未来しか知らない
エリナ・ハーヴェイについて調べると決めたものの、シオンはその日の朝から図書室へ駆け込むような真似はしなかった。
未来視という説明で通している以上、自分だけが知っている名前を突然探し回れば、それだけで余計な疑問を生む可能性がある。まして相手が本当に王立学院の生徒だった場合、侯爵家の人間が理由もなく一人の生徒について調べていると知られれば、本人を困らせることにもなりかねない。
まず必要なのは、目立たず確認できる範囲を調べることだった。
「朝から難しい顔してるな。今日の授業、そんなに嫌なのか?」
教室へ向かう途中、隣を歩いていたディランがシオンの顔を覗き込んできた。少し前までノアと話していたはずなのに、いつの間にかこちらへ並んでいる。
「授業じゃないよ。ちょっと考え事してただけ」
「選抜のことか?」
「それも少しあるけど、今は別のことかな」
シオンが曖昧に返すと、ディランは追及する代わりに前へ向き直った。秘密があることを知っているわけではないが、シオンが話したくない時には無理に聞かない程度の付き合いにはなっている。
代わりに少し前を歩いていたノアが振り返り、歩調を緩めた。
「考え事するのはいいけど、午前の授業は領地経営だよ。初日から聞き逃したら、三人で同じ授業を取った意味がなくなるからね」
「四人ですよ」
後ろからセレナが追いつき、ノアの言葉を訂正する。どうやら正門を入ったところでシオンたちを見つけたらしい。
「そうだった。セレナも取ったんだっけ」
「昨日一緒に話したでしょう?」
「覚えてるよ。三人って言ったのは僕たち三人が先に決めかけてたからで――」
「朝から言い訳が長いぞ、ノア」
「ディランにだけは言われたくないな」
そんなやり取りを聞きながら、シオンは少しだけ肩の力を抜いた。
昨夜からエリナのことを考え続けていたが、急ぐ必要はない。
危険が迫っているわけでもなければ、何日までに見つけなければならない理由もない。調べるにしても、普段の学院生活を崩さない範囲で進めればよかった。
午前の領地経営は、選択授業ということもあって普段より小さな教室で行われた。
二年生だけではなく一部の上級生も参加しており、最初の授業では領地を運営する際に必要となる収入と支出の基本から説明が始まった。税を集めれば終わりではなく、街道、治安、灌漑、備蓄、役人の給与など、維持するだけでも様々な費用が発生する。
シオンにとって興味深かったのは、教師が何度も「正解は領地によって変わる」と強調していたことだった。
「人口が同じなら、税収も同じくらいになるんじゃないんですか?」
ディランが素直な疑問を口にすると、教師は黒板に書いていた数字の横へ二つの簡単な地図を描いた。
「片方が肥沃な平地で、もう片方が山間部だったとしても同じだと思うか?」
「ああ……それなら違いますね」
「主要街道が通っているか、鉱山があるか、港があるかでも変わる。逆に収入が多くても、魔物対策や河川整備に大きな費用が必要なら余裕はない。数字だけを見て豊かな領地だと判断すると、現地へ行った時に痛い目を見るぞ」
教師の説明に、ノアはかなり真剣な顔で板書を書き写していた。ディランも自分の家の領地を思い浮かべているのか、普段より質問が多い。
シオンも筆を動かしながら話を聞いていたが、ある言葉にふと手が止まった。
数字だけでは分からない。
その考え方は、昨夜自分が悩んでいたことにも似ていた。
未来でエリナがどんな政策を行ったかは知っている。しかし、その結果だけを並べても十三歳の彼女がどんな人物だったかは分からない。
国政の中心に立ったという結果から、若い頃も優秀だったと考えることはできる。
だが、どのように優秀だったのかまでは別問題だった。
魔法に秀でていたのか。
学問が得意だったのか。
人をまとめる力があったのか。
それとも、若い頃は特別な評価など受けていなかったのか。
昨日までのシオンは、そこを無意識に一つのものとして考えていた。
「アルヴェリア。何か気になるところがあるか?」
教師に名前を呼ばれ、シオンは思考を授業へ戻した。どうやら筆を止めたまま黒板を見つめていたため、質問があると思われたらしい。
「すみません、少し考えてました。ただ……同じ収入でも、将来のためにどこへ使うかで数年後はかなり変わりますよね?」
「もちろんだ。むしろ今日覚えてほしいのはそこだな」
教師はシオンを咎めることなく、黒板に書かれた二つの領地へ新しい数字を書き足した。
「今の収入を増やすだけなら税率を上げればいい。だが、それで商人が逃げ、農民が土地を捨てれば数年後には税収そのものが落ちる。逆に街道へ金を使っても、その年の帳簿だけなら支出が増えただけに見えるだろう。それが五年後、十年後にどう返ってくるかまで考えるのが領地経営だ」
その説明を聞きながら、シオンの記憶にあるエリナの政策が一つ繋がった。
地方街道への大規模な投資。
一度目の人生では、開始当初かなり批判されていたはずだ。王都の商人からも、地方へ金を使いすぎだという不満が出ていた。
しかし後になって物流が改善し、地方都市との取引量が増えた。
シオン自身の店にも恩恵があった。
もしあれがエリナの発案だったのなら、彼女は目先の数字より数年先を見ることのできる人物だったのかもしれない。
ただし、それも未来の彼女について分かることが一つ増えただけだった。
昼休みになると、シオンは食堂へ向かう前に学院の事務棟へ寄った。
ここには授業や研究会、学院内の各種制度について生徒向けの案内が置かれている。個人の成績や住所を調べることは当然できないが、在籍する生徒が利用できる制度についてなら自由に確認できた。
シオンが探したのは、奨学制度に関する資料だった。
エリナ・ハーヴェイという家名に、大貴族の記憶はない。
もちろん、シオンがすべての地方貴族を覚えているわけではないため、それだけで平民と決めつけることはできない。しかし未来の新聞で彼女の名を何度も見た記憶を辿っても、家門の力を背景に出世した人物という印象はなかった。
もし平民出身で王立学院に通っていたなら、奨学制度を利用していた可能性がある。
「奨学生について調べたいのですが、制度の資料はありますか?」
窓口にいた職員へ尋ねると、相手は棚から一冊の冊子を取り出した。
「制度そのものならこちらにまとめてあります。申請条件を確認したいのであれば、今年度分は後ろの方ですね」
「ありがとうございます。個別の奨学生について確認できる資料もありますか?」
「名前だけでしたら、年度ごとの奨学金受給者一覧が資料室にあります。ただし、家庭事情や成績の詳細は閲覧できませんよ」
「名前だけで大丈夫です」
思ったより簡単に道が開けた。
王立学院の奨学金は王家や貴族、商会からの寄付によって運営されているため、誰が支援を受けているかという最低限の記録は公開されているらしい。もちろん、それだけでエリナが見つかる保証はない。
シオンは礼を言って資料室へ向かった。
資料室には年度ごとに学院の記録がまとめられていた。
奨学生の一覧はそれほど長くない。
王立学院は貴族の子弟が多いものの、平民にも門戸は開かれている。ただし学費だけでなく寮費や教材費も必要になるため、裕福な商家の子供でもなければ奨学制度を利用する者が多かった。
シオンはまず二年生に該当する年度から確認した。
焦って名前だけを探すのではなく、上から順に読む。未来の記憶が間違っている可能性も考え、ハーヴェイという家名だけでなくエリナという名前にも注意を向けた。
最初の一覧にはない。
それだけでは判断できないため、一年ずつ範囲を広げる。
三年生相当の年度にも見つからず、四年生、五年生と遡っても目的の名前は出てこなかった。
ここでシオンは手を止めた。
自分より年上だと決まったわけではない。
むしろ未来で見た印象だけなら、同年代か少し年下だった可能性もある。
今年入学した一年生の一覧を開く。
それでも、エリナ・ハーヴェイという名前はなかった。
「奨学生じゃないのか……」
小さく呟いた後、シオンは冊子を閉じずに考えた。
可能性が一つ消えただけだ。
平民でも自費で通える家なら奨学金は必要ない。地方の小貴族かもしれないし、そもそも王立学院に通っていない可能性も残っている。
ここで名前が見つからなかったからといって、王都中を探し始めるのは早すぎる。
シオンは資料を元の場所へ戻し、次に確認できるものを考えながら資料室を出た。
食堂へ着いた頃には、ディランたちはすでに昼食を始めていた。
「遅いぞ。セレナが待つって言ったのに、ノアが先に食べ始めた」
「僕のせいにしないでよ。午後の授業まで時間がないって言ったのはディランだろ」
「ですが、結局ディランも食べ始めていますよね?」
セレナがパンをちぎりながら指摘すると、ディランは何も言わずに視線を逸らした。
空いている席へ座ったシオンは、三人の様子を見て思わず笑う。
「待たなくてよかったのに。ちょっと調べ物してただけだから」
「昨日の?」
セレナが直接内容には触れずに尋ねる。シオンが頷くと、彼女はそれ以上聞かず、近くに置かれていた籠をシオンの方へ寄せた。
「それなら食べながら考えた方がいいですよ。午後も授業がありますし」
「ありがとう」
シオンがパンを取る横で、ノアが少し興味を示したようにこちらを見たが、セレナが何も聞かないため口を挟まなかった。
代わりにディランが午前の授業の話を始める。
「領地経営って、思ってたより面倒なんだな。俺、もっと税を集めて必要なところに使うくらいだと思ってた」
「その考えで領地を任されたら住民が困るよ」
ノアが呆れたように返したが、ディランは真面目な顔で頷いた。
「だから授業を取ってよかったって話だよ。今日だけでも、父上が書類を見ながら頭を抱えてる理由が少し分かった」
「それを帰った時に言えば喜ぶんじゃない?」
「いや、言ったら仕事を手伝わされそうだから黙っておく」
「台無しだね」
シオンは二人のやり取りを聞きながら食事を進めた。
午前中に教師が話した、数字だけでは領地を理解できないという言葉がもう一度頭をよぎる。
今の自分も同じなのかもしれない。
未来の実績という数字だけを持っている。
そこへ至る過程を知らない。
ならば調べるべきなのは、結果ではなく過程へ繋がる現在だった。
午後の授業を終えたシオンは、今度は学院の図書館へ向かった。
目的は個人を探すことではない。
過去の新聞や王国年鑑を確認し、自分の記憶を補うためだった。
未来の資料を読むことはできないが、現在までの記録からハーヴェイという家名がどこかに存在するかは調べられる。
地方貴族名鑑を確認したものの、少なくとも現在の主要貴族にハーヴェイ家は見当たらなかった。次に商業関係の記録を調べても、王都で名の通った大商家には該当する家名がない。
だからといって平民だと断定はできない。
王国中には名鑑に載らない小さな商家や職人の家がいくらでもある。
調べれば調べるほど、分からないことが増えていくようだった。
だが不思議と焦りはなかった。
六十歳まで生きた経験は、答えそのものを与えてくれなくても、分からない時にどう動くべきかくらいは教えてくれる。
情報が足りないなら、一つずつ範囲を狭めればいい。
シオンは調べた内容を簡単にメモし、最後に現在分かっていることを整理した。
エリナ・ハーヴェイは未来でアレクシスの治世を支える重要人物になる。
未来のシオンが知っていたのは、主に彼女が国政へ参加した後の姿だった。
現在の年齢、出身地、家族、学院歴、王宮へ入った時期については分からない。
少なくとも現在の一次選抜者にはおらず、確認した範囲の奨学生名簿にも名前はなかった。
ここまでなら事実と記憶を分けて考えられる。
問題は、次にどこを調べるかだった。
図書館を出ようとしたところで、シオンは入口近くの掲示板に目を留めた。
学院内の研究会や講義、競技会などの案内が貼られている。その一角には、年度初めということもあって各種試験の結果や成績優秀者の名前も掲示されていた。
そこでシオンは足を止める。
一次選抜者にいない。
奨学生名簿にもいない。
それでも、もしエリナが学院にいるなら、別の記録には名前が残っているかもしれない。
王宮の選考基準から漏れるような生徒だったとしても、すべての能力が低いとは限らない。むしろ未来の政策を思い返せば、何か一つくらい現在にも繋がる特徴があるはずだった。
シオンは掲示板へ近づき、いくつかの紙へ目を通した。
魔法実技の上位者。
剣術大会の成績。
学年ごとの総合成績。
どこにも名前はない。
そこで一枚、端の方に貼られている小さな紙が目に入った。
昨年度末に行われた、領地行政に関する自由論述課題の優秀者一覧だった。
授業とは別に希望者が提出できる課題らしく、派手な大会ではないため見ている生徒もほとんどいない。
シオンは上から名前を確認した。
一人目、違う。
二人目も知らない。
三人目まで読んだところで、後ろから図書館を出てきた生徒たちが通り過ぎたため、シオンは邪魔にならないよう半歩横へ移動した。
もう一度、紙へ視線を戻す。
優秀者は十人ほどいる。
その中ほどに、ハーヴェイという文字が見えた気がした。
シオンは反射的に顔を近づけかけたが、そこで動きを止める。
焦る必要はない。
見間違いなら確認すればいい。
紙の上から一行ずつ、今度は意識して読み直していく。
そして目的の位置へ辿り着く直前、図書館の閉館を知らせる鐘が鳴った。
「そこにいる生徒、掲示物を見るなら明日にしてくれ。もう閉めるぞ」
司書から声を掛けられ、シオンは振り返った。
「すみません。今出ます」
もう一度だけ掲示板へ目を向けたものの、司書が入口の扉を閉める準備を始めている。無理に残る理由もないため、シオンはその場を離れた。
外へ出てから、思わず苦笑する。
名前を確認するくらいなら数秒で済んだ。
それでも、明日でいいと思えた。
未来で何十年も先まで知っているからこそ、今すぐ答えへ飛びつく必要はない。
もし本当にあの紙にハーヴェイという名前があるのなら、明日確認すればいい。その人物がエリナなのか、別人なのかも、それから調べればよかった。
寮へ戻る道を歩きながら、シオンは昨夜より少しだけ前へ進めたことを感じていた。
未来のエリナについては知っている。
十三歳前後のエリナについては、何も知らない。
その二つを混同しなくなっただけでも十分だった。
明日、自分が探している名前が本当にそこにあるのかを確かめる。
そしてもし同じ名前だったとしても、それだけで未来の名宰相だと決めつけない。
未来の記憶は、現在の人間を理解するための答えではない。
今度こそ、その順番を間違えないようにしようとシオンは考えていた。




