一 高校生の義務(1)
返ってきたテストの答案用紙を見た瑛太は、最悪だ、と呟いた。
二年最初の定期テスト。ゴールデンウィークを満喫した薫と瑛太は、その一週間後には広い試験範囲と格闘していた。
結果は思わしくなかった。順位を十ランク落としてしまった薫が少し肩を落としながら家に帰っていると、見慣れた猫背が視界に入る。
「あれー瑛太? 今帰り?」
帰宅部の彼が、薫と同じ部活終了時間に帰っているのは珍しい。
「……あぁ」
振り返った幼馴染の瑛太はいつもよりも更に猫背に見える。気落ちしているように思えて、薫は尋ねた。
「どうかした?」
「……順位落とした。まじ、ヤバい」
何の話だろうと薫は首を傾げる。
「順位?」
「定期テストのに決まってんだろ」
「えっ……何番?」
「十番落とした」
なーんだ、同じかと思いかけたが、直後青ざめる。
薫の十番と瑛太の十番は重みが違う。彼はいつも飄々と高得点を叩き出し、五番以内に入っているのだから。
「先生にも呼び出されて原因訊かれたんだよ。まぁ……心当たりはあるけど、言えねえし」
薫はああ、と納得する。
「神様の名前探しか……」
確かに荒唐無稽過ぎて口にはできないだろうと思った。
春に近所のハルさんが亡くなってから続く、一連の出来事を思い出し、薫は瑛太と一緒になって肩を落とす。
勉強に充てるべきだったゴールデンウィークには、薫と瑛太は一緒に京都へ名前探しに行ったのだ。それが影響したに違いない。
「でも、しょうがなくない? それ、絶対瑛太のせいじゃないじゃん」
今は瑛太の中で眠っているだろう"カミサマ"に思いを馳せた。
仮宿を失い、瑛太に取り憑いたままの、仕事をしないカミサマ。彼は夜、瑛太が眠っているときなど、隙をついて出てきては要らないことばかりをやらかすのだ。
被害は主に彼のバイト代だが、眠っている間に体を使われるのであれば、疲労が溜まっていてもおかしくないと思った。
「疲れてたんだよきっと」
そう言ったけれど、瑛太は小さく首を横に振る。
たとえそれが自分のせいでなかろうと、彼は納得しない――と薫はよく知っている。自分に言い訳を許さない厳しさがあるのだ。
「薫は試験どうだったんだ?」
「んー……ちょっと落とした。けど、まぁ、わたしの場合、もともとそんなにできが良くないしね」
薫の成績は学年のちょうど真ん中あたりをウロウロしているのだ。
平均的な成績だと、上がっても下がってもあまり目立たない。というより、子育てというのは下になるにつれて適当さが増す。薫の母はそこまではっきりと薫の成績を覚えていないのだった。
「瑛太って、成績悪くなったら怒られるの?」
薫の記憶の中では瑛太はいつも成績優秀だったから、想像できない。薫と違って褒められてばかりで羨ましいと思っていた。
「怒りはしない……けど」
瑛太はそこで口をつぐむと「結局困るのは俺だし」と、大きなため息を吐いた。
憂鬱そうな顔に、薫も一緒になってため息を吐いてしまう。
「じゃあ、やっぱり一刻も早く解決しないといけないよね……次、どうしようか? 《天神》? 《熊野》? 《白山》? 《八幡》? 《若宮》? それとも《祇園》か……《神明》?」
ハルさんの家の庭にあった、屋敷神。屋敷神には先ほど口にした七つに、すでに除外された《稲荷》を加えた八つの神様が多く祀られているという。何度か繰り返している内に諳んじられるくらいにはなってきた。
試験勉強のため、しばらくその話は宙に浮いていた。試験も終わったし……と思い出して問いかけると、瑛太は瞳の中に影を落として言った。
「……名前探し、ちょっと中断しないといけないかもしれない」
*
「あ~、そりゃ、瑛太ちゃんとこはねえ、薫とは話が違うよね」
瑛太の成績が落ちた話をすると、せんべいをバリバリと食べながら母が言う。このごろ特にはまっている柚子味だ。九州生まれの母は何かと柚子味を好む。柚子胡椒など、わざわざ取り寄せて常に冷蔵庫に常備してある。他にも母の好みで立花家の醤油は甘い溜まり醤油だ。
テーブルの上には薫の試験結果が広げられているが、大雑把な母は身構えた薫に一言、「もっと頑張らないと、志望校受からないよ」と言っただけだった。
基本的には「どうしないといけないか、自分が一番わかってるでしょ」というスタンスなのだ。高校受験のときも同じくで、薫は瑛太や兄たちと同じ高校に行きたかったため、途中で自分で自分にスイッチを入れた。中学三年の春のことだ。
「でも、瑛太のお母さんってそんな怖くないよね?」
「奈々子さんは優しいよ。けど……」
母は少し言いよどんだあと、笑った。
「……まぁ、期待が大きいんだよね、もともと優秀だし、一人っ子だし」
「あー」
うちは期待も四分割されるから。納得していると、母はニカッと笑う。
「うちだって期待してないわけじゃないけど……あんたたちが納得すればそれでいいからさ。みんな賢い子たちだし、自分のしたいことをちゃんと見つけられるよ、きっと」
そう言われて照れくさくなるが、薫は母のこういうところが好きだった。ちゃんと一人の人間として認めてもらえている気がして、ならば頑張らねばと思うのだ。
だが、
「でも、瑛太ちゃんの成績下がったの、確実にあんたと遊んだせいだよね」
言葉に含まれた不穏な棘に薫は身をすくめる。前回の旅行後のお説教は、次兄海の爆弾婚約発表のせいで有耶無耶になったけれど、こうしたときにチクリとやられるから油断はできない。
何を勘違いしているのか、母は薫が瑛太と悪いことをしていると疑っている。つまりは不純異性交遊というやつだ。文字にするだけで違和感満載だ。まるで想像できないのだ。
(バカバカしくって涙がでるよ! わたしと、瑛太が! ふじゅんいせいこーゆー!? あるわけないじゃん! 瑛太だって迷惑してるよ!)
薫としてはまた同じように瑛太と旅をしたいと思っているから、変な誤解をされないように普段から気をつけて行動しないとまずい。
ひとまず刺激しないようにと話題を戻す。
「でも、瑛太ならすぐ元通りになると思う。あいつ賢いもん」
「うん。お母さんもそう思う。だから瑛太ちゃんのためにも、しばらくおとなしくしときなさいよ? 勉強の邪魔しちゃダメ」
「えっ」
「連れ回すのはちょっとやめときなってこと。薫と違って有望株なんだから、何かあったら申し訳ないもんね」
思わぬところから妨害が入り、薫は目を見開く。
「え、でも……ちょっとやめときなって、いつまで……?」
「そうねー、せめて今度の期末テストで結果出すまで? とにかく、神社巡りはおあずけ」
「ええ――――!?」
(っていっても……早くカミサマの名前を探さないと、瑛太にどんな被害が出るかわからないのに?)
むうっと顔をしかめるけれど、母はニッコリ笑う。
「期末まで一ヶ月ちょっとでしょ。少しの間だからおとなしくしときなさいね? 結果さえ残せば夏休みは遊べるでしょ?」
譲る気のない顔だった。
瑛太の曇り顔が思い出される。察しの良い彼は、すでにこの展開を読んでいたのかもしれないと、薫は思った。