潰れかけの商店
カイル・ベルナードという名前を聞いたエレノアは、その場ですぐ商人を呼び出そうとはしなかった。未来の夢で大商人になっていたというシオンの話を疑ったわけではなく、現在の彼がどのような人物なのかを何も知らない以上、侯爵家から直接接触する前に最低限の素性を調べるべきだと考えたからだった。
シオンにも異論はなかった。一度目の人生で知っているカイル・ベルナードは、王都だけでなく王国各地へ支店を持つ《ベルナード大商会》の創業者であり、商人の間では《商王》という大仰な呼び名まで付けられていた人物である。しかしシオン自身が本人と親しく話した経験はなく、商会員だった頃に遠くから姿を見たことが数回ある程度だった。
それでも名前を覚えているのは、商人としてあまりにも有名だったからだ。シオンが三十代だった頃にはベルナード大商会の看板を王国内の主要都市で見ることができ、食品から薬品、衣類、鉱石、外国の商品まで幅広く扱っていた。小さな商会で働いていたシオンも何度か商品を仕入れた経験があり、自分の雑貨店を持ってからも取引先の一つとして利用している。
ただし、その巨大な商会がどのように始まったのかまでは知らなかった。カイルが若い頃に苦労したという話や、一代で財を築いたという逸話くらいは聞いたことがあるものの、最初に何を売って成功したのか、誰から支援を受けたのか、何歳頃から事業が大きくなったのかについては記憶に残っていない。
だからエレノアへ伝えられた情報も、それほど多くなかった。
「夢で見た時は、王都にものすごく大きな店があったんだ。ベルナードって名前と、丸い輪の中に羽根みたいなのが入った紋章を覚えてる。別の町でも同じ紋章を見たから、たぶん何か所にも店があったと思う」
「その店に、この美容薬も置かれていたのですね?」
「似たようなものはあったと思う。でも、この草を使った最初の商品だったかは分からないよ。ベルナードの店はいろんなものを売ってたから」
シオンが分からない部分まで正直に説明すると、エレノアは頷きながら手元の紙へ情報を書き留めていった。未来で大きな商会を経営していたという事実は興味深いものの、それだけを理由に現在の商品販売を任せるつもりはないらしい。
「でしたら、まず現在のカイル・ベルナードについて調べましょう。未来で優れた商人になるとしても、今の時点で同じ能力を持っているとは限りません。それに、商売を任せる相手なら信用できる人物かどうかも確認する必要があります」
「うん。それがいいと思う」
「シオンは会ってみたいですか?」
「できれば。俺も今のカイルがどんな人なのか知らないから、ちょっと見てみたい」
エレノアは息子の希望を聞き入れたものの、調査結果が出るまでは接触しないことにした。侯爵家の名義で調べれば相手へ伝わる可能性があるため、王都にあるアルヴェリア家の商業関係者を通じ、一般的な信用調査としてカイルと彼の店について確認させることになった。
最初の報告が届いたのは、それから十日ほど後だった。
エレノアの私室へ呼ばれたシオンは、母の机に置かれた薄い報告書を見て首を傾げた。将来は王国最大級の商会を築く人物について調べたのだから、若くても何か目立った事業を始めているのではないかと考えていたが、報告書は驚くほど薄かった。
「見つかった?」
「見つかりました。ただ、あなたが夢で見た方と同一人物なのか、私は少し疑いたくなっています」
「そんなに違うの?」
「読んでみますか?」
差し出された報告書を受け取り、シオンは八歳の身体でも読みやすいよう机へ置いた。最初に記されている名前は間違いなくカイル・ベルナードで、年齢は三十二歳。王都西部の商業区からさらに外れた場所に《ベルナード商店》という小さな店を構え、日用品や保存食、安価な布、地方から仕入れた雑貨などを扱っている。
そこまでは普通だった。
問題は経営状況である。
店の売上は数年前から低迷しており、現在は従業員を雇う余裕もほとんどない。以前は二人の店員がいたものの、一人は半年ほど前に辞め、もう一人も最近になって別の商会へ移ったため、今では店主であるカイル自身が仕入れから接客、帳簿管理まで行っているらしい。
さらに仕入れ代金の支払いが遅れ始めており、複数の商人から小さな借金もしている。金額そのものは侯爵家から見れば大したものではないが、ベルナード商店の規模では無視できる額ではなく、このまま売上が回復しなければ一年以内に店を畳む可能性が高いと報告されていた。
シオンは最後まで読み終え、しばらく紙を見つめた。
「……本当にこの人?」
「私も同じことを思いました」
「名前は合ってる。年齢もたぶんおかしくないと思うけど……」
一度目でカイル本人を見た時にはすでに五十代だった。三十二歳の顔を覚えているはずもないため、外見から確認することもできない。
「商会の紋章は?」
「まだ正式な商会紋章と呼べるものはないそうですが、店の看板に簡単な印が描かれているようです。こちらですね」
エレノアが別紙を差し出す。
そこには調査員が写した店の印が描かれていた。
円の中に、片翼を簡略化したような形がある。
未来で何度も見たものより粗い。
線も少なく、装飾もない。
それでも基本的な形は同じだった。
「この人だ」
シオンが断言すると、エレノアは看板の写しと息子を交互に見た。
「随分と未来では立派になったのですね」
「俺が知ってる頃には、王都の店だけでもこの屋敷より大きかったと思う」
「それは比較する建物を間違えている気もしますが、少なくとも今の姿からは想像できませんね」
エレノアは報告書をもう一度読み返した。ただし経営が苦しいという理由だけで候補から外す様子はなく、むしろ別の部分へ注目している。
「借金はありますが、賭博や浪費の記録はありません。仕入れ先への支払いも遅れてはいるものの、少額ずつでも返しているようです。商品を騙して売ったという話もなく、近隣での評判そのものは悪くありませんね」
「じゃあ、何で潰れそうなの?」
「そこを本人に聞いてみたいと思っています」
エレノアが微笑む。
「会いに行くの?」
「ええ。ただし侯爵邸へ呼ぶのではなく、私たちから店へ行きましょう。店や接客を実際に見た方が、報告書だけで判断するより分かることも多いでしょうから」
数日後、エレノアとシオンは王都にあるアルヴェリア家の屋敷から馬車で商業区へ向かった。護衛は連れているものの、侯爵家の大きな紋章を目立たせるような移動は避け、馬車も普段より簡素なものを使っている。
中心部の大通りには大商会の建物が並び、店先では使用人や荷運び人が忙しく行き交っていた。しかし目的地へ近づくにつれて道幅は狭くなり、扱われている商品も高級品から庶民向けの日用品へ変わっていく。
馬車を降りてさらに少し歩いたところで、エレノアが足を止めた。
「こちらのようですね」
シオンも建物を見上げる。
二階建ての小さな店舗だった。
一階が店で二階が住居になっているらしく、外壁には何度か補修した跡がある。入口の上には《ベルナード商店》と書かれた古い看板が掛けられ、その端に報告書で見た片翼の印が描かれていた。
未来の記憶と、あまりにも違う。
シオンが知っているベルナード大商会の王都本店には巨大な硝子窓が並び、入口には制服を着た店員が立っていた。地方から来た商人専用の取引窓口まであり、裏手には複数の大型倉庫が建てられていた。
目の前の店には、大きな荷馬車を一台停める場所さえない。
「驚きましたか?」
「うん。思ってたよりずっと小さい」
「未来ではここから大きくなったのかもしれませんね」
「そう考えると、ちょっとすごいかも」
エレノアが先に店へ入ったため、シオンも護衛一人と一緒に後へ続いた。
扉を開けると小さな鈴が鳴った。
店内には木製の棚が並び、保存食、石鹸、蝋燭、布、簡単な調理器具などが置かれている。商品の種類はそれなりに多いが、同じ品物を大量に並べる余裕はないらしく、一つの棚へ複数種類の商品が少量ずつ置かれていた。
「いらっしゃいませ。少々お待ちください」
店の奥から男性の声が聞こえた。
しばらくして、木箱を抱えた男が姿を現す。
三十代前半。
茶色い髪を後ろへ撫で付けているが、忙しいのか何本か前へ落ちている。服装は清潔にしているものの袖には荷物を運んだ時についたらしい汚れがあり、未来で見た豪華な商会服を着た《商王》の姿とはまるで重ならなかった。
男は木箱を床へ置き、来客を見た。
最初にエレノア。
次にシオン。
最後に護衛。
その順番で視線が動き、表情が僅かに変化する。
服装だけでも、普通の客ではないことに気付いたらしい。
「お待たせいたしました。店主のカイル・ベルナードと申します。本日は何をお探しでしょうか?」
シオンはその声を聞きながら、男の顔を観察した。
面影がある。
未来で見た時より二十年以上若いが、目元や鼻の形には覚えがあった。
間違いない。
目の前にいる冴えない小さな店の主人が、未来の《商王》カイル・ベルナードだった。
エレノアは身分を隠して商品を買うようなことはせず、最初から名乗った。
「エレノア・アルヴェリアと申します。こちらは息子のシオンです」
カイルの表情が止まった。
数秒ほど言葉が出なかった。
「……アルヴェリア、でございますか?」
「ええ。アルヴェリア侯爵家です」
カイルは今度こそ完全に固まった。
王国有数の侯爵家の夫人が、前触れもなく潰れかけた自分の店へ入ってきたのである。しかも護衛まで連れている以上、同姓の別人だと思い込むこともできない。
「し、失礼いたしました。まさか侯爵夫人がお越しになるとは思わず、お迎えの準備も何も……」
「突然訪ねたのはこちらですから、気にしないでください。今日は商品を買いに来たわけではなく、ベルナードさん自身とお話がしたくて参りました」
「私と、ですか?」
カイルの困惑が深くなる。
当然だろう。
今の彼には侯爵家から目を付けられるような成功も実績もない。
「もしお時間をいただけるなら、少しお話しできますか?」
「もちろんでございます。ただ、申し訳ありませんが、こちらには侯爵夫人をお通しできるような応接室がございませんので……」
「店の奥で十分ですよ。今日は店そのものを見に来た部分もありますから」
カイルはさらに戸惑ったものの、断るという選択肢はなかったらしい。入口へ一時休業の札を出し、二人を店舗奥にある小さな部屋へ案内した。
そこは事務室と倉庫を兼ねていた。
壁際には帳簿が積まれ、反対側にはまだ店頭へ出していない商品箱が置かれている。中央の机も商談用ではなく普段カイルが帳簿を付けるためのもので、椅子も数が足りないため隣室から急いで持ってくることになった。
シオンは部屋を見ながら、改めて不思議な気分になっていた。
未来で王国中の商人から名前を知られる男が、今は一人で店番をしながら帳簿を書き、商品の箱まで自分で運んでいる。
未来を知っていなければ、絶対に選ばなかった相手だろう。
全員が座ったところで、エレノアが本題へ入った。
「ベルナードさん。最初にお尋ねしたいのですが、あなたは現在の店を大きくしたいと思っていますか?」
カイルは予想していなかった質問らしく、すぐには答えなかった。
「それはもちろん、商人である以上は大きくしたいという気持ちはございます。ただ、現在の状態をご覧になれば分かる通り、順調とは言えません」
「原因については、どのように考えていますか?」
カイルはそこで少し表情を変えた。
侯爵夫人が何を求めているのか分からないまま、下手な答えを返さないよう慎重に考えているのだろう。
「私には、商品を選ぶ目がないわけではないと思っています。地方へ出向いて仕入れた商品が王都でよく売れたこともありますし、逆に王都の商品を地方へ持ち込んで利益を出したこともございます」
「では、なぜ今は苦しいのでしょう?」
「規模が小さすぎるからです」
答えは意外なほど早かった。
「良い商品を見つけても、私には大量に仕入れる資金がありません。少量だけ仕入れれば、売れた頃には他の商会が同じ商品へ気付き、より安い価格で大量に販売します。遠方へ仕入れに行けば、その間は店を任せる人間が必要になりますが、今は人を雇い続ける余裕もありません」
カイルは自嘲するように笑った。
「商売の方法を考えることは好きなのですが、考えた方法を実行するための金と人が足りません。最近では、その前に店がなくなりそうですが」
シオンは黙って話を聞いていた。
未来の《商王》という先入観を抜きにしても、少なくとも自分の失敗を理解しているように見える。単純に運が悪かったと言い訳するのではなく、資金と規模という具体的な問題を挙げていた。
エレノアも同じ部分を見ていたのか、次の質問へ進んだ。
「では、仮に資金と商品が用意されたら、あなたは売ることができますか?」
「商品によります」
カイルは即答した。
侯爵夫人を相手にしているのだから、ここで「何でも売れます」と言った方が話を取りやすいはずだった。それでも安易に頷かなかったことに、シオンは少し興味を持った。
「見たこともない商品を、売れると約束することはできません。価格、品質、必要とする客層、継続して供給できる量によって方法が変わります。それらを確認した上でなら、私なりの販売方法を提案できます」
「なるほど。では実際に見てもらいましょう」
エレノアが持参した小さな鞄を開いた。
中から取り出したのは、白い陶器の容器だった。
試作を重ねている美容用軟膏である。
まだ正式な商品名もない。
容器も市販品を仮に使っているだけだった。
「こちらを販売するとしたら、あなたならどうしますか?」
カイルは容器を受け取った。
すぐには蓋を開けず、まず外側を確認する。
「中身について説明を伺ってもよろしいでしょうか?」
「肌へ塗るためのものです。乾燥を抑え、軽い肌荒れを和らげる効果があります。継続して使えば肌の状態を整える効果も期待できますが、医薬品として病気を治療するものではありません」
「化粧品でしょうか?」
「近いものと考えてください」
カイルが蓋を開ける。
香りを確かめ、指先へほんの少量だけ取った。
「刺激は?」
「現在までの試験では問題ありません。ただし商品化する前に、さらに安全性を確認します」
「原価は高いのでしょうか?」
「主原料は非常に安価です」
そこでカイルの手が止まった。
「大量生産は可能ですか?」
「原料については可能です。加工設備は必要になりますが、希少な素材へ依存するものではありません」
カイルは再び軟膏を見る。
先ほどまでの困惑した店主の表情が少しずつ消えていた。
「効果を実感するまでの期間は?」
「個人差がありますが、乾燥を抑えるだけなら使用直後から分かるでしょう。肌荒れについては数日から数週間ほど見た方がいいと思います」
「使用を止めれば?」
「保湿効果は当然なくなりますね」
「なら、繰り返し買っていただける商品です」
カイルはそう言った後、机の上へ容器を置いた。
「侯爵夫人。こちらを最初から庶民向けの安価な商品として売るおつもりでしょうか?」
「いいえ。まだ決めていません。あなたならどうするのかを聞きたいのです」
カイルは少し考えた。
「私なら、最初は高く売ります」
シオンは思わずカイルを見た。
未来で美容商品が最初に上級層から流行したことと一致している。
「理由を聞かせてください」
「肌を美しくしたいという需要は、食料や薬のように必要だから生まれるものではありません。今まで存在しなかった商品なら、安く大量に並べても客は価値を理解できないでしょう。それなら最初は、価値を説明できる少人数へ売るべきです」
「具体的には?」
「上級貴族の女性です」
カイルは迷わなかった。
「侯爵夫人がお使いになり、親しい方へ少量だけ試していただくのが一番でしょう。実際に効果を感じた方がいれば、同じ社交界の中で話題になります。特に数を限定して販売すれば、商品そのものだけでなく、手に入れられることにも価値を持たせられます」
エレノアは口を挟まず、続きを待っている。
「ただし、そのまま高級品だけで終わらせるのは勿体ないと思います。主原料が安価で大量生産できるのであれば、上級貴族向けの商品が定着した後で、中流層向けに容器や香料を簡略化した商品を出します」
「同じ中身を安く売れば、高級品を買った人が怒りませんか?」
シオンが尋ねると、カイルは初めて息子の方へしっかり顔を向けた。
「良い質問ですね。ですから、完全に同じものにはしません」
「どう変えるの?」
「上級向けには香料を選べるようにし、容器にも価値を持たせます。陶器職人や硝子職人と組み、使い終わった後にも小物入れとして残したくなるような器を作るのもいいでしょう。贈答用には箱を用意し、季節限定の香りを作る方法もあります」
シオンは少し驚いた。
一度目で見たベルナード大商会の商品には、確かにそうした売り方が多かった。高級品と一般品を同じ店舗で扱いながら、容器や包装、香料で明確に差を付けていた記憶がある。
「一般向けの商品は簡素な容器へ入れ、香料も一種類か無香料にします。さらに容器を店へ持ち込めば中身だけ安く補充できる仕組みにすれば、容器代を抑えながら客を店へ戻すこともできます」
エレノアの目が僅かに細くなった。
「そこまで考えるのに、あまり時間が掛かりませんでしたね」
「売り方を考えるのは好きですので。ただ、実際に売れるかどうかは試さなければ分かりません。貴族女性へ受け入れられなければ、別の客層を探す必要があります」
「もし最初の評判が悪ければ?」
「理由を調べます。効果が弱いなら商品側を改善し、香りや使用感が悪いならそこを変えます。商品自体に問題がなく、単に知られていないだけなら、売り方を変えます。何が悪いのか分からないまま値下げするのは、最後にしたいですね」
シオンは未来の記憶を持っている。
この男が後に成功することも知っている。
しかし今聞いている答えが優れていると思うのは、未来を知っているからだけではなかった。
カイルは未来の商品を知らない。
美容ブームも知らない。
それでも目の前へ置かれた試作品と僅かな情報だけで、後世に実際に近い形で広がった販売方法へ自力で近づいている。
エレノアも同じ判断をしたらしい。
「ベルナードさん。あなたの借金を、アルヴェリア侯爵家がすべて肩代わりすると申し上げたら、どうしますか?」
カイルの顔から商談中の落ち着きが消えた。
「……どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味です。ただし、無償で助けるつもりはありません」
エレノアは穏やかな口調のまま続けた。
「私たちは商品を持っています。今後、別の商品を作る可能性もあります。けれど侯爵家が自分で商会を運営するつもりはありません。商品を売り、市場を広げ、必要なら新しい販売網を作れる商人が必要です」
カイルは黙って聞いている。
「あなたには、その役割を担っていただきたいと思っています」
「私を、ですか?」
「まだ決定ではありません。今日の話だけで大金を預けるほど、私は気前のいい人間ではありませんから」
エレノアは試作品の容器を指先で軽く回した。
「まずはこの商品で、小さく始めましょう。製造と最初の資金はこちらが用意します。あなたは販売方法を考え、実際に売ってください。利益は事前に決めた割合で分配します」
「店の借金については?」
「事業に必要な範囲で整理します。ただし、借金を帳消しにしてあなたを救うのではありません。アルヴェリア家があなたの商売へ投資し、その資金の一部で事業上の負債を整理する形にします」
カイルはすぐに飛びつかなかった。
机の上の試作品を見て、次にエレノアを見る。
「もし失敗した場合、私は何を失いますか?」
「この店を含め、現在持っている事業資産の一部を契約上の担保としていただきます。ただし最初から店を奪うことが目的ではありません。失敗の理由が真っ当な商売上のものであれば、再挑戦について話し合う余地も残します」
「成功した場合は?」
「あなたの取り分は契約通り支払います。規模が大きくなれば、利益配分も改めて協議しましょう。侯爵家の使用人として雇うつもりはありませんから、あなた自身の商店も残せます」
カイルは長く黙り込んだ。
未来を知らない彼にとっては、あまりにも突然の話だろう。
昨日まで店を畳むことさえ考えていたかもしれない小商人の前へ、侯爵夫人が現れた。
未知の商品を置いた。
そして資金を出すと言っている。
普通なら何か裏があると疑って当然だった。
「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「なぜ私なのでしょう?」
シオンはその質問が来ると思っていた。
エレノアも準備していたらしく、息子へ視線を向けることはしなかった。
「あなたの店について調べました。経営状態が悪いことも、借金があることも知っています。それでも支払いから逃げず、仕入れ先との約束を守ろうとしている。商売の失敗と、人間として信用できないことは別でしょう?」
「それだけで侯爵家が投資するとは思えません」
「もちろん、それだけではありません。今日、あなた自身の考えも聞きました。その結果、試す価値があると判断しました」
嘘ではない。
未来の夢が最初のきっかけだっただけで、最終的にカイルを選んだのはエレノア自身だった。
カイルはしばらく考えた後、深く頭を下げた。
「契約内容を確認してからになりますが、お話を進めていただけるのであれば、ぜひ挑戦させてください」
「もちろんです。契約書は専門家に作らせますから、あなたも自分の側で確認してください。侯爵家が相手だからと、読まずに署名するような商人では困ります」
「……承知いたしました」
僅かに笑ったカイルを見て、エレノアも満足そうに頷いた。
話がまとまり始めたところで、シオンは机の上にある試作品へ視線を落とした。
一度目の未来で美容商品がどの商会から始まったのか、自分は知らない。
ベルナード大商会が最初から関わっていたのかも覚えていない。
それでも二度目では、母が商品を作り、未来の商王が売ろうとしている。
ローデン金鉱によって侯爵家には、今後長期的な収入が生まれる。
未来の美容商品を早く作ることで、新しい事業も生まれる。
さらに、その商品を未来で王国最大級の商会を築く男へ任せようとしている。
一つ一つは別々の未来だったはずなのに、二度目の人生では少しずつ繋がり始めていた。
シオンが知っている未来をそのまま再現しているわけではない。むしろ本来なら何十年も離れて起きるはずだった出来事を、現在の人々が自分たちの判断で別の形へ組み直している。
そのことが、シオンには面白かった。
帰りの馬車へ乗ってから、エレノアは向かいに座る息子へ尋ねた。
「どうでしたか? 未来の大商人に会った感想は」
「思ってたより普通だった」
「失礼ですよ」
「だって未来では、店に入るだけでも偉い人へ話を通さないと会えないような人だったんだよ。それが今は自分で木箱運んでたから」
「誰にでも最初はあるのでしょうね」
エレノアは窓の外へ流れる王都の町並みを眺めながら、少し楽しそうに笑った。
「私は未来の彼を知りません。ですから、今日見たカイル・ベルナードだけで判断します。少なくとも商売について考える力はありそうですし、何より自分が分からないことを分からないと言えるのは悪くありません」
「母上、気に入った?」
「まだ合格ではありません。実際に売ってもらってからです」
厳しい。
だが、その方がいい。
未来で成功したからという理由だけで大金を渡せば、シオンが未来を使って人間を操っているだけになってしまう。現在のカイル自身を見て、能力を試し、その結果に応じて関係を深める方が健全だった。
「ところでシオン。一つ聞きたいことがあります」
「何?」
「未来のベルナード商会は、どのくらい大きかったのですか?」
シオンは少し考えた。
「王都だけじゃなくて、大きい町ならだいたい店があったと思う。外国の商品も扱ってたし、俺が商会で働いてた時――」
そこまで言いかけて、口を閉じる。
危ない。
エレノアが不思議そうに見る。
「働いていた時?」
「……夢の中で、商会で働いてる人を見た時」
無理がある。
自分でも分かった。
エレノアは数秒ほど息子を見つめたが、それ以上追及しなかった。
「そういうことにしておきましょう」
「母上、絶対何か疑ってるよね?」
「あなたの未来の夢については、最初から分からないことだらけですから。今さら一つ増えたところで変わりませんよ」
柔らかく笑う母を見ながら、シオンは内心で反省した。
六十年間の人生を隠したまま未来の情報だけを話すのは、思っていたより難しい。自分にとって一度経験した人生なので、何気ない会話の中でつい「見た」ではなく「やった」と言いそうになる。
未来を変えるほど、説明しなければならないことも増えていく。
それでも回帰そのものを話すつもりはなかった。
少なくとも今は、未来の夢という説明で十分だった。
それから一か月ほどかけて、アルヴェリア家とカイルの間で最初の契約が結ばれた。侯爵家が一方的にベルナード商店を買収するのではなく、美容商品の製造と販売を目的とした共同事業へ出資し、カイルが販売部門を担当する形になった。
エレノアは商品の最終調整にも積極的に関わった。薬師や錬金術師から届く試作品を自分で試し、香りが強すぎれば戻し、肌へ伸ばした時にべたつきが残れば改良を求める。病気から回復した母が毎日のように新しい仕事を増やしている姿を見て、ガルディスが本気で休むよう注意することもあった。
最初の商品は、いきなり店頭へ並べなかった。
カイルの提案通り、まず少数の上級貴族女性へ試してもらうことになった。
その役割を担ったのはエレノアだった。
王都の社交界へ戻った彼女自身が商品を使い、親しくしている女性たちへ少量ずつ渡していく。もちろん効果を誇張することはせず、まだ試作品なので肌に異常が出た場合はすぐ使用を止めるよう伝えた上で、感想を集めることになった。
その中には、ヴァレンティア公爵夫人もいた。
「これは、あの時市場で見つけた草から作ったものなのですか?」
シオンが尋ねると、エレノアは完成に近づいた容器を見せながら頷いた。
「基本は同じです。ただ、最初の試作品からかなり変わりましたよ。油の割合も調整しましたし、香料についても何種類か試しています」
「俺が未来で見たのより良くなってたりして」
「それなら嬉しいですね。未来と同じものを作ることが目的ではありませんから」
その言葉を聞いて、シオンは母がこの事業を完全に自分の仕事として捉えていることを感じた。
未来の情報はきっかけにすぎない。
そこから何を作るかは、今を生きている人間が決める。
数週間後、試供品を渡した女性たちから感想が戻り始めた。
肌の乾燥が気にならなくなった。
香りが良い。
夜に使うと翌朝の肌触りが違う。
娘にも使わせたい。
どこで買えるのか。
最初は数人だった声が、少しずつ増えていった。
そしてまだ正式販売さえ始まっていない段階で、エレノアのところへ「次の分はいつ貰えるのか」という問い合わせまで届き始めた。
その報告を聞いたカイルは、すぐに大量生産を求めなかった。
「予定通り、最初は数を絞りましょう。欲しい方全員へすぐ渡してしまえば、商品を探す理由がなくなります。それより販売日を決め、最初の数量を限定した方がいいと思います」
エレノアも同意した。
侯爵家が持つ資金力を使えば、最初から大量に作ることはできる。それでも市場がどこまで受け入れるか分からない段階で生産設備だけを大きくするのは危険だった。
シオンは二人の話を聞きながら、自分が口を挟む必要がほとんどなくなっていることに気付いた。
それでいい。
自分が知っていたのは、この草が未来で売れるということだけだった。
商品を作ったのはエレノアと専門家たちで、売り方を考えているのはカイルである。
未来の知識を持っている自分が、何もかも中心になる必要はない。
むしろ自分より優秀な人間が勝手に先へ進んでくれるなら、その方がずっと楽だった。
そして初回販売の日、王都の片隅にある小さな《ベルナード商店》の前には、開店時刻より早く数台の馬車が停まった。
普段なら近隣の住民が蝋燭や保存食を買いに来る程度の店へ、上級貴族家の使用人たちが次々と訪れる。カイルが用意した初回分は予定していた時間より遥かに早く売り切れ、その日の午後には追加販売の日程を尋ねる使者まで現れた。
店を閉めた後、カイルは空になった商品棚の前でしばらく動けなかったという。
数か月前まで、借金を返すためにどの商品を諦めるか考えていた小さな商店である。
そこへ今まで扱ったことのない商品が並び、貴族家の馬車が訪れ、用意した分が一日も経たずになくなった。
ただし、これはまだ始まりにすぎなかった。
商品が一度売れたことと、商売として成功することは違う。継続して買ってもらえるのか、生産量を増やしても品質を維持できるのか、模倣品が出た時にどうするのか、貴族以外の市場へいつ広げるのかという問題が、これからいくつも待っている。
カイル自身も、それを理解していた。
だから初日の売上を持って侯爵邸へ報告に来た時、彼は成功したとは言わなかった。
「最初の販売としては、予想以上の結果でした。ただ、本当に重要なのは二つ目を買っていただけるかどうかです。使い切った方が同じ商品を求めるのであれば、そこで初めて商売として成立する可能性が高くなります」
エレノアはその答えを聞き、ようやく満足そうに笑った。
「でしたら、その二つ目を買っていただけるようにしてください。私は商品をもっと良くします」
「承知いたしました」
二人のやり取りを少し離れた場所から聞きながら、シオンは未来で見た巨大なベルナード大商会の姿を思い出していた。
あの未来と同じ商会になる保証はない。
むしろ始まりからして、すでに一周目とは違う可能性が高い。
それでも未来の《商王》は、二十年以上早く最初の大きな機会を掴んだ。
そして本来なら三十歳で亡くなっていたエレノアも、自分が生き残ったことで得た時間を使い、新しい事業を動かし始めている。
シオンが救ったものは、命だけではなかったのかもしれない。
生きていれば、その人間が新しく作るものがある。
セレナにも同じことが言える。
一周目では七歳より先が存在しなかった少女が、これから何を学び、誰と出会い、何を変えるのかはシオンにも分からない。
未来を変えるということは、自分が知っている出来事を一つ消すだけではなく、その先に無数の知らない出来事を生み出すことなのだろう。
その夜、シオンは自室で古い記憶を整理しているうちに、次に備えなければならない出来事が何だったのかを考えた。
八歳の美容商品については動き始めた。
カイルとも繋がった。
そして九歳になる頃、一度目の自分はまだ《無銘》への期待を捨てられず、何度目になるか分からない才能の確認を繰り返していた。
剣を振っても兄には追いつけず、魔法を学んでも姉のようには扱えない。それでも「まだ才能が目覚めていないだけだ」と自分へ言い聞かせ、いつか《無能》が《無銘》へ変われば全てを取り戻せると思い込んでいた。
その期待が何年経っても叶わず、やがて家族を見ることさえ苦しくなった。
二度目の人生でも、もうすぐ九歳になる。
そして今度も、シオン・アルヴェリアが《無能》であることに変わりはなかった。




