八歳、未来で売れる草
セレナ・ヴァレンティアを襲った魔物を討伐した日の夕方、アルヴェリア侯爵家とヴァレンティア公爵家の一行は揃って王都へ到着した。街道で負傷した騎士たちはすぐに治療を受け、回収された《幻影豹》の死体についても、周辺に同種の個体が残っていないか調査するため騎士団へ引き渡されることになったが、シオンにとって最も重要な問題は別に残されていた。
未来の夢について、どこまでヴァレンティア公爵家へ話すのかという問題である。
セレナ本人には、すでに未来のようなものを夢で見ることがあると話してしまっている。公爵夫人もシオンが襲撃を事前に知っていたらしいことへ気付いており、何も説明しないまま終わらせることは難しかった。
だからといって、回帰について話す選択肢は最初から存在しない。シオンが六十歳まで生きた記憶を持って五歳へ戻ったことは、両親にも兄姉にも伝えていない。その事実を隠すために始めた《未来の夢》という説明を、今回も崩すつもりはなかった。
翌日、ガルディスはヴァレンティア公爵から招かれ、王都にある公爵邸を訪れることになった。シオンも当事者として同行したものの、連れていかれたのは通常の応接室ではなく、公爵家でも家族だけが使う小さな談話室だった。
室内にいたのはヴァレンティア公爵夫妻とセレナだけで、侍女や護衛騎士の姿はない。飲み物を用意した使用人もすぐに退出し、扉が閉じられてからようやくガルディスが話を始めた。
「最初にお願いしておきたい。これから話す内容については、ここにいる者以外へ一切伝えないでいただきたい。昨日同行していた騎士たちにも、シオンが事前に襲撃を知っていたことは話していません」
ヴァレンティア公爵は四十歳前後の落ち着いた男性で、娘を救われた感謝を持ちながらも、上級貴族らしく状況を冷静に確認しようとしていた。妻からすでに概要を聞いているらしく、シオンを疑うというより、なぜ七歳の少年が事件を予見できたのかを知りたいという表情をしている。
「妻から聞いている。シオン君はセレナが襲われることを事前に知っており、しかも幻影豹が接近する方向まで言い当てたそうだな。命を救われた父親として感謝しているが、確かに容易に外へ出せる話ではないだろう」
「その認識で間違いありません。私自身も、最初から息子の話を無条件に信じていたわけではありませんでした」
ガルディスはそこで一度シオンへ視線を向け、それから母の病気について説明した。ただし《魔晶蓄積症》の治療を実際に行った医師や薬師の名前は出さず、シオンが当時知られていなかった病気の特徴と治療へ繋がる情報を話し、その内容を専門家が検証した結果、エレノアが回復したという範囲に留めている。
続いてローデン金鉱についても話した。シオンが見たという景色を手掛かりに調査を行い、実際に大規模な金鉱床が確認されたことまで伝えると、公爵の表情は明らかに変化した。
「ローデンの発見にも、シオン君が関係していたのか」
「表向きは通常の資源調査による発見です。その扱いを今後も変えるつもりはありません」
「当然だろう。金鉱の存在を事前に知る能力などと広まれば、王国中の貴族や商人がこの子へ群がる。鉱山だけで済む話でもあるまい」
公爵の理解が早かったことに、シオンは少し安心した。未来を見る能力が本当に存在すると信じられれば、聞きたい人間はいくらでも現れる。翌年の作物価格から戦争の結果、貴族家の盛衰まで、未来を知ることで利益を得られる情報には限りがない。
しかも実際のシオンには、それほど便利な知識などなかった。
「私も何でも分かるわけじゃありません。夢みたいに見えるだけなので、知らないことの方が多いですし、今回も魔物の種類までは分かりませんでした」
シオンが説明すると、公爵は子供へ話す時だけ少し表情を和らげた。
「それでも娘の命を救うには十分すぎる情報だった。君がいなければ、昨日セレナがどうなっていたかは私にも分かる」
公爵は隣に座る娘へ視線を向けた。セレナは昨日より顔色も戻っており、幻影豹の爪で切られた数本の髪を除けば怪我らしい怪我もない。
「セレナ。昨日シオン君から聞いた話については、今後も誰にも話してはいけない。親しい友人ができても、使用人に尋ねられても同じだ」
「はい、お父様。シオン様とも約束しましたから、誰にも言いません」
「ならいい。命を救ってもらった恩を、秘密を漏らすことで返すようなことだけはしてはいけないよ」
七歳の少女へ背負わせるには重い秘密だと、シオン自身も思っていた。それでもセレナは父の言葉を真剣に聞き、もう一度はっきり頷いた。
その後、両家の当主は今後の扱いについて細かな確認を行った。ヴァレンティア家から見れば、アルヴェリア侯爵家が偶然街道に居合わせて魔物を討伐し、結果としてセレナを救ったというのが公式な出来事になる。シオンが事前に事件を知っていたことや、未来の夢については公爵夫妻とセレナだけの秘密として扱われることになった。
ガルディスも、今後シオンが見た内容を無条件でヴァレンティア家へ共有するつもりはないと明言した。未来の情報を共有する家を増やせば、それだけ秘密が漏れる危険も増えるため、ヴァレンティア家に直接関係する重大な内容があった場合だけ相談するという形に落ち着いた。
話し合いが終わり、ガルディスと公爵が別室で事件後の処理について話すことになると、シオンとセレナには少しだけ自由な時間ができた。公爵夫人が同じ部屋に残っているため二人きりではないものの、昨日のように魔物が襲ってくる心配もなく、ようやく普通に話せる状況だった。
「シオン様は、いつから未来の夢を見るようになったのですか?」
「いつからって聞かれると難しいな。五歳くらいからだと思う」
「怖い夢も見るのですか?」
「見ることはあるよ。でも全部が怖いわけじゃない。綺麗な景色だったり、知らない町だったり、何で覚えてるのか自分でも分からないようなこともあるから」
実際には夢ではなく、一度目の人生で見た景色である。だが完全な嘘にしないため、シオンはできるだけ本当の記憶に近い説明を選んでいた。
「私のことも、ずっと前から知っていたのですか?」
「名前は知ってた。でもセレナ嬢がどんな子なのかは知らなかったよ。昨日ちゃんと話したのが初めてみたいなものだから」
「それなら、これから知ってください」
あまりにも自然に言われ、シオンは少しだけ目を瞬いた。
セレナは自分が何か変なことを言ったとは思っていないらしく、そのまま穏やかに笑っている。
「昨日、普通のお話をするって約束しましたよね?」
「そうだったね。じゃあ今度会った時は、未来の話は禁止にしようか」
「はい。その方がいいです。私はシオン様が好きなお菓子も、遊びも、まだ何も知りませんから」
そこで公爵夫人が小さく笑ったため、セレナはようやく少し恥ずかしそうな顔をした。シオンも七歳同士の会話を母親に聞かれていることを思い出し、何となく居心地が悪くなって窓の外へ視線を逸らした。
その日を境に、アルヴェリア家とヴァレンティア家の交流は以前より明らかに増えていった。両家の当主同士が政治的に急接近したわけではないが、娘の命を救われたヴァレンティア公爵がアルヴェリア家を信頼するようになり、家族同士で王都に滞在する時には食事や茶会へ招き合う機会も自然に増えた。
シオンとセレナも、そのたびに顔を合わせた。
最初の数回こそセレナは未来の夢について気にしていたものの、シオンが積極的にその話をしなかったため、やがて二人の会話は普通の子供同士に近いものへ変わっていった。好きな菓子の話をし、最近読んだ本について話し、セレナが魔法の練習を始めたと聞けば、その成果を見せてもらうこともあった。
そこでシオンは、セレナが自分とは正反対の子供だと知った。
彼女は魔法を覚えるのが驚くほど早かった。
火を灯す基礎魔法を一度教えられれば数回の練習で安定させ、水を作る魔法についても教師の説明を聞いただけで魔力の流れを理解する。まだ正式な才能の評価を細かく行う年齢ではないものの、ヴァレンティア家ではすでに複数属性への高い適性があるのではないかと期待されているらしい。
一方のシオンは、同じ頃になっても簡単な生活魔法を安定させるだけで苦労していた。
それでも以前のような嫉妬は湧かなかった。セレナが魔法を成功させれば素直に感心できるし、自分が失敗すれば何が悪かったのかを考えればいい。才能の差を認めたからこそ、他人の優秀さを自分への侮辱として受け取る必要もなくなっていた。
季節はさらに巡り、ローデン山地では最初の本格的な坑道工事が始まった。新しい道路沿いには作業員向けの宿舎や倉庫が建てられ、周辺の村から食料を運ぶ荷馬車も増えている。金の採掘量そのものはまだ限定的だったが、侯爵家は将来の増産を見越して急激な拡張を避け、道路と生活基盤を先に整える方針を続けていた。
エレノアも完全に以前の生活へ戻っていた。体調が安定してからは領内の福祉や薬草栽培に関する仕事へ少しずつ関わるようになり、自分を救った《魔晶蓄積症》の研究についても定期的に報告を受けている。
シオンが八歳になったのは、そんな穏やかな変化が積み重なっていた頃だった。
八歳になっても、《無能》が《無銘》へ変わる兆候はない。剣術は一年分だけ上達したものの、才能のある同年代と比べれば明らかに遅く、魔法も使える種類こそ少し増えたが出力は低いままだった。
家族の誰も、それを責めなかった。
むしろシオン本人があまりにも気にしていないため、ガルディスの方が時々複雑そうな顔をするほどだった。
「お前、本当に《無銘》になることへ興味がなくなったのか?」
ある日の夕食後、訓練の報告を聞いた父からそう尋ねられ、シオンは少し考えてから首を傾げた。
「興味がないわけじゃないよ。なったら何が起きるのか気になるし。でも、いつなるか分からないものを毎日待ってても仕方ないでしょう?」
「七歳や八歳の子供が言う台詞ではないな」
「父上、それ去年も似たようなこと言ってなかった?」
「お前が毎年、年齢に似合わないことを言うからだ」
エレノアとリシアが笑い、レオンまで父へ同意するように頷いている。シオンは不満そうな顔だけ作ってみせたものの、こうして家族全員で自分の《無能》を冗談へ変えられること自体、一度目とは大きく違っていた。
その数日後、シオンはエレノアと一緒に領都の市場へ出掛けた。
母が確認したい店があるというので付き添っただけで、未来の知識を使うつもりなど最初はなかった。侯爵家の馬車を大通りへ停め、最低限の護衛を連れて市場を歩いていると、薬草や香料を扱う店の前でエレノアが足を止めた。
「少し待ってくださいね。領内で栽培を増やせそうな薬草について、店主に聞いておきたいのです」
「分かった。俺も見る」
店内には乾燥させた薬草が棚いっぱいに並び、それぞれ小さな札に名前と用途が書かれている。熱冷ましに使う葉、傷薬へ混ぜる草、腹痛を和らげる根など、冒険者時代に見慣れたものも多かった。
シオンは何気なく棚を眺めていた。
その視線が、一番下の籠で止まる。
ありふれた薄緑色の葉だった。
値段も安い。
薬としての効能も弱く、現在は高価な薬草の量を減らすために混ぜたり、簡単な保湿薬へ使ったりする程度の植物だった。
しかし六十歳のシオンは、この草を別の名前で覚えている。
正確には、二十年以上先に大流行した美容薬の原料として覚えていた。
一度目の人生でシオンが三十代に入る頃、王都では女性向けの美容商品が急速に広まり始めた。肌の乾燥を抑え、継続して使うことで肌荒れを減らす軟膏が上級貴族の女性たちの間で評判となり、その後は価格を抑えた商品が庶民にまで広がっていった。
当時は商会で働いていたため、シオンもその流行をよく覚えている。
荷馬車単位で商品が売れ、容器を作る職人まで忙しくなった。
香料を加えた高級品も生まれ、贈答品として扱われるようになった。
後には美容商品だけを扱う専門店まで王都に現れた。
そして、その最初期の商品へ使われていた主要な植物が、目の前の籠に無造作に積まれている草だった。
「母上」
シオンはすぐに声を掛けようとして、途中で一度考えた。
自分は美容薬の作り方を知らない。
商会員だった頃に完成品を運んだことはあるし、自分の店でも似た商品を扱ったことはある。しかし製造工程に関わった経験はなく、原料の配合量や加工方法については何も知らなかった。
それでも、この草が将来大きな商品へ変わることだけは知っている。
「母上、ちょっと気になるものがあるんだけど、後で話せる?」
声を抑えて尋ねると、エレノアは息子の表情を見てすぐに意味を察したらしい。ローデンの時と同じように、その場では詳しく聞こうとせず、店主との話を終えてから何種類かの薬草と一緒に問題の草も購入した。
侯爵邸へ戻った後、二人はエレノアの私室へ移動した。侍女にはしばらく休むと伝えて下がってもらい、扉が閉じられたことを確認してから、シオンは市場で購入した草を机へ置いた。
「今度はこの草なのですね?」
「うん。でも母上の病気みたいに薬として使うわけじゃないと思う」
「では、どのような夢だったのですか?」
シオンは一度目の記憶を、未来の夢として説明できる形へ組み直した。
「大人の女の人たちが、これを使って作ったものをすごく欲しがってた。王都の店に列ができてて、貴族っぽい人も商人っぽい人も買ってたと思う」
「この草を食べるのですか?」
「違う。肌に塗ってた」
エレノアの表情が少し変わった。
「化粧品のようなものですか?」
「たぶん近い。でも色を付けるんじゃなくて、肌を綺麗にするためのものだったと思う。白っぽいというか、薄い色の柔らかい薬みたいな感じで、小さな容器に入ってた」
シオンは両手で大体の容器の大きさを示した。
「値段は分かりますか?」
「正確には分からない。でも最初はかなり高かったと思う。お金持ちの女の人が買って、その後もっと安いのも出てた」
「効果については覚えていますか?」
「肌が乾きにくくなるのと、荒れにくくなるのは聞いたことがある。使い続けると肌が綺麗になるって評判だったけど、本当にどこまで効いてたのかは分からない」
エレノアはすぐに商品化を口にしなかった。
机の上の草を一枚手に取り、葉の表面を指で確かめながら考えている。
「この植物自体は知っています。安価な薬草ですし、保湿用の軟膏へ少量混ぜることもあります。ただ、これを主原料にした高級品という話は聞いたことがありませんね」
「俺も作り方までは分からないよ」
「それでいいのです。むしろ分からない部分を分かったふりをされる方が困ります」
母の言葉に、シオンは少し笑った。
ローデンでも同じだった。
未来で結果を知っていることと、その結果へ辿り着く技術を持っていることは別である。
「じゃあ調べる?」
「もちろんです。ただし、今回は私に任せてください」
エレノアの声には、病床にいた頃とは違う力があった。
「あなたが未来で見た商品を、そのまま再現する必要はないでしょう。この草に本当に肌へ良い作用があるのなら、今の薬師や錬金術師に調べてもらえばいいのです。もっと良いものが作れる可能性だってありますからね」
シオンはその考えに納得した。
一度目の未来を完全に再現する必要はない。
セレナを救ったことで、それはすでに理解している。
「父上にも話す?」
「いずれは話します。でも、まずは簡単な調査をしてからでいいでしょう。あの人に美容の話をしても、最初は価値が分からないでしょうから」
「父上、そういうの興味なさそうだもんね」
「私が肌へ塗るものに金貨を使う理由を説明しても、きっと『薬なら効けば同じではないのか』と言いますよ」
あまりにも想像できたため、シオンは思わず笑ってしまった。
エレノアも楽しそうに笑った後、もう一度机の上の草へ視線を戻した。
母の病気を救った時、動いたのは医師と薬師だった。
ローデンでは鉱山技師や測量士が動いた。
今回も同じになる。
シオン自身が美容薬を作る必要はない。
未来で価値を持つものを知っているなら、その情報を今の時代で実際に形へできる人間へ渡せばいい。
翌日から、エレノアは侯爵家と付き合いのある薬師へ密かに植物の性質を調べさせ始めた。依頼内容は新しい美容商品を作ることではなく、領内で安価に栽培できる薬草の新しい用途を調査するというものにしており、シオンの未来の夢については当然ながら一切伝えていない。
最初の結果が出るまでには時間が掛かった。
抽出方法を変え、油へ混ぜ、水分を含む軟膏へ加え、肌への刺激がないかを確認する必要がある。人体へ使う前には動物の皮膚を用いた試験も行われ、侯爵家から急かすことなく、安全性を優先して調査が進められた。
その間にもシオンは普段通りの生活を続けた。剣術では相変わらずレオンとの差が広がり、魔法でもセレナから手紙で「水と風を同じ日に成功させました」と嬉しそうに報告される一方、自分は簡単な火を安定して灯す練習を続けている。
それでも、以前のように才能の差ばかりを見つめることはなかった。
自分にはできないことが多い。
だからこそ、できる人を知っていることには価値がある。
八歳のシオンが少しずつ身につけ始めていたのは、六十年間の記憶を何でも自分の力へ変える方法ではなく、その記憶を適切な人間へ渡し、現実の形へ変えてもらう方法だった。
そして数か月後、エレノアから私室へ呼ばれたシオンの前へ、小さな白い陶器の容器が置かれた。
蓋を開けると、中には薄い乳白色をした柔らかな軟膏が入っている。シオンが一度目の人生で見た商品と完全に同じではないものの、その見た目には確かに覚えがあった。
「試作品です。まだ売れる段階ではありませんが、面白い結果が出ていますよ」
エレノアは嬉しそうに説明しながら、薬師から届いた報告書を息子へ見せた。問題の植物から抽出した成分には、肌の水分が失われるのを抑え、軽い炎症を和らげる作用が確認されているという。
「本当に効いたんだ」
「あなたが教えてくれたのでしょう?」
「そうだけど、作れるかは分からなかったから」
「だから調べたのです。そして、ここからが私たちの仕事ですよ」
エレノアは容器を手に取った。
シオンが知っている未来では、この商品がどのような試行錯誤を経て生まれたのかは分からない。
どの商会が最初に価値を見抜いたのかも覚えていない。
だが今の未来には、病床で三十歳の生涯を終えるはずだったエレノアがいる。
その母が、自分の手で新しい商品を作ろうとしている。
「シオン。これを売るなら、誰に任せるべきだと思いますか?」
突然尋ねられ、シオンは試作品から母へ視線を移した。
大きな商会ならいくつも知っている。
侯爵家から声を掛ければ、喜んで商品を扱う商人も多いだろう。
しかしその瞬間、シオンの記憶には一人の男の名前が浮かんでいた。
一度目の人生で、王国最大級の商会を作り上げた男。
シオンが商会員だった頃には、すでに誰もが知る大商人になっていた人物である。
だが今から二十年以上前となるこの時代に、その男が何をしていたのかまでは知らない。
「母上。会ってみたい商人が一人いる」
「知っている方なのですか?」
「今の俺は知らない。でも夢の中では、すごく大きな店にいた」
エレノアは驚くより先に興味を示し、続きを促すように息子を見つめた。
シオンも記憶を探りながら、未来で何度も目にした商会の看板と、その創業者の名前を思い出していく。王都だけではなく各都市へ同じ紋章の店を構え、国内外の品物を扱い、やがて《商王》とまで呼ばれるようになった男だった。
「名前は、カイル・ベルナード」
ただし八歳のシオンは、まだ知らなかった。
二十年以上先で王国有数の大商人になる男が、今の王都では人を雇う余裕すらなく、潰れかけた小さな店で一人頭を抱えていることを。




