村を隠すもの
シオンが未来で聞いた昔話を伝えると、森の空気が急に重くなったように感じられた。リベル村は滅びたのではなく、外から辿り着けなくなっただけであり、未来では再び人々の前へ姿を現している。その記憶が正しければ、少なくとも住民が全滅するような結末ではない。
しかし、それは未来で聞いた昔話に過ぎなかった。いつ村が戻ったのか、なぜ戻ったのか、住民が消えていた間に何を経験したのかまでは覚えていない。何より歴史はすでに変わり始めており、同じ結末になる保証もなかった。
「一度、状況を整理しましょう。村がある方向へ進んでも元の場所へ戻され、引き返しても同じ場所へ戻される。さらにセレナは、森全体に薄い魔力を感じているんですよね?」
ノアが確認すると、セレナは木々の間へ視線を向けながら頷いた。普段の彼女なら魔力の発生源を探ることも難しくないが、今回は広範囲へ薄く溶け込んでいるため、特定の方向だけが強いということもないらしい。
「はい。ただ、誰かが今も魔法を使い続けている感覚とは少し違います。最初からこの場所に存在する何かが、周囲へ影響を与えているように感じます」
「だったら魔法使いが隠してるわけじゃないのか?」
ディランは剣の柄に手を添えたまま周囲を見回した。魔物が現れれば真っ先に戦えるよう警戒しているのだろうが、今のところ獣の気配すらほとんどない。
「まだ決めつけない方がいいよ。人が作った魔道具かもしれないし、魔物の能力かもしれない。少なくとも、普通の道迷いじゃないことだけは確かだけど」
シオンはそう答えながら、足元の土を調べた。自分たちが一度通った足跡は残っており、誰かに眠らされて運ばれたわけでもない。本人たちは確かに歩き続けているのに、結果として同じ場所へ戻っている。
冒険者だった頃にも、森で方向感覚を狂わせる魔物の噂は聞いたことがあった。しかし大抵は獲物を自分の縄張りへ誘い込むための能力であり、ここまで広範囲に、しかも村全体を隠すような現象は知らない。
「先生、どうしますか?」
シオンが尋ねると、引率教師は少し考えてから答えた。
「本来なら異常を確認した時点で撤退ですが、現在は撤退すること自体ができません。まず帰還経路の確保を優先します。ただし、勝手に森の奥へ入ることは禁止します」
その判断に反対する者はいなかった。村を助ける以前に、自分たちまで行方不明になっては意味がない。
ギルドの冒険者が目印を増やしながら、今度は全員で方角を確認して歩くことになった。太陽の位置だけでなく簡易方位器も使用し、途中の木々へ一定間隔で印を残していく。
それでも結果は変わらなかった。
三十分ほど歩いたところで、前方に見覚えのある木が現れた。最初に付けた傷だけでなく、つい先ほど追加した目印まで残っている。
「冗談だろ。俺たち、曲がってないぞ」
ディランが後ろを振り返る。誰も道を外れておらず、方位器も同じ方向を示し続けていた。
「道そのものが曲がっているようにも見えませんね」
ノアは途中で記録していた簡単な地図を広げた。紙の上では一本の線が真っ直ぐ伸びている。それなのに現実では出発地点へ戻っているのだから、通常の地形として説明できるはずがない。
シオンは地図ではなく、先ほどから気になっていたものへ目を向けた。
「セレナ。魔力の流れは変わった?」
「少しだけです。歩いている途中で、何度か濃くなる場所がありました。ただ、すぐに元へ戻ってしまいました」
「場所は覚えてる?」
「はい。三か所ありました」
セレナが地図へ位置を書き込むと、三か所はいずれも街道上に並んでいた。距離は一定ではないが、シオンには別の共通点が思い当たる。
「その場所、全部少し暖かくなかった?」
突然の質問に、三人だけでなく教師たちまでシオンを見た。
「暖かいって、気温のことか?」
「地面だよ。歩いてる時に一か所だけ妙に柔らかいところがあった。最初は雨でも降った跡かと思ったけど、この辺りは何日も晴れてるんだよね?」
ギルドの冒険者が頷いたため、シオンはセレナが示した最初の地点へ戻った。少し掘ると表面は乾いているのに、その下の土にはわずかな湿り気がある。
未来のリベルが温泉街だったことと、現在の異変が直接関係しているとは限らない。それでも、この土地について自分が確実に知っている未来の情報は温泉だけだった。
「地下に水があるかもしれない」
「未来の温泉ですか?」
セレナの問いに、シオンは頷いた。
「たぶん。ただ、温泉があるだけで道が戻るとは思えない。何か別のものが一緒にあるんじゃないかな」
そこでセレナが地面へ片手を向けた。魔法で強引に掘り返すのではなく、地下へ魔力を流して反応を探っているらしい。しばらくすると、彼女の眉がわずかに動いた。
「水はあります。それと……地下の方が、周囲より魔力が濃いです」
その言葉で全員の視線が地面へ集まった。
調査方法を変えることになった。
道を進んでも同じ場所へ戻されるなら、村へ向かって歩き続ける必要はない。セレナが魔力の濃淡を確認し、シオンたちは街道周辺だけを調べながら、地下の反応が強くなる方向を探した。
森の奥へ無制限に入ることはせず、必ず街道が見える範囲で動く。それでも少しずつ反応を追っていくと、地下の魔力は村の方向ではなく、街道から西へ外れた場所ほど強くなっていた。
「村とは反対じゃないか」
ディランが不思議そうに言った。
「だから今まで見つからなかったのかもしれないね。みんな村へ行こうとして、道ばかり調べてたんだから」
ノアの指摘はもっともだった。商人たちも村への街道がおかしいと考えれば、わざわざ反対側の森まで調べようとはしないだろう。
街道から百歩ほど離れたところで、セレナが再び立ち止まった。
「ここです。今までで一番強く感じます」
そこには特別なものなど見当たらなかった。古い木々と低い草が生えているだけで、地面にも目立った岩や穴はない。
シオンは周囲を歩き、一本の木の根元で足を止めた。土の間から、細い水が滲み出している。指先で触れてみると、冷たくなかった。
「やっぱり温かい」
全員が集まり、ギルドの冒険者が慎重に土を掘った。少し掘り下げただけで水が溜まり始め、そこから微かな湯気が立つ。
「本当に温泉じゃないか?」
「少なくとも地下から温かい水が湧いています。ただ、問題は水そのものではありません」
セレナは温水へ触れず、その周囲へ意識を集中させていた。
「魔力は、この水の中を通って広がっています。でも発生源はもっと奥です」
「掘れば分かるのか?」
ディランが尋ねたものの、教師はすぐに首を横へ振った。原因不明の魔力源を学院生が掘り当てるのは危険すぎる。
「ここまで分かれば十分です。場所を記録し、可能なら帰還方法を探します。原因そのものの調査は専門家へ引き継ぐべきでしょう」
シオンも異論はなかった。未来を知っているからといって、何でも自分たちで解決する必要はない。
ところが、その直後だった。
水溜まりの表面が揺れた。
風は吹いていない。誰も触れていないにもかかわらず、中心から波紋が広がっている。
「下がってください」
セレナが前へ出た。
ディランも剣を抜き、ノアはすぐ後ろへ下がる。シオンも距離を取ろうとしたが、水溜まりから溢れた魔力が一瞬だけ周囲へ広がった。
景色が揺れた。
木々の輪郭が二重になり、遠くの街道が霞む。
次の瞬間、水溜まりの横に何かが立っていた。
人ではない。
シオンの腰ほどまでしかない小さな身体に、灰色がかった毛が生えている。長い耳は兎に似ているが、二本の後ろ脚で立ち、額には淡い青色の石のようなものが埋まっていた。
ディランが剣を構え直す。
「魔物か?」
「待って」
シオンは反射的に止めた。
目の前の存在から敵意を感じなかった。それどころか小さな魔物は怯えた様子でこちらを見ており、セレナの魔力に反応したのか、彼女から距離を取ろうとしている。
「この子から、同じ魔力を感じます」
セレナの言葉で、状況が繋がった。
森を覆う薄い魔力。地下を流れる温水。そして、その中心近くに現れた小さな魔物。
「こいつが村を隠してるのか?」
「可能性は高い。でも、わざとやってるようには見えないね」
シオンが答える間にも、小さな魔物は落ち着かない様子で周囲を見回している。逃げようとして一歩動くたび、景色がわずかに歪んだ。
その瞬間、シオンは理解した。
「こいつ、自分でも制御できてないんじゃないか?」
魔物が動くたびに魔力が揺れ、森の景色まで僅かに変化する。もし意図的に侵入者を惑わせているなら、ここまで怯える必要はない。
セレナも同じ考えに至ったらしい。
「額の石から魔力が溢れています。地下の水がそれを運んで、広い範囲へ拡散させているのかもしれません」
「それで森全体がおかしくなった?」
「おそらく。ただ、この子だけで村全体を隠せるほどの魔力を出せるとは思えません」
セレナが慎重に魔力を探る。
やがて、彼女の視線が小さな魔物ではなく、その足元へ向いた。
「違います。この子が原因の全部ではありません」
地下から伝わってくる魔力は、目の前の魔物を通じて流れ出している。しかし、そのさらに奥に大きな反応があるという。
小さな魔物は発生源ではない。何かと繋がっている。
シオンが未来の昔話を思い出そうとした時、魔物が突然こちらへ顔を向けた。
額の石が強く光り、森の景色が大きく歪んだ。
「全員、離れないでください!」
教師の声が響く。
シオンも近くにいたノアの腕を掴んだ。セレナとディランもすぐそばにいる。
視界が白く染まった。
足元から地面の感覚が消えたのは、ほんの一瞬だった。次にシオンが目を開けた時、森はまだそこにあった。
しかし、景色が違う。
先ほどまで存在しなかった道が、木々の間を真っ直ぐ伸びていた。
その先には屋根が見える。一軒ではない。何十もの家々が並び、その間から細い煙が空へ昇っている。
人の声まで聞こえた。
「……あった」
ディランが驚いたように呟いた。
誰も、その言葉を否定しなかった。
外の世界から姿を消していたはずのリベル村が、森の向こうに存在している。
そして道の入口では、鍬や斧を手にした村人たちが、突然現れたシオンたちを驚愕の表情で見つめていた。




