている端正な顔立ち。髪型を整え、ダサい眼鏡を掛けていない瑛太は、素直にイケメンと言っていい。
本人が興味なさそうにしているから、まだまだ先だと思っていたけれど、実はそんなに遠くない未来のことなのかもしれない。
(瑛太に彼女ができた時……その時は幼馴染ではいられなくなる……?)
なんだろう、それは……すごく嫌だ。
薫がむっつり考え込んでいると、先輩はちらりと瑛太を見た。
「逆に、立花ちゃんを好きな男がいたとしても、この二ノ宮くんがいる限りは近寄りづらいしね」
「はぁ」
わかり易い例を出そうとしてくれているのかもしれないが、どうにも喩え話が悪すぎると思う。恋愛経験の『れ』の字もない薫にはいまいちピンとこない。
「はっきりしてくれないと困る――って思ってる人間は、案外多いんじゃないかなあって思うよ」
意味ありげに先輩は言うと、瑛太を見て口をつぐんだ。
「……はっきり……か……、波風が立たねば船も進まぬ。たまには荒療治もよいかもしれぬ」
それまで黙って話を聞いていた瑛太が口を開き、薫はどきりとする。
これは瑛太だろうか。それともカミサマだろうか。言葉の端々から予測するに、カミサマのような気がするけれど、確信はない。
じっと観察する薫の前で、瑛太は微かに笑う。
そしてだれかに言い聞かせるように低い声で言った。
「薫とは『単なる幼馴染』だ。というより、姉弟に近い」
(幼馴染――?)
耳の中で瑛太の言葉が鳴り響く。それはリフレインして、周囲の音を塗りつぶしていく。
「へえ……? じゃあ、立花ちゃんに彼氏ができても平気ってこと? たとえば……俺が――」
先輩がなにか言ったが、薫には聞き取れない。
瑛太は一瞬ぐっと息を呑んだが、すぐに大きくため息を吐き、言った。
「薫の人生だ。好きにすればいい」
先輩は意外そうに目を丸くしている。
薫は呆然としていたことに気が付く。なぜだかわからないが、一瞬息と同時に時が止まっていたようだった。
自分の心を覗き込もうとした時、養護の先生が戻ってきて「まだ帰ってないのかー! サボんな!」と、保健室を追い出される。
そのまま呆然と廊下を教室の方へと歩いていると、後ろから声をかけられる。
「ちょっと、ちょっと、立花ちゃん!」
小島先輩だった。存在をすっかり忘れていたことに焦る。挨拶もせずに立ち去るなど、後輩としてだめすぎる。
「す、すみません、ちょっとぼうっとしてて。えっと、な、何かご用ですか?」
先輩はなぜか顔をひきつらせている。
「うわあ……スルーは痛いんだけど……こりゃ、脈なしってことだなあ」
「え?」
どうやら呆然としている間に何か聞き流してしまったらしいが、一体なんだろうと薫は焦る。
「わああ、本当にすみません、ぼんやりしてしまって」
と言い訳をしながらも、どうしてこんなに動揺しているのだろうと、自分でも不思議でしょうがなかった。
(……あ、そっか。瑛太の口から幼馴染とか姉弟とかって聞いたことなかった……からかも?)
自分ばかり、幼馴染だ弟だと言っていた。それは口癖のようになっていて、発するときに何も考えていなかった。
けれど、瑛太からは聞いたことがなかったから、妙に新鮮に感じてしまったのだ……多分。
結論づけるものの、何か自分の心とずれている気がしないでもなかった。だが、それがどうしてなのかはよくわからない。
(そうだ、さっきのはカミサマが言ったんだし――)
と考えかけた薫だったが、はたと我に返る。
(あれ、でも……幼馴染って言ったよね? ってことはさっきのはカミサマじゃないってこと……?)
もしカミサマなら『妻だ』と言うと思った。『幼馴染だ』と言ったのだから、あれはきっと瑛太だ。
カミサマはいつの間にか瑛太の体を抜けてしまったようだ。
ならばもう妙な発言をすることもないだろう。ひとまず安心だ。
そう思うのに、何かもやもやとしたものが胸を覆っている。先輩に挨拶をすると、薫は教室へと急ぎながら、胸を押さえた。
(あー……なんだろ、これ。気持ちわる……)