十四歳、学院祭
春休みが終わり、シオン・アルヴェリアは十四歳になった。王立学院へ戻る馬車の窓から外を眺めていると、街路樹には若葉が広がり、王都の人々も冬物の上着を脱ぎ始めている。新しい学年の始まりにふさわしい、穏やかな春の朝だった。
隣に座るレオンは、学院へ戻る弟とは違って王宮へ向かう予定だった。すでに学院を卒業した兄は、最近では父に同行して王宮へ出入りする機会も増えている。本人は相変わらず落ち着いているが、以前より仕事の話をすることが多くなった。
「三年目か。学院生活にも慣れただろうが、油断はするなよ。お前の場合、何もしていなくても妙なことに巻き込まれるからな」
「兄上、それは俺が悪いみたいに聞こえるんだけど。去年だって、自分から問題を起こした覚えはないよ」
「そうだな。王太子殿下の側近候補になって、公開演習を提案して、新しい候補者まで増えたくらいだったな」
レオンが真面目な顔で数え始めたため、シオンは反論を諦めた。言われてみれば、去年も決して平穏だったとは言い切れない。ただ、母を救った五歳の頃から考えれば、あの程度で済んだのは随分と穏やかな一年だった。
「今年こそ普通に過ごすよ。授業を受けて、友達と遊んで、できれば面倒な事件には関わらない。俺だって普通の学院生活を送ってみたいんだから」
「その言葉、父上にも伝えておこう。きっと喜ぶぞ」
「……兄上、絶対に信用してないでしょ」
レオンは否定せず、窓の外へ視線を向けた。シオンもそれ以上追及せず、座席に身体を預ける。少なくとも現時点では、今年起こる大事件に心当たりはなかった。
もっとも、一度目の人生で十四歳だった頃の自分は、屋敷の片隅で剣の訓練に失敗し、兄や姉と自分を比較して落ち込んでいた。学院の行事などろくに覚えていないし、そもそも積極的に参加した記憶もない。
つまり、今年もほとんど知らない未来を歩くことになる。それなら余計なことを考えず、目の前の学院生活を楽しむくらいでちょうどいいだろう。
シオンはそう考えながら、学院へ続く道を眺めていた。
学院の正門を通ると、見慣れた制服姿の生徒たちが行き交っていた。春休みを終えて久しぶりに再会した者も多いらしく、あちこちで賑やかな声が上がっている。
「シオン!」
名前を呼ばれて振り返ると、ディランが大きく手を振りながら近づいてきた。その後ろにはノアもいるが、こちらは片手に小さな包みを抱え、何やら楽しそうな顔をしている。
「おはよう、ディラン。ノアも久しぶりだね。その包みは何?」
「春休みに実家から持ってきた菓子だよ。王都じゃあまり売っていない種類だから、あとで食べようと思ってね」
「お前、休み明けから商売する気じゃないだろうな?」
ディランが疑わしそうに尋ねると、ノアは心外だと言わんばかりに眉を上げた。ところが包みを抱え直す仕草が妙に大切そうだったため、シオンまで少し疑いたくなる。
「友人に菓子を配るだけで疑われるなんて悲しいな。もちろん、気に入ったら実家の商会を紹介するくらいはするけど」
「やっぱり商売じゃないか!」
「宣伝と販売は違うんだよ、ディラン。将来の騎士様なら、その程度の違いは覚えておいた方がいい」
二人のやり取りを聞きながら、シオンは思わず笑ってしまった。春休み中も手紙のやり取りはしていたが、顔を合わせてみると、やはり学院へ戻ってきたという実感が湧いてくる。
そこへセレナが合流し、四人は新しい教室へ向かうことになった。彼女はシオンの顔を見るなり柔らかく微笑んだものの、なぜか少しだけ服装を確認するような視線を向けてきた。
「おはようございます、シオン。春休みの残りは、ゆっくり過ごせましたか?」
「それなりにね。父上から渡された資料を読んだり、庭を散歩したり。セレナは魔法の訓練、進んだ?」
「はい。ただ、今日はその話より先に聞きたいことがあります」
セレナが改まった様子で口を開いたため、シオンは何事かと姿勢を正した。隣ではディランまで興味を示しているが、ノアだけは何かを察したように口元を緩めている。
「この前、お屋敷でお会いした時のこと、覚えていますか?」
「もちろん。家族で食事した日だよね。何か忘れ物でもあった?」
「……いいえ。何でもありません」
セレナは一瞬だけ期待したような表情を浮かべたが、すぐに小さくため息をついた。シオンには理由が分からず、助けを求めるようにノアを見る。
「僕に聞かないでよ。こういう問題は、自分で考えないと意味がないんだから」
「問題だったのか?」
「シオン、授業が始まる前から難しいことを考えるのはやめようぜ。俺は春休みの課題を忘れてないか、それだけで精一杯なんだ」
ディランの発言によって話題が変わり、シオンはひとまず胸を撫で下ろした。もっとも、セレナとノアが顔を見合わせて笑っていた理由については、結局分からないままだった。
新しい教室へ入ると、すでに多くの生徒が集まっていた。三年目ともなれば顔見知りも増えており、挨拶を交わしながら自分たちの席へ向かう。
ヴァルターは窓際の席で教科書を開いていたが、シオンたちに気づくと軽く片手を上げた。以前ならわざわざ近づいて話しかけることもなかった相手だが、今では自然に同じ輪へ加わるようになっている。
「相変わらず騒がしい連中だな。廊下まで声が聞こえていたぞ。特にクロフォード、お前はもう少し声量を考えろ」
「休み明けくらいいいだろ。それよりヴァルター、お前は春休みに何してたんだ?」
「魔法の訓練と予習だ。お前と違って、休みだからといって勉強を放り出したりはしない」
「俺だって訓練してたぞ! 槍なら休み前より上手くなった自信がある!」
ディランが勢いよく反論すると、ヴァルターは教科書を閉じて立ち上がった。どうやら二人の間では、休み明けの実技で勝負する話が始まってしまったらしい。
シオンは巻き込まれないうちに席へ着いた。実技の成績で張り合うつもりは最初からないし、そもそも張り合えるだけの才能がない。十四歳になったからといって、その事実が変わったわけでもなかった。
それでも、以前ほど気にならなくなったのは確かだった。
剣でディランに勝てなくても、魔法でセレナやヴァルターに及ばなくても、自分には別の経験がある。去年の公開演習を通して、それを少しだけ実感できたからかもしれない。
やがて担任教師が教室へ入り、三年目の学院生活が始まった。
最初の授業では、新年度の予定について説明が行われた。通常の講義や実技試験に加えて、三年生から参加できる課外活動も増えるらしい。
シオンが配られた予定表を眺めていると、教室の前方に立つ教師が、一枚の大きな紙を掲げた。
「さて、今年は皆さんにとって楽しみな行事があります。三年生以上の各学級には、秋の学院祭で独自の出し物を企画してもらいます」
その言葉が出た途端、教室が一気に賑やかになった。前の席にいた生徒が振り返り、後ろの席では早くも何を出すか相談する声が聞こえてくる。
王立学院の学院祭は、王都でも知られた行事だった。一般市民が自由に出入りできるわけではないものの、招待を受けた家族や関係者が訪れるため、毎年それなりの規模になる。
ただし、シオン自身には学院祭を楽しんだ記憶がほとんどない。一度目の人生では周囲との関わりを避けていたため、準備にも積極的に参加していなかった。
「出し物については各学級で話し合って決めてもらいます。飲食物の販売、研究成果の展示、演劇など、内容は基本的に自由です。ただし、安全性と予算については事前に審査を受ける必要があります」
教師が説明を続ける間、シオンは予定表の学院祭という文字を見つめていた。特に興味がなかったはずの行事なのに、今回は少し楽しみになっている自分がいる。
隣の席では、すでにディランが目を輝かせていた。
「シオン、飲食店にしようぜ! 祭りといえば食べ物だろ!」
「まだ何も決まってないよ。それに、うちのクラス全員で相談するんだから」
「だったら飲食店を提案すればいいじゃないか。俺、肉料理がいいな!」
あまりにも早い決断に、シオンは苦笑した。もっとも、ディランが演劇や研究展示を提案する姿も想像できないため、ある意味では予想通りだった。
昼休みになると、学院祭の話題はさらに盛り上がった。食堂でもあちこちから出し物の相談が聞こえており、普段は勉強の話ばかりしている生徒まで楽しそうにしている。
シオンたちも食事を取りながら相談することになったが、最初から全員の意見が一致するはずもなかった。
「僕は飲食店に賛成だね。材料費を管理しやすいし、売れ行きも数字で分かる。何より、実際に商売を経験できるのが面白い」
ノアがそう言うと、ディランは嬉しそうに頷いた。しかし、続けて提示された具体的な予算の話を聞いた途端、少しだけ表情を曇らせる。
「肉料理って、そんなに金がかかるのか?」
「肉の種類にもよるけどね。君が食べたいだけ食べる前提で仕入れたら、確実に赤字になると思うよ」
「俺が食う分は別に買えばいいだろ!」
「そういう問題じゃないんだよ。販売用の商品を勝手に食べる人がいると、在庫管理が大変になるんだから」
ノアはすでに紙を取り出し、材料費と販売価格の簡単な計算を始めていた。どうやら商売の話になると、休み時間でも手を抜くつもりはないらしい。
セレナは二人のやり取りを楽しそうに聞いていたが、やがてシオンへ視線を向けた。
「シオンは何かやりたいことがありますか? 私は皆さんと一緒にできるものなら、何でも楽しそうだと思いますけれど」
「そうだなあ。せっかくだから、普段できないことをやってみたい気はするね」
「それなら演劇はどうだ? 貴族の子弟ばかりなんだから、衣装も用意しやすいだろう」
意外な提案をしたのはヴァルターだった。全員の視線が集まると、彼は少しだけ居心地が悪そうな顔をしたものの、すぐに理由を説明し始めた。
「別に俺が舞台へ立ちたいわけじゃない。飲食店は他の学級も考えるだろうし、差別化するなら別の出し物も検討すべきだと言っているんだ」
「ヴァルターが王子様の役をやったら、結構似合いそうだけどね」
ノアが何気なく言うと、ディランが吹き出した。ヴァルターは露骨に嫌そうな顔をしたが、セレナまで楽しそうに笑い始めたため、それ以上反論できなくなってしまった。
結局、昼休みの相談では何も決まらなかった。
ただ、シオンは久しぶりに何の心配もなく笑えた気がしていた。誰かの命が懸かっているわけでも、未来の大事件を防がなければならないわけでもない。友人たちと学院祭の出し物について悩むだけの時間が、思っていた以上に楽しかった。
午後の授業が終わると、担任教師の提案で簡単な意見交換が行われた。学院祭まで時間はあるものの、材料の手配や施設の利用申請を考えれば、早めに方向性を決めた方がいいらしい。
教室の前方には飲食店、演劇、研究展示、模擬競技会など、いくつもの案が書き出された。生徒たちは自由に意見を述べていたが、どの案にも長所と短所があり、なかなか結論が出ない。
「飲食店なら全員に仕事を割り振りやすいと思います。料理を作る人だけでなく、接客や会計、宣伝も必要になりますから」
ノアがそう説明すると、商人の家に生まれた生徒たちが興味を示した。一方、料理などしたことがない貴族の子弟からは、不安そうな声も上がっている。
「厨房を借りられるとしても、誰が料理を作るんだ? 使用人を呼んで全部任せるわけにはいかないだろう」
「簡単な料理にすればいいんじゃないか? 俺は焼くくらいならできるぞ!」
ディランが自信満々に手を挙げたものの、なぜか周囲の反応は芳しくなかった。本人は不満そうだったが、シオンも以前の野外実習を思い出し、料理を全面的に任せるのは少し危険だと感じていた。
その後も議論は続き、最終的には飲食店を第一候補として具体的な商品を検討することになった。演劇を希望していた生徒も、店内装飾や衣装に工夫を加えられると聞いて、ひとまず納得したようだった。
ところが、ここで新しい問題が発生した。
「それで、何を売るんだ?」
誰かが尋ねると、教室は再び賑やかになった。肉料理、焼き菓子、果実水、温かいスープなど、次々と候補が挙がっていく。
シオンは黒板に並ぶ料理の名前を眺めながら、腕を組んだ。どれも悪くはないが、学院祭では他の学級も似たような商品を販売する可能性が高い。
それなら、少し変わったものを用意してみるのも面白いかもしれない。
そう考えた瞬間、ふと一度目の人生で立ち寄った王都の市場を思い出した。
あれは商会で働いていた頃だっただろうか。それとも、小さな店を経営するようになってからだっただろうか。
正確な時期は曖昧だが、仕事帰りに市場の屋台へ立ち寄り、焼きたての料理を買った記憶がある。
薄く伸ばした生地の中へ肉や野菜を挟み、片手で食べられるようにした料理だった。表面には軽く焼き色が付き、中には甘辛い味付けの肉と細かく刻んだ野菜が入っている。
当時は王都のあちこちで販売されており、仕事の合間に食べるには便利だった。シオン自身も気に入っていて、店の仕入れへ出かけた帰りによく買っていた覚えがある。
ただし、その料理が現在の王都に存在するかどうかは分からない。
一度目の人生では、いつ頃から流行し始めたのか気にも留めていなかった。料理人でもなかったため、細かい作り方についてもほとんど知識がない。
それでも、味と見た目なら覚えている。
「……あれなら、できるかもしれないな」
思わず口に出すと、隣にいたノアがすぐに反応した。どうやら商品を考えている最中に、シオンが何か思いついたことを見逃さなかったらしい。
「何かいい案があるの? それなら聞かせてよ。今のところ、焼き菓子と肉料理で意見が分かれてるんだ」
「まだ案というほどじゃないよ。昔、どこかで食べた料理を思い出しただけだから」
「へえ。どんな料理?」
ノアの問いかけに、シオンは少しだけ考えた。未来視の秘密を知らない友人たちの前で、一度目の人生の話をするわけにはいかない。
もっとも、料理の見た目や味を説明するだけなら、未来視について触れる必要もないだろう。
「薄い生地で肉と野菜を包んだ料理なんだ。手で持って食べられるし、食器もあまり必要ない。学院祭みたいに歩き回る人が多い場所なら、結構向いていると思う」
説明を聞いたノアは、すぐに紙へ簡単な図を描き始めた。ディランも興味を示したらしく、いつの間にか二人の会話へ加わっている。
「肉が入ってるなら俺は賛成だ! それ、焼きたてを食べるんだよな?」
「そうだね。ただ、実際に作れるかどうかは試してみないと分からないよ。生地の作り方も、細かい味付けも覚えてないから」
「それなら試作すればいいじゃないか。料理が得意な生徒だっているだろうし、材料さえ分かれば何とかなるかもしれない」
ノアが楽しそうに言ったところで、セレナも興味を示した。彼女はシオンが説明した料理について少し考えた後、意外なところを指摘してきた。
「食べ歩きできるのは便利ですね。ただ、具材が落ちたり、手が汚れたりしませんか? 学院祭では綺麗な服を着て来られる方も多いでしょうし」
「確かに。そこは包み方を工夫しないといけないね」
シオンが頷くと、ノアは紙に描いた料理の図へ新しい線を加えた。販売する時に紙で包めばいいのではないかという意見が出て、今度は包装に使う紙の費用について話し始める。
その様子を見ていたヴァルターは、しばらく黙っていたものの、やがて呆れたように口を開いた。
「お前たち、まだ飲食店に決まっただけだろう。商品も決まっていないのに、もう包装の費用まで計算するのか?」
「準備は早い方がいいんだよ。それに、試作品が美味しかったら君も食べたいだろう?」
「……味による」
ヴァルターが素直に否定しなかったため、ディランが嬉しそうに笑った。結局、シオンたちは担任教師へ料理の案を提出し、次の話し合いまでに試作の方法を考えることになった。
放課後、教室を出たシオンは、セレナと並んで学院の廊下を歩いていた。ディランとノアは材料の話で盛り上がり、そのまま食堂へ向かってしまったため、二人だけが少し遅れている。
「シオン、あの料理は本当に食べたことがあるのですか?」
「うん。結構好きだったよ。仕事の合間に食べるのに便利だったし、値段もそれほど高くなかったからね」
そこまで答えたところで、シオンは自分の失言に気づいた。十四歳の侯爵令息が、仕事の合間に屋台料理を買って食べた経験など、普通は持っていない。
セレナは足を止めると、シオンの顔をじっと見つめた。未来視の秘密を知っている彼女なら、今の言葉が現在の経験ではないことくらい理解できるだろう。
「……未来で見た料理なのですね?」
「まあ、そんなところかな。食べた時の記憶はあるんだけど、作り方までは分からないんだ」
「それなら、皆さんと一緒に作り方を考えるのも楽しそうです。完成品を知っている人が一人いるのですから、まったく手掛かりがないわけではありませんし」
セレナは嬉しそうに微笑んだ。どうやら未来視を使うこと自体について、特に心配している様子はない。
シオンも今回は大きな問題になるとは考えていなかった。料理の案を出しただけで、未来の出来事を大きく変えるような話ではないはずだ。
ただ、商売に関係する未来の知識を利用する以上、母には一度相談しておいた方がいいだろう。以前からエレノアには、そうした情報があるなら隠さず相談するように言われている。
「今度の休みに、母上へ手紙を書こうと思ってる。商売に使えるかどうかは分からないけど、未来の料理を学院祭で試すことになったって」
「エレノア様なら、きっと興味を持たれますね。もしかすると、学院祭へ見に来てくださるかもしれません」
「それは間違いないと思う。母上、面白そうな商売の話には目がないから」
二人で笑いながら歩いていると、廊下の先からディランの声が聞こえてきた。どうやら食堂へ向かったはずの二人が、まだシオンたちを待っていたらしい。
「おーい! 何してるんだよ! ノアがもう材料を注文するって言い出したぞ!」
「まだ試作もしてないだろ!」
シオンが思わず声を上げると、セレナは楽しそうに笑いながら歩く速度を上げた。廊下の向こうではノアが何やら紙を広げており、すでに商売の計画を立て始めているようだった。
どうやら今年の学院生活も、静かに過ごすのは難しそうだ。
それでも、今回は少し事情が違う。
未来の大事件を防ぐためでも、誰かの運命を変えるためでもなく、ただ友人たちと美味しい料理を作ろうとしている。そんな目的のために未来の記憶を使うのは、シオンにとって初めての経験だった。
十四歳の春。
シオンたちの学院祭は、まだ名前も決まっていない一つの料理から動き始めた。




