(2)
五月末、例年通り関東地方は梅雨入りしたようだった。
頭上には曇り空が広がっていた。今にも降り出しそうだと、左手に持った長傘を握りしめる。
いつものように背中を丸めて目立たぬように歩いて行く。少し前には薫が友人の今田佳子と共に歩いているが、話に夢中なのかこちらに気づくことはない。
陰りのない笑顔。はつらつとした雰囲気を持つ彼女はどこにいても目立つ、と瑛太は思う。自然に視界に入って来て、いつの間にか目が逸らせなくなる。
薫の話を他の男の口から聞くことも増えてきた。その度に優越感と共に、焦燥感に苛まれる。
小さくため息を吐くと、ずり落ちてきた眼鏡をかけ直す。このところ老朽化が一気に進んでいる眼鏡は、前回修理に出したときには、店員に「次はもう買い替えですね~」と呑気に提案された代物だ。
スマホをいじって地図アプリを立ち上げる。画面に映るのは市内の八幡神社までの経路だ。
次回の散策予定を告げに行きたかったけれども、瑛太の母が釘を差しているのではないかと思うと声をかけづらかった。
しかも、友人の今田は瑛太の気持ちを知っている。はっきりと口にしたことはないものの、隠したこともなかった。それで、当の本人にはまったく伝わることがないのも不思議な話である。
そんなことを考えていると今田が振り返った。
「おー、ニノミヤじゃん。浮かない顔してんねえ」
ニヤニヤと笑われる。こんな風に気さくに声をかけてくる女子は、薫の他には今田だけだ。今田にしても、薫の幼馴染でなければ関わり合おうとしなかっただろうが。
「順位落としたって?」
「まあね」
「もしや、恋煩い、とか?」
「…………」
ムッとすると同時に、隣にいた薫が「え、うそ!」と目を瞠った。
「あっ、急にモテだしたとか佳子ちゃん言ってたけど……――」
「違うし」
バッサリと会話を終わらせる。それ以上言うなと目で訴えると、薫がつまらなそうに頬を膨らました。
いつものことだが、胸の痛みは、少し前からどんどん強くなっている気がしてならない。今田の気の毒そうな顔の下に、面白がるような表情が見え隠れしているのがわかるのが、また気に食わない。
『もしかしてニノミヤってマゾ? でも、はっきりしないアンタも悪いんだからね。さっさと言えば弟扱い脱出できるのに』
――と、この間、薫のいないところで言われたが、そんなに簡単に言うなと思う。
(マゾじゃねえし!)
腐りながら校門をくぐると校舎へ向かう。
文系の薫と理系の瑛太は教室のある棟が違うため、昇降口でお別れだ。以降、自分から会いに行かない限り、まず学校で会うことはない。
「神社巡りは、やっぱり、おやすみ?」
靴を履き替えながら、薫がぼそっと尋ねた。やっぱり、ということはやはり母親から薫の家にそういう話が行っているということ。舌打ちしたい気分だったが、こらえて頷く。
「ああ」
「……そう。あ、じゃあ、お金の管理だけ、気をつけて。いざとなったら全財産預かってあげるから」
「薫、ニノミヤから金預かると利子とられるよ」
と今田が余計なツッコミを入れると、薫がぎょっとする。
「あ、無利子でね!」
茶化しつつも寂しそうな顔に、落ち込んだ心が少しだけ浮上する。楽しみにしていた、と言っているように思えたのだ。
『旅行、めちゃくちゃ楽しかった。だからまた瑛太と行きたい』
ゴールデンウィークの旅のあと、薫が言ったあの言葉を忘れられない。
(……俺だって楽しかった)
こんなあてのない旅、一人だったらとっくに心が折れていたと思う。
だからこそ、これからも薫と一緒に旅がしたい。名前を探し当てるまで、ついてきてほしいと思うのだ。
ならば、瑛太の取る手段は一つ。親を黙らせるのに一番早いのは、結果を見せること。
あの人達は、瑛太が"彼らの望む息子"でいるのであれば、何をしても文句を言わないのだから。
「期末、絶対返り咲いてみせるし」
静かに宣言すると、
「うん、じゃあ、わたしも一緒に頑張るよ」
薫は拳を握りしめる。一緒に、という言葉がどうしようもなく嬉しくて、そして切なかった。
*
廊下には美術部が作った体育祭のポスターが貼ってある。そういえば、もう体育祭もすぐだ……と思っていると、佳子が何か思い出したかのようにくすりと笑った。
「ニノミヤも、何にも動じない風なのに、成績落とすとか可愛いじゃん」
「可愛いって……深刻なんだよ。ちょっと遊びすぎてるからって、しばらく出歩くの禁止されたんだよね」
「へえ。アイツの家ってうるさいんだ?」
「いや、そんなことないと思うけどなあ。おばさん、すごく優しいし」
瑛太の母は薫の母と同じく働いているが、地元で働く薫の母と違って、都内まで勤めに出ているキャリアウーマンだ。
確か不動産関係の仕事をしていると言っていたが、その関係で土日が休みではないらしい。
保育園が休みの日曜日は二ノ宮神社の祖父に預けられていたが、ある時寂しそうにしている瑛太を気にした母が声をかけ、うちで遊ぶことが多くなった。それが、瑛太が薫の家で兄弟のように育つようになった経緯だ。
平日、瑛太の母の休みには、薫が瑛太の家に遊びに行っていたが、いつもとても良くしてくれた。穏やかで優しいお母さんだと思う。
だから不可解だった。
「お父さん、の方かなあ」
薫は瑛太の父親のことを考える。やはり穏やかで優しそうな瑛太の父親は、二ノ宮神社をつがず、サラリーマンをしている。
「大学教授なんでしょ。親譲りだよね。頭いいの」
佳子は情報通だ。薫は頷く。ただそれは、瑛太はあまり知られたがらないことだった。
親譲り、そう言われるのを嫌っているのだ。
お父さんが学者さんだから瑛太が頭がいいのも当たり前。そう言われるのが嫌なのだ。
なんとなくわかる気もする。瑛太は努力している。いくら努力してもそれが認められないのはかわいそうだ。褒められないと落ち込んでいた瑛太を思い出す。
「瑛太はちゃんと勉強してるから成績いいんだよ――あぁ、だからやっぱ邪魔したらまずい……か」
毎週末瑛太と出かけるのは随分と楽しかったから、しょんぼりする。
「デートもお休みか」
「……デートじゃないし! ちょっと佳子ちゃんまでそういうこと言う!?」
薫はぎょっとする。最近そんな風に言われることが増えてきたけれど、まさか二人をこれだけ近くで見ている佳子まで、そんなことを言うとは思わなかったのだ。
「だって、そう思ってるのは薫だけかもよ? 心当たり、まったくないわけ?」
問われて首を傾げた。むしろ、いつも喧嘩ばかりしているのに、どこをどう見たらそう思うのかこっちが知りたい。
「え、でも、ホントに神社巡ってるだけなんだけど……」
佳子は「なにそれ」と目を瞬かせる。
「前から思ってたけど、本当に神社巡ってるだけなの? 高校生男女で? 御朱印でも集めてんの?」
「御朱印……ってなに」
前に母が言っていたような気がする。
「知らないの!? すごい流行ってんじゃん。神社に行ったとき、いついつ参拝しましたって御朱印帳ってやつに書いてもらうんだよ」
「へえ、何かご利益でもあるの?」
突っ込んで聞くと、佳子は笑ってごまかした。
「……詳しくは知らないけど。なんか集めるのって楽しそうじゃない?」
神社で働いている瑛太ならきっと由来やもらい方、何から何まで知っているだろう。聞きたいなと思う。だが邪魔してはいけないのだったと思い出し、薫はぐっと我慢した。




