未来で見た治療法
才能鑑定を終えた翌朝、シオンはいつもより随分早い時間に目を覚ました。六十歳だった頃には日の出より先に起きることなど珍しくなかったが、五歳の身体にはそれなりの睡眠が必要らしく、昨夜は寝台へ入ってからほとんど抵抗する間もなく眠ってしまった。
目覚めた直後、自分がどこにいるのか分からなくなったのは昨日と同じだった。王都西区の小さな店ではなく、天蓋付きの寝台が置かれた広い部屋。窓の外から聞こえてくるのも荷車の騒がしい音ではなく、庭木に集まった鳥たちの鳴き声だった。
「……そうか。戻ったんだったな。昨日は色々ありすぎて、まだ頭の方が追いついてないみたいだ」
小さな両手を持ち上げ、それを確認してようやく現実を思い出す。昨日、神殿で受けた才能鑑定の結果は《無能》だった。一度目の人生とまったく同じ結果であり、死の直前に発現した《無銘》も、固有権能《たった一度のやり直し》も、今の自分からは確認できなくなっている。
だが、今のシオンにとってそれは大した問題ではなかった。それより重要なのは、母エレノアがまだ生きていること。そして父ガルディスが、シオンの話を頭から否定せず、母の病について調べると約束してくれたことだった。
シオンは寝台から降りようとして、床までの距離を見て一瞬動きを止めた。六十歳の感覚で足を伸ばしたところで、今の身体では当然届かない。寝台の縁へ尻をずらし、両手で身体を支えながら慎重に降りると、裸足の裏へ冷たい床の感触が伝わった。
「……五歳の身体っていうのは、思った以上に面倒だな。頭じゃ届くつもりなのに、何もかも少しずつ遠い」
右腕を回してみても、冒険者時代に負った古傷の痛みはどこにもない。晩年には立ち上がるだけで軋んでいた膝も、長時間店先へ立てば悲鳴を上げていた腰も、まるで最初からそんな傷など存在しなかったように軽かった。
身体だけなら、確かに人生をやり直している。
問題は、二度目の人生をどう生きるかだった。
父は本当に調べてくれるだろうか。昨日はそう約束してくれたものの、冷静に考えれば五歳児が「夢で見た」と言い出した未知の病気である。しかも聞いたこともない病名を口にし、特定の薬草が治療へ使えるとまで言った。
荒唐無稽もいいところだ。
それでもガルディスなら動く。
一度目の人生では父のことを、才能と家のことばかり考える厳しい人間だと思っていた。だが昨日、一日だけでも父を見直してみれば、その印象が自分の思い込みによって随分歪められていたことが分かる。
母の命が関わっている以上、可能性が僅かでもあるなら調べる。ただし安全性を確認するまで治療には使わない。昨日のガルディスは、その二つを迷うことなく決めていた。
「俺、本当に何も見てなかったんだな……父上だけじゃない。兄上も姉上も、俺が勝手に遠ざけてただけなのかもしれない」
窓へ映った五歳の自分へ向かって呟く。
もちろん、これから先には本当に《無能》を馬鹿にする人間も現れるはずだ。貴族社会は優しい人間だけでできているわけではなく、才能が将来の評価へ直結しやすい社会である以上、名門侯爵家の末子が《無能》だったという話は格好の噂になる。
だが、それも今はどうでもよかった。
六十歳まで生きれば、他人から多少悪口を言われても飯は食えるし、夜になれば眠くなることくらい分かっている。一度目の自分が命懸けで気にしていた他人の評価など、長い人生全体から見れば案外小さなものだった。
問題なのは母だ。
そこだけは失敗できない。
そんなことを考えていると、扉が軽く叩かれた。
「シオン様、お目覚めでしょうか? お返事がなければ、もう少し後に参りますけれど」
「起きてるよ。入っていい」
扉を開けて入ってきたのはマルタだった。昨日と同じ若い姿を見ると、まだ少し不思議な感覚になる。
「まあ。今日は随分お早いですね。昨日は大切な鑑定もございましたし、もう少しお休みになると思っておりました」
「目が覚めたんだ。それより父上は? もう起きてる?」
「旦那様でしたら、朝早くからお客様がお見えになっております。奥様のことでご相談があるとのことで、お医者様と薬師の先生がいらしておりますよ」
シオンの眠気が完全に消えた。
「もう来てるの? 昨日の今日だよな。父上、いつ呼んだんだ?」
「詳しいことは存じませんが、昨夜のうちに使いが出されたそうでございます。お二人ともアルヴェリア家とは以前からお付き合いのある方ですから、急ぎの依頼としてお越しくださったようですね」
やはり父は動いていた。
しかも翌朝まで待ってから手配したのではなく、家族だけで話した直後には動き始めていたらしい。
「どこにいる? 俺も行ってくる」
「旦那様の書斎でございますが……シオン様、その格好でどちらへ行かれるおつもりですか?」
扉へ向かっていたシオンの足が止まった。自分の身体を見下ろせば、当然ながら寝間着のままである。
「……これじゃ駄目か?」
「駄目に決まっております。侯爵家のご令息がお客様の前へ寝間着で飛び出していったなどと知られれば、私が奥様からお叱りを受けてしまいます」
「それは困るな。じゃあ急いで着替えさせてくれ。できれば朝食も後回しにしたいんだけど」
「そちらも駄目でございます。まずお顔を洗って、お着替えをして、朝食を召し上がってください。旦那様からも、シオン様をお客様のところへ急いで連れてくるような指示はいただいておりません」
「……五歳って、思ったより自由がないな」
「昨日から何度も仰っていますけれど、五歳だからではございませんよ」
完全に子供扱いされている。実際に子供なのだから仕方がない。
それから身支度を整えたシオンは、いつもの半分ほどの時間で朝食を済ませた。六十歳の感覚なら数口で終わる量だったが、五歳の身体には十分らしく、それだけでも腹が満たされてしまう。
朝食を終えて父の書斎へ向かった頃には、客人たちはすでに診察のため別室へ移動していた。書斎の前にはガルディスだけが立っており、急ぎ足で近づいてくる息子を見ると僅かに眉を上げた。
「来たか。随分早かったな」
「医師と薬師を呼んだって聞いたから。昨日の話を調べてくれてるんでしょう?」
「ああ。そのために呼んだ。だが、お前が彼らへ説明する必要はない。先に中へ入りなさい」
ガルディスは扉を開け、シオンだけを書斎へ入れた。自分も中へ入ると扉を閉め、さらに廊下側へ人がいないことまで確認する。その慎重な動作を見ただけでも、父が昨日の話を軽く扱っていないことが分かった。
「先に確認しておく。昨日の話から、何か新しく思い出したことはあるか? 些細なことでも構わんが、逆に曖昧なものを確実な情報として話す必要はない」
「新しくはないよ。薬草の名前と病気の原因、それから治療の大まかな流れくらい。薬の作り方も量も本当に知らないし、どのくらい飲ませればいいのかも分からない」
「それでいい。知らないことを知っているように話すな。お前の話が本当なら、僅かな思い違いでもエレノアの命に関わる」
「分かってる。だから専門家に任せたいんだ」
ガルディスは机へ移動し、一枚の紙を取り上げた。昨日シオンが話した内容が、要点ごとに簡潔な文章として整理されている。
病人の症状、治癒魔法を受けた後の経過、体内へ微細な魔力結晶が蓄積している可能性。そして特定の薬草に、その結晶へ作用する何らかの性質がある可能性。
「医師たちには、お前が話したとは伝えていない。領内で過去に報告された似た症状について古い記録を整理していたところ、原因についての仮説が見つかったことにした」
「そんなので信じてもらえるの?」
「信じさせる必要はない。調べさせればいいだけだ。アルヴェリア家には領内の村や町から何十年分もの報告書が集まっている。私が古い資料の整理を命じたところで、誰も不自然には思わん」
「……父上、こういう嘘うまいね」
「褒めているのか?」
「かなり褒めてるつもりだけど」
ガルディスが僅かに眉を寄せたため、シオンはそれ以上触れないことにした。
「医師にはエレノアの身体を改めて調べさせている。これまでのように臓器の状態や魔力循環を見るだけではなく、最初から体内に微細な異物があるという仮定で検査させている。薬師には、お前が言った薬草が魔力の結晶へどのような影響を与えるのか調べさせる予定だ」
「母上には、まだ何も飲ませないんだよね?」
「当然だ。効果も副作用も分からんものを妻へ飲ませるつもりはない。仮にお前の話が全て正しかったとしても、薬の濃度を間違えれば毒になる可能性くらいはある」
シオンは安心して頷いた。
自分が知っているのは、未来の完成した治療法についての記事だけだ。そこには特定の薬草から抽出された成分によって微細な魔力結晶を徐々に溶解し、その後に治癒魔法を併用すると書かれていた。
だが、抽出方法までは知らない。
薬草の葉を使うのか、茎を使うのか、根まで使うのかさえ分からない。
だからこそ専門家が必要だった。
「それと、もう一つ約束しろ。医師や薬師に昨日の夢について話すな。何か聞かれても、お前は知らないという立場を崩すな」
「分かってる。俺も秘密を知る人は少ない方がいいと思う」
「……そういう判断を五歳でできること自体、私には少々気になるのだがな」
「昨日《無能》だったんだから、変なところくらい賢くてもいいでしょう?」
「理屈になっていないぞ」
ガルディスの呆れた声を聞きながら、シオンは小さく笑った。
こうして父と普通に言葉を交わせることそのものが新鮮だった。一度目の人生では、いつ頃から父と会話するだけで身構えるようになったのか。今となっては、それさえ思い出せない。
やがて二人は、エレノアが診察を受けている部屋へ向かった。
そこには二人の専門家がいた。一人はアルヴェリア家が長年世話になっている壮年の医師。もう一人は領都で薬房を営み、侯爵家から依頼を受けることもある老薬師だった。
シオンにも顔を見た記憶はある。
ただし五十五年以上前の人物であるため、名前までは思い出せなかった。
「旦那様。ちょうど一度目の確認が終わったところでございます。奥様には少しお休みいただいておりますので、こちらで結果をご説明いたします」
「どうだった?」
「正直に申し上げますと、私自身も困惑しております。これまで奥様の症状については、魔力循環の衰弱によって複数の臓器へ負担が掛かっているものと考えておりました。しかし閣下からご指示いただいた通り、魔力の流れそのものではなく、その途中に存在する異物を探すつもりで検査したところ、極めて小さな反応が複数確認されました」
ガルディスの目が細くなる。
「結晶なのか?」
「まだ断定はできません。ただ、通常の魔力とは異なる微細な反応が、奥様の肺や肝臓、その周辺の血管に点在しております。あまりにも小さく、従来の診察方法では魔力の揺らぎとして処理してしまう程度のものです」
「今までなぜ分からなかった?」
「探していなかったからでございます」
医師は悔しそうに答えた。
「通常の診察では魔力の流れや臓器の損傷を確認します。今回の反応は一つ一つがあまりにも小さく、魔力そのものへ紛れてしまう。最初から『何らかの微細な異物が存在する』という前提で検査しなければ、異常として認識することさえ難しかったでしょう」
医師は言い訳をしているわけではなかった。むしろ長年診察していたにもかかわらず原因を発見できなかったことを、本気で悔しがっているように見えた。
「では、その異物がエレノアの病気の原因なのか?」
「現段階では可能性があるとしか申し上げられません。しかし仮に原因だとすれば、これまで治癒術が一時的にしか効かなかった理由にも説明がつきます。治癒術によって臓器の損傷だけを修復しても、異物が残っているため再び同じ場所が傷付く。そう考えれば、奥様の経過と矛盾いたしません」
そこへ老薬師が口を挟んだ。
「侯爵様。私の方でも、少々興味深い結果が出ております。まだ簡易的な試験にすぎませんが、ご覧いただいた方が早いでしょう」
薬師は小さな木箱を開いた。中には乾燥させた草が入っており、シオンはそれを見た瞬間に未来の記事へ掲載されていた写真を思い出した。
間違いない。
自分が父へ教えた薬草だった。
「こちらは古くから解熱や炎症を抑える薬へ少量混ぜられております。しかし単独で強い薬効があるわけではございませんので、特別珍重されるようなものでもありません。どちらかといえば安価で手に入りやすい薬草でございます」
「それが結晶に効くのか?」
「まだ人体については何とも申し上げられません。ただ、閣下から『魔力が凝固した物質へ作用する可能性を調べろ』とのご指示をいただきましたので、まず人工的な魔力結晶を用いて簡単な試験を行いました」
薬師が二本の小瓶を机へ置いた。一方には透明な液体と砂粒ほどの魔力結晶が入っており、もう一方にも同じような結晶が沈んでいる。
「こちらは通常の水へ浸したもの。そしてこちらは、例の薬草を煮出した液へ同じ大きさの結晶を浸したものです。時間も温度も揃えておりますが、ご覧ください」
二つ目の小瓶に入っている結晶は、僅かに角が丸くなっていた。
目立つほどではない。
知らずに見れば違いなど分からないだろう。
しかし並べれば確かに違う。
「……溶けたのか?」
「その可能性が高いと考えております。完全に消失したわけではございませんが、こちらだけ明確に質量が減少しております。私はこの薬草を四十年以上扱っておりますが、このような性質があるとは知りませんでした」
ガルディスは何も言わなかった。
ただ、ごく短い時間だけシオンを見る。
医師にも薬師にも気付かれない程度の視線だった。
シオンも黙っていた。
これで一つ。
昨日の話が、現実と一致した。
しかし母を救うには、まだ遥かに足りない。
「人体に使えるか?」
「現段階では絶対にお勧めできません。人工結晶を僅かに溶かしたというだけで、どの成分が作用しているのかも、必要な濃度も分かっておりません。濃すぎれば毒になる可能性もございますし、体内へ入った場合に同じ作用を示す保証もございません」
老薬師が即座に否定したことで、シオンはむしろ安心した。未来の知識があるからといって、何の検証もなく母へ投与する人間では困る。
「では調べろ。必要な人員、材料、設備は私が用意する。費用も気にする必要はない。ただし、この調査について外で話すことは禁止する」
「承知いたしました。少なくとも安全性と有効成分の見当が付くまでは、奥様への使用を提案することもございません」
医師と薬師が頭を下げる。
彼らは何も知らない。
なぜ侯爵が突然この病気の原因候補を知ったのか。なぜ今まで注目されていなかった薬草を指定できたのか。その理由を知らないまま、専門家として与えられた仮説を検証しているだけだった。
それでいい。
未来の情報を知る人間は、少ない方がいい。
専門家には必要な情報だけ渡し、実際の研究と治療を任せればいい。六十年間生きたとはいえ、シオンは医師でも薬師でも研究者でもない。知らない分野まで自分でやろうとすることが、一番危険だった。
それからの日々、アルヴェリア侯爵邸の一角では密かな研究が始まった。もっともシオン自身は研究室へ入ることを許されておらず、普段通り家庭教師から文字や算術を習い、子供向けの剣術訓練を受けながら結果を待つしかなかった。
六十歳の精神を持つシオンにとって、五歳児向けの読み書きは退屈だった。しかし文字の書き方や貴族社会で使われる細かな礼法など、五十五年の間に忘れているものも意外と多い。途中からは復習だと割り切り、真面目に授業を受けることにした。
夕方になれば父の書斎へ呼ばれ、研究の進捗だけを聞いた。
「薬草から成分を分けているらしい。水で煮出したものより、別の方法で抽出した液の方が結晶への作用が強かったそうだ。ただし濃度を上げればいいという単純な話ではないらしい」
「母上にはまだ使ってないんだよね?」
「まだだ。焦るな。昨日話したばかりだろう」
「分かってるけど、母上には時間がないかもしれないから……」
「だからこそ失敗できん。焦って危険なものを飲ませれば、それこそ取り返しがつかない」
父の言葉は正しい。
頭では理解できる。
それでもシオンには、一度目の人生で母がいつ死んだのか正確な日付が分からない。それが焦りを生んでいた。
翌日には動物を用いた試験へ進み、その次には濃度ごとの副作用が確認された。さらに数日が経つと、高濃度では胃や魔力器官へ負担を掛ける可能性があることまで分かり、薬師たちは安全性を優先して配合を調整していった。
「……やっぱり俺が適当に作って母上へ飲ませなくて正解だったな。未来で薬草が使われてたってだけで、そのまま煮出して飲ませてたら危なかったかもしれない」
「当たり前だ。お前が知っているのは完成した治療法の一部分なのだろう?」
「うん。夢の中でも細かいところまでは見えなかった」
「ならば、それ以上のことは専門家へ任せろ。お前がやるべきことは、知っていることと知らないことを分けることだ」
ガルディスの言葉を聞きながら、シオンは未来の知識というものについて考えるようになった。
一度目の人生で知った出来事は、確かに大きな武器になる。
だが万能ではない。
未来で「この薬草によって治療法が確立された」と知っていることと、その薬を自分で作れることはまったく別の話だ。
知識は入口になる。
そこから先を歩くのは、その道を専門にしてきた人間たちだ。
そして調査開始から十二日目の夕方、シオンは再び父の書斎へ呼ばれた。
中にはガルディスだけではなく、エレノアと例の医師、老薬師もいる。母は長椅子へ身体を預けていたが、才能鑑定の日と比べて特別良くなった様子はまだ見られなかった。
「シオン。こちらへ座りなさい。今回の件はお前にも関係するため、話だけは聞かせることにした」
「結果が出たの?」
「相変わらず察しがいいな。まず薬師から聞け」
老薬師が机の上へ数枚の記録を置いた。
「例の薬草から、魔力結晶を徐々に崩す作用を持つ成分を抽出することに成功いたしました。動物を用いた試験でも、適切な濃度であれば大きな毒性は確認されておりません。ただし長期投与については未知の部分が残っております」
「じゃあ、母上に使える?」
シオンは思わず身を乗り出した。
医師はすぐに頷かなかった。
「極めて少量から、私どもが常に状態を確認するという条件であれば試す価値はあると考えております。ただし、これはまだ正式な治療法ではございません。奥様の体内に存在する異物が、人工魔力結晶と完全に同じ性質なのかも分かっておりませんから」
「危険は?」
ガルディスが尋ねる。
「ございます」
医師は誤魔化さなかった。
「ただし何もせず従来の治癒術のみを続けた場合にも、奥様の状態が長期的に改善する可能性は低いと考えております。最終的な判断は、侯爵様と奥様にお願いすることになります」
部屋へ重い沈黙が落ちた。
シオンは母を見る。
未来を知っている自分だけは、この治療法が後世で確立されることを知っている。
だから「大丈夫だ」と言いたくなる。
しかし、それを言ってはいけない。
未来で完成した治療と、今ここで試そうとしている試験的な治療は同じではない。
抽出方法も違うかもしれない。
濃度も違うかもしれない。
何より現在の専門家たちは、手探りでそこへ辿り着こうとしている途中なのだ。
「私は受けます」
エレノアが静かに答えた。
「エレノア。急いで決める必要はない。医師たちからもう一度詳しい説明を受けた上で――」
「あなた。何度治癒術を受けても、私は良くなりませんでした。そのことは私自身が一番よく分かっています。このまま同じ治療だけを続けても、少し元気になってはまた寝込むことを繰り返すのでしょう?」
ガルディスは答えなかった。
エレノアは医師を見る。
「この治療に、助かる可能性はあるのですね?」
「ございます。ただし、成功をお約束することはできません」
「それで十分です。私は試したいと思います」
弱々しい声だった。
それでも意思は揺らいでいない。
シオンはそこで、一度目の人生では母のことを何も知らなかったのだと気付いた。
記憶の中のエレノアは、いつも寝台で微笑んでいる病弱な母だった。
だが本当は違う。
自分の命に関わる選択を自分で決めるだけの強さを持っている。
「母上」
シオンが呼ぶと、エレノアがこちらを見る。
「そんな顔をしないの。あなたの方が、これから薬を飲む私より緊張しているみたいよ」
「……怖くないの?」
「怖いわよ。でも、何もしないことも同じくらい怖いもの。それなら少しでも良くなる可能性がある方を選びたいわ」
「絶対に無理はしないで。少しでも変だったら、すぐ医師に言って」
「ええ。約束するわ」
エレノアが微笑む。
シオンはその表情を見ながら、何度も自分へ言い聞かせた。
まだ助かったわけではない。
これからだ。
治療は翌朝から始まった。
最初に投与された薬は、薬と呼ぶには驚くほど少量だった。老薬師が慎重に調整した抽出液をさらに薄め、医師と治癒術師がエレノアの状態を確認しながら投与する。
シオンは治療室へ入ることを許されなかった。
当然だった。
侯爵家の息子であっても、五歳児を試験的な治療へ立ち会わせる理由などない。
だから廊下で待った。
そこには兄レオンと姉リシアもいる。
「シオン、さっきから同じところ歩きすぎだぞ。床が減るんじゃないか?」
「減るわけないでしょう。兄上こそ、さっきから何回窓を見てるんだよ」
「俺は外を見てるだけだ」
「レオン兄様も落ち着いてないじゃない。二人とも同じだよ」
リシアもそう言いながら、両手を膝の上で強く握っている。
誰も落ち着いてなどいなかった。
この二人も母を失うのが怖い。
当たり前のことだった。
一度目の人生で母を失ったのは、自分だけではない。
父も、兄も、姉も同じ人を失った。
それなのに一度目のシオンは、自分だけが世界で一番不幸なのだと思い込んでいた。
「兄上、姉上」
「なんだ?」
「何?」
「……母上、治るといいな」
それだけ言うと、レオンが弟の頭へ手を置いた。
「当たり前だろ。そのために父上も医師たちも頑張ってるんだから」
「うん。そうだな」
リシアも隣から身体を寄せてくる。
三人で母の治療が終わるのを待った。
やがて治療室の扉が開き、医師が姿を見せる。
「母上はどうですか? 薬で具合が悪くなったりしてない?」
真っ先に尋ねたシオンへ、医師は安心させるように表情を緩めた。
「今のところ急激な異常はございません。奥様にはそのまま休んでいただいております。ただし、効果があるかどうかを判断するには時間が必要です。少量を一定期間投与しながら、体内の異物に変化があるか確認いたします」
その日、目に見える変化は起こらなかった。
翌日も、母の体調はほとんど同じだった。三日目になっても劇的な改善などなく、エレノアは相変わらず長い時間を寝台で過ごしている。
シオンは次第に不安を抑えられなくなった。
未来では治療法として確立されていた。
間違っているはずはない。
だが、もし薬草は同じでも抽出方法が違っていたら。未来では別の薬を併用していたのに、自分が記事の細部を忘れているのだとしたら。そもそも五十五年以上前の薬草は、栽培方法や品種の違いによって成分量が異なる可能性だってある。
未来を知っているからこそ、失敗した時の恐怖が大きかった。
一度目は何も知らなかった。
何もできないまま母を失った。
だが今回は、救えるかもしれないと思ってしまった。
希望を持った後で失うことが、シオンには何より怖かった。
治療開始から四日目の夜、夕食を終えたシオンは父の書斎へ呼ばれた。扉を閉めたガルディスは机へ向かわず、息子の正面へ立つ。
「シオン。医師から今日の検査結果が届いた」
「……悪かった?」
「なぜ最初から悪い方を考える」
「だって、母上はまだあまり変わってないから」
「外から見える変化はな」
ガルディスは一枚の記録を差し出した。
「エレノアの体内にあった微細な異物反応が、僅かだが減少している。最初の検査との誤差も疑って二度確認したそうだが、どちらも同じ結果だった」
シオンは紙を見る。
専門的な部分は分からない。
それでも、父が言った意味だけは理解できた。
「薬が……効いてる?」
「ああ。少なくとも今のところは、その可能性が高いそうだ」
胸の奥に詰まっていたものが、一気に抜けたような感覚がした。
シオンはその場で俯き、小さな拳を握った。
「……よかった」
声が震えた。
ガルディスはそんな息子をしばらく見つめていたが、すぐに別の話へ移ることはしなかった。シオンが落ち着くまで待ち、それから机の横に置かれた椅子を指した。
「座りなさい。少し話がある」
「未来の夢について?」
「そうだ。今まで私は、お前の話を可能性の一つとして扱っていた。だがエレノアの体内から、お前が言った通りの異物が見つかった。さらに、お前が指定した薬草には実際に魔力結晶へ作用する性質があった」
「……うん」
「偶然で片付けるには、一致するものが多すぎる」
ガルディスの声音に責める響きはなかった。
ただ、侯爵家当主として確認している。
「もう一度聞く。お前は本当に、自分の意思で未来を見ることはできないのだな?」
「できない。見ようと思って見られるものじゃないし、いつのことなのか分からないものもある。それに、全部がはっきり見えるわけでもないよ」
「今回の治療法についても?」
「薬草が使われてるところと、身体の中の結晶を減らしてから治癒魔法を使ってるところくらい。だから薬の作り方は分からなかった」
ガルディスは頷き、しばらく考え込んだ。
シオンは緊張しながら父の顔を見ていた。
この嘘は、これから先も使わなければならない。
ローデンの金鉱。
セレナが死ぬ事件。
さらに遠い未来に起きる出来事。
一度目の人生で知った情報を使う度、その出所を説明する必要がある。
「シオン。今後、同じような夢を見た場合は必ず私へ話せ。どれほど些細な内容でも構わない。ただし、お前一人で判断して動くことは禁止する」
「分かった。でも父上も一つだけ覚えておいてほしい」
「何だ?」
「俺が見たものが、絶対に起こるとは思わないでほしい」
ガルディスの眉が僅かに動く。
「理由は?」
「未来のことなら、変わるかもしれないから。母上だって、夢で見た病気と同じなら……本当はもっと悪くなる未来だったかもしれない。でも今は治療を始めてるでしょう?」
ガルディスは何も答えなかった。
シオンは言葉を続ける。
「母上が元気になれば、母上がこれからすることも変わる。父上だって変わるかもしれない。兄上も姉上も俺も変わる。だったら、その先に起こることまで同じとは限らないと思う」
これは未来視という嘘を守るためだけに言っているわけではなかった。
シオン自身が最も警戒していることだった。
すでに一度目とは違う行動を取っている。
その影響が積み重なれば、未来知識の正確さは少しずつ失われていく。
「未来を知っているからといって、未来を決められるわけではない、ということか」
「たぶん。俺もまだ分からないけど、そう思ってた方がいいと思う」
「……分かった。その点も含めて、今後は慎重に扱う」
ガルディスはそう答えた後、息子を見つめた。
「それにしても、お前は本当に五歳なのか?」
「五歳だよ。昨日、鑑定してもらったでしょう?」
「そういう意味ではない」
「……夢をいっぱい見たせいじゃないかな」
かなり苦しい。
しかし、それ以上説明する方法もない。
ガルディスは疑わしそうにしていたものの、最後には小さく息を吐いた。
「今はそれでいいことにしておこう」
それから治療はさらに続いた。
最初の一週間は、外見だけを見れば大きな変化はなかった。しかし検査では確実に異物反応が減少しており、それに合わせて薬の量も慎重に調整された。
薬によって原因となる結晶を減らす。
その後に治癒術師が、長期間傷付けられていた臓器を少しずつ回復させる。
未来で確立された治療の形へ、現在の医師と薬師たちは自分たちの検証だけで少しずつ近づいていた。
十日を過ぎた頃から、ようやくエレノア自身にも変化が現れ始める。
朝起きた直後に続いていた息苦しさが軽くなった。
食事を半分以上残していた日が多かったのに、少しずつ食べられる量が増えた。
午後になると必ず上がっていた微熱も、何日か続けて平熱のままになった。
そして治療開始から二週間ほど経った日の午後、シオンは庭へ面した廊下で家庭教師の授業を終え、自室へ戻ろうとしていた。
「シオン」
聞き慣れた声に呼ばれ、振り返る。
そこで足が止まった。
エレノアが立っていた。
すぐ後ろには専属侍女が控えているものの、身体を支えてはいない。
母は自分の足で立っていた。
「母上……何してるの? 寝てなくていいの?」
「お医者様から、少しずつ歩いても構わないと言われたのよ。まだ階段や長い距離は駄目ですけれど、この廊下を往復するくらいなら身体を動かした方がいいそうなの」
「一人で歩けるの?」
「見ていて」
エレノアがゆっくり足を踏み出す。
歩幅は小さい。
速度も遅い。
それでも侍女の腕を借りることなく、一歩ずつシオンの方へ歩いてくる。
一度目の人生では、この時期の母が自分の足で廊下を歩いていた記憶などほとんど残っていない。
シオンは動けなかった。
母が目の前まで来る。
「どうかしら?」
「……すごいよ。顔色も前より良くなってる」
「そうでしょう? 朝も以前ほど苦しくないの。それに今日は昼食もほとんど食べられたのよ」
「無理して食べたんじゃない?」
「ちゃんとお腹が空いたのよ。そんな顔で疑わなくても大丈夫」
エレノアが笑う。
その頬には、才能鑑定の日にはなかった僅かな赤みが戻っている。
「お医者様も驚いていたわ。身体の中にある異常な反応が半分近くまで減っているそうよ。このまま治療を続ければ、時間は掛かっても普通に生活できるところまで戻れるだろうって」
「普通に……?」
「ええ。庭を歩いたり、皆と一緒に出掛けたりできるようになるかもしれないわ」
その言葉を聞いた瞬間、シオンは俯いた。
一度目の人生では存在しなかった未来だった。
母と庭を歩く。
一緒に出掛ける。
そんな当たり前のことが、シオンの記憶にはほとんどない。
「シオン? どうしたの?」
「……ちょっと待って。今、顔見られたくない」
「どうして?」
「たぶん、すごく変な顔してるから」
声が震えている。
六十年分の人生経験など、こういう時には何の役にも立たなかった。
五十五年間。
母を救えなかったという後悔を抱えていた。
治療法を知った時には遅すぎた。
新聞記事を何度読み返しても、そこに書かれた病名と薬草を覚えても、死者は戻ってこなかった。
記事を読んだ日のことを、シオンは今でも覚えている。
店を閉めた後だった。
何気なく買った新聞に、新しい治療法についての記事が載っていた。
症状を読んだ瞬間、母のことを思い出した。
何度も読み直した。
もしかしたら違う病気かもしれないと思おうとした。
しかし読めば読むほど、母の症状と一致していた。
その夜は酒を飲んだ。
普段より多く。
もし三十年前にこの治療法があったなら。
もし自分が知っていたなら。
そんな意味のないことを何度も考えた。
翌朝になれば店を開け、いつもの生活へ戻った。
それでも記事に書かれていた病名と薬草の名前だけは、なぜか忘れなかった。
そして今、その記憶が母を救おうとしている。
「シオン」
気付けば、エレノアが目の前にいた。
まだ完全には力の戻っていない腕で、息子をそっと抱き寄せる。
「ありがとう」
耳元で聞こえた言葉に、シオンは首を横へ振った。
「俺は何もしてないよ。薬を作ったのは薬師だし、母上の身体を調べたのは医師だ。治癒魔法を使ってるのも治癒術師で、俺は薬草のことを言っただけだから」
「でも、その薬草を誰も知らなかったのでしょう?」
「……うん」
「なら、あなたが教えてくれなければ、調べることもできなかったわ。もちろん先生方にも感謝しています。でも、あなたにありがとうと言ってはいけない理由にはならないでしょう?」
「それは……そうだけど」
「では、ありがとうでいいのよ」
母の手が頭を撫でる。
シオンは目を閉じた。
一度目の人生で何度願っても戻らなかった温もりが、今は確かにここにある。
「母上」
「何?」
「元気になったら、何したい?」
エレノアは意外そうに瞬きをした。
「そうね……まずは庭をゆっくり歩きたいわ。ここ数年は窓から眺めることばかりだったから。それから街にも行きたいし、リシアと買い物にも行きたいわね。レオンの剣術の稽古も、最近はほとんど見られていないから一度くらい見に行きたいし……」
「いっぱいあるな」
「病人というのは、寝台にいる間にやりたいことだけは増えるものなのよ」
エレノアが楽しそうに笑った。
シオンも笑った。
「じゃあ全部やればいいよ。時間はあるんだから」
言ってから、その言葉が胸へ染み込んだ。
時間がある。
一度目にはなかった時間が。
それだけで十分だった。
その日の夜、ガルディスの書斎には家族五人だけが集まっていた。エレノアの体調が安定してきたことを受け、治療の経過とシオンの《未来視》について改めて家族内で認識を揃えるためだった。
ガルディスは全員が揃ったことを確認してから、机の上に医師から渡された記録を置いた。
「まずエレノアの治療について話す。医師の見立てでは、体内にあった異物反応は治療開始前と比較して大幅に減少している。臓器の状態も少しずつ改善しており、少なくとも直近で命を失う危険性はかなり下がったそうだ」
レオンが大きく息を吐いた。
「じゃあ母上は助かるんですね?」
「今の段階で絶対とは言えん。薬の投与はまだ続ける必要があるし、長期間傷付いていた臓器が完全に回復するにも時間が掛かる。ただ、医師はこのまま問題が起きなければ日常生活へ戻れる可能性が高いと言っている」
「よかった……」
リシアは母の隣へ座ったまま、その腕へ抱きついた。
「母上、元気になったら一緒に街へ行こうね。前に約束した髪飾り、まだ買いに行けてないでしょう?」
「覚えていたの?」
「当たり前だよ。ずっと待ってたんだから」
「では、元気になったら一緒に選びましょう」
その光景をシオンは黙って見ていた。
一度目の人生では存在しなかった会話だ。
八歳のリシアは母を失った後、急に大人びた。
幼い弟を気遣うことも増えた。
今なら分かる。
姉だって、本当は母に甘えたい年齢だったのだ。
その時間まで、今回は取り戻せる。
「それから、シオン」
父に呼ばれ、シオンは顔を上げた。
「はい」
「お前が話した《魔晶蓄積症》という名称について、医師たちには伝えていない。現時点では私が古い資料から推測した病態を、医師たちが独自に整理している形にしてある」
「病名まで隠すの?」
「ああ。お前が病名まで知っていたと分かれば、情報源について疑問を持たれる可能性が高くなる。治療法そのものはいずれ医師や薬師が研究結果として整理すればいい。お前が表へ出る必要はない」
「薬草のことも?」
「私が古い領内資料から候補を見つけ、薬師へ検証を命じたことになっている。少なくとも現段階では、それで問題ない」
ガルディスはそこで家族全員へ視線を向けた。
「そして、これは今後も同じだ。シオンが見た未来らしきものについて、直接他人へ話すことは禁止する。何か重要なものを見た場合、まず家族へ話せ。その情報をどう扱うか、誰を動かすか、どこまで知らせるかは、その都度我々で判断する」
「分かった。俺もその方がいいと思う。俺が直接あちこちで未来の話をしたら、絶対に面倒なことになるから」
「その危険性を理解しているなら話は早い。レオンとリシアも、この件は親しい友人であっても口外するな。使用人にも騎士にも話してはならない」
「はい、父上。母上を助けられた理由を聞かれても、医師たちが新しい治療法を見つけたとだけ答えます」
レオンが真剣な顔で答える。
リシアも頷いた。
「私も誰にも言わない。シオンが変な人たちに連れていかれたりしたら嫌だもの」
「……姉上、そういう怖いこと言わないでくれる?」
「だって未来が分かるって知られたら、欲しがる人はいるでしょう?」
八歳なりの言葉だったが、間違ってはいない。
未来を知る力。
もし本物だと知られれば、利用しようとする人間は必ず現れる。
だから隠す。
シオンが考えていた以上に、家族全員がその重要性を理解し始めていた。
エレノアが静かに夫へ尋ねる。
「あなた。シオンの《無能》については、今後どうするおつもりですか? 神官様からは定期的な再鑑定を勧められましたけれど」
「通常通りでいいだろう。数年おきに必要な鑑定を受けさせる。それ以上のことをするつもりはない」
「《無銘》へ変わる可能性を調べたりは?」
「現段階では不要だ。《無能》から《無銘》へ変化した者についての記録はあるが、その前段階で未来を見るようになったという記録を私は知らない。無理に二つを結び付けても意味はないだろう」
シオンは少し意外に思った。
父なら《無銘》の可能性を調べるため、学者や神官を集めるかもしれないと考えていた。
しかしガルディスは、分からないものを分からないまま置いておくことを選んだ。
「シオン自身はどうしたい?」
突然尋ねられ、シオンは少し考えた。
「別に何もしなくていいよ」
「《無銘》になりたいとは思わないのか?」
「なれるなら、そのうちなるでしょう? ならなかったら、それはそれで仕方ないよ」
六十年間《無能》だった。
その人生を一度経験している。
剣では大成できなかった。
魔法もほとんど使えなかった。
冒険者としても商人としても、歴史に名を残すような人間にはならなかった。
それでも六十歳まで生きた。
小さな店を持ち、常連客がいて、飯を食べて酒を飲み、時々誰かと笑った。
才能がなければ人生そのものが存在しないわけではない。
「一度目――」
言いかけて止める。
危ない。
「シオン?」
「いや……《無能》でも、できることはあると思うから。今すぐ《無銘》にならなくてもいいよ」
ガルディスは少し不思議そうに息子を見ていた。
エレノアは穏やかに微笑んでいる。
「あなたがそう思えるなら、私から言うことはありません。ただ、才能がなくてもあなたが私たちの息子であることは変わらないということだけは、忘れないでね」
「うん。今度は忘れない」
「……今度?」
「これから先もって意味だよ」
また危なかった。
六十年間の記憶を完全に隠して生活するのは、未来の出来事を隠す以上に難しいのかもしれない。
そんなシオンを見ながら、レオンが笑った。
「でもシオン、未来が見えるなら剣の試合で相手が次に何するか分かるんじゃないか?」
「そんな便利なものじゃないよ。見たいものを見られないって言っただろ。それに相手が十秒後に右から斬ってくるって分かっても、俺の身体が動かなかったら普通に斬られる」
「……妙に説得力あるな」
「俺、《無能》だからね」
「自分で言うなよ」
兄弟のやり取りにリシアが笑い、エレノアも口元へ手を当てた。
ガルディスだけは呆れたように額へ指を当てている。
シオンはその光景を見渡した。
家族五人が同じ部屋にいる。
母が笑っている。
兄も姉も笑っている。
父まで、完全にではないものの表情を緩めている。
一度目の人生では、この五歳の年に母を失った。
その死を境に、家の空気は少しずつ変わった。
父は以前より厳しくなったように見えた。
兄は後継者としての責任を強く意識するようになった。
姉は幼い弟を気遣い、自分が母の代わりになろうとした。
そしてシオン自身は、《無能》だった自分と優秀な兄姉を比べ続け、少しずつ家族から離れていった。
誰か一人が悪かったわけではない。
母の死という大きな穴を、家族全員が違う方法で埋めようとして、それぞれが少しずつ離れてしまったのだろう。
だが今回は、その最初の穴が開かなかった。
エレノアは生きる。
それだけで、すでに未来は大きく変わっている。
シオンは未来を知っている。
しかし、今日から先の家族がどんな姿になるのかは知らない。
母が生き続けたアルヴェリア家など、一度目の人生には存在しなかったのだから。
不安がないわけではなかった。
未来の知識が使えなくなれば、自分には本当に何の才能も残らない。
《無銘》へ再び変化する保証もない。
剣も魔法も、一度目と同じなら大したところまでは行けないだろう。
それでもシオンは、以前ほど未来が分からなくなることを怖いとは思わなかった。
知らない未来へ進むということは、一度目にはなかった可能性が生まれるということでもある。
「母上」
シオンが呼ぶと、エレノアが振り向いた。
「どうしたの?」
「元気になったら、本当に庭を歩こう。俺も一緒に行くから」
「ええ。約束ね」
「兄上と姉上も一緒に行こうよ。父上も暇だったら来ればいい」
「なぜ私だけついでなのだ」
ガルディスが眉を寄せた。
「父上、忙しそうだから」
「家族と庭を歩く程度の時間は作れる」
「じゃあ全員だな」
レオンが笑いながら言い、リシアも嬉しそうに頷いた。
何でもない約束だった。
国を救うわけでもない。
莫大な金が手に入るわけでもない。
歴史書に残るような出来事でもない。
それでも六十歳まで生きたシオンには、その約束がどんな宝より大切に思えた。
一度目の人生では手に入らなかった時間を、今度は一つずつ積み重ねていけばいい。
《無能》のままでも構わない。
未来の知識がいつか役に立たなくなっても構わない。
少なくとも今日、自分が五十五年間抱え続けていた後悔の一つは、確かに形を変え始めている。
数週間後、医師はエレノアの体内に残る異物反応が危険域を脱したと判断した。薬の投与量は徐々に減らされ、代わりに治癒術による臓器の回復と、衰えていた身体を戻すための食事療法や軽い運動へ治療の中心が移っていった。
完治にはまだ時間が掛かる。
何年も病床にいた身体が、数週間で完全に元へ戻るはずはない。
それでもエレノアは朝食を家族と一緒に取れる日が増え、午後には庭へ出られるようになった。最初は侍女の腕を借りていた散歩も、やがて自分の足だけで短い距離なら歩けるようになった。
そしてある穏やかな午後、アルヴェリア侯爵邸の庭を五人の家族が並んで歩いていた。
エレノアの歩幅に合わせて、全員がゆっくり進む。
先頭を歩きたがるレオンをリシアが呼び戻し、ガルディスは妻が疲れていないか何度も確認する。その横を歩くシオンは、時折母の顔を見上げていた。
「シオン。さっきから私の顔ばかり見ているけれど、何か付いている?」
「いや。ちゃんと歩いてるなって思って」
「歩くくらいできますよ。まだ昔ほど長くは歩けませんけれど」
「それでいいんだ。ゆっくりで」
エレノアが微笑む。
シオンも笑い返した。
六十歳で死ぬ直前、自分が願った《やり直し》とは何だったのだろう。
もっと強い才能が欲しかったわけではない。
金持ちになりたかったわけでもない。
歴史へ名を残したかったわけでもない。
母を救いたかった。
父ともっと話したかった。
兄や姉へ、あんな態度を取らなければよかった。
ただ、それだけだった。
そして今、その最初の一つが叶おうとしている。
シオンは青空を見上げた。
未来は、すでに一度目とは違う。
この先、自分の知識がどこまで役に立つのかは分からない。
それでも今だけは、未来が変わってしまったことを惜しいとは思わなかった。
一度目には存在しなかった母の笑い声が、すぐ隣から聞こえている。
それだけで、知らない未来へ進む価値は十分にあった。




