異世界の手がかり
その背中をひとりと一匹は見送った。そうすることしかできなかった。キャルレはテーブルにティーセットを置き、ふたり分のカップに少し冷めたお茶を注いでいく。そして、湯気の立つカップを賢吾に差し出した。
「あ、いや、俺は……」
「いいから。水分摂取とお腹を温めるのと、いきなり食事を入れないためのお茶なんだから。今の君はしっかり食事をして休むのが仕事であり、義務だ。そうだろう?」
「……はい」
賢吾はそれ以上逆らわずにカップを受け取った。紅茶とはまた違う、しかし、優しい味のするお茶だった。賢吾はため息を吐き、ベッドに腰かける。
キャルレはそんな賢吾をちらりと見て、テーブルの上に食事の用意をしていった。そして、ポツリと言う。
「アキラのあの言い方は、良くなかったね。……でも、ケンゴ、君のためを思って言ってるんだよ」
「ああ。それは、わかってる。けど、こっちにだって言い分はある。晶ひとりじゃ戦えないんだし、あんなに意地を張る必要はないんじゃないか……」
「まぁ聞きなさいよ。ケンゴは知らなくて当然だけど、君、死にかけたんだからね」
「はぁ」
どこか気の抜けた、他人事な返事をする賢吾をキャルレが振り返った。その猫の顔からは何も読み取れなかったが、キャルレは声の調子を変えずに続けて言った。
「本当に危なかったんだよ。心臓止まったんだからね」
「はい……?」
賢吾は信じられないという顔で固まった。
「心臓が止まったって言われてもなあ。俺……そんなにやばかったの? そこまで危篤状態だったの?」
「そうだよ。アキラがどんなに泣いたことか! 懸命に君に心臓マッサージなるものを施して、それで助かったんだよ」
「そう、だったのか……」
「よくお礼を言っておくといいよ」
キャルレはそれ以上、説教じみたことは言わなかった。だがだからこそ賢吾はやるべきこと、やらなくてはならないことを強く心に刻みつけたのだった。
「そうそう、アキラから頼まれていたことがあったんだった」
一緒に食事をして、賢吾が食べ終えるのを見計らったようなタイミングでキャルレがそう言った。しかし、晶が頼んでいたこととは何だろう。賢吾には心当たりがなかった。
「え、なんだ?」
「異世界の話さ」
「なにっ!? 何でもいい、教えてくれ。少しでもヒントが欲しいんだ」
「ふむふむ。わかったよ、ケンゴ。わかったから」
今にも縋りついてきそうな勢いの賢吾を手で制して、キャルレは話し始めた。
「僕も詳しくはないんだよ? ただ、言い伝えでは、この世界の外には見えない壁を隔てて別の世界が広がっているらしい。”夢見”と呼ばれる者たちは、己の意識を飛ばしてそれを覗き見た。それにより、色んな知識を手に入れたのだという。そしてまた、あちら側からやってくる者たちもいたという」
賢吾の心臓がドクンと大きく波打った。すでにこの話を聞いたことのある晶が、自分にも伝えたかったという話……つまり、これは自分たちのことなのだ。
「あちら側からやってきた者は”マレビト”と呼ばれる。彼らはこちらでいう“夢見”と同じように意識だけを飛ばしてきた魂の旅人のことを指す。そして我々に新たな知識を授け、我々を助け、導いてくれる存在だと言われている」
「待ってくれ。ってことは、じゃあ、俺たちの身体は向こうにそのままあって、精神だけこっちに来てるってことか?」
つまりは幽体離脱ってことなのだろうか、と賢吾は考える。強く意識すれば戻れたりするのかもしれない? いやしかし、だったらなぜこんな怪我を負って痛みがあったり死にかけたりするのか。
「まぁ待ちたまえよ。言い伝えは言い伝え、本当にそうとは限らないだろう? それに、マレビトにだって食事は必要だと聞くし、こっちにいる間は普通の人間と変わらないんじゃないかなぁ」
「それもそう、か……」
賢吾はいつの間にか興奮して立ち上がっていたことに気づき、そっと腰を下ろした。思えばついさっきだって腹が減って仕方がなかったのだ、もし仮に精神だけで異世界転移してきたとして、実際にこちらの世界での身体を動かすためにはそれなりのものが必要、ということなのだろう。
「マレビト、ね。仮に俺たちもそうだった場合、俺たちは助けられてばっかりのような気がするが……」
賢吾は何とはなしにつぶやいた。まだ頭がしっかりと情報を噛み砕けていないのだ。
「まあ、君たちが異世界人なら、マレビトで間違いないんじゃないかな。ただ……マレビトに関して残っている伝承では、特に帰るために何かするということはなさそうなんだよね。マレビトが帰還したという伝承もあれば、その辺りが抜け落ちてるのもあるし。君たちが帰るためにどうしようっていうのは、よくわからないよ」
「おいおいおーい……それじゃ帰る手段が分からないってことになるじゃんかよ。でも、帰還したっていう事実があるんだったら、実際にその伝承を知っている人に話を聞きに行きたいな……。とすれば、この国の王都とかに行けばいいのか?」
キャルレはほとんどない肩をすくめた。
「おそらく、ね。王都に行ったところで、夢見や語り部に出会えるかの保証はできないよ」
「構わない」
「それに、君はひとつ大事なことを忘れてる」
「へ?」
三白眼をさらに見開いてビックリする賢吾に、キャルレが傷口を指差してわからせた。
「あー……」
「骨までやってなくてよかったねぇ。絶妙な刺さり具合だったよ」
「キャルレさん、あのさ」
「目まいがしなけりゃ歩いてもいいよ。でもまずは部屋の中と、家の中だけにしよう。それからなら、外に出てもいいし、ちょっとした運動もしなよ。その肩、あんまり動かないように何か添え物をした方がいいよね」
「いいのか!?」
「あまり動かずにいるのも良くないからね。アキラには僕から言っておく。ただし……もう怪我しないでね。庇いきれないから」
「助かる! 本当にありがとう、キャルレさん」
キャルレは縞のある灰色の手を振って笑った。




