未来の名前と、今の選択
エリナ・ハーヴェイが追加の側近候補へ加わってから二週間ほど経った頃、今度はアレクシスの方からシオンへ声を掛けてきた。
昼休みの食堂を出た直後だった。ディランとノアが午後の授業について言い合いながら先を歩き、セレナもその少し後ろを歩いていたところへ、別の教室から出てきたアレクシスが合流する。王太子が近づいたことで周囲の生徒が道を空け始めたが、本人はそれを気にした様子もなく、シオンの肩を軽く叩いた。
「少し付き合え。前にお前が持ち込んだ話の続きだ」
「今からですか?」
「午後の授業まで時間はある。それとも何か予定があるのか?」
「ないですけど、殿下に急に連れていかれると周りから見られるんですよ」
実際、すでに何人かの生徒がこちらを見ていた。
入学当初ほどではないにせよ、王太子が《無能》と知られているシオンを当たり前のように呼び止める光景は、今でも周囲の興味を引くらしい。
前を歩いていたディランが振り返り、何か面白そうなことでも始まったのかと足を止めた。
「俺たちも行っていい?」
「駄目だ」
「即答かよ」
「お前まで来たら話が進まない」
「ひどくない?」
ディランが不満を訴える横で、ノアは事情を察したのか笑いながら彼の背中を押した。
「ほら、行くよ。王太子殿下にまでうるさいと思われてるんだから諦めなって」
「俺、そこまで言われてないだろ!」
二人が騒ぎながら離れていく。
セレナだけはシオンとアレクシスを交互に見た後、何かに気づいたように小さく頷いた。
「では、シオン。授業に遅れないようにしてくださいね」
「分かってる」
「殿下も、あまり長く捕まえないでくださいませ」
「私よりシオンの方を心配しているように聞こえるな」
「気のせいです」
綺麗な笑顔を残して去っていくセレナを見送り、アレクシスが横からシオンを見た。
「お前たち、昔からあんな感じなのか?」
「何がです?」
「いや、今はいい。行くぞ」
「最近それ、母上にも似たようなこと言われた気がするんですけど」
答えは返ってこなかった。
代わりにアレクシスが少しだけ笑ったため、シオンは余計に意味が分からないまま後を追った。
連れていかれたのは、以前公開演習を提案した時にも使った王太子の控室だった。
護衛を外へ残して二人だけになると、アレクシスは机の上に置かれていた資料の中から一冊を抜き取った。表紙には追加側近候補の名前が並んでおり、エリナの名前も最後に書き加えられている。
「ハーヴェイについて、担当教師から最初の報告が来た」
「もうですか?」
「候補へ追加した以上、当然見る。もっとも二週間程度だから、能力を評価するというより馴染めているかの確認だな」
アレクシスは資料を開いたまま、シオンへ差し出した。
そこには難しい内容は書かれていなかった。
既存候補者との合同講義では発言が少ないこと。自分から議論を主導することはほとんどない一方、他人の意見を整理する作業では評価が高かったこと。分からない部分をそのままにせず、授業後に教師へ質問していることも記録されている。
「思ったより普通でしょう?」
シオンが読み終えて返すと、アレクシスは資料を受け取りながら笑った。
「普通だな。魔法でセレナに勝てるわけでもなければ、戦闘でディランやヴァルターに並ぶわけでもない。学科だけなら彼女より上の生徒もいる」
「それでも候補から外す気はないんですよね」
「今のところはな。公開演習で気になった部分が偶然だったのか、本人の考え方なのかは、もう少し見なければ分からない」
そう答えたアレクシスは資料を閉じたが、棚へ戻そうとはしなかった。
そのまま表紙を指で軽く叩き、シオンを見る。
「さて。そろそろ教えてもらおうか」
何を、と聞き返す必要はなかった。
「エリナ・ハーヴェイだったんだろう?」
シオンは少しだけ目を見開いた。
「分かってたんですか?」
「確信したのは候補へ加えた後だ。公開演習を提案した時、お前は未来で私を支えた人物の名前を知っていると言った。そして名前を教えず、自分で見てほしいと言った」
アレクシスは椅子へ腰を下ろすと、向かい側を示した。
「公開参加者の中から一人だけ気になった。その人物を候補へ加えた直後、お前は驚くより安心した顔をしていた。そこまで揃えば、さすがに考える」
「顔に出てました?」
「かなりな」
「気をつけます」
「今さらだろう」
アレクシスが呆れたように笑う。
以前なら未来視に関する話をする時、もっと重い空気になっていた。
国王の毒を知らせた時には命が懸かっていたし、その情報をどう扱うか一つ間違えれば王宮内部の権力争いにまで発展しかねなかった。
今回は違う。
誰かの死を防ぐためでもなければ、災害を止めるためでもない。
未来に存在した一人の名前について話すだけだった。
「はい。俺が未来で名前を見たのは、エリナ・ハーヴェイです」
シオンが認めると、アレクシスの表情から笑みが少し薄れた。
「未来では、私の側にいた?」
「いました。ただ、俺が知っているのはずっと先のエリナです」
「どんな立場だった?」
そこでシオンは少し考えた。
自分の記憶をそのまま断定的に伝えてしまうのは危険だった。
未来視という説明をしている以上、見えた情報には曖昧な部分がある。それ以前に、現在の歴史はすでにシオンの知っている未来から大きく外れ始めている。
「国政の中心にいる人物として、何度も名前を見ました。税や地方行政、街道整備なんかに関わっていて、殿下を支える人物として知られていたと思います」
「役職までは?」
「はっきりとは言えません。未来視で見えたものも断片的なので。ただ、かなり重要な立場だったのは間違いないです」
アレクシスは考えるように視線を落とした。
「今の彼女からは、そこまで想像できないな」
「俺も会って驚きました」
「お前はもっと知っていると思っていたのか?」
「勝手に思い込んでました。未来で有名だったから、若い頃からすごかったんだろうって」
シオンは苦笑しながら、初めてエリナと話した時のことを思い出した。
資料を抱えて歩き、人前では緊張し、将来について尋ねれば卒業後に事務仕事ができれば十分だと答えた少女。
未来の肩書きだけから想像していた人物とは、まるで違っていた。
「でも、よく考えたら俺が知ってるのは完成した後だけなんです。そこへ行くまで何をしていたのか、誰と出会ったのか、いつ殿下と知り合ったのかも知らない。学院にいたことすら、今回調べるまで知りませんでした」
「未来視というのも、便利なようで随分と不便だな」
「本当にそう思います」
「しかも、お前が動けば未来そのものが変わる」
アレクシスの言葉に、シオンは頷いた。
「だから今回も、未来と同じになる保証はありません。エリナが将来同じ立場になるかも分からないし、途中で別の道を選ぶかもしれません」
「私が候補へ加えたことで、むしろ未来とは違う道を歩き始めた可能性もあるわけか」
「あります。俺が知っている未来で、十三歳のエリナが側近候補だったかどうかさえ分からないので」
アレクシスは少し考えた後、面白そうに笑った。
「それなら都合がいい」
「都合がいい?」
「未来と同じにする必要がないということだろう。ハーヴェイが向いていれば残す。向いていなければ別の道へ進めばいい。お前が見た未来の役職に合わせて育てるつもりもない」
その返答を聞いて、シオンは肩の力が少し抜けた。
アレクシスならそう判断するだろうと思っていた。
それでも実際に聞くまでは、どこかに不安があったのかもしれない。
「安心した顔をするな」
「また出てました?」
「お前はもう少し表情を隠す練習をした方がいい」
「昔はもっと得意だったと思うんですけどね」
口にしてから、シオンは一瞬だけ自分の言葉を確認した。
だが、これくらいなら単に以前の自分との比較として通る。アレクシスも特に疑問を持った様子はなく、むしろ面白そうにこちらを見ていた。
「今のお前は隠す必要のある相手が減ったんじゃないか?」
予想していなかった言葉だった。
シオンはすぐには答えられなかった。
アレクシスは未来視の秘密を知っている。
家族も知っている。
セレナも知っている。
それでも本当のことをすべて話しているわけではないが、一人目の人生で家族から距離を取り、誰にも弱みを見せないように生きていた頃とは確かに違う。
「……そうかもしれません」
「なら悪いことでもないだろう。ただし、王宮で重要な交渉をする時まで顔に出すのはやめてくれ」
「俺、王宮で働くって決めてませんよ」
「知っている。だから今のうちから言っている」
「勧誘が雑になってません?」
「十三歳の子供を今から役職で縛る方が問題だろう。お前もハーヴェイにはそう思ったから、名前を教えなかったんじゃないのか?」
それを言われると返せない。
シオンが黙ったことで、アレクシスは満足したようだった。
話が終わり、二人は控室を出た。
午後の授業まではまだ少し時間がある。
廊下を歩いている途中、向こうから数人の側近候補がやってきた。その中にはヴァルターと、まだ集団の端を歩いているエリナもいる。
エリナはアレクシスに気づくと足を止め、少し緊張しながら礼をした。
「王太子殿下。アルヴェリア先輩も、ご一緒だったんですね」
「ああ。少し話をしていた。候補の講義はどうだ?」
「まだ難しいことが多いです。でも、今日はレヴァン先輩に資料の読み方を教えていただきました」
以前一次選抜者として名前が挙がっていた上級生のことだろう。
少し後ろにいたカイルス・レヴァンが苦笑する。
「教えたというほどではありません。ハーヴェイが資料を最初から全部読もうとしていたので、必要なところから見た方が早いと言っただけです」
「全部読むのは駄目なんですか?」
シオンが聞くと、カイルスは肩をすくめた。
「時間が無限なら構わない。でも実務では、百枚の資料を一枚目から丁寧に読む間に次の百枚が来る」
「耳が痛い話ですね」
「アルヴェリアは逆に飛ばしすぎると聞いたが?」
「誰からですか、それ」
カイルスは答えず、ヴァルターの方を見た。
「俺を見るな」
「ヴァルターか」
「違うと言っているだろう!」
声を荒らげたヴァルターに、エリナが驚いて目を瞬く。
その反応を見て、シオンたちは思わず笑った。
アレクシスまで笑っていることに気づいたヴァルターは、さらに不満そうな顔になる。
「殿下まで笑わないでください」
「悪い。だが、お前たちが思ったより普通にやれているようで安心した」
「普通、ですか?」
エリナが聞き返す。
「ああ。候補になったからといって、急に立派な人間になる必要はない。今は学べばいい」
アレクシスの言葉に、エリナは少しだけ表情を緩めた。
「はい」
その返事を聞きながら、シオンは未来のエリナを思い出していた。
国中に名前を知られるほどの人物。
しかし、その姿と今の少女を無理に重ねる必要はもうない。
ここから何年もかけて同じ場所へ辿り着くかもしれないし、まったく違う場所へ進むかもしれない。
どちらでもいいのだと思えた。
十三歳の一年は、十二歳の頃よりも静かに過ぎていった。
国を揺るがす事件は起きず、未来視によって誰かの命を救うこともなかった。それでもシオンにとっては、未来との付き合い方が少し変わった一年になった。
雪麦はシオンが細かく口を出さなくても研究が続き、クロフォード領では少しずつ栽培量が増えている。星晶石も両家の研究者たちが調査を進め、シオンとセレナが知らない発見まで出始めていた。
未来で名を残すディランもノアも、今はそれぞれ自分の道を歩いている。
エリナも同じだった。
未来で有名になる人物を知っていることと、その人間を作ることはまったく違う。
シオンが未来から持ち帰った知識だけで、誰かを英雄にも大商人にも名宰相にもできない。
本人が経験し、失敗し、学び、選び続けた先に、その肩書きがあったのだ。
そして十三歳の終わりが近づいたある日、シオン自身の進路希望を尋ねる用紙が配られた。
卒業後に騎士団へ進むのか。
領地経営へ関わるのか。
王宮を目指すのか。
商会や研究機関へ進むのか。
もちろん十三歳で決定する必要はなく、現時点で興味のある分野を書くための簡単な調査に過ぎない。
周囲の生徒たちは気軽に書き始めた。
ディランは迷いながらも騎士関係へ印を付け、ノアは商業分野を選ぶ。セレナも自分の用紙を見ながらいくつかの候補を考えている。
シオンだけは、しばらく何も書けなかった。
十八歳までなら知っている。
かつての自分は学院を卒業するとアルヴェリア家を離れ、冒険者になった。
けれど、今回は家を出たいとは思っていない。
父との関係も違う。
母は生きている。
レオンやリシアとも笑って話せる。
セレナやディラン、ノアをはじめ、学院にも多くの繋がりができた。
一度目の自分が十八歳で選んだ道を、今の自分が選ぶ理由はもう存在しなかった。
「シオン?」
隣からセレナに呼ばれ、シオンは顔を上げた。
「どうしました? 珍しくずっと止まっていますけれど」
「何を書こうかと思って」
「未来視では、自分の進路は見えないんですか?」
周囲に聞こえないよう声を落とした質問に、シオンは少し考えてから首を横に振った。
「役に立たないんだ。今の俺が進みたい道については、何も教えてくれない」
嘘ではなかった。
過去の人生をどれほど思い出しても、今の自分が何を望んでいるのかまでは書かれていない。
セレナは少し意外そうにした後、自分の用紙を机へ置いた。
「では、これから考えればいいのではありませんか?」
「そんな簡単でいいのかな」
「まだ十三歳ですよ?」
言われてみれば、その通りだった。
六十年生きた記憶があるせいで忘れそうになるが、今のシオンにはまだ卒業まで五年も残されている。
「それに、シオンは知らない未来の方が好きなのでしょう?」
セレナの言葉に、シオンは少し目を見開いた。
以前、自分が似たようなことを口にしたのを覚えていたらしい。
「だったら、ご自分の未来くらい、知らないまま考えてもいいと思います」
「セレナに言われると説得力あるな」
「どういう意味です?」
「俺が知ってた未来に、今のセレナはいなかったから」
それは未来視の説明とも矛盾しない。
七歳より先のセレナについて、シオンには何も見えていないと彼女自身も知っている。
セレナは一瞬だけ黙り、それから柔らかく笑った。
「では、私たちは同じですね」
「同じ?」
「どちらも、これから先は自分で決めなければならないということです」
シオンも笑った。
進路希望の用紙は、結局その日のうちには提出できなかった。
けれど、不安はなかった。
十三歳の一年でシオンが見つけたのは、未来の名宰相ではない。
未来で名を残すずっと前から、自分なりに考え、迷いながら歩いている一人の少女だった。
未来を知っているから価値が分かったのではない。
今のエリナにも、アレクシスが自分の目で選ぶだけのものがすでにあった。
ならばシオン自身も、未来の記憶の中から答えを探し続ける必要はないのかもしれない。
十四歳になる春は、もうすぐそこまで来ていた。




