六歳、黄金の夢
エレノアの治療が始まってから季節はいくつも巡り、アルヴェリア侯爵邸には一年前までとはまるで違う日常が戻っていた。
完全に病の影響が消えたわけではない。長い療養生活で衰えた体力を取り戻すには時間が必要だったし、医師からも無理だけは絶対にしないよう念を押されている。それでも一日の大半を寝台で過ごしていた頃と比べれば、その変化は誰の目にも明らかだった。
朝食の席には家族五人が揃うことが増えた。
エレノアが庭を散歩する姿も、今では屋敷の使用人たちにとって珍しい光景ではない。時にはリシアと一緒に温室を覗き、レオンの剣術訓練を少し離れた場所から眺め、夫の執務室へ自分で歩いて顔を出すことさえある。
そしてシオンは六歳になった。
才能については、何も変わっていない。
神殿へ毎月のように通って確かめることもしなかったため、鑑定上の表示が現在どうなっているかを厳密には知らない。それでも魔法の練習をして突然何かが変わったわけでもなく、剣を握った瞬間に身体が軽くなったわけでもない以上、おそらく今も《無能》のままだろう。
一度目の人生なら、それだけで毎日が苦しかった。
兄レオンが剣を振れば羨ましかった。
姉リシアが魔法を使えば悔しかった。
父ガルディスが兄の訓練を見るだけで、自分は期待されていないのだと思い込んだ。
だが二度目の六歳は違う。
「シオン、そこにいたのね。少し休憩するから、あなたもこちらへいらっしゃい」
庭から声を掛けられ、シオンは読んでいた本から顔を上げた。
エレノアが東屋の椅子へ座っている。すぐ近くには侍女が控えているものの、ここまで歩いてきたのは自分の足だったらしい。頬には健康的な色が戻り、病床にいた頃の痩せ細った印象もかなり薄れている。
「母上、今日はもう散歩したんでしょう? 歩きすぎると先生に怒られるよ」
「朝に少し歩いただけですよ。それに、先生からは体力を戻すためにも適度な運動をするよう言われています。あなたの方こそ、せっかく天気がいいのに朝から本ばかり読んでいるでしょう?」
「面白かったから。領地の地理について書いてある本なんだ」
「六歳の子供が読むには、随分と変わった本を選ぶのね。普通なら英雄譚や騎士物語を読みたがる年齢だと思うのだけれど」
「英雄は俺には向いてないからね」
「六歳でもう諦めるようなことを言わないの」
軽く額を小突かれた。
痛くはない。
それでもシオンは大袈裟に額を押さえた。
「母上が息子を殴った」
「指で軽く触っただけでしょう。そんな言い方をしたら、私が酷い母親みたいではありませんか」
「冗談だよ。母上、元気になってから容赦なくなったよな」
「誰のせいでしょうね?」
エレノアが楽しそうに笑った。
シオンもつられて笑う。
こんなやり取りを、一度目の自分はほとんど知らない。
母が生きている。
それだけで屋敷の空気は大きく違った。
父の表情も以前より柔らかい。レオンは後継者としての教育を受けながらも、まだ十代になったばかりの少年として母へ甘える時間を持っている。リシアも、母の代わりになろうと背伸びする必要がなくなった。
そしてシオン自身も、《無能》という言葉だけに囚われずに済んでいる。
未来を変えた影響は、もう始まっていた。
「ところで、その本で何を調べていたの?」
「北の方」
「北?」
「うん。アルヴェリア領の北側にある山を見てたんだけど……母上、ローデンって知ってる?」
エレノアは少し考えた。
「ローデン……確か山地の名前だったかしら。私は領地経営についてあなたのお父様ほど詳しくありませんけれど、北部にそういう名前の場所があったと思います」
「やっぱりあるんだ」
「どうして急にそんな場所を?」
シオンは答えず、本へ視線を戻した。
そこにはアルヴェリア領の簡単な地図が載っている。
北部。
領都からかなり離れた山岳地帯。
主要街道からも外れており、大きな町もない。
一度目の人生で、その場所の名前を聞いたのは二十代になってからだった。
《ローデン金鉱》。
アルヴェリア領だけではなく、アストレア王国全体でも有数の金鉱として知られるようになった場所だ。
発見されたのは、シオンがアルヴェリア家を出てから数年後。
当時は冒険者として各地を転々としており、家との連絡もほとんど取っていなかった。
それでも噂は耳へ入った。
アルヴェリア侯爵領で巨大な金鉱脈が見つかった。
山が黄金を吐いた。
王都の金相場が揺れるほどの発見だ。
酒場ではそんな大袈裟な話まで飛び交っていた。
もちろん、本当に山そのものが黄金だったわけではない。
後に商人として働くようになったシオンは、ローデン金鉱についてもう少し現実的な情報も知ることになった。
埋蔵量は莫大。
ただし採掘には大規模な坑道整備が必要で、運搬路の建設にも莫大な費用が掛かった。採掘開始後も崩落対策や水抜き、警備、労働者の生活環境整備などに金が必要で、発見した瞬間から侯爵家が無限の富を手にしたわけではない。
それでも、数十年間にわたってアルヴェリア家と王国へ利益をもたらした巨大資源であったことは間違いない。
「シオン?」
「ごめん。ちょっと考えてた」
「あなた、最近そういうことが増えたわね。六歳の子供が遠い目をしていると、少し心配になるのだけれど」
「変な夢のことを考えてただけだよ」
その言葉で、エレノアの表情が変わった。
ほんの僅かだった。
しかしシオンには分かる。
「……また見たの?」
「見たっていうより、前に見たものを思い出した感じかな」
もちろん嘘だ。
ローデン金鉱について夢を見たことなどない。
一度目の人生で知っているだけだ。
ただし今回、シオンには一つ問題があった。
場所を正確に知らない。
ローデン金鉱という名前は知っている。
アルヴェリア領北部のローデン山地にあることも知っている。
だが、それだけだった。
現在のローデン山地には金鉱など存在しない。
正確には、地下に存在しているが誰も発見していない。
つまり地図にも《ローデン金鉱》という名前は当然載っていない。
「父上に話した方がいいかな」
「内容によります。あなたが以前言っていたように、夢で見たものが必ず現実になるとは限らないのでしょう?」
「うん。でも今回は、調べても損はないと思う」
「それなら話してみましょうか。ちょうど今日は昼食を一緒に取れるそうですから、その時でもいいでしょう」
シオンは少し考え、首を横へ振った。
「できれば家族だけの時がいい。使用人がいるところでは話したくない」
エレノアは一瞬だけ驚いたものの、すぐに頷いた。
「分かりました。では夕食の後、お父様の書斎を使いましょう。私から伝えておきます」
「ありがとう、母上」
その日の夕食後。
ガルディスの書斎には家族五人が集まった。
エレノアの治療以来、この部屋は家族だけで未来の話をする場所になりつつある。扉の外にも使用人は置かず、必要がない限り誰も近づかせない。
ガルディスは執務机の向こうへ座り、シオンを見る。
「エレノアから聞いた。また何か思い出したそうだな」
「うん。でも今回は母上の病気みたいにはっきりしてない」
「構わん。まず見たものを話せ。判断はこちらでする」
その言葉にシオンは頷いた。
この一年で父との関係も随分変わった。
一度目なら、父へ何か話すだけでも緊張していた。
今では少なくとも、自分の話を聞いてくれる人間だと分かっている。
「山を見たんだ」
「山?」
「二つ並んだ山。片方が少し高くて、その間が浅くへこんでる。手前には川が流れてて、山の途中に白っぽい岩が見える場所があった」
ガルディスは黙って聞いている。
「その山に、たくさん人がいた。穴を掘ったり、石を運んだりしてた。それで……みんな金色の石を持ってた」
「金色の石?」
レオンが反応した。
「金じゃないのか?」
「たぶん。でも夢だから、本当に金なのかは分からない。黄色っぽく光ってた」
「鉱山か」
ガルディスが呟く。
シオンはそこで口を閉じた。
ローデンという名前は言わない。
ここは重要だった。
一度目の人生で《ローデン金鉱》という名称を知っていたとしても、夢の中でその地名まで見たことにしてしまえば不自然になる。
それに、父が自力で場所を特定できるか確認したかった。
「他には?」
「遠くに尖った山があった。かなり細く見える山で、こっちの二つの山よりずっと遠かったと思う。それと川が途中で大きく曲がってた」
「建物は?」
「いっぱいあった。でも今の町っていう感じじゃなかった。木でできた大きな建物とか、荷車がたくさん置いてある場所とか。あと、山に穴が開いてた」
「坑道だろうな」
レオンが興味深そうに身を乗り出した。
「シオン、本当に金だったら凄いぞ。父上、領内にそんな場所があるんですか?」
「待て」
ガルディスは立ち上がった。
執務机の後ろにある棚から、大きな筒を一本取り出す。
中から広げられたのは、先ほどシオンが読んでいた本のものより遥かに詳細なアルヴェリア領の地図だった。
家族が机を囲む。
「二つ並んだ山と言ったな」
「うん」
「川が手前を流れ、途中で大きく曲がる。さらに遠方に尖った山が見える……」
ガルディスの指が地図の上を移動する。
シオンは何も言わない。
父の指は北へ進んでいった。
山岳地帯。
川。
小さな村。
そしてある地点で止まる。
「……ローデンか?」
その名前を聞いた瞬間、シオンは内心で息を呑んだ。
自分からは一度も言っていない。
父が辿り着いた。
「ローデン?」
知らないふりをして首を傾げる。
「北部にある山地だ。領都から馬車で数日は掛かる。林業以外に大した産業はなく、土地も痩せている。鉱山開発の記録も、私が知る限りではない」
ガルディスは地図を見つめたまま説明する。
「だが地形は近い。ローデン山地の南側には二つの山峰が並んでいる。その手前をローデン川が流れ、西へ大きく曲がる。天候が良ければ、その向こうに尖った形のベルグ峰が見えるはずだ」
「じゃあ、そこかもしれない」
「かもしれない、か」
「夢だからね。俺も絶対とは言えないよ」
「それでいい。むしろ断言される方が困る」
ガルディスは地図を見つめた。
シオンは黙って父の判断を待つ。
一度目の人生であれば、ここで焦っていたかもしれない。
早く調べてくれ。
絶対に金がある。
そう訴えたかもしれない。
だが今は待てる。
ローデンの金は逃げない。
少なくとも一度目では、十年以上後まで誰にも発見されなかった。
「調査する」
やがてガルディスが決めた。
「本当ですか?」
「ああ。ただし大規模には動かん。山へ何百人も送り込めば、それだけで何かあると宣伝しているようなものだ。まずは領内の地質調査という名目で少人数を送る」
「金を探してるとは言わない?」
「言わん。調査隊にも必要以上のことは知らせない。北部山岳地帯で鉱物資源の調査を行う。それだけで十分だ」
シオンは安心した。
これなら未来視の秘密は漏れない。
「もし何もなかったら?」
リシアが尋ねる。
ガルディスは娘を見る。
「調査費用を少し失うだけだ。領内の地質情報そのものは今後の開発へ利用できる。道の状態や山林資源についても報告させれば、完全な無駄にはならん」
「じゃあ調べた方がいいね」
「ああ。シオンの話がなくても、いずれ実施してよい調査ではある」
父の判断は堅実だった。
シオンもそれを望んでいた。
未来の情報だけを信じて全財産を賭ける必要などない。
確認する。
裏付ける。
使えると分かってから動く。
母の治療と同じだった。
「ただしシオン。お前は調査隊へ同行させんぞ」
「え?」
「その顔は何だ」
「いや……ちょっとくらい見てみたいなって」
「六歳児を何日も馬車へ乗せて山奥へ連れていく理由がない。しかも鉱物調査だ。遊びではない」
「でも夢の場所と同じか確認できるかもしれないよ?」
それは半分本音だった。
未来で見たローデン金鉱の写真や絵は覚えている。
実際の景色を見れば、場所をより正確に特定できる可能性がある。
「調査員に絵を描かせる」
「絵?」
「地形の記録は取らせる。お前が話した特徴に近い場所が見つかったら、周辺の景色を写生させればいい。それを見て判断しろ」
「……なるほど」
「六歳児より先に思いつく程度のことは、私にもできる」
「父上、俺のこと何だと思ってるの?」
「最近は私にも分からなくなってきた」
エレノアが口元を押さえて笑う。
「あなた、シオンを相手にすると少し意地悪になりますね」
「こいつが六歳らしくないことばかり言うからだ」
「六歳だよ。ちゃんと六歳」
「では明日から、読み書きの授業を一から増やしてもらうか?」
「それは勘弁してください」
即答すると、レオンとリシアまで笑った。
家族会議はそれで終わった。
翌日、ガルディスは領内の地質や鉱山に詳しい者を数人呼び、北部山岳地帯の資源調査を命じた。
理由は単純だった。
領地の長期的な収入源を増やすため、これまで開発の進んでいない北部を調べる。
それだけだ。
調査員たちは侯爵がなぜ突然ローデン周辺へ興味を持ったのか知らない。
当然、シオンが未来を知っていることも知らない。
数日後、調査隊は領都を出発した。
シオンは同行しなかった。
そして待つ時間が始まった。
母の治療の時とは違い、今回は命が懸かっているわけではない。
だから落ち着いて待てると思っていた。
実際には、そうでもなかった。
「……遅くない?」
調査隊が出発して十日ほど経った頃、シオンは朝食の席で父へ尋ねた。
「何がだ?」
「調査隊」
「山地へ向かっているのだぞ。領都から目的地まで移動するだけでも数日掛かる。その上、山中を歩いて地層や露頭を確認する必要がある。十日程度で何が分かると思っている」
「一度目……じゃなくて、夢だともっと簡単に見えたから」
危うく口を滑らせかけた。
ガルディスの視線が僅かに鋭くなったが、シオンは何食わぬ顔でパンを口へ運ぶ。
「シオン。あなた、最近お父様に似てせっかちになってきたわね」
「私はせっかちではない」
「私が病気だった時、医師が一時間遅れただけで三回も使いを出したのは誰でしたか?」
「……緊急時と通常時を一緒にするな」
ガルディスが珍しく言葉に詰まり、子供たちが笑った。
シオンも笑った。
母が父をからかう。
父が言い返せなくなる。
そんな何でもない朝が、今では当たり前になり始めている。
だからこそシオンは、時折怖くなる。
この日常を知ってしまった以上、もう失いたくない。
未来の知識を使う目的も、少しずつ変わり始めていた。
一度目の人生で後悔したものを取り戻す。
それだけではない。
今あるものを守るためにも、知っていることを使いたい。
ローデン金鉱も、その一つになり得る。
金があれば家が豊かになる。
領地へ投資できる。
道を造れる。
医療を整えられる。
兵を養える。
災害へ備えることもできる。
一度目の人生で商人として働いたからこそ、シオンは金が単なる贅沢のための道具ではないことを知っていた。
金そのものに人を救う力はない。
だが、薬を買うには金がいる。
人を雇うにも、食料を運ぶにも、橋を造るにも、冬へ備えるにも金がいる。
使い方次第で、金は時間と選択肢を買う。
それからさらに一週間が過ぎた。
最初の報告が届いた。
ガルディスの書斎へ呼ばれたシオンは、机の上に置かれた数枚の紙を見る。
「調査隊から?」
「ああ。先遣の伝令が戻った」
「金は?」
「最後まで聞け」
父に止められ、シオンは口を閉じる。
「まず、お前が話した地形に近い場所は見つかった」
ガルディスが一枚の紙を差し出した。
そこには炭で描かれた簡素な風景画があった。
二つの山。
手前を流れる川。
途中で大きく曲がる流れ。
片方の山肌には白っぽい岩が露出している。
遠くには、針のように尖った山。
シオンの記憶が揺れた。
一度目の人生。
商人として働いていた頃、取引先の事務所に飾られていたローデン金鉱の絵。
新聞に掲載されていた山の姿。
採掘が進んだ後なので景色は今とは少し違う。
それでも分かる。
「……ここだと思う」
「断言できるか?」
「絶対とは言わない。でも、かなり近い。遠くの山の形も同じだし、川の曲がり方も覚えてる」
「そうか」
ガルディスは別の報告書を取る。
「調査員も、この周辺の地質について少し気になる点があると報告している。山肌の一部に石英質の脈が露出しているらしい。現段階で金があるとは言えんが、鉱物資源が存在する可能性はあるそうだ」
シオンの心臓が速くなる。
未来がまた一つ、現実へ近づいている。
「もっと調べる?」
「すでに命じた。最初の報告を受けた時点で、追加の人員と道具を送っている。お前を呼んだのは景色を確認させるためだ」
「父上、仕事早いな」
「侯爵家当主を何だと思っている」
「最近まで怖い父親だと思ってた」
言ってから、シオンは少し後悔した。
冗談のつもりだった。
だがガルディスは黙った。
「……一年前までの話か?」
「うん」
「私はお前に、それほど怖がられるようなことをしたか?」
困った。
一度目の人生の印象が混ざっている。
今のガルディスは、まだシオンを追い詰めてなどいない。
「父上っていつも難しい顔してるから。子供から見たら怖いんだよ」
「そうか」
「でも今は、そんなに怖くない」
「それは喜んでいいのか?」
「たぶん」
ガルディスは何とも言えない表情をした。
シオンはそれ以上触れなかった。
今度は父とも、少しずつ話せばいい。
一度目のように、何も言わないまま互いに誤解を積み重ねる必要はない。
追加調査は慎重に進められた。
白い岩肌。
石英脈。
周辺の砂。
川底の堆積物。
調査員たちは範囲を少しずつ広げ、山肌から採取した岩石を割り、含まれる鉱物を確認した。
その結果が届いたのは、最初の調査隊が出発してから一か月以上が経った頃だった。
その日、シオンは家庭教師から算術を習っていた。
「ですから、こちらの穀物を三十袋購入し、一袋あたり――シオン様、聞いておられますか?」
「聞いてるよ。三十袋で一袋銀貨四枚なら銀貨百二十枚。輸送費が二十枚なら百四十枚。銀貨六枚で売るなら売上百八十枚だから、差額は四十枚。でも人件費とか税とか保管費を引いてないから、それが利益じゃない」
家庭教師が黙った。
「……正解でございます」
「じゃあ次」
「シオン様。本当に六歳でいらっしゃいますか?」
「最近それ、父上にも言われる」
商人として何十年も働いていた人間に、初歩的な商売算術を出しても仕方がない。
もちろん、未来の知識を隠すためにわざと間違えることも考えた。
だが面倒だった。
少し計算が得意な程度なら《無能》でも問題ない。
才能がないことと、頭を使えないことは別なのだから。
そこへ扉が叩かれた。
入ってきた使用人が家庭教師へ一礼する。
「失礼いたします。シオン様、旦那様がお呼びでございます。授業が一段落しましたら書斎へ来るようにとのことです」
「分かった。すぐ行く」
「シオン様、旦那様は授業が一段落してからと――」
「今ちょうど一段落した」
「しておりませんよ」
家庭教師に即座に否定された。
結局、シオンは残りの問題を解いてから書斎へ向かった。
扉の前まで来ると、珍しくガルディス自身が開けた。
「入れ」
声がいつもより低い。
書斎にはエレノアもいた。
レオンとリシアはいない。
「父上?」
「調査結果が届いた」
シオンは息を呑んだ。
机の上に、小さな布袋が置かれている。
ガルディスは袋の口を開き、中から拳より小さな石を取り出した。
灰色と白の混ざった、何の変哲もない岩石。
しかし割れた断面の一部に、微かな黄色い輝きが混じっている。
「これ……」
「まだ確定ではない」
ガルディスはそう前置きした。
「現地で採取した鉱石を簡易的に確認したところ、金と思われる成分が含まれていた。量は僅かだが、複数地点から似た反応が出ている」
「じゃあ、本当に……」
「ああ。少なくとも、ローデンに金が存在する可能性は極めて高くなった」
エレノアが静かに息を吐いた。
母の病気に続いて、二度目。
シオンが未来の夢として話した内容が現実と一致した。
「ただし、ここからが重要だ」
ガルディスは石を机へ戻した。
「金があることと、採掘する価値のある金鉱であることは別だ。鉱石一トンを掘って金が僅かしか取れないなら、運搬費と人件費だけで赤字になる。鉱脈の規模、品位、採掘の難易度、坑道を造る地質条件、運搬路。それらを調べなければならない」
「うん。俺が見た場所には、かなり大きな坑道があった。人もたくさんいたから、小さい鉱山じゃないと思う」
「それも調査の参考にはする。ただし、それだけを根拠に開発はしない」
「分かってる」
シオンは未来で知っている。
そこには巨大な金鉱がある。
だが父は知らない。
だから調べる。
それでいい。
「シオン」
「何?」
「今回の件についても、外では一切話すな。金鉱の存在が確定すれば、それだけで様々な人間が動く。土地を買おうとする者、採掘権を求める者、情報を売ろうとする者も出るだろう」
「盗賊も来る?」
「開発が始まればな。金は人を集める。善人だけを選んで集めるわけではない」
一度目の人生で商売をしていたシオンには、その意味がよく分かった。
金の匂いがすれば人が集まる。
商人。
労働者。
職人。
冒険者。
そして詐欺師や盗賊も。
大きな金鉱は、穴を掘れば終わりではない。
町が生まれる。
道が必要になる。
食料が必要になる。
治安を守る人間が必要になる。
莫大な富と同時に、莫大な仕事と問題が生まれる。
「父上」
「何だ?」
「急がなくていいと思う」
ガルディスが意外そうに息子を見る。
「お前が一番急かすと思っていたが?」
「金は逃げないから。それより、ちゃんと調べてから始めた方がいい。道もないところへ大勢送ったら食料を運ぶだけでも大変だし、冬になったらもっと困るでしょう?」
「……お前はどこでそんなことを覚えた?」
しまった。
六歳児にしては少し言いすぎた。
「本に書いてあった」
「何という本だ?」
「……いっぱい読んだから忘れた」
「便利な言葉だな」
エレノアが小さく笑った。
「あなた、あまり追及しないであげてください。この子は昔から本を読むのが好きでしたし、最近は領地関係のものまで読んでいるのでしょう?」
「六歳児が鉱山への食料輸送まで心配する本があるなら、私も読んでみたいものだ」
「父上、細かいこと気にすると禿げるよ」
「誰が禿げると言った」
「言ってない。気にするとって言っただけ」
ガルディスの眉間の皺が深くなった。
母がとうとう声を出して笑った。
シオンも笑う。
その場の空気が少しだけ軽くなった。
だがガルディスはすぐに当主の顔へ戻った。
「いずれにせよ、本格調査へ移行する。鉱山技師を追加で送り、採掘可能な鉱脈の範囲を調べる。同時に周辺の土地と道路状況も確認させる。ただし表向きは、北部地域の総合資源調査だ」
「金が見つかったって分かるのは、まだ先?」
「少なくとも私が許可するまでは公表しない。確定後は王家への報告も必要になる。規模によっては、侯爵家だけで処理できる話ではなくなるからな」
シオンは頷いた。
一度目では結果しか知らなかった。
ローデン金鉱が発見された。
アルヴェリア家が莫大な利益を得た。
王国経済にも影響を与えた。
それだけだった。
だが二度目では、その結果へ至るまでの過程を見ることになる。
調査する人間がいる。
道を造る人間がいる。
危険な山へ入り、石を割り、川底の砂を集める人間がいる。
未来の知識だけで金が湧き出すわけではない。
シオンができるのは、そこに価値があると知っていることだけだ。
実際に価値を掘り出すのは、これから動く大勢の人間だった。
それから約二か月、ローデンから届く報告は少しずつ具体的になっていった。最初は「金を含む岩石が確認された」という程度だったものが、複数の石英脈から同様の反応が出たことで、単なる偶然ではない可能性が高まっていった。
さらに調査範囲を広げると、山の斜面だけではなく川底の砂からも微量の砂金が確認された。上流側に金を含む鉱脈が存在し、長い年月を掛けて削られたものが川へ流れ込んでいる可能性があると、調査隊は報告してきた。
それでもガルディスは開発を急がなかった。
専門家から届く報告書を読み、追加調査を命じ、採掘した場合に必要となる道路整備費まで計算させている。シオンが未来を知っているからといって、侯爵家当主が判断を放棄することはなかった。
むしろシオンには、その慎重さが頼もしかった。
一度目の人生で若かった頃なら、父が自分を信用していないと感じたかもしれない。
今は逆だった。
信用しているからこそ、確かめる。
家族の未来に関わることを、六歳の息子の言葉だけで決めない。
それが父の役割なのだと理解できる。
夏が終わりに近づいた頃、最終的な調査報告が届いた。
その夜、再び家族五人だけが書斎へ集められた。
机の上には以前より遥かに分厚い報告書が置かれている。
「結論から話す」
ガルディスが全員を見渡した。
「ローデン山地南部で、採掘価値があると考えられる金鉱脈が確認された。現段階で正確な埋蔵量を出すことは不可能だが、調査した技師たちは少なくとも小規模な鉱山ではないと判断している」
レオンが目を見開いた。
「本当に金鉱だったんですか?」
「ああ。しかも現在確認されている鉱脈だけで終わらない可能性が高い。周辺の地質を見る限り、さらに奥へ続いていると考えられている」
「じゃあシオンの夢、本当に当たったんだ……」
リシアが弟を見る。
シオンは笑って誤魔化した。
「たまたまかもしれないよ」
「母上の病気も当たって、今回も当たってるのに?」
「だからって次も当たるとは限らないだろ?」
「それはそうだけど……」
リシアはまだ納得しきれない顔をしている。
ガルディスは二人の会話を止めず、しばらく見ていた。
「シオンの言う通りだ」
やがて父が口を開く。
「今回の件で分かったのは、シオンが見たという夢に無視できない価値があるということだけだ。今後も全て正しいとは限らん。むしろ未来へ干渉すればするほど、以前見たものと現実が変わる可能性については忘れるな」
「父上、覚えてたんだ」
「お前が何度も言ったことだろう。忘れるわけがない」
シオンは少しだけ安心した。
未来知識が二度当たった。
それは良いことだ。
しかし同時に危険でもある。
家族が「シオンの言うことなら絶対に正しい」と考え始めれば、いつか必ず大きな失敗をする。
一度目の人生と違う出来事が増えるほど、未来の知識は古くなる。
その認識だけは、今のうちから家族全員へ持っていてほしかった。
「それで父上、金鉱はどうするの?」
レオンが尋ねる。
「まず王家へ報告する。領内で発見された鉱山ではあるが、この規模になると貨幣や金相場にも影響しかねん。採掘量を一気に増やせば、市場そのものを混乱させる可能性がある」
「金がいっぱい取れるなら、いっぱい売った方がお金になるんじゃないの?」
リシアの素朴な疑問へ、シオンは思わず口を開きかけた。
だがガルディスが先に答えた。
「一度に大量の金を市場へ出せば、金そのものの価値が下がる可能性がある。それに採掘量を増やすには、それだけ人間も設備も必要になる。何事にも適切な速度というものがあるのだ」
「へえ……」
「それに、鉱山だけ造れば終わりではない」
ガルディスは地図を広げた。
「現在のローデン周辺には、大人数を受け入れられる町がない。主要街道からも遠く、雨が降れば荷車が通れなくなる道もある。鉱山を本格的に開発するなら、まず道路を整えなければならん」
父の指が地図の上を進む。
「ここから領都方面へ新しい運搬路を整備する。途中には荷馬車が休める場所も必要だ。鉱山周辺には労働者の住居、食料倉庫、治療所、鍛冶場、警備施設を造る。坑道内の排水設備も必要になるだろう」
レオンとリシアは真剣に聞いている。
シオンも黙って地図を見た。
一度目の人生で完成した《ローデン鉱山街》を知っている。
酒場が何軒もあり、商会の倉庫が並び、冒険者や鉱夫が行き交う賑やかな町だった。
だが今は何もない。
未来にあった町を、これから造る。
しかも一度目より十年以上早く。
それがどんな変化を生むのか、シオンにも分からない。
「開発には数年掛かる」
ガルディスが続ける。
「最初から大規模な採掘は行わん。安全を確認しながら坑道を広げ、同時に道路と町を整備する。利益が本格的に出るのはその後だ」
「それでいいと思う」
シオンが答えると、父がこちらを見る。
「お前は意外と欲がないな。未来で見た金鉱なのだろう?」
「金があるって分かっただけで十分だよ。それに父上がちゃんと使ってくれるなら、俺が持ってても仕方ないし」
「お前にも関係のある財産だぞ」
「俺、六歳だよ?」
「そういう時だけ六歳を使うな」
エレノアが笑い、レオンとリシアもつられて表情を緩める。
だがシオンの言葉は本心だった。
一度目の人生では金に困った時期もある。
冒険者として依頼を失敗し、安宿の代金さえ惜しんだ夜もあった。商会で働き始めた頃には、銀貨一枚の差で仕入れ先を何時間も探したこともある。
だから金の価値は知っている。
同時に、金そのものが人生の目的にならないことも知っている。
六十歳で死ぬ時、もっと金を稼げばよかったとは思わなかった。
思い出したのは家族だった。
なら二度目も、順番を間違えない方がいい。
「シオン」
父に呼ばれ、顔を上げる。
「今回の件は大きい。エレノアの治療とは意味が違う。あれは家族の中で完結させることもできたが、金鉱は多くの人間が関わる」
「うん」
「いずれ鉱山の存在そのものは隠せなくなる。だが発見のきっかけがお前だったことは隠す。公式には領地資源調査によって偶然発見されたことにする」
「それがいい。俺も名前を出してほしくない」
「理由を聞いてもいいか?」
「面倒だから」
ガルディスが黙った。
「……それだけか?」
「かなり大きな理由だよ。六歳の子供が金鉱を見つけたって話になったら、絶対いろんな人が来るでしょう? どうやって見つけたとか、他にも知らないかとか。そんなの全部相手するの嫌だよ」
半分は冗談だった。
半分は本気だった。
一度目の人生で商売をしていたからこそ、価値のある情報を持つ人間のところへどれほど多くの人間が集まるか知っている。
しかも未来を知っていると露見すれば、金鉱どころの騒ぎでは済まない。
「分かった。お前の名は出さん」
「ありがとう、父上」
「ただし、家族の中では覚えておく」
ガルディスの声が少しだけ柔らかくなった。
「この鉱山は、お前が見つけたものだ」
「……俺は場所を教えただけだよ」
「それで十分だ。お前が話さなければ、我々が今この時期にローデンを調べることはなかった」
母の時と同じだった。
シオンは自分が何かを成し遂げたという感覚を持てない。
治療したのは医師と薬師。
金を見つけたのは調査員。
自分は知っていることを話しただけだ。
だが、その一言がなければ始まらなかった。
もしかすると、二度目の自分がやるべきことはそれなのかもしれない。
自分で全てを成し遂げる必要はない。
強い剣士になれなくてもいい。
偉大な魔法使いになれなくてもいい。
自分より優秀な人間へ、必要な情報を渡す。
そして彼らが力を発揮できるようにする。
一度目の人生で商会にいた頃も、小さな店を経営していた頃も、それに似たことを何度もしていた。
自分で作れない商品は職人から仕入れた。
自分で運べない荷物は運送業者へ頼んだ。
危険な道を通る時は冒険者を雇った。
一人でできることなど、最初から限られている。
六十年掛けて当たり前になったその感覚を、五歳の自分は知らなかった。
「父上」
「何だ?」
「鉱山がちゃんと儲かるようになったら、母上の治療をしてくれた先生たちにも何かしてあげてよ」
「なぜだ?」
「母上だけじゃなくて、同じ病気の人を治せるように研究を続けてもらいたいから。金が掛かるなら、そこに使ってもいいと思う」
ガルディスは少し驚いたように息子を見る。
「お前の取り分を研究へ回せと言っているのか?」
「俺の取り分があるならね。全部じゃなくていいけど」
「六歳で自分の財産の使い道を決める者は初めて見たぞ」
「じゃあ七歳になってから言ったことにして」
「そういう問題ではない」
また家族が笑った。
シオンも笑う。
未来で巨大な金鉱になる場所を、一年早く知った。
だが不思議なことに、黄金そのものを手に入れた時より、こうして家族と話している時間の方が嬉しかった。
それからローデンの開発計画は、ガルディスを中心に静かに動き始めた。
まだ鉱山の存在は公表されない。
現地では追加調査という名目で道が整えられ、必要な資材が少しずつ運び込まれていく。周辺の村からも労働者が雇われ始めたが、彼らへ説明されているのは山岳資源の調査と道路整備だけだった。
金が出る。
その事実を知る者は、まだ極めて少ない。
当然、その中に「六歳の侯爵令息が未来で見た」などという話は存在しない。
そしてシオン自身は、以前と変わらない生活を続けた。
朝になれば家族と食事をする。
家庭教師から勉強を教わる。
剣術の基礎を習い、才能のなさを少しずつ確認する。
魔法の初歩にも触れ始めたが、こちらも特別な反応はない。
《無能》は《無能》のまま。
それでも、一年前のシオンとは違った。
母は生きている。
父とは話せるようになった。
兄や姉とも普通に笑える。
そして北の山では、一度目より十年以上早く、未来の大金鉱が目覚めようとしている。
ある夜、シオンは自室の窓から月を眺めながら、一度目のローデン金鉱発見の記事を思い出していた。
当時の自分は二十代だった。
アルヴェリア家を出た後で、家族ともほとんど連絡を取っていなかった。
酒場で誰かが「アルヴェリア侯爵家が金山を引き当てた」と騒いでいるのを聞き、胸の奥がざわついたことだけは覚えている。
故郷が豊かになったことを喜ぶ気持ち。
自分には関係ないと思おうとする意地。
家へ戻れば何か変わるのではないかという僅かな期待。
それらを全部酒で流し込み、翌朝にはまた依頼を探しに行った。
あの時は知らなかった。
自分が五十五年前へ戻り、その金鉱を父へ教えることになるなど想像できるはずもない。
未来とは不思議なものだ。
一度目では結果だけを見た。
二度目では、その結果が生まれる前へ立っている。
そして今回は、自分もその中にいる。
ローデン金鉱が一度目と同じ形で発展する保証はない。
発見時期が変わった。
開発を始める人間も違う。
母が生きている。
父の考え方にも影響が出る。
すでに小さな違いでは済まなくなっている。
それでもシオンは、変えてしまったことを後悔していなかった。
「次は……七歳か」
小さく呟き、そこで表情が消えた。
ローデン金鉱の次に強く覚えている出来事。
それは金でも、商売でもない。
一人の少女の死だった。
セレナ・ヴァレンティア。
ヴァレンティア公爵家の長女。
シオンと同じ年に生まれ、七歳で死んだ少女。
一度目の人生では、彼女とまともに話した記憶さえほとんどない。
ただ、名門公爵家の幼い令嬢が魔物に襲われて亡くなった事件として、当時は王都中で大きな話題になった。
シオンが覚えているのは、日付。
街道。
森。
そして、公爵家の護衛が戦っている最中に、誰にも見えなかった魔物が少女を殺したという話。
細部までは知らない。
母の病気ほど確かな治療法があるわけでもない。
ローデン金鉱のように、調査すれば安全に確認できる話でもない。
人の命が懸かっている。
しかも今度は、アルヴェリア家の中だけで完結する出来事ではない。
公爵家。
護衛騎士。
魔物。
そして、まだ六歳の自分。
未来を知っているだけでは足りない場面が、次に待っている。
シオンは窓から離れ、寝台へ向かった。明日になれば、また家庭教師の授業があり、剣術の稽古があり、母と昼食を取るいつもの日常が始まる。七歳になるまではまだ時間があり、今から焦って動けば、かえって未来を変えすぎて事件の場所や日時そのものがずれる可能性もあった。
だから今は、覚えていることを整理する。
日付は間違えないか。街道の場所はどこだったか。新聞や酒場で聞いた話の中に、他に手掛かりはなかったか。六十年分の記憶を何度も辿り、曖昧な部分と確かな部分を分けておく。
母を救った時に学んだ。
知らないことを、知っているふりをしてはいけない。
ローデンを見つけた時にも学んだ。
自分で全部やる必要はない。
なら次も同じだ。
シオン自身には、見えない魔物を倒す力などない。
六歳になっても《無能》のままであり、剣を握っても兄のようには動けず、魔法を習っても姉のような力は出せない。七歳になったからといって、それが急に変わる保証などどこにもなかった。
だから、戦える人間を連れていく。
自分が覚えている場所へ、父と騎士たちを先に配置する。
それでも足りなければ、その場で考える。
一度目の人生でシオンが得意だったのは、英雄のように敵を倒すことではなかった。
危険な場所で死なないこと。
足りないものを見つけること。
自分にできないなら、できる人間を頼ること。
その程度だった。
だが今度の人生では、その程度の経験が誰か一人の命へ届くかもしれない。
シオンは寝台へ入り、毛布を胸元まで引き上げた。六歳の身体は考え続けようとする六十年分の意識へ逆らうように眠気を訴え始め、瞼が次第に重くなっていく。
一年前には、母が生きている翌年など知らなかった。
今は母が生きている。
今年発見されるはずのなかった金鉱も見つかった。
なら、七歳で死ぬはずだった少女も救えるかもしれない。
ただし、そのために必要なのは奇跡ではない。
未来を知っているという優位へ甘えることでもない。
知っていることを確かめ、知らないことを認め、必要な人間へ頼りながら、一つずつ準備することだった。
《無能》であることは、今日も変わらない。
けれど一度目の六歳だった頃とは違い、シオンはもう、その事実だけを眺めながら一年を無駄にするつもりはなかった。
母が生きている時間を過ごし、家族と話し、できることを覚えながら次の一年へ進む。
そして七歳になった時。
一度目には救われなかった少女の未来へ、今度は自分から手を伸ばす。
そのための時間は、まだ残されていた。




