十歳、崩れる隣国
レグナード王国の名が記された地図を見た瞬間に蘇った記憶は、母エレノアの病気やセレナを襲った事件ほど鮮明なものではなかった。シオン自身が被災地にいたわけではなく、一周目で冒険者や商人として各地を歩くようになってから、何人もの人間から聞いた話が長い年月の中で重なって残っているだけだからだ。それでも、自分が十歳だった年の秋にレグナード王国で大地震が起きたことだけは、年代を取り違えていないという確信があった。
一周目のシオンが幼い頃に知ったのは、隣国で大きな地震が起き、多数の死者が出たという程度の話だった。しかし成人して国境地方を歩くようになると、崩落によって付け替えられた街道を実際に通り、被災経験を持つ商人や冒険者とも出会った。そこで初めて、地震そのものだけではなく、山崩れによって救援が遅れたことや、冬を目前に食料と毛布が不足し、生き延びた人々まで寒さや病気で亡くなったことを知ったのである。
だからシオンが覚えているのは、災害を上空から見渡したような完全な情報ではない。ある商人が語った孤立した町の話、冒険者仲間が通った崩落後の街道、冬になる前に家族を失ったレグナード出身者の昔話など、人生の途中で偶然拾った断片ばかりだった。正確な発生日も震源も知らず、どの街道が何日に崩れたのかまで覚えているはずもない以上、今回の未来知識は最初から不完全なものとして扱う必要があった。
シオンは机に広げていた地図をそのままにして書斎を出ると、父の執務室へ向かった。以前なら自分の記憶をもう少し整理してから話そうとしたかもしれないが、九歳の一年で、自分一人が答えを作る必要はないと学んでいる。知らない部分まで想像で埋めるより、分かっていることと分からないことをそのままガルディスへ渡した方が、よほど安全だった。
執務室へ入ると、ガルディスはローデン金鉱から届いた報告書を確認しているところだった。坑道の拡張計画や新しい道路について書かれた紙が机を埋めていたが、シオンが「未来の夢について話したい」と告げた途端、父は作業を止めて扉の外へ人払いを命じた。母の治療、ローデン、セレナの襲撃と三度も未来の情報が現実に結び付いたことで、ガルディスは以前にも増して秘密の扱いへ慎重になっている。
「今度は何が起きる?」
「隣のレグナード王国で大きな地震が起きると思う。俺が十歳の年だったから、今年のはずなんだけど、今回は分からないことがかなり多いんだ」
ガルディスはすぐに質問を重ねず、まず息子へ座るよう促した。シオンも父の机に紙を一枚広げ、アストレア王国との国境に比較的近い山岳地帯から西側へ向かう範囲を大まかに指で囲んだが、その線には自分でも確信が持てない部分が多かった。
「地震が大きかったのは、この辺りだったと思う。山が何か所も崩れて街道が使えなくなって、町や村が孤立した。建物が壊れて死んだ人も多かったけど、その後に食べ物と薬が足りなくなって、寒さや病気で亡くなった人もかなりいたはずだよ」
「発生日は覚えているか?」
「分からない。秋だったのは覚えているけど、何月何日かまでは知らないんだ。地震の後に雪が降って、救援を待っていた人が寒さで亡くなったって話を聞いたことがあるから、冬からそれほど離れてはいなかったと思う」
「震源や、最初に大きな被害を受けた都市についてはどうだ?」
「それも分からない。後になって有名になった地名なら聞けば思い出すかもしれないけど、今の俺が地図を見ただけで全部当てるのは無理だと思う」
シオンは自分の記憶にあるものと、推測にすぎないものをできるだけ分けて説明した。以前のガルディスなら息子の年齢に似合わない慎重さへ疑問を持ったかもしれないが、今では未来の夢が常に完全な情報を与えるわけではないという前提で聞いているため、曖昧な部分を無理に答えさせようとはしなかった。
「つまり、確度が高いのは今年の秋にレグナードで大地震が起きるという部分で、その後に山岳地帯の街道が寸断され、救援の遅れによる二次被害が拡大する。反対に、正確な日付と震源、被災する町や崩落する街道については確信がないということだな」
「うん。それに、もう未来はかなり変わってる。母上もセレナ嬢も生きてるし、ローデンも本来より早く開発してるから、地震まで同じになる保証はないと思う」
「自然現象そのものが、お前たちの行動で変わるとは考えにくいが、絶対に同じだと決めつける理由もないな。分かった。その前提で考えよう」
ガルディスは息子が示した地域を眺めながら、しばらく指先で机を叩いていた。レグナード王国はアストレアと交易を行う隣国ではあるものの、軍事同盟を結んでいるほど緊密な関係ではない。アルヴェリア家も国境を越える商人や一部の貴族とは付き合いがあるが、外国の住民を大規模に避難させられるような権限など持っていなかった。
「レグナードへ知らせるのは難しい?」
「地震が起きるという情報だけを伝えるなら可能だ。しかし、その根拠を説明できない。侯爵家の幼い息子が夢で見たから国境地方の住民を避難させろと要求して、相手が従うと思うか?」
「思わない。それどころか、何でアルヴェリア家がそんなことを知ってるのか聞かれるよね」
「当然だろう。最悪の場合、我が国がレグナード国内の混乱を狙って偽情報を流していると受け取られる可能性もある。お前の秘密を外国政府へ明かしてまで警告するには、情報が曖昧すぎる」
シオンも予想していた答えだったため、落胆はしなかった。地震そのものを止めることができず、避難させることもできないのであれば、次に考えるべきなのは地震が起きた後だった。一周目で犠牲者を増やした原因の一つが救援の遅れだったことだけは、複数の人間から聞いた記憶が一致している。
「だったら、地震の後に足りなくなるものを先に用意できないかな。保存できる食べ物と薬、それから毛布はかなり必要だったと思う。家が壊れた人も多かったから、雨や雪を避ける場所もいるはずだよ」
「天幕か。それに水源が壊れた場合を考えれば、煮沸用の鍋や燃料も必要になるだろう。病気が広がったというなら、石鹸や包帯のような衛生用品も多めに確保しておくべきだな」
ガルディスは紙へ必要な物資を書き出しながら、同時に地震が起きなかった場合の処分方法まで考え始めた。保存食や燃料、毛布は冬になれば領内でも需要があるため、過剰な量でなければ通常の商品として売ることができる。薬品も使用期限に余裕があるものを選べば診療所や薬問屋へ回せるため、災害が外れた場合でもすべてが損失になるわけではない。
「問題は、侯爵家が突然これだけの物資を国境へ集めれば目立つことだ。レグナード側から見ても、食料や燃料を大量に西へ運んでいるとなれば、軍事行動を疑う者が出るかもしれん」
「それならカイルに頼めない? 冬の交易を増やすって形で、普通の商品として少しずつ集めてもらうんだ」
ガルディスは息子を見てから、僅かに口元を緩めた。八歳の時にシオンが未来の大商人として名前を挙げたカイルは、今では美容商品の販売を通してアルヴェリア家との取引を増やしている。未来の夢そのものは知らないものの、商人として物流を任せる相手には十分な実績を積み始めていた。
「私も同じことを考えていた。未来で《商王》と呼ばれた男が、もう役に立つとはな」
「まだ本人に《商王》なんて言わないでよ。絶対困るから」
「分かっている。お前の秘密まで説明する必要はない。アルヴェリア家が冬季交易を拡大したいという名目で十分だろう」
翌日、カイルは侯爵邸へ呼ばれた。美容商品の成功によって以前のように潰れかけてはいないものの、まだ王都の大商会と肩を並べる規模ではなく、侯爵家から直接呼び出されれば緊張する立場である。それでも商談へ入れば表情はすぐに商人のものへ変わり、ガルディスから渡された品目と予定数量を一つずつ確認していった。
「保存食と毛布だけなら冬季需要として理解できますが、薬品、包帯、石鹸、天幕用の資材まで揃えるとなると、通常の交易としては少々偏っていますね。侯爵閣下は、西部で何らかの問題が起きる可能性を考えておられるのでしょうか」
「国境街道は雪害や山崩れの危険がある。ローデン開発で侯爵家の収入にも余裕ができたから、西部の備えを強化しておきたい。何も起きなければ通常の交易へ回せる形にしてほしい」
カイルは完全には納得していない様子だったが、秘密へ踏み込もうとはしなかった。代わりに、もし売れなかった場合でも損失を減らせる品物を選び、どこへ保管すれば最短で国境へ運べるかという実務的な問題へ話を移していく。
「すべてを一つの倉庫へ集めるのは避けるべきでしょう。火災や盗難だけではなく、街道が一か所で塞がった場合に全部動かせなくなります。国境へ向かう主要街道を三つに分け、それぞれの宿場近くへ保管場所を用意した方が安全です」
「薬も同じ?」
シオンが尋ねると、カイルは首を横へ振った。
「薬品は種類によります。湿気や温度で品質が落ちるものを普通の倉庫へ置くのは危険ですから、既存の薬問屋や診療所と契約し、在庫を増やしてもらう方がいいでしょう。何も起きなければ通常販売できますし、必要になった場合だけ侯爵家が買い上げる形にもできます」
「天幕はどうする? 地震が起きなかったら、大量に余りそうだけど」
「完成品を大量に作らなければいいのです。厚手の布、縄、木材を別々の商品として確保しておけば、通常時は別用途へ売れます。緊急時には職人を集めて組み立てれば、多少時間は掛かりますが無駄は減らせます」
シオンは黙って頷いた。自分が六十年間生きていても、災害備蓄を大規模に運用した経験はない。商会員時代に荷物を運んだことはあっても、複数の倉庫へ在庫を分散させ、外れた場合の売却先まで考える仕事を任されたことはなかったため、未来を知っている自分より現在のカイルの方が明らかに役に立っている。
最終的にはアルヴェリア家が資金を用意し、ベルナード商店と複数の提携商人が春から少しずつ物資を確保する計画になった。保存食や毛布を一度に大量購入して価格を上げないよう仕入れ時期を分散し、薬品は既存の流通網へ在庫を積み増す形にする。表向きは西部交易の拡大と冬季の雪害対策であり、その説明だけを聞けば不自然な計画には見えなかった。
ガルディスは物資だけではなく、アルヴェリア領西部の道路についても調査を始めた。橋の老朽化や崖崩れの危険箇所を確認し、荷馬車が通りにくい場所には補修を入れる。これも地震が起きなかったとして無駄になるものではなく、国境交易が増えれば領内の商人や村々にとって長期的な利益になる整備だった。
準備は春から夏まで目立たない速度で続いた。倉庫の管理人は今年は冬の商品を多めに扱うのだと思い、道路を調査する役人は侯爵家がローデンの利益を領内整備へ回し始めたと考えている。カイル自身も何らかの非常事態へ備えていることは察していたものの、その原因が十歳の少年の未来知識だとは想像していなかった。
その間にシオンも十歳の誕生日を迎えたが、生活の中心が災害対策だけになることはなかった。剣術では相変わらず同年代の才能ある子供より成長が遅く、魔法も一つの水球を安定して維持するだけでかなりの集中を必要としている。それでも九歳の頃より確実に身体は動くようになり、自分なりの速度で訓練を続けていた。
時折アルヴェリア家を訪れるセレナとの差は、むしろ以前より広がっている。彼女は火、水、風、土の基本四属性すべてへ高い適性を示し、複数の魔法を短期間で習得し始めていた。一つの水球を維持するシオンの横で、セレナは三つの水球を同時に浮かべ、それぞれ別方向へ動かすような練習まで行っている。
「シオン様、さっきから私の水球ではなく、魔力の流れを見ていますよね?」
「三つに分けた後、全部を同じ強さで維持してないでしょう。右側だけ少し弱くしてるように見えるから、何でかなと思って」
「右側は花壇の近くなので、最後に水やりへ使おうと思っているんです。だから少しだけ魔力を抜きやすくしています」
「そんなことまで同時に考えられるんだ……。俺は一個崩さないだけで精一杯なのに」
セレナは自慢するでもなく、どう説明すればシオンにも伝わるのか考え始めた。しかし彼女の説明は相変わらず感覚的で、「最初に三つあると思ってから魔力を流すんです」と言われてもシオンには再現できない。結局、横で聞いていた教師が理論へ翻訳し、それをシオンがさらに自分向けに細かく分解するという、以前から変わらない練習方法へ落ち着いた。
才能の差は消えていない。それでもシオンは、セレナの成功を見て自分の価値が下がったようには感じなくなっていた。自分にできない操作を観察し、理解できる部分だけ持ち帰ればいいという考え方は、剣術だけではなく魔法でも少しずつ身についている。
夏が終わりに近づく頃になると、シオンの意識は再びレグナードへ向くようになった。未来の記憶では地震は秋に起きるはずだが、正確な時期が分からないため、木々の色が変わり始めるほど胸の奥に小さな緊張が積み重なっていく。
九月が過ぎても、大きな地震は起きなかった。国境から届く報告も平穏で、ベルナード商店が確保した物資は倉庫に積まれたままになっている。カイルは在庫が傷まないよう一部を通常商品として販売し、その分だけ新しい物を補充することで、備蓄全体が古くならないよう管理していた。
十月に入っても何も起こらない日が続くと、シオンは自分の記憶そのものを疑い始めた。十歳の年だったという記憶は強いものの、回帰してからすでにいくつもの出来事を変えている以上、地震まで同じ時期に起こると考えること自体が間違っている可能性もある。
夕食後、執務室でガルディスと二人になった時、シオンはその不安を口にした。
「父上。もし地震が起きなかったら、かなり損する?」
「多少はな。倉庫代も掛かっているし、道路整備も予定より前倒しした。だが保存食や毛布は冬に売れるし、整備した道路は領民が使う。薬も順番に通常流通へ戻せるから、侯爵家が傾くような損失にはならん」
「俺の記憶が間違ってるかもしれないんだ。母上やセレナ嬢の時より、ずっと曖昧だったし」
「最初から聞いている。だから外れても致命傷にならない準備をしたのだろう」
ガルディスは書類から顔を上げ、向かいに座る息子をしばらく見つめた。その視線に責める色はなく、むしろシオンが何を気にしているのか確かめようとしているようだった。
「それに私は、外れてくれた方がいいと思っている。少し金を使っただけで隣国の大勢が死なずに済むなら、その方が遥かにいい」
「……そうだよね。俺、いつの間にか地震が起きないと困るみたいに考えてた」
「未来を知っていることが当たるかどうかばかり考えれば、そうなるのかもしれんな。だが私たちが準備した目的は、お前の夢が正しいと証明するためではない。必要になるかもしれない物を、必要になる前に用意するためだ」
その言葉を聞いてから、シオンは毎朝のように国境からの報告を待つことをやめた。起きないのであれば、それが一番いい。起きた時には準備した人間たちが動くことになっているのだから、自分が不安になり続けても救える人間が増えるわけではなかった。
十月も半ばを過ぎたある日の午前、シオンは侯爵邸の教室で歴史の授業を受けていた。教師が数十年前に起きた国境紛争について説明している途中、机の上に置かれたインク壺の表面へ小さな波紋が広がった。
最初は風かと思ったが、窓は閉まっている。それでも水面は止まらず、やがて窓枠が低い音を立て始めたため、シオンが机へ手を置いた直後、床そのものがゆっくりと横へ揺れた。
「地震です。シオン様、机から離れず頭を守ってください。揺れが収まるまでは廊下へ出てはいけません」
教師の声は落ち着いており、シオンも言われた通り机の下へ身体を寄せた。侯爵邸を大きく壊すほどの揺れではなかったものの、棚から本が数冊落ち、天井から細かな埃が舞う。体感では長く感じられた揺れも実際にはそれほど続かず、やがて床の動きが収まると、教室には本が落ちた音の余韻だけが残った。
シオンは机の脚を握ったまま、自分の心臓が速くなっていることに気付いた。ここはレグナード国境から離れたアルヴェリア領の中心部であり、一周目でも地震による直接的な被害はほとんどなかった。それでもこれだけ揺れたのであれば、西へ行くほど状況は悪い可能性が高い。
すぐに飛び出したい気持ちはあったが、教師の指示へ従って待った。余震の危険がある以上、十歳の自分が廊下を走り回れば周囲へ余計な負担を掛けるだけであり、今まで何度も学んだ「自分にできることと、できないことを分ける」という判断を、こういう時こそ守る必要があった。
建物の安全が確認されてから家族の集まる広間へ移動すると、エレノアとリシアがすでに到着しており、訓練場にいたレオンも少し遅れて戻ってきた。最後に入ってきたガルディスは、手に国境方面から届いた最初の報告を持っていた。
「西部の守備隊から早馬が来た。こちら側では大きな被害は確認されていないが、国境に近づくほど揺れが強かったらしい。レグナード側の山岳地帯では、複数の場所から大規模な土煙が上がるのを確認したそうだ」
家族の視線が自然にシオンへ集まった。誰も「夢が当たった」とは言わず、シオン自身もその言葉を聞きたいとは思わなかった。未来の情報が正しかったということは、今この瞬間に国境の向こうで建物が崩れ、人が瓦礫の下にいる可能性が高いという意味だからだ。
「父上、準備してた物資は?」
「すでにカイルと西部の管理官へ使いを出した。まず倉庫の損傷と街道の状態を確認させる。こちらが無事でも、橋が壊れていれば物資を動かせんからな」
「レグナードへすぐ送れないの?」
「外国領へ勝手に騎士と物資を入れるわけにはいかない。国境までは運べるよう準備するが、越境は向こうから正式な要請を受けてからだ。それまではこちら側の輸送路を確保する」
ガルディスはすでに未来の情報を必要としない段階へ移っていた。侯爵家の実務官が西部三か所の倉庫へ連絡を送り、騎士団は主要街道と橋の確認へ向かう。カイルには各倉庫の在庫と荷馬車の数をまとめるよう指示が出され、医師や薬師にも緊急輸送へ回せる物資の確認が命じられた。
シオンは広間の端でその動きを見ながら、自分が口を挟まなくても準備が進んでいくことへ奇妙な安堵を覚えた。自分が地震を知っていたことは始まりにすぎず、その情報を何か月も前から物資や道路へ変えたのは父やカイル、名前も知らない役人や商人たちだった。
最初の詳しい報告が届いたのは数時間後だった。レグナード東部の山岳地帯で大規模な地震が発生し、複数の街道で崩落が確認されている。国境に比較的近い都市でも建物が倒壊しており、死傷者数はまだ把握できていないという内容だった。
夕方になると、レグナード側の国境守備隊から正式な協力要請が届いた。必要とされているのは食料、医薬品、毛布、天幕などであり、その品目は数か月前からアルヴェリア家が準備してきたものとほとんど重なっていた。
一周目では、要請が届いてから物資を集め始めた。王都や周辺都市の商人へ連絡し、商品を買い集め、荷馬車を手配し、それを国境まで運ぶだけでも何日もの時間が失われたとシオンは後から聞いている。しかし二周目では、救援要請が届いた時点ですでに三か所の倉庫へ物資があり、輸送に使える商人や馬車についてもカイルが事前に把握していた。
それでも、準備していたから翌朝すべてを被災地へ届けられるわけではなかった。地震はこちら側の街道にも小さな落石や地割れを起こしており、橋の一部には安全確認が必要だった。大量の荷物を積んだ馬車ほど壊れた道に弱いため、先行する騎士たちが一つずつ通行可能な経路を確かめ、その情報を受けて輸送隊の進路を決める必要がある。
侯爵邸の一室は、その日のうちに臨時の連絡所へ変わった。壁へアルヴェリア領西部とレグナード東部の地図が並べて貼られ、届いた報告を実務官が書き込み、使える街道には印を付ける。シオンもガルディスの許可を得て部屋に入ったが、十歳の自分が救援隊を指揮できるわけではないことは理解していた。
「シオン、この街道に覚えはあるか?」
ガルディスが国境から西へ延びる一本の道を指した。シオンは名称だけでは何も思い出せなかったが、その先に谷を渡る古い石橋があると聞いたところで、一周目に商人から聞いた話が僅かに繋がった。
「自信はないけど、その橋は危ないかもしれない。地震の後に橋が使えなくなって、川沿いを迂回したって話を聞いた気がする。ただ、同じ橋なのかまでは分からないよ」
「それで十分だ。通れないと決めるのではなく、確認を優先させる」
ガルディスは近くにいた騎士へ指示を出し、橋の状態を確認する先行隊を送った。数時間後に戻った報告では、橋そのものは残っていたものの片側の橋台へ大きな亀裂が入り、重量のある荷馬車を通すのは危険だと判断されたため、輸送隊は別の街道へ回されることになった。
反対に、シオンが崩れた記憶を持っていた別の道は問題なく通ることができた。記憶にある災害と今回の災害が細部まで同じではないのか、それとも一周目で聞いた話そのものを取り違えているのかは分からないが、未来知識だけを信じて道路を閉鎖していたら、使える輸送路を一つ失うところだった。
「やっぱり俺の記憶だけじゃ駄目だね。合ってるところもあるけど、違うところもかなりある」
「最初からそう言っていただろう。お前の情報は完成した地図ではなく、暗い道の先に何かあると知らせる灯りくらいに考えればいい。灯りがあるからといって足元を確認せず歩けば、結局は転ぶ」
「だったら今くらいの使い方がちょうどいいのかも。危なそうな場所だけ伝えて、最後は現地で確かめてもらう」
「それが一番だ。お前自身も、覚えていないことを無理に思い出そうとするな。間違った確信ほど厄介なものはない」
翌朝、最初の大規模な輸送隊が国境へ向かった。荷馬車には保存食と毛布を中心に積み、薬品は衝撃で破損しないよう別の車両へ分けられている。国境を越えた後はレグナード側の役人と騎士が同行し、アストレア側の騎士は護衛だけでなく落石の除去や道路確認も担当することになった。
シオンは同行しなかった。自分が知っている地名を現地で確認したい気持ちはあったが、余震と崩落が続く被災地へ十歳の侯爵令息が入れば、専用の護衛と食料を余計に割かなければならない。瓦礫を持ち上げる力もなければ高度な治癒魔法も使えない自分が一席を占めるより、その場所へ医師や騎士を一人多く乗せた方が役に立つことは明らかだった。
「行かないことも必要な判断ですよ。今のあなたが現地へ行ったところで、助けられる人が増えるとは限りません」
出発する馬車を見送りながらエレノアがそう言うと、シオンは素直に頷いた。自分が《無能》だから価値がないという話ではなく、その場で必要とされている能力を自分が持っていないだけだと、今では切り分けて考えられる。
「母上はこれからどうするの?」
「こちらへ負傷者が運ばれてくる場合に備えて、領内の診療所と受け入れ場所を確認します。薬師たちにも追加の薬を作れるよう頼んでありますから、私はそちらを見てきます」
「母上もかなり忙しくなりそうだね」
「病床にいた頃の分まで働くつもりはありませんが、元気なのに何もしない理由もありません。あなたが救ってくれた時間を、私がどう使うかは私自身で決めたいですから」
その言葉に、シオンはすぐ返事ができなかった。一周目では十歳の自分の隣に母はいなかったが、二周目では救援のために診療所を回ろうとしている。母を救ったことによって変わったのは家族の食卓だけではなく、本来なら存在しなかったエレノアの行動が、さらに別の誰かの未来へ繋がり始めていた。
震災から三日が経つ頃には、被害の全体像が少しずつ見え始めた。震源に近い山岳地域では複数の集落が大きな被害を受け、古い家屋が多かった町では倒壊による死者も増えている。さらに山崩れによって主要街道が寸断され、救援隊が近くまで到着しても、最後の数十キロを馬や徒歩で進まなければならない場所がいくつも残されていた。
アルヴェリア家が事前に物資を準備していても、道が消えれば荷馬車は進めない。大型の馬車から小型の荷車へ積み替え、さらに先では人や馬の背へ荷物を分けなければならず、一日に運べる量は大幅に減った。シオンはそこで、一周目に聞いた「物資は国境まで来ていたのに村へ届かなかった」という言葉の意味を、初めて現実として理解した。
臨時連絡所には朝から夜まで報告が届き続けた。ある村では二十人以上の死者が確認され、別の町では診療所そのものが倒壊して医師が亡くなっている。その一方で、南東部の町には一周目より遥かに早く食料が届き、千人を超える住民へ数日分の保存食を配布できたという知らせも入った。
数字だけを見れば、どちらも同じ紙の上に書かれている。しかし六十歳まで人と関わって生きたシオンには、二十人という数字の向こうにも、千人という数字の向こうにも、一人ずつ別の人生があることが分かっていた。
もっと正確に覚えていれば、という考えは何度も浮かんだ。発生日を知っていれば事前に救援隊を国境近くへ置けたかもしれず、崩落する道をすべて知っていれば最初から別の経路を使えたかもしれない。被災する村を一つずつ覚えていたなら、もっと早く人を向かわせられた可能性もある。
だが、その考えを突き詰めても、一周目で自分が知らなかった情報が突然増えるわけではない。シオンが存在すら知らなかった集落で犠牲者が出たという報告を見た時、その現実を嫌でも認めることになった。
未来を知っているのではない。
自分が生きた六十年間の中で、たまたま知った出来事を覚えているだけなのだ。
その夜はなかなか眠れず、シオンは翌朝になってから臨時連絡所へ向かった。そこでは徹夜を交代した実務官たちが新しい報告を整理しており、ガルディスも短い休息を取っただけで再び地図の前に立っていた。
「眠れなかった顔だな」
「父上も人のこと言えないよ」
「私は仕事だ。お前は寝るのも仕事だろう」
「十歳を便利に使わないでよ」
軽口を返したものの、シオンの表情が晴れないことには父も気付いていたらしい。ガルディスは机に積まれた報告書から一枚を抜き、息子へ差し出した。
「南東部のリュネという町だ。人口は周辺の避難民を合わせて千二百ほど。街道の一部が崩れて救援が遅れかけたが、昨日の夕方に第一陣が到着した」
「食料は足りた?」
「現地備蓄は今日で尽きる予定だったそうだ。こちらから運んだ保存食で数日は持つ。その間にレグナード側の別経路が復旧する見込みだ」
続いて渡された報告書には、山間部の避難所へ毛布が届き、夜間の冷え込みによる体調悪化を抑えられたことが記されていた。別の診療所ではアルヴェリア側から送った消毒薬と包帯が使われ、負傷者の治療が続けられている。
「全員を救えたわけではない。すでに亡くなった者もいるし、これから亡くなる者もいるだろう。だからといって、お前が話したことに意味がなかったわけでもない。あの時何も言わなければ、今この町へ届いている食料は倉庫に存在していなかった」
「俺が救ったって言われると、違う気がする」
「違うだろうな。物を買ったのは商人で、運んだのは御者だ。道を開いたのは騎士と現地の人間で、負傷者を治療しているのは医師や薬師だ。お前一人で救った命など一つもない」
ガルディスはそこで言葉を切ったが、その説明には息子を突き放すような響きはなかった。むしろシオンが一人で責任を抱え込まないよう、実際に何が起きているのかを正確に伝えようとしているようだった。
「だが、お前が最初に知らせなければ、その人間たちがこれほど早く動けなかったのも事実だ。お前は全部を救う必要はないし、全部を知っている必要もない。自分が渡せるものを渡した後は、できる者へ任せればいい」
九歳の頃から何度も学んできたことだった。それでも人の死が実際に数字として届く災害の中では、理解していたはずのことを簡単に忘れてしまう。シオンは二枚の報告書を見比べながら、自分が知っていたから救えなかった命だけではなく、自分が知っていたことで間に合った命も同じように現実なのだと考え直した。
震災後の救援は数日で終わらず、そのまま冬へ向けた長期支援へ移っていった。壊れた家屋をすべて雪が降る前に再建することはできず、仮設の住居で冬を越さなければならない人々も多い。最初に用意していた物資だけでは足りなくなり、カイルは王都や他領の商人から追加の保存食、燃料、衣類を買い付けるため各地を動き回った。
ただし、アルヴェリア侯爵家がすべてを無償で負担し続ける形にはしなかった。最初の緊急救援には侯爵家の資金を大きく使ったものの、その後はアストレア王国の国庫から支援金が出され、レグナード側も復旧予算から物資代を支払うようになった。他の貴族や商会からも寄付が集まり、長期的に物流を維持できる仕組みへ少しずつ移行していった。
シオンには、その判断も理解できた。善意だけで何か月も荷馬車を走らせることはできず、御者にも商人にも職人にも生活がある。適切な代金が支払われるからこそ次の保存食が作られ、次の毛布が織られ、さらに多くの物資を被災地へ送り続けることができる。
震災から一か月ほど経つと、レグナード王国から正式な使者がアルヴェリア侯爵家を訪れた。救援要請から極めて短い時間で物資が国境へ届いたことに対する謝意を伝えるためであり、使者はガルディスだけでなく、輸送を担った商人や騎士たちへの感謝も口にした。
「偶然、冬季交易と雪害対策のため西部へ物資を集めていた。それを救援へ転用できただけだ。現場で働いた者たちの方が、私より多くの仕事をしている」
ガルディスの説明は事実の一部だけを見せたものだったが、嘘ではなかった。使者もアルヴェリア家が地震を事前に知っていたとは考えず、ローデン開発によって財政的な余裕が生まれた侯爵家が領内備蓄を増やしていたのだろうと受け取ったらしい。
シオンの名前は公式な報告のどこにも出なかった。それを寂しいとは思わず、むしろ安心している自分に気付いた時、シオンは一周目とは本当に考え方が変わったのだと感じた。幼い頃の自分なら、兄や姉ではなく自分が評価されることに飢えていたはずだが、今は救援が早く届いたという結果だけで十分だった。
本格的な冬が訪れる頃には、レグナード側でも主要街道の仮復旧が進み、緊急救援から復興支援へ必要な仕事が変わり始めた。死者をゼロにすることはできず、多くの家族が失われたという現実も変わらない。それでも一周目より早く届いた食料があり、寒さが厳しくなる前に配られた毛布があり、本来なら不足したはずの薬が診療所へ届いている。
シオンは自室の机で震災に関する記録をまとめた。実際の発生日、確認できた被災地域、崩落した街道、事前に準備して役立った物資、自分の記憶と違っていた場所まで書き残し、未来知識を次に使う時のための材料にする。
今回の経験で一番大きかったのは、未来の記憶が間違うことを実際に確認できたことだった。大まかな出来事は一致していても、使えないと思っていた街道が使えたり、逆に記憶にない場所で大きな被害が出たりしている。これから母やセレナ、カイル、ローデン、そして震災救援によって歴史がさらに変われば、その誤差はもっと大きくなるはずだった。
だから未来を答えとして扱ってはいけない。危険を早く見つける手掛かりとして使い、現在の情報と専門家の判断で確かめ、その上で行動する必要がある。今回のガルディスが未来の記憶だけで街道を閉鎖せず、必ず確認隊を送ったことは、その方法が正しいことを示していた。
一周目の十歳だったシオンは、隣国の震災を遠い世界の出来事として聞いていただけだった。母を失った悲しみと兄姉への劣等感に囚われ、自分のことで精一杯だった少年には、国境の向こうで何人が死んだのかを想像する余裕さえなかった。
二周目では母が生きており、その母が負傷者の受け入れ準備を行った。未来で《商王》となるカイルは二十年以上早く物流を担い、ガルディスは未来の情報を使いながらも最後の判断を現場へ委ねた。シオン自身には瓦礫を動かす力も高度な治癒魔法もなかったが、自分が持っていた記憶を必要な人間へ渡したことで、一周目とは違う結果を生み出すことができた。
才能は増えていないし、《無能》という鑑定結果も変わっていない。それでも、自分一人で何でもできる力を手に入れることだけが人生を変える方法ではないと、十歳のシオンは以前より深く理解していた。
冬の終わりが近づいた頃、震災関連の仕事もようやく落ち着き始めた。シオンは侯爵邸の書斎で王都から届いた新聞を眺め、久しぶりに災害とは関係のない記事を追っていたが、王家の春季行事について書かれた小さな記事の中に、国王アルベルト・アストレアの名前を見つけたところで視線を止めた。
記事そのものに不吉な内容はない。国王が春の式典へ出席する予定であることと、今年予定されている王宮行事が簡単に紹介されているだけであり、現在のアルベルトが病気だという話もなかった。
しかし六十歳近くまで生きたシオンには、その名前と十一歳という年齢を結び付ける別の記憶があった。一周目のアルベルト王は、シオンが十一歳だった年に突然体調を崩し、王宮医師の治療も届かないまま短期間で亡くなっている。当時の公式発表は急病による崩御であり、シオン自身も何十年もの間、それ以外の可能性を考えたことはなかった。
真相らしき話を聞いたのは、シオンが五十代になってからだった。雑貨店へ時折訪れていた老いた元薬師が酒を飲みながら昔話を始め、若い頃に王宮関係者から聞いたという話を漏らしたのである。証拠を見せられたわけではなく、シオンも当時は古い噂話の一つとして聞いていたが、その内容だけは妙に具体的だった。
アルベルト王は病気で死んだのではなく、長期間にわたって少量の毒を摂取させられていた可能性が高い。使われた毒は一度に人を殺す種類ではなく、毎日僅かずつ体内へ蓄積することで衰弱や発熱、内臓の異常を引き起こし、当時の医師には病気と見分けにくかったという。
さらに老薬師は、毒が食事ではなく国王が毎日飲んでいた滋養用の薬へ混ぜられていたらしい、と話していた。誰が毒を入れたのか、誰が命令したのか、その人物自身も知らなかったため、シオンの記憶にも犯人の名前は存在しない。
新聞を机へ置いたシオンは、レグナード大震災の時とは違う重さを感じていた。地震は自然に起きるため、知っていても止めることはできなかったが、今回の事件には明確な人間の意思が存在する。国王が本当に毒殺されたのであれば、今この時点ですでに誰かが準備を始めている可能性さえあった。
しかも国王の死は、一人の人間が亡くなるだけでは終わらない。王位継承の時期が変われば宮廷の勢力関係も変化し、外交や国内政策にも影響が及ぶ。震災救援によって隣国との関係まで一周目から変わり始めた今、国王まで生き残れば、シオンが知っている政治の未来はさらに役に立たなくなるだろう。
それでも迷う理由にはならなかった。未来を守るために誰かを死なせるなど、二度目の人生を始めた意味そのものがなくなってしまう。
シオンは新聞を折り畳み、机の引き出しからアストレア王家に関する資料を取り出した。まずは自分が何を覚えているのかを整理し、噂として聞いただけの部分と比較的確かな部分を分けなければならない。レグナードの時と同じように、知らないことを知っているふりだけはしないと決めていた。
自分が知っているのは、国王が十一歳の年に亡くなったということ、公式には病死とされたこと、後年になって毒殺だった可能性を聞いたこと、そして毒が毎日口にする滋養薬へ混ぜられていたらしいという断片だけである。犯人も動機も分からず、毒の正確な名称についても記憶は曖昧だった。
それでも今回は、地震のように発生を待つ必要はない。毒がまだ盛られていないなら防ぐことができ、すでに始まっているとしても、国王が亡くなる前に見つけられる可能性がある。
シオンは資料を抱えて椅子から立ち上がった。今回も自分で犯人を探すつもりはなく、王宮へ忍び込んで薬を調べるような真似もできない。自分が持っている断片を父へ渡し、そこから先は国王本人と王宮の専門家に任せるべきだった。
ただ一つ、レグナード大震災までとは決定的に違う問題がある。
これまで未来の夢を知っているのは、アルヴェリア家とヴァレンティア公爵家だけだった。だが国王の命を救おうとするなら、いよいよアストレア王家そのものへ、シオン・アルヴェリアが未来を知る少年だという秘密を明かさなければならない可能性が高かった。




