エリナ・ハーヴェイ
翌日の昼休み、シオンは昼食を済ませると昨日立ち寄った図書館へ向かった。閉館間際に見つけた掲示物が気になっていたものの、授業中まで考え続けることはせず、午前の講義には普段どおり集中した。危険が迫っているわけでも、今日中に答えを出さなければならないわけでもない以上、未来の記憶に振り回されて学院生活を疎かにするつもりはなかった。
図書館へ入ると、昨日と同じ掲示板へ向かう。領地行政に関する自由論述課題の優秀者一覧はまだ同じ場所に貼られており、シオンは今度こそ途中で急がず、上から一人ずつ名前を確認していった。昨日気になった位置まで視線を下ろしたところで、探していた文字がはっきりと目に入る。
エリナ・ハーヴェイ。一年生。
名前の横に記載されている情報はそれだけだったが、少なくとも王立学院に同姓同名の生徒が在籍している可能性は高くなった。ただし、それだけで未来のエリナ本人だと決めつけるつもりはない。同姓同名の別人かもしれず、未来の記憶では彼女の年齢すら正確に覚えていない以上、一年生という情報だけでは判断材料として弱かった。
それより気になったのは、昨日確認した奨学生名簿だった。未来のエリナには大貴族の出身という印象がなく、シオンは無意識に平民奨学生ではないかと考えていた。しかし今年度の一覧に名前がなかったことを思い出し、念のため資料室でもう一度確認してみることにした。
結果は昨日と変わらない。主要な奨学制度の受給者一覧にエリナ・ハーヴェイという名前はなく、そこでシオンは自分が早くも未来の印象から現在を決めつけかけていたことに気づいた。平民でも裕福な家庭なら奨学金を必要としないし、地方の小貴族という可能性もある。未来で家柄が大きく語られていなかったからといって、十三歳前後の境遇まで推測できるわけではなかった。
「アルヴェリア君、昨日もここにいなかった?」
後ろから聞き慣れた声がして振り向くと、ノアが商業史の本を数冊抱えて立っていた。視線がシオンの手元にある奨学生名簿へ移ったものの、何を調べているのか問い詰める様子はなく、自分が抱えている本を机へ置いて重さから解放されたように肩を回している。
「昨日からちょっと調べ物をしてるんだ。ノアは随分借りるんだね」
「昨日の領地経営の授業を受けたら、商売だけ知っていても足りない気がしてきたんだよ。全部読むかは分からないけど、使えそうなところくらいは見ておこうと思ってさ」
「ディランが聞いたら嫌な顔をしそうだ」
「だからあいつには見せないよ。見せたら僕が要点をまとめる役にされるからね」
ノアは笑いながら本を抱え直し、そのまま出口へ向かいかけた。ところが途中で何か思い出したように足を止め、掲示板へ目を向ける。
「そういえば、昨日の領地経営で先生が話してた自由論述を見た? 去年の優秀作なら、本人が許可したものだけ図書館で読めるらしいよ。僕も時間がある時に何本か読むつもりなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、シオンは掲示板のエリナという名前へ視線を戻した。名前だけでは何も分からないが、本人が書いた文章を読めるなら話は違う。未来の肩書きではなく、現在の彼女が何を考えているのかを知る最初の材料になるかもしれない。
「それは知らなかった。どこにあるか分かる?」
「受付で言えば出してくれるって先生が話してたよ。昨日ちゃんと聞いてなかった?」
「授業は聞いてたけど、その話は覚えてなかったな」
「シオンでも聞き逃すことがあるなら安心したよ。じゃあ僕は戻るけど、昼休みが終わる前には来なよ。今日はセレナにパンを残してもらう必要はないんだろ?」
「今日はもう食べてきたから大丈夫。教えてくれてありがとう」
ノアが片手を上げて図書館を出ていくと、シオンはすぐ受付へ向かった。
昨年度の自由論述課題は、希望者が閲覧できるよう題目ごとに整理されていた。優秀者全員の論述が公開されているわけではなかったが、幸いエリナ・ハーヴェイの名前が付いたものは閲覧可能になっている。シオンは受付で手続きを済ませ、指定された机へ冊子を運んだ。
題目は『河川氾濫後の地方都市における復旧優先順位について』。災害復旧という言葉を見て、未来のエリナが地方行政にも深く関わっていたことを思い出したものの、すぐにその連想を頭の隅へ追いやった。似た題目を選んだというだけで未来と結びつけてしまえば、昨日反省したことを繰り返すだけになる。
最初の数ページを読み進めた限り、文章そのものに驚くようなところはなかった。河川が氾濫した場合は避難場所を確保し、食料を配り、街道と堤防を復旧する。書かれている対策だけなら、行政を学び始めた生徒でも思いつきそうなものばかりで、未来の名宰相という肩書きを知らなければ、シオンも特別な文章だとは感じなかったかもしれない。
ところが途中から、少しずつ内容の性質が変わっていった。
街道の復旧には大勢の人手が必要になる。その労働者を外部から集めるのではなく、災害で仕事を失った住民から雇えば、復旧作業を進めながら生活費を渡すことができる。ただし復旧作業へ人員を集めすぎれば農業や商業の再開が遅れるため、地域ごとに必要な労働力を残さなければならない。
食料についても、単純に大量の支援物資を配ればいいとは書かれていなかった。緊急時には無償配布が必要だが、それを長く続ければ地元商人の商品が売れなくなり、支援が終わった後に商業そのものが衰える可能性がある。市場が動き始めた段階で配給を縮小し、住民が自分で商品を購入できる仕組みへ移行すべきだと記されている。
税についても同様だった。被災地の負担を減らす必要はあるが、広い地域で長期間免税すれば領主側の復旧資金まで失われる。被害の程度を確認し、免税、減税、支払期限の延期を使い分けるべきだという提案が続いていた。
シオンはそこで一度読む手を止め、少し前の文章へ戻った。
内容自体は完成されていない。具体的な費用の計算が不足している箇所もあれば、住民を復旧作業へ雇用する際の賃金をどこから出すのか曖昧な部分もある。教師の添削にも同じ点が指摘されており、決して非の打ち所がない論述ではなかった。
それでも、この文章を書いた人物は「何をすれば助かるか」だけではなく、「助けた後に何が起こるか」まで考えようとしている。
シオンは商人として働いていた頃、災害後の物資不足を何度か経験していた。逆に支援物資が大量に流れ込んだ結果、地元商人が商品を売れなくなったという話を聞いたこともある。現実では一つの問題を解決したことで別の問題が生まれることなど珍しくなかった。
十三歳になるかならないかの少女が、実体験もないはずの災害復旧についてそこまで考えている。
それは少しだけ、シオンが知っている未来のエリナを思わせた。
最後まで読み終えると、末尾に教師の講評が残されていた。財源の想定や行政手続きについては厳しい指摘が並んでいたが、その最後に「復旧を建物の修繕だけでなく、人々の生活が再び回り始めることとして捉えている点は評価できる」と記されている。
未来のエリナが実際にどんな思想で政策を作っていたのか、シオンは知らない。しかし一度目の人生で自分の店にも影響した政策の中には、確かに地方の物流や小規模な商売を立て直すものがあった。
同姓同名という偶然を疑う気持ちは、論述を読む前より小さくなっていた。
午後の授業が始まる前に教室へ戻ると、セレナは席に着いたシオンの表情を見ただけで何か進展があったことに気づいたらしい。周囲ではディランとノアが午前中の課題について話しているため、彼女は未来視という言葉を出さず、机の上の教本を整えながら声を抑えた。
「昨日の調べ物、少しは進みました?」
「同じ名前の生徒は見つかった。それに、その子が書いた文章も読めたよ。ただ、まだ俺が探してる本人だと決めるには早いと思う」
「シオンにしては随分慎重ですね。いつもなら、もう少し嬉しそうな顔をすると思っていました」
「昨日、自分が未来の結果から今の人間を勝手に想像してたって気づいたからね。名前が同じで、考え方に似てるところがあった。それだけなら、まだ手掛かりだよ」
セレナはその答えを聞いて、少し意外そうにシオンを見た。それから何か納得したように表情を和らげる。
「それなら、実際に会ってみるしかありませんね。文章だけでも、その方の全部が分かるわけではありませんから」
「俺もそう思う。ただ、侯爵家の人間が突然一年生を探し回ったら目立つから、できるだけ自然に確認したい」
「その考え方をしている時点で、廊下で待ち伏せするのはあまり自然ではないと思いますよ」
「まだ待ち伏せするなんて言ってないよ」
「顔に少し書いてあります」
思わず自分の頬へ触れたシオンを見て、セレナは声を抑えて笑った。そこで教師が教室へ入ってきたため、二人とも教本を開いて会話を終える。短いやり取りだったが、シオンは先ほどまでより少し気持ちが軽くなっていた。
授業を終えた後、シオンは一年生が主に使う校舎へ向かった。
もっとも、セレナに指摘された直後に本当に教室の前で待ち構えるのも気が引ける。そこで先に一年生の授業割を確認し、エリナが受けていそうな講義から探すことにした。
自由論述へ参加するような生徒なら、行政や法学に関係する授業を選んでいる可能性がある。完全な推測ではあるものの、名前しか分からない状態で無関係な生徒へ聞いて回るよりは目立たない。
しばらく掲示を確認した結果、ちょうど一年生の基礎行政学が終わる時間だった。シオンは教室の正面を避け、少し離れた廊下で次の予定を確認するふりをしながら生徒たちが出てくるのを待った。
授業終了の鐘が鳴くと、教室から十数人の生徒がまとまって出てくる。
当然ながら、顔を知らないシオンには誰がエリナなのか分からない。
貴族らしい装飾を身につけた者もいれば、教本を大量に抱えて友人と話しながら歩く者もいる。誰かに尋ねるしかないかと考え始めたところで、教室内から女子生徒の声が聞こえた。
「エリナ、悪いんだけど、これ先生に返してもらってもいい?」
「いいけど、次の授業は大丈夫?」
「私は魔法実技だから反対側なの。あとで何か奢るからお願い」
「そこまでしなくていいよ。職員室なら近いし、置いてくる」
名前を聞いた瞬間、シオンは反射的に声の方向を見た。
最後の方に教室から出てきたのは、茶色がかった髪を肩より少し長い程度で切り揃えた少女だった。教本に加えて教師へ返すらしい資料まで抱えているが、周囲の生徒が彼女へ特別な注意を向ける様子はない。
未来の名宰相という言葉から無意識に想像していた姿とは、かなり違った。
誰かを従えているわけでもなく、会話の中心にいるわけでもない。制服もきちんと整えているものの目立つ装飾はなく、名前を聞かなければシオンも大勢いる一年生の一人として見送っていただろう。
少女は廊下を進みながら抱えていた本を持ち直した。その拍子に上へ載せていた冊子がずれ、片腕で押さえようとしてさらに別の資料まで傾く。
シオンは少し迷ったものの、目の前で落としそうになっている相手を無視する方が不自然だと判断し、歩み寄った。
「一冊持とうか?」
突然上級生から声を掛けられ、少女は驚いたように顔を上げた。反射的に「大丈夫です」と答えようとしたらしいが、その途中で一番上の冊子が滑り、シオンが落ちる前に受け取る。
「……すみません。大丈夫って言おうとしたんですけど、説得力がなくなりました」
「俺も今、それを言おうか迷ってた」
少女は恥ずかしそうに視線を落としたものの、無理に冊子を取り返そうとはしなかった。シオンが残りの資料まで持とうとすると、さすがに首を振り、自分の腕の中にあるものを抱え直す。
「これだけなら持てます。職員室まですぐなので、一冊だけお願いします」
「分かった。それならそこまで一緒に行こう」
「ありがとうございます。……先輩ですよね?」
「二年のシオン・アルヴェリア」
シオンが名乗ると、少女の歩調がほんの少しだけ乱れた。すぐに元へ戻ったものの、その反応がアルヴェリアという家名に対するものなのか、学院で《無能》として知られている自分へのものなのかまでは判断できない。
少女は何か言うべきか迷うように唇を動かし、結局は無難なところへ落ち着いた。
「お名前は聞いたことがあります」
「その言い方だと、どこで聞いたかは聞かない方がよさそうだね」
「いえ、そういう意味ではなくて……王太子殿下の選抜にも入っていましたし、それより前から少し有名でしたから」
「それより前の理由は大体分かってるから、気にしなくていいよ」
シオンが笑うと、少女は困ったように眉を下げた。
それでも先ほどより緊張は少し薄れたらしい。歩きながら何度もこちらを確認することはなくなり、職員室へ向かう足取りも自然になる。
「俺は名乗ったけど、君は?」
職員室が近づいたところで尋ねると、少女は軽く姿勢を正した。
「一年のエリナ・ハーヴェイです。助けていただいて、ありがとうございました」
本人の口から名前を聞き、シオンは内心で昨日から続いていた探索が一つ先へ進んだことを実感した。
しかし、その感情を表へ出すことはしなかった。
「エリナか。よろしく。今度からは、頼まれ物でも落とさない量にした方がいいと思うよ」
「私も今そう思いました。断るほどじゃないと思ったんですけど、教本まで一緒に持っていたのを忘れていて……」
「じゃあ次から一冊減らせば解決だね」
「はい。次からそうします」
そこで職員室へ到着し、シオンは預かっていた冊子を返した。エリナはもう一度礼を言ってから中へ入り、教師へ資料を渡しに行く。
シオンはそのまま廊下を歩き出した。
聞きたいことは多かったが、初対面で問い詰めるような真似をする気はない。出身地や家族、論述を書いた理由、将来何をしたいのかと立て続けに尋ねれば、偶然荷物を手伝った上級生ではなく、自分を調べている怪しい相手になってしまう。
何より、本人と少し話したことで新しく分かったことがある。
未来で国政の中心に立つ人物とは思えないほど、現在のエリナは普通の少女だった。
会話で相手を圧倒するような雰囲気もなく、上級生であるシオンに対して少し緊張していた。周囲から特別扱いされている様子もなければ、本人が自分を特別な人間だと思っているようにも見えない。
それが妙に印象へ残った。
その日の夕方、シオンはもう一度エリナの自由論述を読んだ。
今度は未来の名宰相が書いた文章としてではなく、先ほど廊下で会った一年生が書いた文章として読み直してみる。
そうすると、最初に読んだ時より未熟な部分がよく見えた。
文章には同じ表現が何度かあり、財源については具体性が不足している。復旧作業へ住民を雇用する案も、実際に誰が人員を管理するのかまでは書かれていない。教師からの指摘も厳しく、行政の専門家が読めば穴はいくらでも見つかるのだろう。
それでも、問題が一つ解決した後に何が起きるのかを考える姿勢だけは、文章の最初から最後まで変わらない。
教師が最後に残した講評も、改めて読むとそこを評価していた。
建物を直せば復旧が終わるのではなく、人々が働き、物を買い、商人が商品を仕入れ、税が再び無理なく集まる状態へ戻って初めて復旧したと言える。
未来のシオンが小さな店を営んでいた頃、エリナの政策によって地方からの商品が届きやすくなった。新しい帳簿制度には散々文句を言ったものの、数年後には取引の手続きが統一され、地方商人との商売が以前より楽になったことも覚えている。
十三歳前後の未熟な論述と、何十年後の政策。
その間には埋めようのないほど長い時間があるが、根にある考え方には似たものを感じた。
少なくとも、もう単なる同姓同名の別人だと考える理由は少なくなっていた。
図書館を出て寮へ戻ろうとした時、校庭の端で一年生が魔法の基礎訓練をしていた。
シオンは通り過ぎるつもりだったが、その中に先ほど会ったエリナを見つけて足を緩めた。わざわざ近くへ行くことはせず、通路から少し眺めるだけにする。
エリナが杖を構え、教師から指示された風魔法を発動する。
巻き起こった風は、練習用に吊るされた布を揺らした程度だった。
失敗ではない。
しかし、すぐ隣の生徒が起こした風の方が明らかに強く、教師もそちらへ先に声を掛けている。
エリナは特に悔しそうな顔を見せず、教師から指摘された杖の角度を確かめてから二度目を試した。今度は先ほどより安定していたものの、やはり周囲が振り返るほどの結果ではない。
シオンはその様子を少し見届けた後、再び寮への道を歩き始めた。
魔法の天才には見えない。
少なくとも学院で大きく目立つ生徒でもない。
王宮が一次選抜から外したことも、現在の情報だけを見れば不自然ではなかった。
だからといって能力がないとも思えない。
自由論述で見せた考え方は、剣の強さや魔法の出力のように一目で分かるものではない。成績表の数字だけでも拾いにくく、本人自身もそれが特別な長所だと理解していない可能性がある。
未来を知らなければ、シオンだって彼女を見つけられなかった。
その事実が一番重要な気がした。
未来で有名になるから価値があるのではない。
今のエリナにも、すでに何かがある。
ただ、それを王宮が見つける機会がまだないだけなのかもしれない。
シオンはそこで初めて、エリナ本人を推薦する以外の方法を考え始めた。
自分がアレクシスへ「この少女を選ぶべきだ」と言えば簡単だ。未来視を知っているアレクシスなら、理由を説明することもできる。
しかし、それでは現在のエリナが何を持っているのかを誰も見ないまま、未来の肩書きだけで道を決めることになる。
それよりも、一次選抜から漏れた生徒にも能力を見せられる機会があればいい。
エリナだけを特別扱いせず、王宮が見落とした別の生徒にも参加する余地がある形なら、未来を答えとして押しつけることにもならない。
そして、その場でエリナが何も示せないのなら、それも現在の結果として受け止めればいい。
未来と同じ道を歩ませることが目的ではないのだから。
寮へ向かうシオンの頭の中で、少しずつ一つの案が形になり始めていた。
誰を選ぶかではなく、どうすれば見えるのか。
自分が未来の名宰相を王太子へ差し出すのではなく、アレクシス自身が現在の人間を見て判断できる場所を作る。
それなら、未来の記憶を使いながらも、未来そのものを押しつけずに済む。
翌日アレクシスへ相談するとしたら、話すべきなのはエリナ・ハーヴェイの名前ではない。
候補者以外にも参加できる課題を、一度だけ作れないか。
まずはそこからだった。




